マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

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マリア・ニコラエヴナ
Мария Николаевна
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
Maria Nikolaevna 1914.jpg
マリア・ニコラエヴナ(1914年頃)
全名 マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
身位 ロシア大公女
出生 1899年6月26日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
サンクトペテルブルクペテルゴフ宮殿英語版
死去 1918年7月17日(満19歳没)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
エカテリンブルクイパチェフ館
埋葬 1998年7月17日
ロシアの旗 ロシア
サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスキー大聖堂
父親 ニコライ2世
母親 アレクサンドラ・フョードロヴナ
宗教 ロシア正教会
サイン Maria Nikolaevna of Russia (signature).jpg
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マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア語: Мария Николаевна Романова, ラテン文字転写: Maria Nikolaievna Romanova1899年6月26日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともに19歳の若さで銃殺された。ロシア正教会聖人新致命者)。

幼少期[編集]

1901年。姉のオリガ(後)、タチアナ(前左)とともに
1909年
大叔母の娘ヴィクトリア王女
1910年。マリアとタチアナ(右)
マリア自筆のサインカード。ルイス・マウントバッテンは1979年に爆死するまで自室のベッドの横にこの肖像写真を飾っていた
1912年から1913年の間。満面の笑みを見せるマリア

ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリアは特に妹のアナスタシアと仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。姉のオリガタチアナも2人で1つの寝室を共用しており、彼女らがビッグ・ペアと呼ばれていたのに対し、下の2人はリトル・ペアと呼ばれていた[1]。4人はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた[1]

同時代の人々はマリアの外見の特徴について「明るい茶色の髪と大きな青い瞳(家族は彼女の瞳を「マリーのソーサー」と呼んだ)の持ち主」と説明した[2]アレクサンドラ皇后の親友で女官侍女)を務めたアンナ・ヴィルボヴァ英語版はマリアについて「素晴らしい瞳とバラ色の頬を持っていた。肉付きの良い傾向があり、彼女の美しさをやや削いでしまうかなり厚い唇を有していた」と述べている[3]。ニコライ2世一家とともに殺害された皇室主治医エフゲニー・ボトキンの娘、タチアナ・ボトキナは「穏やかで優しい目付きをしている」と感じたという[4]。その容貌をサンドロ・ボッティチェッリの描く天使に例えられることもあった[5]。大叔父のウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公はいつも明るく笑顔の彼女を「愛らしい赤ん坊」と呼んで慈しんだ[5]

ニコライ2世一家が揃って公的の場に現れることは稀だったが、皇室内での出来事はすべて詳細に公表されていた。マリアの弟のアレクセイが誕生して以降、一家は家族の理想像とされた。一家の公的な活動や発言はすぐに写真入りの雑誌や新聞やニュース映画で報道され、その肖像入りの葉書、額縁、飾り皿は世界的なベストセラー商品となった[6]

1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った[7]。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方をする人が多かった[8]

マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた。派手好きのマリア皇太后と彼女の長女(ニコライ2世の妹)クセニア大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。三男ゲオルギー大公、四男ミハイル大公(次男アレクサンドル大公は生後1年未満に死亡)に至ってはほとんど、一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格の次女オリガ・アレクサンドロヴナ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた[9]

政治に強い関心を持つアイルランド出身の保母マーガレッタ・イーガー英語版が友人とドレフュス事件について熱く議論している間、まだ幼かったマリアが浴槽から飛び出し、宮殿の廊下を全裸で走り回ったことがあった。叔母のオリガ大公女は「幸いなことに私はちょうどその時に到着し、彼女を掴み、おんぶして運んだが、ミス・イーガーはまだドレフュスについて話していた」と当時を振り返った[10]

マリアは穏やかな気性であったが、いたずらな一面もあり、母親のティーテーブルからいくつかのビスケットを盗んだこともあった。アレクサンドラとベビーシッターは罰として夕食抜きで早寝させることを示唆したが、ニコライ2世は「私は常に、が成長していくのを恐れていた。彼女が唯一人間らしさを持った子供のように思えて嬉しい」と述べてこれに反対した[5]。マリアは父親が大好きだった。「パパに会わせて」と言って頻繁に「保育室」から脱出しようとした[5]。ニコライ2世が腸チフスに羅患し、生命の危機に直面した時は彼の小さな肖像画に毎晩キスをした[5]

マリアとアナスタシアはいつも同じ服を着ていた[2]。マリアは積極的でエネルギッシュな妹に影響される傾向にあった。アナスタシアが歩いている人をつまずかせたり、誰かをからかったりした時に妹を制止することは出来なかったが、そのかわりにマリアはいつも相手に謝ろうとした[4]。彼女は素直で心優しい性格のために時々、姉妹に良いように利用された。1910年にマリアはオリガに促されて、姉のオリガに自分の部屋を与え、彼女に自分のための服を着用することを許可すべきことを求める手紙を母親に送った。マリアはのちに手紙を送るアイディアは自分自身が思い付いたことだと、アレクサンドラを説得した[11]

マリアにはスケッチの才能があり、左利きだったと言われている[12]。学業には基本的に無関心だった[13]月経期間になると怒りっぽくなるため、母親と姉妹達はこれを「マダム・ベッカーの訪問」などと表現した[14]

思春期の恋愛[編集]

1913年。タチアナ(左端)、オリガ(右端)と
1914年

マリアは大の子供好きで、彼女の最大の夢はロシアの兵士と結婚して子沢山の幸せな家庭を築くことだった[2]。マーガレッタ・イーガーによると、マリアはかなり若い頃から兵士が好きだった。

ある日、幼い大公女マリアは窓の外の兵士の連隊の行進を見て「おお!私はこの親愛なる兵士達が大好き。全員にキスしたいわ!」と叫んだ。私は「マリー、いい女の子が兵士にキスしないで下さい」と言った。数日後、子供達のパーティーが開かれ、コンスタンチン大公の子供達も招待された。そのうちの1人は年齢が12歳に達し、コープドゥ士官候補生に選ばれ、その制服を着用して来ていた。彼は小さないとこマリーにキスをしたかったが、彼女は手で自分の口を覆い、離れて大きな威厳を持って「あっちへ行け!兵士よ」と言った。少年は本物の兵士のように扱われて大いに喜ぶと同時に少し残念がっていた。[15]

1910年に、マリアは知り合った一人の若い男性に対する片想いに苦しんでいたことが報告されている。アレクサンドラは同年12月6日の手紙で「彼のことであまり思い悩まないようにしなさい。これは私達の友人(グリゴリー・ラスプーチン)が言ったことです。」と書き、人々がマリアの片想いについて不親切なことを言うかもしれないので、気持ちを胸の内にしまっておくのが最良だと助言している[16]

姉オリガの縁談相手であったルーマニア王国の王太子カロル(後のカロル2世)は1915年に皇宮を訪れた際、マリアとの婚約を申し込んだが、ニコライ2世はマリアはまだ結婚するには若過ぎると笑いながら言った[17]

第一次世界大戦中にマリアと彼女の姉妹、母親は時々、モギリョフにある軍総司令部スタフカ)で最高司令官の任務を遂行する父親ニコライ2世と彼に同伴した弟アレクセイを訪問した。マリアはこの訪問中にニコライ・ドミトリエヴィッチ・デメンコフという名の当直将校に恋愛感情を抱いた。ツァールスコエ・セローに戻った後はしばしば「デメンコフによろしく伝えてね」とニコライ2世に頼み、皇帝に送る手紙に冗談で「デメンコフ夫人」と署名したこともあった[18]

美人の誉れ高く、いとこであるルイス・マウントバッテン伯爵は生涯彼女の面影を追い、1979年に爆殺されるまで寝室のベッドの横にマリアの肖像写真を飾っていた[19]

ラスプーチンとの繋がり[編集]

1914年頃。アナスタシア(左)と

マリアの叔母のオリガ大公女はグリゴリー・ラスプーチンとニコライ2世の子供達との関係について「すべての子供達が彼を好きなように見えた」「完全に彼に打ち解けていた」と振り返っている[20]

ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された[21]。チュッチェヴァから話を聞いたマリアのもう一人の叔母のクセニア大公女は1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている[22]。皇帝の子供達とラスプーチンの親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。暗殺される5ヶ月前にラスプーチンは以下の内容の手紙を送っている。

天使の祝いの日の挨拶を送ります。オ(オリガ)よ、キリストは素朴さの中にいます。私達はキリストの中にいます。ア(アナスタシア)よ、親愛なる方よ、私達がいた所、座っていた所に聖霊もいたのです。神を愛しなさい。神はいつでもあなたの側にいます。・・・恐怖に打ち勝ちなさい。神を讃える歌を歌って生きなさい。マ(マリア)よ、愛する者よ、海や自然とどんなお話をしたのか話しておくれ。私はあなたの素直な心が好きだよ。[23]

ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達をも誘惑したという噂が世間に広まった[24]。ラスプーチンはアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を公開していた。ラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の皇女、アンナ・ヴィルボヴァのヌードが背景に描かれたポルノ漫画まで登場した[25]

A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の皇女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという[26]。ラスプーチンはマリアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。マリアも1916年12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した[27]

2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは皇女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している[28]

血友病[編集]

マリアは母親と同じく血友病の保因者だった説が指摘されている。彼女は子供を多く持つことを夢見ていたので、生き残っていた場合は次の世代に遺伝していた可能性がある。アレクセイが診断される前からアレクサンドラの兄の1人や彼女の甥の2人などが既に血友病に苦しんでいた[29]1914年12月に扁桃腺の切除手術を行おうとした際、激しく出血してしまい、アレクサンドラもひどく狼狽したほどだった[30]。皇室の遺骨のDNA鑑定によって2009年にマリアの弟のアレクセイが血友病Bに苦しんでいたことが証明された。同鑑定は彼の母親と4人の姉のうちの1人が血友病の因子を保有していたことも証明した。ロシアの科学者はその1人はアナスタシアだと推定したが、アメリカ合衆国の科学者はその1人をマリアと推定した[31]

第一次世界大戦中の奉仕活動[編集]

1915年頃。アナスタシア(右)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたマリア
1916年。右から2番目
1916年。姉のオリガ(右前)、タチアナ(後)と
1917年春に軟禁下のツァールスコエ・セローにて。オリガ(左から2番目)、アナスタシア(左から3番目)、タチアナ(右端)と

第一次世界大戦中にマリアは妹のアナスタシアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。負傷兵らと一緒にチェッカービリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。ドミトリーという名の負傷兵はマリアの備忘録に彼女の愛称の一つ、「有名なマンドリフォリー」という署名を入れた[32]。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした。マリアは自分達と患者の写真を1冊のアルバムにまとめ、同病院の看護師を務めていたタチアナ・ボトキナにプレゼントした[33]

戦争中にマリアとアナスタシアは看護師の学校を訪問し、子供達の世話をすることも出来た。マリアはニコライ2世に送った手紙の中で子供達に食べさせたり、子供のあごからこぼれ落ちたおかゆを拭いてあげた時に父親のことが頭に浮かんだと書いている[18]

ロシア革命と監禁[編集]

1917年2月23日(グレゴリオ暦で3月8日)に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世は最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにあるスタフカに向かうために首都を離れたばかりだった[34]。この大混乱のさなかにニコライ2世の5人の子供全員がはしかに襲われた。5人の子供の中で最も健康で、一番最後に羅患したマリアは皇室に忠誠を尽くすよう兵士達に嘆願するために2月28日(グレゴリオ暦で3月13日)夜にアレクサンドラと一緒に外に出た。まもなく病気になり、瀕死の状態になった。彼女は回復の兆しを見せるまで父親が退位したことを知らされなかった[35]

ニコライ2世の一家は最初はツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、自宅軟禁下に置かれた。その後にシベリアトボリスク、次いでエカテリンブルクへ移送された。彼女はツァールスコエ・セローとトボリスクで警護兵達と親しくなり、直ぐに彼らの妻や子供の名前など多くのことを覚えた。マリアは外を自由に散歩することが出来る場合に限り、いつまでもこの地に住んで幸せになるというコメントをトボリスク滞在時に残している[36]。それでも、彼女は常に監視されていることは認識していた。マリアは所有物が探索されることを恐れ、トボリスクを去る直前にアナスタシアと一緒に自分達の手紙や日記を燃やしている[37]

トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、十月革命によって権力が臨時政府からソビエトに移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた[38]。皇女達ははしかに罹った際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった[38]。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニア大公女に頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラはアンナ・ヴィルボヴァら知人には熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた皇女達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている[38]

1918年4月にニコライ2世夫妻が身柄をトボリスクからエカテリンブルクへ移送された際、マリアは唯一同伴した(他の姉妹と弟のアレクセイは後に合流している)。タチアナはアレクセイの面倒を見るために残る必要があり、アナスタシアはアレクセイと最も仲が良く、オリガはうつ病に苦しんでいた。マリアは大好きな両親と運命をともにしたいと考えて同伴を決断した。アレクサンドラの友人のリリー・デーン英語版は革命が彼女を「子供から女性に変えた」と書いている[39]

トボリスク滞在時のマリアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている[40]

マリア・ニコラエヴナは最も美しく、典型的なロシア人であり、気立てが良く、陽気で、穏やかで、心優しい少女でした。彼女はみんなと、とりわけ一般兵士との会話を好み、会話をすることが出来ました。彼女はいつも兵士達の考えの多くに共鳴していました。彼らは彼女の容貌や強さがアレクサンドル3世に似ていると述べました。彼女はとても力強かった。病気のアレクセイ・ニコラエヴィチを移動させる必要があった時は彼が「マーシャ、僕を背負って!」と大声で叫び、彼女はいつも彼を背負っていました。人民委員パンクラトフは完全に彼女を敬い慕っており、非常に彼女を愛していました。描画や裁縫の能力に優れていました。

イパチェフ館での生活[編集]

マリアと彼女の両親が監禁されたエカテリンブルク市内にあるイパチェフ館の周りには木の柵が張り巡らされた。トボリスクに残った姉妹に送った手紙の中で、マリアは家族に対する規制が強化されることについての不安を述べている。1918年5月2日の手紙では「ああ、今は何もかもが複雑だわ」「私達は8ヶ月間平和に暮らしてきたけど、今は何もかもやり直し」と書いている[41]

イパチェフ館でもマリアは自ら進んで警護兵達と仲良くなろうとした。マリアは所持していたアルバムから写真を取り出してその家族について彼らと語り、解放されたらイギリスで新たな生活をスタートさせたいという彼女自身の希望を話した。警護兵の1人、アレクサンドル・ストレコチンは後年にマリアについて感謝を持って彼女が健康的で快活な美しさであったことを振り返り、他の姉妹とは違って良い意味で皇女らしくなかったと述べた[42]。かつて見張り番を務めた人物はエカテリンブルクでマリアがおそらくあまりに警護兵にフレンドリー過ぎるためによく母親に叱られていたことを思い起こした[42]。前出のストレコチンは会話はいつも1人の少女が「私達はとても退屈しています!トボリスクでは常に何かがありました。私は知っています!この犬の名前を言い当てて下さい!」とささやいてから始まっていたことを書いている[43]

警護兵が身の程をわきまえずに下品なジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らを凝視して「このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません?良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか?許容可能な礼儀正しい男性となら、仲良くやっていけます」と注意したこともあったという[44]。21歳の警護兵イヴァン・クレスチェフは大公女の1人と結婚することを意図し、もし彼女の両親が反対した場合には彼女をイパチェフ館から救い出すことを宣言していた[45]

6月26日に警護兵の1人、イヴァン・スコロノドフはマリアの19歳の誕生日を祝うためにバースデーケーキを館に密かに持ち込んだ。マリアは家族からこっそり姿を消し、館の抜き打ち検査を実施した2人の上司によってスコロノドフはマリアと一緒に発見され、職を解かれた。何人かの警護兵の回顧録には、この翌日のオリガとタチアナがマリアの軽率な行動に対してひどく怒っていたことが書かれている[46]。特にオリガは敵の警護兵連中と仲良く出来るマリアが理解出来なかった。この事件以降、しばらくはアレクサンドラとオリガはマリアが自分の家族の人間では無いかのように彼女に冷たく接し、関わり合いを避けた[39]。この事件を機に指揮系統が見直され、一家と警護兵が親しくすることが禁止された。

7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にマリアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している[47]

ところが、7月15日のマリアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。マリアはアレクセイを持ち上げることが出来る力強さを自慢していた[48]

7月16日、マリアの人生最後の一日。マリアは午後に父親や姉妹と一緒に庭を歩き、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。夕食時に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフ英語版が館から姿を消したことが判明した。実はロマノフ家のメンバーと一緒に彼を殺したくなかったために警護兵が少年をイパチェフ館から通りの向かいの宿舎へ引っ越させていた。しかし、殺人の計画を知らないロマノフ一家はセドネフの不在に動揺していた。これまでに館から姿を消した5人はそれ以後、戻ってこなかったからである。タチアナと主治医のエフゲニー・ボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えて説得しようとしたが、家族は納得しなかった[49]

幸せな家庭生活を送ることを夢見ていたが、その夢が叶うことのないまま1918年7月17日未明、エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館で家族、従者とともに銃殺された。

殺害[編集]

ニコライ2世らの遺骨を埋めた場所で誇らしげに記念撮影をするピョートル・エルマコフ

ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた[50]。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、スパニエルのジェミーを腕に抱いていた。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、マリアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害を実行することを発表した。マリアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた[51]

最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人イヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップが殺害され、ボトキンとメイドアンナ・デミドヴァが負傷した。マリアは背面のドアから部屋を脱出しようとしたが、ドアは開かないように閉じられた。酒に酔った殺害実行者の一人、ピョートル・エルマコフ英語版はドアをガタガタさせて逃げようとするマリアに狙いを定めた。エルマコフの弾丸がマリアの太腿に当たり、マリアはアナスタシアやデミドヴァとともに床に倒れ、うめき声を上げた。その後の数分間でボトキン、彼女の弟のアレクセイ、彼女の姉のオリガとタチアナが死亡した。マリアとアナスタシアは負傷していたが、まだ生きていた。エルマコフの証言によると、銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃った。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。また、エルマコフはアナスタシアの頭部も銃で撃ったと主張している。遺体を建物の外へ移動させようとしている時にマリアが意識を取り戻し、悲鳴を上げた。エルマコフは再び彼女を刺したが失敗し、静かになるまで彼女の顔を突き続けた。マリアの頭蓋骨の顔面部分は実際に破壊されたが、ユロフスキーは被害者の顔面は埋葬場所に着いてからライフル銃の台尻部分で粉々にされたと書いた。マリアは確実に彼女の家族と一緒に死亡したと見られているものの、彼女の死の直接の原因は謎のままである[52]

生存の噂と遺骨の発見[編集]

1915年頃。着物風のガウンを身に着けたマリア。オリエンタルファッションが当時流行していた

警護兵の何人かの証言は警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。皇帝一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた[53]

マリアが生き残ったという主張がこれまでに何度かされてきた。有名な例を挙げると、アレクシス・ブリメイヤー英語版という男はマリアの孫「プリンス・アレクシス・アンジュ・ド・ブルボン=コンデ・ロマノフ=ドルゴルーキー」であることを主張した。彼はマリアがルーマニアに逃れて結婚し、娘オリガ・ペアタを産んだと述べた。しかし、彼はドルゴルーキーの家族やベルギーにあるロシア貴族の子孫協会から1971年に提訴された後、ベルギーの裁判所で懲役18ヶ月を宣告された[54]。マリアとその妹アナスタシアであると主張する2人の若い女性が1919年ウラル山脈において司祭によって発見され、1964年に亡くなるまで2人は修道女として生き、マリア・ニコラエヴナとアナスタシア・ニコラエヴナの名で埋葬された[55]。さらにこれより最近では、ガブリエル・ルイス・デュバルがその著書の中で祖母のグラニー・アリーナ英語版は大公女マリアだったかもしれないと主張した。デュバルによると、彼の祖母はフランクという名の男と結婚して南アフリカ連邦に移住し、1969年に死亡した[56]

1991年にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された[57]。埋葬地は1979年夏に発見されていたが、当時はまだ共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた[57]。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間でジレンマがあった。アメリカの法医学博士ウィリアム・R・メイプルズ英語版がアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した[58]。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた[59]

ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚のエジンバラ公フィリップに遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている[60]

2007年8月23日に、ロシアの考古学者はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致するように思われたエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた部分的な骨格の発見を発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった皇女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「硫酸の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には金属探知機が使用された[61]2008年4月30日にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の皇女のいずれかであることが証明されたと発表した[62]。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。

列聖と再評価[編集]

7月17日の他の殺人被害者と同じく1981年在外ロシア正教会によって列聖された[63]。その19年後の2000年にはロシア正教会もマリアと彼女の他の6人の家族をパッション・ベアラ英語版として列聖した[64]

1998年7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクのペトル・パウェル大聖堂に埋葬された[65]

2009年10月16日ロシア連邦検察庁ロシア語版はニコライ2世一家を含めたボリシェヴィキによる赤色テロの犠牲者52名の名誉の回復を発表した[66]

系譜[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. ロシア皇帝ニコライ1世
 
 
 
 
 
 
 
8. ロシア皇帝アレクサンドル2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. プロイセン王女シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
4. ロシア皇帝アレクサンドル3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世
 
 
 
 
 
 
 
9. ヘッセン大公女マリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ
 
 
 
 
 
 
 
2. ロシア皇帝ニコライ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
10. デンマーク国王クリスチャン9世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ
 
 
 
 
 
 
 
5. デンマーク王女ダウマー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
11. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
1. ロシア大公女マリア・ニコラエヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世 (= 18)
 
 
 
 
 
 
 
12. ヘッセン大公子カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ (= 19)
 
 
 
 
 
 
 
6. ヘッセン大公ルートヴィヒ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. プロイセン王子ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
13. プロイセン王女エリーザベト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. ヘッセン=ホンブルク方伯女マリアンヌ
 
 
 
 
 
 
 
3. ヘッセン大公女アリックス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世
 
 
 
 
 
 
 
14. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
7. イギリス王女アリス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. ケント・ストラサーン公エドワード
 
 
 
 
 
 
 
15. イギリス女王ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 

脚注[編集]

  1. ^ a b Peter Kurth (英語). Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. Little Brown and Company. p. 88-89. ISBN 0-316-50787-3. 
  2. ^ a b c Robert K. Massie (英語). Nicholas and Alexandra. Dell publishing company. p. 133. ISBN 0-440-16358-7. 
  3. ^ Anna Vyrubova. “Written by Anna AlexandrovnaVyrubova in 1923 CHAPTER VI” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年6月14日閲覧。
  4. ^ a b Peter Kurth (英語). Anastasia: The Riddle of Anna Anderson. Back Bay Books. p. 138. ISBN 0-316-50717-2. 
  5. ^ a b c d e Margaretta Eagar. “Six Years at the Russian Court CHAPTER 5 CONCERNING EASTER” (英語). Alexanderpalace.org. 2014年6月14日閲覧。
  6. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 49. ISBN 978-4042778011. 
  7. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 50. 
  8. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. ちくま新書. p. 91. ISBN 978-4480057679. 
  9. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 55. 
  10. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 132. 
  11. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko (英語). A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. Doubleday. p. 337. ISBN 0-385-48673-1. 
  12. ^ Baroness Sophie Buxhoeveden. “The Life and Tragedy of Alexandra Feodorovna” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年6月14日閲覧。
  13. ^ The Grand Duchesses — OTMA” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年6月14日閲覧。
  14. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 463. 
  15. ^ Maria Nicolaievna - Grand Duchess of Russia” (英語). livadia*org. 2014年6月14日閲覧。
  16. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 336. 
  17. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 235. 
  18. ^ a b Alexander Bockanov (英語). The Romanovs: Love, Power and Tragedy. Leppi Publications. p. 125. ISBN 0-9521644-0-X. 
  19. ^ Greg King (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 49. ISBN 0-471-20768-3. 
  20. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 139-140. 
  21. ^ エドワード・ラジンスキー (英語). The Rasputin File. Doubleday. p. 139. ISBN 0-385-48909-9. 
  22. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 330. 
  23. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 130. 
  24. ^ Hugo Mager (英語). Elizabeth: Grand Duchess of Russia. Caroll and Graf Publishers. p. 257. ISBN 0-7867-0678-3. 
  25. ^ Peter Kurth. Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. p. 115. 
  26. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 507. 
  27. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 511. 
  28. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 90. 
  29. ^ エドワード・ラジンスキー. The Rasputin File. p. 129-130. 
  30. ^ Ian Vorres (英語). The Last Grand Duchess: Her Imperial Highness Grand Duchess Olga Alexandrovna. Key Porter Books. p. 115. ISBN 978-1552633021. 
  31. ^ Case Closed: Famous Royals Suffered From Hemophilia” (英語). Science. 2014年6月14日閲覧。
  32. ^ Peter Kurth. Anastasia: The Riddle of Anna Anderson. p. 417. 
  33. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 71. 
  34. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 167-168. 
  35. ^ Pierre Gilliard. “Revolution as Seen from the Alexander Palace - Pierre Gilliard - Thirteen Years at the Russian Court” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年6月14日閲覧。
  36. ^ Robert K. Massie. Nicholas and Alexandra. p. 180. 
  37. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 613. 
  38. ^ a b c 植田樹. 最後のロシア皇帝. p. 198. 
  39. ^ a b H. I. H. Grand Duchess Maria Nikolaevna” (英語). Romanov sisters. 2014年5月6日閲覧。
  40. ^ OTMA's Camera - Tumblr” (英語). Otmacamera.tumblr.com. 2014年4月24日閲覧。
  41. ^ Andrei Maylunas, Sergei Mironenko. A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story. p. 618. 
  42. ^ a b Greg King. The fate of the Romanovs. p. 238. 
  43. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 240. 
  44. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 242. 
  45. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 243. 
  46. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 242-247. 
  47. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 276. 
  48. ^ Helen Rappaport (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. ISBN 978-0312603472. 
  49. ^ Helen Rappaport. The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. p. 180. 
  50. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 82. 
  51. ^ Helen Rappaport. The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. p. 184-189. 
  52. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 303-310、434. 
  53. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 314. 
  54. ^ Greg King (英語). The Romanovs: The Final Chapter. Random House. p. 146. ISBN 0-394-58048-6. 
  55. ^ Greg King. The Romanovs: The Final Chapter. p. 148. 
  56. ^ A Princess In The Family?” (英語). abc.net.au. 2014年6月14日閲覧。
  57. ^ a b Сравнительный анализ документов следствия 1918 — 1924 гг. с данными советских источников” (ロシア語). данными советских источников. 2013年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月17日閲覧。
  58. ^ Greg King. The Romanovs: The Final Chapter. p. 67. 
  59. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 251. 
  60. ^ エドワード・ラジンスキー. The Rasputin File. p. 430-443. 
  61. ^ Remains of tsar's heir may have been found” (英語). theguardian.com. 2014年6月14日閲覧。
  62. ^ DNA confirms IDs of czar's children, ending mystery” (英語). Yahoo.com. 2014年6月17日閲覧。
  63. ^ Greg King. The fate of the Romanovs. p. 65、495. 
  64. ^ Nicholas II And Family Canonized For 'Passion'” (英語). The New York Times. 2014年6月14日閲覧。
  65. ^ 17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II” (英語). Romanovfundforrussia.org. 2006年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月24日閲覧。
  66. ^ Генеральная прокуратура РФ удовлетворила заявление Главы Российского Императорского Дома о реабилитации репрессированных верных служителей Царской Семьи и других Членов Дома Романовых” (ロシア語). Официальный сайт Российского Императорского Дома. 2014年3月25日閲覧。

関連項目[編集]