ポツダム宣言

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1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国日本)に対して発された、「全日本軍無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言

他の枢軸国が降伏した後も抗戦を続けていた日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。

ソビエト連邦は後から加わり追認した。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。[1]

概要[編集]

ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンイギリスの首相ウィンストン・チャーチルソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されたものである。ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。

宣言の策定と発表[編集]

背景[編集]

1943年1月のカサブランカ会談において連合国は枢軸国ナチス・ドイツイタリア王国大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化した。この方針はフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり[2]、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連のヨシフ・スターリンやイギリスのチャーチル首相は条件を明確化したほうがよいと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った[2]。政府内のグループには天皇制維持などの条件を提示したほうが早期に対日戦が終結するという提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった[3]

1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトがすでに病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太千島列島満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月にルーズベルトが死去し、副大統領のトルーマンが後継大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった[4]

ドイツ降伏後、トルーマンは日本に対して無条件降伏を求める声明を発表した。またアメリカ政府による日本に降伏を求める、エリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている[3]。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった[3]

降伏勧告路線の本格化[編集]

ヘンリー・スティムソン(1945年)
ポツダム会談の最中に、占領アメリカ軍を訪問するマックロイ。左側のヘルメットをかぶった人物はジョージ・パットン

アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦ダウンフォール作戦コロネット作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲をともなうことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた[5]。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた[5]

一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた[6]。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した[7]。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ英語版陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった[8]

1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スチムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした[9]。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もしわれわれが通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方のないことだと思いますよ。」「われわれがよしとする条件を日本政府に対して説明してやることです。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した[10]。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存することを許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めてやるということです」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スチムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した[11]。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷がつくという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本にたいするメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた[12]。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたもと見られている[13]。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった[14]

三人委員会[編集]

ジェームズ・フォレスタル
ジョセフ・グルー

6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キングチェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた[15]。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された[15]。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した[15]

6月26日の対日計画案
  • 我々が日本に対して行使しようとしている力は多様かつ圧倒的である。この力を行使した場合、日本の破壊は不可避であり徹底的となる。
  • 連合国は世界征服の挙に出て国を欺いた者達の権力と勢力を除去する。
  • 日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。
  • 我々は日本の国を滅亡させ、日本民族を絶滅させる意志を持たない。
  • 日本から軍国主義の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な産業を保持することを認める。やがては日本と互恵的な貿易関係を構築することを認める
  • 前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、連合軍は日本から撤退する。

この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳もくわえた名義で公表されるとしていた。またスティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた[16]。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした[16]。委員会ではこの勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意を高める効果があり、失敗しても害はないと判定され[16]、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。

勧告文の検討[編集]

三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせることとした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユージーン・ドーマン英語版、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた[17]。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドーマンは欠席したため、バランタインを除いたメンバーはすべて陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった[17]。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドーマン案を元としており、天皇制の存続についてはきわめてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、ふたたびスティムソン案を中心として討議されることとなった[18]。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蒋介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。

翌6月28日の会議でドーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった[19]。ドーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言にたいするアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた[19]。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった[20]

スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた[21]。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている[21]。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している[22]。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった[23]

発表直前の修正[編集]

スティムソンとバーンズ。1945年7月15日、ベルリン

7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた[24]。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュ英語版をはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された[25]。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた[25]

ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。ただし、会議が始まる直前の7月17日正午頃にスターリンは対日戦参戦の意向をトルーマンに伝えた。トルーマンはこれによって「それ(ソ連の参戦)がおこれば日本は終わりだ」と喜んだが、次の日には原爆実験成功(トリニティ実験)の報せを受け取ったことで「ロシアがやってくる前に日本はつぶれる」と、ソ連の力を借りずに日本を降伏させる方針に転換した[25]。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」とあらため、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した[25]。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる[25]

7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった[25]。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蒋介石の名で発表された。また宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。

内容[編集]

  1. 吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
  2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
  3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
  4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
  5. 吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、吾等がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
  6. 日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和安全正義の新秩序も現れ得ないから。
  7. 第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
  8. カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
  9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
  10. 日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
  11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
  12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。
  13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ。

発表後の反応[編集]

ポツダム宣言の発表をうけた日本政府ではこの宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に当たったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った[26]。これをうけた外務大臣東郷茂徳最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した[27]。しかし陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した[26]。結局東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された[26]

7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、読売新聞で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蒋[28]共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ[26]、同日、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代式表記・仮名使いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された(産経新聞は1950年創刊でこの当時は存在しない)。この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している[26]。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない、

トルーマンは7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった[25]。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた[25]8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、同市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木は同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし陸相阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は天皇臨席の23時からの最高戦争指導会議に持ち越された。日付が変わって10日2時、鈴木から求められて昭和天皇のいわゆる「聖断」が下され、“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンスイスに向けて送信された[29]。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした[29]

大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された[30]。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した[30]

この「バーンズ回答」は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった。"subject to"の訳については「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり[31]、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した[30]。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[30]。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた[30]。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった[32]。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している[32]

8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。

8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定を国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日である。 宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。

宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が続いた。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。

ポツダム宣言と「無条件降伏」の当否[編集]

日本の降伏が「無条件降伏」であるか否かは論争がある。「無条件降伏」についてはいくつかの見解があるが、軍隊の無条件降伏という点については一致した見解がなされている(軍部の無条件降伏後も各地で散発的・組織的な戦闘が発生した)。

国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。なお日本は国体護持の条件を提示したが連合国からの回答はなく、日本政府は第12条に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾している。

そもそもルーズベルトによる無条件降伏による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており揺れがある[33]。トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム宣言を発した。 連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において[34]、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある[35][36]

ポツダム宣言と領土問題[編集]

ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。

ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している[37][38]。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾満州朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反している。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものとする。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階[39]で停滞しており、2010年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。

中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し[40]、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。

北マリアナ諸島については1899年にドイツ領となって以降、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカの信託統治に変更され北マリアナ自治領を形成している。

脚注[編集]

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  1. ^ 大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英支蘇」となっている。尚、複数国による宣言(や協定や条約)の場合、その宣言(や協定や条約)に参加したからといって宣言中で定められる権利、権原等の全てが宣言(協定、条約)国全てに等しく与えられるとは限らない。権利、権原や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされるものである。また、宣言参加者には宣言内で定められる事項について全般的にその遵守義務が発生する。
  2. ^ a b 山下祐志 1995, pp. 11.
  3. ^ a b c 山下祐志 1995, pp. 14.
  4. ^ 山下祐志 1995, pp. 13.
  5. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 305-306.
  6. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 306.
  7. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 337.
  8. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 307.
  9. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 308-309.
  10. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 311.
  11. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 311-312.
  12. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 312.
  13. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 314.
  14. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 315.
  15. ^ a b c 藤田宏郎 2011, pp. 316.
  16. ^ a b c 藤田宏郎 2011, pp. 319.
  17. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 320.
  18. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 321.
  19. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 322.
  20. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 339.
  21. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 323.
  22. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 325.
  23. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 326-329.
  24. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 331.
  25. ^ a b c d e f g h 山下祐志 1995, pp. 16.
  26. ^ a b c d e 山下祐志 1998, pp. 2.
  27. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 333.
  28. ^ 蒋介石のこと。当時日本は南京の汪兆銘政権を承認していたため
  29. ^ a b 山下祐志 1998, pp. 5.
  30. ^ a b c d e 山下祐志 1998, pp. 6.
  31. ^ 翻訳を行った下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態は」の部分を「最終的の日本国の政府の形態は」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上 1984年(昭和59年)8月、行政問題研究所)
  32. ^ a b 山下祐志 1998, pp. 7.
  33. ^ 藤田宏郎「フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論」(甲南大学法学部 甲南法学48(1)pp.1-36 20070900)[1]
  34. ^ TOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせる事を条件に大統領も同意した[要出典]。なお対日占領政策の最高意思決定機関は極東委員会であり、その諮問機関である対日理事会の第一回会合は1946年4月5日。
  35. ^ 大日本帝国議会第90回衆議院本会議7号昭和21年6月27日吉田茂(発言番号8)[2]
  36. ^ 焦点になる「契約的基礎」については第7回衆議院外務委員会昭和25年3号(2月8日並木芳雄・発言者番号117)6号(3月9日横田喜三郎・発言者番号3)、第10回参議院外務委員会昭和26年2号(1月31日黒田寿男・発言者番号83)などで論じられあるいは反論されている。第24回衆議院内閣委員会公聴会昭和31年1号(3月16日神川彦松)でも言及あり。
  37. ^ 日ソ中立条約のソ連邦による廃棄通告は1945年4月5日であり、同条約は1946年4月25日に失効することになっていた。なおこの条約では日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重しあう義務を負っていた(第一条)。
  38. ^ 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」 (PDF) 外務省
  39. ^ 日ソ共同宣言は外交文書(条約)であり同条約の締結と批准により戦争状態は終了し両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされている[要出典]
  40. ^ 「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」

参考文献[編集]

  • 江藤淳監修|栗原健波多野澄雄編「終戦工作の記録」(上下)講談社文庫、1986
  • 江藤淳編「占領史録」(上下)講談社学術文庫、1995
  • 外務省編「終戦史録」(全6巻)北洋社
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録」(上中下)山手書房新社、1990
  • 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規(全6巻)、1981
  • 鈴木九萬一監修「日本外交史 26 終戦から講和まで」鹿島出版会、1973
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」(2冊組)芙蓉書房出版、2003
  • 重光葵「重光葵手記 正・続」 中央公論社、1986-88
  • 重光葵「昭和の動乱」 中公文庫(上下)、2001
  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」中公文庫、1999
  • 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房、1976
  • 有末精三「ザ・進駐軍 有末機関長の手記」芙蓉書房、1984
  • 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社、1979
  • 加瀬俊一「加瀬俊一回想録」山手書房(上下)、1986
  • 加瀬俊一「ミズーリ号への道程」文藝春秋新社、1951
  • GHQ参謀第2部編「マッカーサーレポート 第1巻」現代史料出版、1998
  • 毎日新聞図書編集部訳編 「太平洋戦争秘史 米戦指導者の回想」毎日新聞社、1965
  • 荒敬編「日本占領・外交関係資料集 第1巻」柏書房、1991
  • 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録—終戦史資料」原書房(上下)、2002
  • 住本利男 「占領秘録」毎日新聞社 1965/中公文庫、1988 新版2014.7
  • 藤田信勝 「敗戦以後」 プレスプラン 2003
  • ダグラス・マッカーサー「マッカーサー回想録」朝日新聞社/中公文庫 上下 2003、新版(全1冊)2014.7
  • ハリー・S・トルーマン 「トルーマン回顧録」恒文社、1992
  • イーブン・A.エアーズ 「ホワイトハウス日記 1945-1950」平凡社、1993
  • 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」中央公論新社 2001、中公文庫 2013
  • 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社、1997、中公文庫、2002
  • 増田弘「マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ」 中公新書 2009
  • 河原匡喜「マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間」新人物往来社、1995
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」NHKブックス(上下)、2000
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」中央公論新社、2006、中公文庫(上下)、2011
  • 保阪正康「新版 敗戦前後の日本人」朝日文庫、2007
  • 藤田宏郎「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言 (甲南大学法学部開設50周年記念号上巻)」、『甲南法学』51(3)、甲南大学、2011年、 1-37頁、 NAID 110008436640
  • 山下祐志「アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11) : ポツダム宣言の発出」、『宇部工業高等専門学校研究報告』第41巻、宇部工業高等専門学校、1995年、 A9-A18、 NAID 110000980158
  • 山下祐志「アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾」、『宇部工業高等専門学校研究報告』第44巻、宇部工業高等専門学校、1998年、 A9-A18、 NAID 110000980223

関連項目[編集]

外部リンク[編集]