カウラ事件

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カウラ事件カウラじけん)は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。

捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。[1]

目次

[編集] キャンプ

[編集] インドネシア市民

当時、オランダ東インド政府下にあったインドネシアでは、愛国主義者たちはイリアンジャヤオランダ・ニューギニア)の収容所に1927年以来、捕囚されていた。しかし日本軍の占領行動により、オランダ政府は彼らが日本軍へ参軍するのを危惧して、オーストラリア政府へ収容を依頼した。

オーストラリア政府は、オーストラリア憲法に違反するために解放。彼らにとってより適した気候のクイーンズランド州で農業を自由に行う。終戦後、インドネシアへ帰国した。

[編集] 敷地

収容所の敷地は12角形(直径約600m)をとっており、90度角で4ブロックに分かれていた。

  • Aブロック(北西):イタリア人
  • Bブロック(北東):日本人(北部域にオーストラリア軍の敷地があった)
  • Cブロック(南東):イタリア人
  • Dブロック(南西):日本人将校、台湾人、朝鮮人

[編集] 警備

1943年2月ニュージーランドフェザーストン捕虜収容所(日本人の捕虜収容所)で日本人捕虜が暴動を起こしたため、カウラ収容所も警備の強化が行われる。

この際に、年配の退役軍人や、前線配置には健康ではないと評された若者などで構成される、第22守備隊(22nd Garrison Battalion)を整備。周囲の監視、作業班の監督を任務とした。

この市民兵第22守備隊には、ヴィッカース機関銃ブレンガン(ともにイギリスイギリス連邦軍により使用されていた)が配備された。

[編集] 捕虜の生活

[編集] 作業

トマトブドウ栽培の為の伐採といった、農業を行っていた。

[編集] レクリエーション

警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は文化的スポーツであった野球相撲麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている[3]

[編集] 状態

収容所では、"傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)" を日本人にも適用(当時、日本政府はジュネーブ条約を批准していない)していたが、日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず[4]、当時の日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方と、欧米(同じ枢軸国であったイタリアを含む)やオーストラリアの”国を代表して全力で戦った、名誉ある捕虜” という認識の相違により、オーストラリア人と日本人捕虜の間ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣訓などからなる日本軍人に固有の意識や、外交・国際関係の知識の不足による誤解が背景にある)。

例えば、アフリカからのイタリア人捕虜が頻繁に家族に手紙を書いていたのに対し、日本海軍規範に述べられているように、日本軍・日本人社会は捕虜を不名誉としていたため、捕虜になった日本兵の内7、8割は偽名を用いて登録していた[3](本名が本国日本に照会されて、自分の家族などが非国民の扱いを受け、村八分的差別にあう可能性を避けるため。実際、捕虜第一号となった酒巻和男少尉の家は、非国民扱いされていた)。したがって、本国にいる自分の家族に手紙を書くことは行わなかった。

[編集] 契機

1944年8月第1週、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーしたために、将校下士官を除く兵士を、400km西に位置するヘー(Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことを計画。8月4日、ジュネーヴ条約の規定に基づいて移送の前日に、日本人捕虜に通達された。

[編集] 行動の思想的(心理学的)要素

  • 建前と本音の乖離
  • 優勢人種思想・外交・国際能力の未熟性に基づく、"名誉ある捕虜" の価値観の欠如
  • ジュネーヴ条約などの国際規範の、個人の理解の欠如と、日本海軍規範などを主とする、日本社会の集団心理など

日本兵にとって、下士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであるという理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れることができない日本兵は、それを“契機”として捕虜収容所からの脱走を計画することになる(以前から計画はしていなかった[3])。

日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするかの多数決投票を行った。この際、トイレットペーパーに移送受諾か否かを○×で行ったという。「脱走に非参加」と投票した者も少数いたが、結果として、移送計画へ協調しない、すなわち脱走することで決定した。当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いて、ほとんどが脱走に賛成したことを現生存者は証言している[3]

[編集] 脱走

1944年8月5日(午前2時過ぎ程からの深夜帯)、日本兵1104名は集団脱走を決行した。脱走時、携帯する事の出来た武器と言ったものは身近にあるフォークナイフなどの金属製品、野球バットといったものに過ぎず、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗できる状態では無かった。

オーストラリアの歴史家Gavin Long[5]は以下のように言及した。

「午前2時頃、一人の日本人がキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹いた。 これに対して警備兵は警告射撃を行った。 続いて『バンザイ』を叫びながら、毛布をかぶり網を通り抜けようとした3人の日本人(それぞれが北・西・南側で行動)に発砲した。 日本人捕虜は、ナイフ、フォーク、釘やフックを打ち込んだ野球バットなどで武装していた」[4]

At about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A sentry fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "Banzai", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, baseball bats, clubs studded with nails and hooks, wire stilettos and garotting cords. [4]

ほとんどの警備兵は就寝していたが、発砲の後に非常召集されて配置に付いた。日本人捕虜はBブロック(B Compound)の建物に放火。約400名が収容所北西部から脱走を試みた。

当時の警備兵は、「日本人は何を考えているのか分からなかった。野球、相撲などのレクリエーションの自由もあったし、日本人は魚を食べるので、(オーストラリア人とは別に、特別に)魚を食事で支給されていた。脱走時の夜は田舎の満月で、とても明るく、人の影がよく見えた上に、わざわざ明るくなるように建物に放火をしたので、付近の様子が昼のように目視できた」と証言している。また、付近住民は「脱走兵の2、3人が家の前にきて立っていた。母が『もうすぐお菓子が焼けるから食べて行きなさい』と迎え入れ、振る舞った」と述べている[3]

多数の死傷者を出しながらも、捕虜収容所の敷地外へ脱出する日本兵もいたが、最終的には全員捕縛された。

  • 死者数:235名(オーストラリア人4名、日本人231名)
  • 負傷者数:日本人108名

脱走者のリーダー達は、首謀者8人のうち、豊島一一等飛行兵ともう1名(陸軍)は脱走中に死亡、柿本円次二飛曹は自決、他は詳細不明であった。

第12捕虜収容所は、1947年のイタリア人・日本人本国送還まで運営された。

[編集] オーストラリア政府の反応

オーストラリア政府は、カウラ事件を極秘情報として公にはしなかった。事件当時は戦時中であり、日本政府に日本兵捕虜の多数の死を知られた場合、日本によるオーストラリア兵捕虜に対する危険の可能性を考慮した結果である。

[編集] 日本政府の反応

日本政府は、カウラ事件が起きたことを確認していた。しかし政府は、日本兵捕虜の存在自体を否定しており、戦時中に発表することは無かった。

[編集] 事件後の経緯

カウラ日本人墓地 (Cowra Prisoner of War Camp) が建設され、1963年にはオーストラリア政府の計らいによって、墓地は日本の領土として割譲された(オーストラリア戦争墓地委員会の管理下にある)。

1970年、教育映画製作者の高橋克雄監督(株式会社東中代表)・富美子夫妻が、日本貿易振興機構(JETRO)の海外PR映画『オーストラリア・東経135度上の隣人』製作取材のため、カウラを訪問している。日本人墓地取材には、前市長オリバーとカップス市長夫妻が正装して同行した。事件の戦死者(オーストラリア警備隊による機関銃掃射)が、広島師団出身者であることから、広島の地酒を持参して墓に注ぎ、慟哭、撮影に苦慮した。墓地は映画に記録され、海外広報に使われた。高橋夫妻は、日本人墓地が完成してから初めてカウラ市に泊まってくれた日本人(市役所の言)として歓待を受け、その後長く、市長夫妻らとの交流が続いた。この取材実現には、当時の斉藤大使夫妻や木名瀬参事官が尽力し、日産が取材車を提供して長期取材に協力した。なお、高橋監督夫妻は1979年に、当時の皇太子明仁親王・同妃美智子に招かれて4人で懇談したが、その際の話題の一つが、この事件であった。高橋取材の翌年ぐらいに皇太子夫妻も同墓地を訪問していたことで感動を共感し、今日まで、皇室との交流が続くこととなったが、天皇はカウラ戦友会の代表者の名前をすらすらと口にし、高橋を驚かせたという(高橋克雄の記による)。[要出典]

1988年、T・グリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に、捕虜収容所のあった新潟県直江津市を訪問し、故人をしのぶ銘版を寄託。事件以降毎年、慰霊祭が行われていることを、日本人に初めて知られることになった。1995年10月8日には、直江津・平和記念公園が開設。

戦後60周年に、カウラ事件をきっかけにした日本とオーストラリアの友好的な関係が築かれており、2004年8月にはカウラ事件60周年式典が行われている。現在でも、毎年カウラでは慰霊祭が行われている。

ダーウィンでの戦没者墓地には、 オーストラリア人・日本人墓地が整えられている。日本人墓地には、それぞれに名前が彫られた個別の墓石が整えられている。[6]また、この事件への追悼の意を込めて、Bellevue Hillに日本庭園が造園された。

2006年11月聖路加国際病院名誉院長などを務める日野原重明が、カウラを訪れた。

[編集] 関連項目

  • 直江津捕虜収容所(正式名称:東京俘虜収容所第四分所)… 新潟県上越市にかつて所在。同収容所に収容されていたオーストラリア人捕虜300名のうち60名が、1942年12月から翌年の3月まで続いた大寒波が原因で肺炎などを起こし、病死した。戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由にBC級戦犯とされて、横浜軍事法廷にて死刑判決を受けて処刑された。横浜裁判では最多の死刑判決が出た。
  • 加藤哲太郎 … 当時、直江津捕虜収容所と同じ新潟市にあった東京俘虜収容所第五分所長の所長であり、最大規模の戦犯裁判であった。テレビドラマ・映画『私は貝になりたい』の作中で書かれた遺書のモデルとしても有名である。

[編集] 参考資料

[編集] 映像作品

  • 『初めて戦争を知った - 若者たちの旅(2)生きて虜囚の辱めを受けず - オーストラリア・カウラ事件』(1993年NHKエンタープライズ
  • 『壊れた太陽』 - Broken Sun(2008年)[1]
    • 監督:Brad Haynes
    • 脚本:Dacre Timbs

[編集] 脚注

  1. ^ ""Fact Sheet 198: Cowra outbreak, 1944"". オーストラリア国立公文書館. 2008年6月18日 閲覧。
  2. ^ "Cowra Breakout". オーストラリア戦争記念館. 2008年6月18日 閲覧。
  3. ^ a b c d e 『初めて戦争を知った - 若者たちの旅(2)生きて虜囚の辱めを受けず - オーストラリア・カウラ事件』(1993年)、NHKエンタープライズ
  4. ^ a b c "The prison breakout at Cowra, August 1944". オーストラリア戦争記念館(1963年発行、Gavin Long著“Australia in the War of 1939-1945”から引用). 2008年6月18日 閲覧。
  5. ^ "Gavin Long". 2008年6月18日 閲覧。
  6. ^ "Japanese and Australian War Cemeteries(日本人・オーストラリア人戦争慰霊墓地)". 2008年6月18日 閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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