バターン死の行進

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バターン死の行進(バターンしのこうしん、Martsa ng Kamatayan sa Bataan)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120キロで、その半分は鉄道で運ばれ、残りを3日で歩いた。1日平均20キロの3日間の行進であった[1]

フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。

2008年12月2009年2月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に対して日本政府を代表し、バターン死の行進について「村山談話」に則って公式に謝罪した。また2010年9月13日には岡田克也外務大臣が元捕虜と外務省で面会し、現職の外務大臣として初めて謝罪している[2]

目次

経緯 [編集]

守備隊の降伏 [編集]

1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将率いる第十四軍ルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのはダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日マニラ無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島コレヒドール要塞に立てこもった。米軍は撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しにした[1]。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功した。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。

4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊した。壊さなかった部隊は死の行進を歩むことなくそれで収容所まで行った[1]。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

日本軍の捕虜後送計画と実態 [編集]

死の行進のルート

日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

当初の捕虜輸送案
区間 距離 備考
1.マリベレス~バランガ 約30km
2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ)
3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送
4.カパス~オドネル 約12km

この表のように、捕虜が歩くのは1と4の区間だけであり、バランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であったが、上記のように、当初日本軍が想定していた事態を大きく上回った。

捕虜の扱い [編集]

トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。この背景として、捕虜になることを恥ずべきものとする風潮が影響していた。また日本軍ではもともと戒告のために殴打することが日常的にあり、不服従とみると捕虜にも暴力をふるったのである。死者が増えた要因には現地の指導的立場にあった辻政信にもあった。辻はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人兵士は白人であるから、フィリピン人兵士は裏切り者だから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた[3]今井武夫大佐の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第65旅団司令部から電話で、大本営命令と称して米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井は書面による命令を要求した。[4] この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこれらの事情についてまったく知らなかった。

収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。

戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。

兵士の証言 [編集]

吉本隆明は、フィリピンにいた日本軍元兵士の証言として、次のように紹介している[6]

「日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったといわれているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くには当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ」

この証言について、吉本は「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と主張している[7]


第2次バターン攻略戦に参加した日本兵士によると、次のような証言がある。[8]

「(前略)夜が明けてみると、前方の山から白旗をかかげたアメリカ兵がゾロゾロと出てくるではないか。第四分隊、こちらは総勢一三人、敵のアメリカ兵は何千、何百と雲霞のように山から下りてくる。まずこの光景を見て我々は腰を抜かさんばかりに驚いた。武装解除されているので武器は所持していなかったが、キャラメルやタバコをくれたり、チョコレートをくれたり、我々のご機嫌をとってくる。   (中略)一人の日本兵が三〇〇人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵と立場が逆になっていたら、一三人くらいの敵ならアッというまに殺していたであろう。(後略)」

異論 [編集]

コラムニストの高山正之は、バターン死の行進はそれが真実かどうか過去一度も検証されておらず、日本側に検証の動きが少しでも出るとすぐ圧力がかかって潰されてきたと主張している[1]

脚註 [編集]

  1. ^ a b c d 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』[要ページ番号]
  2. ^ “岡田外相、元米兵捕虜に謝罪 「非人道的だった」”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年9月13日). http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091301000252.html 2013年5月22日閲覧。 
  3. ^ トーランド(1970) 2巻「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」「4 死の行進」241頁―256頁
  4. ^ 山本七平『山本七平ライブラリー⑦ ある異常体験者の偏見』文藝春秋、1997年,388頁
  5. ^ バターン死の行進の証拠写真とされてきたが、2010年3月19日、AP通信は「バターン死の行進を撮影したものでなかった」として訂正するとともに検証記事を配信した。同通信によると、この写真は行進から数週間後に収容所にて撮られた、米兵の遺体を埋葬のため運ぶ様子を写したものであるという。http://www.app.com/article/20100318/NEWS/100319001/Bataan-Death-March-photo-researched-AP-corrects-caption
  6. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年,27頁
  7. ^ 同書[要ページ番号]
  8. ^ 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)第1巻、第2部 聴取調査記録 「バターン死の行進」282頁 http://www.heiwakinen.jp/library/shiryokan/onketsu01.html

関連項目 [編集]

参考文献 [編集]

  • 御田重宝 『バターン戦 人間の記録』 徳間書店〈徳間文庫〉、1993年8月(原著1978年6月)。ISBN 978-4195676660
  • レスター・I・テニー 『バターン 遠い道のりのさきに』教科書に書かれなかった戦争 PART43、伊吹由歌子、柳由美子、奥田愛子、古庄信訳、梨の木舎、2003年3月(原著1995年)。ISBN 978-4816602078
  • ジョン・トーランド 『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 978-4150501020
    • 「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」
    • 「同上 4 死の行進」
  • 児島襄 『太平洋戦争』上、中央公論新社〈中公新書〉、1963年11月ISBN 978-4121000842
  • 立川京一旧軍における捕虜の取扱い (PDF)」 、『防衛研究所紀要』第10巻第1号、防衛省防衛研究所2007年9月ISSN 13441116

外部リンク [編集]