通州事件
通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件のこと。「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃した事件。虐殺の犠牲者は渡部昇一の調査によると日本人260人[1]。当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、 日本人104名と朝鮮人108名。
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事件の概要[編集]
通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本人を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[2]。また、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。
第二十九軍による日本軍攻撃[編集]
1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍(この部隊は元々、通州に配置されようとした際に、梅津美治郎陸軍省事務次官が京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと強く反対したために代わりに北京西北の豊台に配置された部隊であった[3])への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元の第二十九軍と日本軍が衝突した。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月13日に再び日本軍に銃撃する事件が起きて(大紅門事件)、7月25日に三度日本軍に攻撃を仕掛け(廊坊事件)、続く7月26日にも日本軍に攻撃を加えた(広安門事件)。
冀東政権によるアヘン密造[編集]
事件の起きた通州は冀東政権の本拠地でありアヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。当初は製薬会社が日本国内で阿片やヘロインを製造し中国に運んでいたが、大正末期になるとヘロインの製造を中国現地で実行し始めた。ヘロインの生産は中国政府官憲の前で公然と行なえるものではなかったので、日本の薬業者が現地生産をする際には日本軍駐屯地域内で日本軍を隠れ蓑にするという方法が取られ、充分な保護を得られる全くの安全地帯で麻薬を密造していた。[4][5] 満州でヘロインを製造した製薬会社の社長であった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し、[6]中国の作家である林語堂は「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と書いた。
中国政府はイギリスから流入してきたアヘンによって国内が麻薬で汚染された経緯もあってヘロインを目の仇にしていたが、日本軍が麻薬密造業者を匿うので思うように取り締まれずにいた。これによって通州の住人の間にも冀東政権に対する怒りが高まっていった可能性がある。
国民政府によるデマ放送[編集]
7月27日に中華国民政府はラジオ放送を行い[7]、その中で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」との虚偽報道に続き[7]、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と報じた[8][7]。これを受けて冀東保安隊が日本人を襲撃することとなった[2]。
冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係[編集]
冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘と張硯田は密かに第二十九軍と接触していた[7]。このような中、第二十九軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、日本人保護のためであると騙された日本陸軍の通州特務機関長細木繁中佐[9]もこれを了承していた[7]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[7]。
日本人虐殺[編集]
渡部昇一によると7月29日、千数百人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が[1]、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し[1]、260名が惨殺された[1]。これにより通州特務機関は全滅。
信夫信三郎によると当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は日本人104名と朝鮮人108名であり、殺害された朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。 朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。[10]
また、当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[11]。
生存者の証言・記述[編集]
- 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。」[12]。
- 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[13]。
影響等[編集]
日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)が同盟通信を通じて日本全国に報道されると、日本の対支感情は著しく悪化した[14]。 これは、既に7月7日生じたあと現地で解決されていた日本軍と国民党の武力衝突につき、感情論に任せたなし崩し的戦線拡大を招いた。
近年ではこの事件に対する報道は日中両国で皆無である。中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、この事件については一切触れられていない。
主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[15]。
戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、弁護団は通州事件について、外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。
事件諸説[編集]
冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の3つの説が存在している。
- 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎を誤爆したことへの報復だったとする説[16](ただし、誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっている事実も存在している[17]) 。
- 中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるため、ラジオで「日本が大敗した」と虚偽の放送をおこない、冀東保安隊がそれに踊らされたという説[17][18]。
- 1986年に公表された冀東保安隊長・張慶餘の回想録や、中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触。「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説[19]。
- 冀東政権による麻薬の密造・密輸によって悪化した中国の麻薬汚染に憤激した通州の市民が保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民―および朝鮮人に―に報復した抗日事件とする説。[20]
参考文献[編集]
- 中村粲 『大東亜戦争への道』 ISBN 4-88656-062-8
- 江口圭一 「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」、『季刊戦争責任研究』第25号、1999年9月 ISSN 13437348
- 広中一成 「通州事件の住民問題」、軍事史学会編『日中戦争再論』、2008年 ISBN 978-4-7646-0322-6
脚注[編集]
- ^ a b c d 渡部昇一 『日本とシナ: 1500年の真実』 PHP研究所、2006年、222頁。ISBN 4569648576。
- ^ a b 藤本一孝 『大東亜戦争と現在の日本: 陸軍最後の青年将校、傘寿の想い』 展転社、2006年、111頁。
- ^ 渡部昇一 『日本とシナ:1500年の真実』 PHP研究所、2006年、210-211頁。ISBN 4569648576。
- ^ 江口圭一 『日中アヘン戦争』 岩波書店、1988年。
- ^ 岡田芳政ほか 『続・現代史資料12 阿片問題』 みすず書房、1986年。
- ^ 山内三郎 『『人物往来』1965年9月号「麻薬と戦争~日中戦争の秘密兵器」』、1965年。
- ^ a b c d e f 渡部昇一 『日本とシナ: 1500年の真実』 PHP研究所、2006年、224頁。ISBN 4569648576。
- ^ 寺平忠輔 『蘆溝橋事件』 読売新聞社、1970年、370頁。
- ^ 『軍事史学第43巻』 軍事史学会、2007年、123頁。
- ^ 信夫清三郎 『聖断の歴史学』 勁草書房、1992年。
- ^ 今井武夫『支那事変の回想』・『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』[要ページ番号]
- ^ 『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』新聞タイムズ編(皇徳泰賛会)昭和12年12月18日発刊
- ^ ハンゼン氏病よさようなら(1963) 新道せつ子 主婦の友社 東京[要ページ番号]
- ^ 『東京裁判(上)』朝日文庫[要ページ番号]
- ^ 2007年6月25日 網易NetEase1937年通州事变:一场起义伪军对日军民的杀戮 「張慶餘(1895---1963)1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長、1937年7月率部起義、転保定、洛陽、西安、於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議。」
- ^ 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』など[要ページ番号]
- ^ a b 寺平忠輔『盧溝橋事件』など[要ページ番号]
- ^ 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』[要ページ番号]
- ^ 岡野篤夫『通州事件の真相』正論1990年5月号[要ページ番号]
- ^ 信夫清三郎 『聖断の歴史学』 勁草書房、1992年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 通州事件・南京事件・尼港(ニコウ)事件その他 - 真中行造(リンク切れ)
- 消された「通州事件」 - がんばれ凡人!
- 惨!通州事件 - 電脳日本の歴史研究会
- 残虐目を覆う通州事件 - 全国戦友会連合会
- 「通州事件」-直接の引き金 - ゆうのページ
- 惨たるかな通州事件 - 誰か昭和を想わざる
- 通州事件(1937年7月29日)
- 通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-
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