マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

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マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ、1914年

マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァМария Николаевна Романова/Maria Nikolaievna Romanova, 1899年6月26日 - 1918年7月17日)はロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクイパチェフ館において家族・従者と共に19歳の若さで銃殺された。正教会聖人新致命者)。

1906年
1909年
1910年。マリアとタチアナ
マリア自筆のサインカード。ルイス・マウントバッテンは1979年に爆死するまで自室のベッドの横にこの肖像写真を飾っていた
1910年。妹アナスタシア、弟アレクセイ、ヘッセン大公の息子ゲオルク・ドナトゥスと(左端がマリア)
1914年
1915年頃。アナスタシアと(右がマリア)
1915年。着物風のガウンを身に着けたマリア。オリエンタルファッションが当時流行していた
1915年または1916年。いとこのドミトリー大公やアナスタシアと大はしゃぎ
1916年。右から2番目
1916年。姉のオリガ、タチアナと(左がマリア)

人物[編集]

ニコライ2世の家族の絆は強かったと言われている。4人姉妹はいつも仲良しで、マリア皇女は特に妹のアナスタシア皇女と仲が良く、1つの寝室を共用していた。姉のオリガ皇女タチアナ皇女も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが"ビッグ・ペア"と呼ばれていたのに対し、下の2人は"リトル・ペア"と呼ばれていた。4人はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた。

明るい茶色の髪に、大きな優しい青い瞳をした愛らしい皇女で、その容貌をボッティチェリの描く天使に例えられる事もあった。大叔父のウラディミール・アレクサンドロヴィチ大公は、彼女を"Amiable baby(愛らしい赤ん坊)"と呼んで慈しんだ。美人の誉れ高く、従弟であるルイス・マウントバッテンは生涯彼女の面影を追い、部屋に肖像を飾っていたとも言われる。

マリアは母親と同じく血友病の保因者だった説が指摘されている。これは1914年に扁桃腺の切除手術を行おうとした際、激しく出血したためである。 革命後、元皇帝夫妻が身柄をトボリスクからエカテリンブルクへ移送される際、唯一同伴した(他の姉妹と弟のアレクセイ皇太子は後に合流している)。

気立てが良く優しいマリアは、皇族や臣下など周囲から最も慕われた皇女だった。絵の才能があり、スケッチが得意だった。左利きだったと言われている。

イパチェフ館での生活[編集]

エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館に監禁された時にはマリアは自ら進んで警護兵達と仲良くなろうとした。マリアは所持していたアルバムから写真を取り出してその家族について彼らと語り、解放されたらイギリスで新たな生活をスタートさせたいという彼女自身の希望を話した。ある兵は後年にマリアについて感謝を持って彼女が健康的で快活な美しさであった事を振り返り、他の姉妹とは違って良い意味で皇女らしくなかったと述べた。かつて見張り番を務めた人物はエカテリンブルクでマリアがおそらくあまりに警護兵にフレンドリー過ぎるためによく母親に叱られていたことを思い起こした[1]。警護兵が身の程をわきまえずにいかがわしいジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らを注意深く見つめて「このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません?良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか?許容可能な礼儀正しい男性となら、仲良くやっていけます」と叱りつけたこともあったという[2]

6月26日に警護兵の1人、イヴァン・スコロノドフはマリアの19歳の誕生日を祝うためにバースデーケーキを館に密かに持ち込んだ。マリアは家族からこっそり姿を消し、館の抜き打ち検査を実施した2人の上司によってスコロノドフはマリアと一緒に発見され、職を解かれた。何人かの警護兵の回顧録には、この翌日のオリガとタチアナがマリアの軽率な行動に対してひどく怒っていたことが書かれている。特にオリガはマリアとの付き合いを避けようとした[3]。この事件を機に指揮系統が見直され、一家と警護兵が親しくすることが禁止された。

7月14日は日曜日であり、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にマリアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している[4]

ところが、7月15日のマリアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。マリアはアレクセイを持ち上げることが出来る力強さを自慢していた[5]

7月16日、マリアの人生最後の一日。マリアは午後に父親や姉妹と一緒に庭を歩き、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。その後に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフ英語版が館から姿を消したことが判明した。実はロマノフ家のメンバーと一緒に彼を殺したくなかったために警護兵が少年をイパチェフ館から通りの向かいの宿舎へ引っ越させていた。しかし、殺人の計画を知らないロマノフ一家はセドネフの不在に動揺していた。これまでに館から姿を消した5人はそれ以後、戻ってこなかったからである。タチアナと医師エフゲニー・ボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えて説得しようとしたが、家族は納得しなかった[6]

結婚して幸せな家庭生活を送る事を夢見ていたが、その夢が叶う事のないまま1918年7月17日、エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館で家族、従者と共に銃殺された。

殺害[編集]

イパチェフ館に監禁されていた元皇帝一家らは1918年7月16日の夜に眠りに付くが、遅い時間に起こされ、市内の情勢が不穏なので、家の地下に降りるように言われた。アレクサンドラやアレクセイを楽にさせるために他の家族は枕やバッグなどを運んで自分の部屋から出た。アナスタシアは家族の3匹の犬のうちの1匹、ジミーという名前のを連れて出た。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右に立ち、マリアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。元皇帝一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、7月に入ってから新たな警護隊長に就任したユロフスキーが殺害を実行する事を発表した。マリアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた。7月17日の早朝の時間帯だった[7]

最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人イヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップが殺害され、ボトキンとメイドアンナ・デミドヴァが負傷した。マリアは背面のドアから部屋を脱出しようとしたが、ドアは開かないように閉じられた。酒に酔った殺害実行者の一人、ピーター・エルマコフ英語版はドアをガタガタさせて逃げようとするマリアに狙いを定めた。エルマコフの弾丸がマリアの太腿に当たり、マリアはアナスタシアやデミドヴァと共に床に倒れ、うめき声を上げた。その後の数分間でボトキン、彼女の弟のアレクセイ、彼女の姉のオリガとタチアナが死亡した。マリアとアナスタシアは負傷していたが、まだ生きていた。エルマコフの証言によると、銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃った。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。また、エルマコフはアナスタシアの頭部も銃で撃ったと主張している。遺体を建物の外へ移動させようとしている時にマリアが意識を取り戻し、悲鳴を上げた。エルマコフは再び彼女を刺したが失敗し、静かになるまで彼女の顔を突き続けた。マリアの頭蓋骨の顔面部分は実際に破壊されたが、ユロフスキーは被害者の顔面は埋葬場所に着いてからライフル銃の台尻部分で粉々にされたと書いた。マリアは確実に彼女の家族と一緒に死亡したと見られているものの、彼女の死の直接の原因は謎のままである[8]

聖人[編集]

マリアは他の6人の家族とともに2000年ロシア正教会によって列聖された。これより20年近く前の1981年在外ロシア正教会によって聖なる殉教者として列聖されていた。

遺骨[編集]

ニコライ2世一家の遺骨は1989年にエカテリンブルク郊外で発見されたが、このときマリアとアレクセイの遺骨は発見されていなかった。2007年8月、2人のものと思われる遺骨が発見され、2008年4月に「DNA鑑定の結果、遺骨はアレクセイとマリアのものであることが確認された」とスヴェルドロフスク州知事によって公表され、元皇帝一家の遺骨は全員揃ったとされている。

脚注[編集]

  1. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 238. ISBN 978-0471727972. 
  2. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 242. 
  3. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 242-247. 
  4. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 276. 
  5. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. ISBN 978-0312603472. 
  6. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 180. 
  7. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 184-189. 
  8. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 303-310、434. 

関連項目[編集]