秋篠宮文仁親王

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秋篠宮文仁親王
Prince Akishino 20091223.jpg
2009年(平成21年)12月23日
天皇誕生日一般参賀にて
続柄 今上天皇の第二皇子
称号 礼宮(あやのみや)
身位 親王
敬称 殿下
His Imperial Highness
お印
出生 1965年11月30日(48歳)
日本の旗 日本 東京都千代田区宮内庁病院
配偶者 文仁親王妃紀子
子女 眞子内親王
佳子内親王
悠仁親王
父親 今上天皇
母親 皇后美智子
役職 山階鳥類研究所総裁
日本動物園水族館協会総裁
世界自然保護基金ジャパン名誉総裁
日本テニス協会名誉総裁
東京農業大学農学部客員教授
東京大学総合研究博物館特招研究員
総合研究大学院大学客員研究員
他多数
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秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年昭和40年)11月30日 - )は、日本皇族今上天皇の第二皇子。母は皇后美智子身位親王皇室典範における敬称殿下お印皇位継承順位皇太子徳仁親王に次ぐ第2位。勲等大勲位菊花大綬章学位博士(理学)総合研究大学院大学1996年)。そのほか、タイ王国複数の大学より、名誉博士名誉学位称号を授与されている。

住居(秋篠宮邸)は東京都港区元赤坂2丁目の赤坂御用地内。1997年平成9年)3月からは旧秩父宮邸を使用している。

略歴[編集]

少年時代[編集]

1965年昭和40年)11月30日皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二男子として宮内庁病院で誕生。幼少時の御称号礼宮(あやのみや)。「論語」より「博くを学び、これを約するにをもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来。

幼少時はやんちゃなイメージとして知られていた。テニス等のスポーツに熱心に取り組む一方、地理などにも関心を持っていた。

また妹・清子内親王の夫である黒田慶樹とは少年時代からの学友。

青年時代[編集]

1984年(昭和59年)、学習院大学法学部政治学科に入学。翌年には自然文化研究会を結成し、積極的にサークル活動を行うとともに、東京農業大学育種学研究所を前身とする財団法人進化生物学研究所家禽類研究に従事。一学年下の川嶋紀子と知り合いサークル活動を通じ交際を深め、1986年(昭和61年)6月26日に自ら求婚していた。同年から財団法人山階鳥類研究所総裁。

1988年(昭和63年)、学習院大学法学部政治学科を卒業。同年より社団法人日本動物園水族館協会総裁を務めるとともに、2年間、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院動物学科に留学し動物学を学ぶ。1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇が崩御。同年から1年間オックスフォード大学大学博物館及びロンドン自然史博物館に在籍。

同年8月26日、川嶋紀子との婚約内定が報道される。9月12日、文仁親王と川嶋紀子の婚姻に関する皇室会議が開催された。全員一致で2人の婚姻が可決され、婚約が内定。午後から記者会見が行われた。平成改元後初の慶事であり、若々しい2人の結婚は国民から盛大に祝福された。関連書籍・アニメが作られ、「紀子さまブーム[1]とも呼べる現象となった。

昭和天皇の喪が明けた翌1990年(平成2年)1月12日納采の儀が執り行われ、前年9月12日の皇室会議で認められた2人の婚約が正式決定した。皇室において昭和天皇崩御後初の慶事となり、納采後の皇居には、皇族三権の長らが祝賀訪問、お祝い記帳も行われた[2]

同年6月29日結婚の儀が行われ、同日秋篠宮家を創設した。宮号は奈良県秋篠に由来する。

秋篠宮家の紋

秋篠宮時代[編集]

現代天皇家系図
2005年(平成17年)天皇誕生日一般参賀にて

成婚以来、同妃紀子とともに地道に公務を果たす。特にインドネシアタイなどの東南アジア諸国を公私ともによく訪問し、タイ王室とも交流が深い。

1991年(平成3年)10月23日眞子内親王が誕生。"眞"の文字は秋篠宮の"ひらめき"によって選ばれた。1992年(平成4年)に財団法人日本テニス協会名誉総裁に就任。1994年(平成6年)12月29日には、佳子内親王が誕生。しかし、兄宮・皇太子および同妃に遠慮すべきとのバッシングや批判があったとされ[3][4]、以降は長らく子を儲けなかった。1997年財団法人世界自然保護基金ジャパン総裁就任。2000年より日蘭協会名誉総裁、2004年より特定非営利活動法人全日本愛瓢会名誉総裁、2005年よりサイアム・ソサエティー名誉副総裁。

宮中祭祀・各種公務に取り組む他に、魚類や家禽類の研究も行っている。総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻を構成する国立遺伝学研究所五條堀孝教授の指導の下、1996年(平成8年)9月30日、家禽のニワトリの起源を遺伝子に基づき解析した研究により、総合研究大学院大学から博士(理学)の学位を授与された[5][6]

通称「さんまの会」では友人知人を自邸に招いており、この集まりが妹・清子内親王と長年の友人である黒田慶樹の交際を深めるきっかけを作った。文仁親王は、2005年(平成17年)の彼らの結婚を非常に喜んだ。 兄・皇太子および同妃には、2001年(平成13年)12月に第一子・敬宮愛子内親王が誕生。しかし、この後皇太子および同妃には長らく懐妊の兆候が無かったため、今上天皇の孫の世代に男子が皆無という状況は解消されず、皇位は男系男子による継承が絶える危機に直面していた。2003年(平成15年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮および同妃に)第三子を強く希望する」と発言した。[7]2006年(平成18年)の歌会始では、秋篠宮および同妃ともに前年9月24日のコウノトリ放鳥に関する和歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、第三子を望む気持ちがあったと考えられている[8]

2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、同妃紀子の懐妊がスクープされる。当日は文仁親王は公務で我孫子市におり、夫・文仁親王が報告を直接受ける前の報道となった。2月25日に宮内庁から懐妊が正式発表された。

同年9月6日、皇室史上初の帝王切開により悠仁親王が誕生。皇室においては文仁親王自身の誕生以来、実に41年ぶりの男系男子誕生である。

また、2001年(平成13年)から東京農業大学で学生指導を開始。2006年(平成18年)からは非常勤講師を務め、2008年(平成20年)より秋篠宮妃紀子の弟が講師を務める東京農業大学大学農学部バイオセラピー学科客員教授に就任。2年後の2010年(平成22年)3月まで務める予定である。2007年からは東京大学総合研究博物館特招研究員。

2011年11月15日、今上天皇が入院中で皇太子徳仁親王が長野県訪問中の為皇位継承順位に基づき文仁親王が天皇の名代として初めて天皇の公務を務め、皇居・宮殿で秋の勲章受章者らと接見して天皇の言葉を代読し、皇居・御所で南アフリカのマックス・シスル英語版国民議会議長と懇談した。[9]

有栖川宮職仁親王から始まる有栖川流書道の伝承者でもある。

年譜[編集]

子女[編集]

秋篠宮妃紀子との間には、3子がいる。

系譜[編集]

文仁親王 父:
今上天皇
祖父:
昭和天皇
曾祖父:
大正天皇
曾祖母:
貞明皇后
祖母:
香淳皇后
曾祖父:
邦彦王久邇宮
曾祖母:
俔子
母:
皇后美智子
祖父:
正田英三郎
曾祖父:
正田貞一郎
曾祖母:
正田きぬ
祖母:
正田富美子
曾祖父:
副島網雄
曾祖母:
副島アヤ

外遊歴(平成以降)[編集]

1989年平成元年)
魚類の調査研究のため。
11月13日に崩御した同国侯爵フランツ・ヨーゼフ2世(リヒテンシュタイン大公)の葬儀参列のため。
1990年(平成2年)
動植物の自然保護区等を視察のため。
1991年(平成3年)
アメリカ合衆国からの「ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル」招待による。
1992年(平成4年)
魚類の調査研究のため。
秋篠宮および同妃への、スリランカ・パキスタン・インドからの国交樹立40周年を記念する各国訪問の招待、並びにタイからの同国シリキット王妃の還暦祝賀式典への招待による。
1993年(平成5年)
スペイン国王フアン・カルロス1世バルセロナ伯フアンの葬儀参列のため。
鳥類の調査研究のため。
1994年(平成6年)
鳥類の調査研究のため。
1995年(平成7年)
カセートサート大学名誉学位授与式、ブーラパー大学名誉学位授与式出席のため。
秋篠宮および同妃への、オーストラリアからの同国訪問の招待による。
1996年(平成8年)
前年7月18日に死去したタイ国王ラーマ9世生母シーナカリンの葬儀参列のため。
魚類の調査研究のため。
1997年(平成9年)
秋篠宮および同妃への、ネパール・ブータン両国からの訪問招待による。
秋篠宮および同妃への、メキシコからの同国で開催される「日本人メキシコ移住100周年記念式典」への招待、並びにジャマイカからの同国訪問の招待による。
1998年(平成10年)
秋篠宮および同妃への、フィリピンからの同国で開催されるフィリピン独立100周年記念行事「日本・フィリピン友好祭」への招待による。
鳥類の調査研究のため。
秋篠宮および同妃への、アルゼンチンからの同国で開催される「日本・アルゼンチン修好100周年記念式典」への招待による。
1999年(平成11年)
秋篠宮および同妃への、各国からの招待による。
秋篠宮および同妃への、ドイツからの同国で開催される「ドイツにおける日本年」への招待による。開幕式典臨席。
2001年(平成13年)
秋篠宮および同妃への、オランダからの同国コンスタンティン王子の結婚式への招待による。
秋篠宮および同妃への、カンボジアからの同国訪問の招待による。
シーナカリンウイロート大学名誉学位授与式、チュラーロンコーン大学名誉学位授与式出席のため。
鳥類の調査研究のため。
2002年(平成14年)
秋篠宮および同妃への、モンゴルからの同国訪問の招待による。
同年10月6日に死去した同国王配クラウスの葬儀参列のため。
2003年(平成15年)
眞子内親王、佳子内親王同行。同国シリキット王妃が72歳を迎えるに際しての祝意表明、並びにウボンラーチャタニー大学名誉学位授与式出席、家禽類に関する共同研究のため。
同妃紀子同行。秋篠宮および同妃への、各国からの招待による。
2004年(平成16年)
同妃紀子同行。同年3月20日死去した同国前女王ユリアナの葬儀参列のため。
2005年(平成17年)
同妃紀子同行。同年1月10日に死去した同国前大公妃ジョゼフィーヌ=シャルロットの葬儀参列のため。
家禽類に関する日タイ共同調査研究のため。
2006年(平成18年)
文仁親王への、パラグアイ国政府からのパラグアイ国日本人移住70周年を記念しての同国訪問の招待による。
2007年(平成19年)
私的訪問。タイ同国と共同で進めている鶏の研究に関する会議に出席、野生の鶏について現地調査・並びに同国のスラユット首相が理事長を務めるキングモンクット工科大学名誉学位授与式出席のため
私的訪問。眞子内親王同行。家畜や絶滅鳥の研究のほか、大統領や首相への表敬訪問、宮殿視察。眞子内親王の同行は国際的視野を広めるため。
2008年(平成20年)
秋篠宮および同妃への、インドネシア国政府から日本との外交関係樹立50周年を記念して行われる「日本インドネシア友好年」開会式の開催に際し、同国訪問への招待による。
2009年(平成21年)
公式訪問。日本とオーストリアの外交関係樹立140周年など、各国の交流の節目の年を記念する「日本・ドナウ交流年2009」の名誉総裁として、各国からの招待による。
公式訪問。日蘭通商400周年記念行事の開催で、日蘭協会の名誉総裁として、同国訪問への招待による。
2010年(平成22年)
眞子内親王同行。鳥類の調査研究のため。
2011年(平成23年)
秋篠宮および同妃への、コスタリカ国政府からのコスタリカと日本との外交関係樹立75周年を記念しての同国訪問の招待による。
2012年(平成24年)
秋篠宮および同妃への、ウガンダ国政府からのウガンダと日本との外交関係樹立50周年を記念しての同国訪問の招待による。
2013年(平成25年)
前年10月15日に死去した同国前国王ノロドム・シハヌークの葬儀に参列のため。

名誉学位[編集]

発言[編集]

  • 「火のないところに煙がたった」
1996年(平成8年)11月30日、誕生日会見にて、『週刊新潮』の記事に対して
  • 「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います」- 皇太子徳仁親王人格否定発言に対して
  • 「あくまでも私個人としては、自分のための公務は作らない。(中略)私は公務というものはかなり受け身的なものではないかなと。こういう行事があるから出席してほしいという依頼を受けて、それでこちらもそれが非常に意義のあることであればそれを受けてその務めをする。私自身はそういうふうに考えて今までずっと来ています」 - 公務の在り方について
以上、2004年(平成16年)11月25日誕生日会見にて
  • 「皇族の公的な活動というのは社会からの要請にこたえて行われるべきものであると思います」
  • 「皇族の役割の大事な一つは、天皇をサポートすることではないかと思っております」
  • 「私にとって非常に大切な友人で、信頼できる人物ですし、人柄も良い」- 妹婿で友人の黒田慶樹について
以上、2005年(平成17年)11月22日誕生日会見にて
  • 「自然界に帰すということは自然の中で危険を乗り越えながら自ら生きること、今回のことは残念ですが自然に帰すということはこのようなこともあるということです」
2006年(平成18年)春の園遊会にて、秋篠宮の放鳥したコウノトリが事故死し、井戸敏三兵庫県知事が謝罪した際[2]

逸話[編集]

誕生・命名に関するもの[編集]

  • 昭和天皇にとって7人目の孫で、2人目の内孫である。また、正田英三郎から見て4人目の孫である(叔母安西恵美子の長女、伯父正田巌の長男に次ぐ)
  • 守り刀は人間国宝高橋貞次が鍛えた。
  • 独立前には宮号の候補として、常陸宮家と同様に上総宮上野宮など、かつて親王が国司(守)となっていた関東の令制国親王任国)にちなんだものも検討されていたとされる。
  • 宮家創設後は宮号の由来である秋篠が脚光を浴び、同地への旅行が流行し「大和路ブーム」が起こった。また、同地にある秋篠寺技芸天像が同妃紀子に似ているという人々もいた。

人物像・事跡に関するもの[編集]

  • 宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。私はいつもご先祖様に話し掛けるつもりでお辞儀をしている」(1998年(平成10年)、江森敬治『秋篠宮さま』、毎日新聞社
  • 動物と触れ合うことを好み、東宮御所や御用邸の庭で蛇を捕まえて近臣に見せたなどというエピソードが伝わる。
  • 昭和天皇の崩御に際し、武蔵野陵の陵誌(一般の墓誌にあたる)を揮毫した。
  • 高松宮妃より有栖川流書道の伝承を受ける際には、「蜥蜴」などお手本にない文字の書き方を質問したという。
  • 母・皇后美智子の発言
    • 「小さい時からひじょうにものを深く感じる子供で、表面に出てくるのはさりげないけれど、それを自分なりに一生懸命考えているようなところは今も変わらないと思います」
    1985年(昭和60年)の誕生日の文書回答にて
    • 「礼宮は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります」
    2005年(平成17年)10月20日皇后の文書回答より)。
  • 宮邸の庭に様々な植物を植えている。同妃紀子がこれらの植物について詠んだ和歌も伝わる。
  • 2006年(平成18年)には伊勢神宮第六十二回式年遷宮を長女眞子内親王とともに視察し、御川曳に参加した[10][11]。なお、2007年の式年遷宮には兄宮である皇太子徳仁親王が参加している。
  • 宮内庁筋によるとパソコンはMacintoshを使っている。[12]

外遊に関するもの[編集]

  • 東南アジアを訪れることが多く、現地で泥の川に膝まで浸かりながら歩く姿なども書籍掲載の写真に残されている。
  • タイ国王室との縁も深く、成婚の折にはシリントーン王女が式に参列した。国内でも、タイ大使館の主催によるシリキット王妃の誕生日を祝うチャリティコンサートにも一家で列席している。
  • タイのほか、パラグアイなど日系人が多い南米諸国との関係も深い。訪日した日系人の団体が秋篠宮邸を表敬訪問したこともあり、この折には日系人とのかかわりを受け継がせたいとの秋篠宮および同妃の希望により眞子内親王が接見に同席した。
  • 2006年(平成18年)11月1日には日本人移住70周年を祝うため、悠仁親王誕生のため訪問が延期されていたパラグアイを訪問し、ABCなど地元大手紙でも大きく報道された。文仁親王到着の当日には、パラグアイ国中から多数の日系人が首都アスンシオンに集まり、彼を歓迎した。同国最初の日本人移住地であるラ・コルメナ1936年入植)をはじめ、各地で盛んに歓迎のセレモニーが行われた[13][14]

生物学に関するもの[編集]

  • 鳥類両生類ナマズの研究者としても著名で、また、『生き物文化誌学会』の設立に尽力。現在同学会常任理事。同学会誌『生き物文化誌 BIOSTORY』の編集委員でもある。「生物」ではなく「生き物」としたことには、カッパなどの伝説上の生物も含む意味合いを込めている。
  • 生物学への造詣が深く、学習院大学在学中から東京農業大学関連施設の財団法人進化生物学研究所家禽類研究に従事。大学卒業後はオックスフォード大学大学院動物学科に留学後、総合研究大学院大学博士 (理学)の学位を取得し、前述の『生き物自然誌学会』の常任理事の他に、東京農業大学農学部バイオセラピー学科客員教授、東京大学総合研究博物館特招研究員、総合研究大学院大学学融合推進センター客員研究員、『山階鳥類研究所』の総裁及び、『WWFジャパン』の名誉総裁も務めている。
  • 一般にはナマズの研究者として知られ、ナマズの殿下とも通称される。幼少時からナマズへの興味関心は深かった。2006年(平成18年)のパラグアイ訪問時には、現地固有種の1.5メートルを超す大型のナマズスルビ(淡白な味で、現地では重要な蛋白源である)を眺める姿が報道された他に魚類については今上天皇との共同研究も行っている。
    • それに関連して、成婚の折り、同妃紀子は婚約を記念する指輪(一般の婚約指輪)としてナマズの指輪を贈ったことが有名である[15]
  • の起源について8000年前のタイが起源であるという学説を唱えている。また2000年代にはタイ・中国・香港の鳥インフルエンザウィルスの遺伝子を調査し、関連性がないことを証明した。この論文は米国科学アカデミー紀要(PNAS: The Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)に発表され、同機関のウェブサイトにても閲覧することができる。

テニスに関するもの[編集]

両親と同じくテニスを趣味の一つとしており、その腕前は学生時代に関東でダブルストップ10に入る程であった[16]。1992年からは日本テニス協会の名誉総裁を務めており[17][18]全日本テニス選手権において表彰式や試合観戦、テニス国別対抗戦のデビスカップフェドカップの組み合わせ抽選会において名誉総裁として参加する他[19][20]ジャパン・オープン・テニス選手権東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント等の日本で開かれる国際テニス大会へはほぼ毎年観戦に訪れている事で知られている[21][22][23][24][25]

婚約に至る経緯[編集]

学習院大学在学時、一年下級の川嶋紀子(当時)と知り合い、サークル活動等を通じて交際を深めていた。

皇太子・明仁親王(当時)と同妃美智子(当時)は、既に紀子のことは知っていたが、礼宮は同年の12月に葉山で静養中の両親に紀子を会わせた。皇太子および同妃は、学習院大学馬術部の親睦会で紀子の父・川嶋辰彦と何度も顔を合わせていることもあり、紀子と皇太子および同妃の出会いは、とてもスムーズなものであったという[26]

それから間もなく明仁親王は「2人のことを前向きに検討してほしい」と当時の東宮職に指示をし[27]、職員たちも2人の交際を承知した[28]。一方でゴシップ記事として報道されるのを防ぐため、サークルにおいても離れて写真に写ったり、記者が近くにいる時は友人が割って入ったりしていたという。

1989年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との婚約内定が報道される。昭和天皇の喪中(大喪)であること、兄・徳仁親王がまだ独身である事、文仁親王自身が留学中の身である事から時期尚早との批判もあったが、両親や兄からの反対はなく、宮内庁は、挙式や結納に当たる「納采の儀」など晴れの儀式は、喪中はふさわしくないものの、皇室会議の開催は喪中でも差し支えないと判断している。

そもそも、皇室の服喪は三期に分けられ、第一期・第二期各50日の合計100日間を過ぎれば、その後の第三期は「心喪」という服喪形式がとられる[29]。心喪とは、この期間中、天皇はじめ各皇族は公の行事には出席するが、神事のみ遠慮するという形式の服喪である[30]。また、原則として結婚等の祝賀行事も行われないが、特別な理由があれば認められる[29]

また、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令をその後も踏襲していると考えれば、皇族の服喪期間は続柄によって期間が異なり、祖父である昭和天皇に対する礼宮の服喪期間は150日であることから、きちんと喪が明けた後に婚約発表が行われていることになる。ちなみに、過去において1例だけ服喪期間中の婚約発表があり、祖母である貞明皇后に対して同じ150日の服喪期間があった順宮厚子内親王池田隆政の婚約が内定した旨を、1951年(昭和26年)5月17日の貞明皇后崩御からわずか2ヵ月足らずの同年7月11日に、昭和天皇が自らの裁可で田島宮内庁長官に命じて公式に発表させている。昭和天皇崩御から8ヵ月後に皇室会議の決定として発表された礼宮の場合など、この事例に比べれば何の問題もないといった見解を宮内庁関係者は示している[31]

兄弟の結婚の順番が逆になることについても、天皇・皇后が子の意思を尊重する考えのため、宮内庁幹部も「一般家庭でもあることで、大きな問題ではない」と述べ[32]、元東宮侍従浜尾実も「高円宮は兄の桂宮よりも先に結婚しています。これも前例があり、全く問題外です」とインタビューで語っている。また、徳仁親王も1989年(平成元年)9月21日の会見で、「2人の間が不安定になっているのはよくないので、2人の結婚は私も強く勧めたところです」と述べた。

皇室会議では、海部首相が開会を宣言。藤森宮内庁長官が「大学のサークル、自然文化研究会や礼宮主宰のテニスクラブでの活動を通じて親交を深め、1985年(昭和60年)暮れには当時皇太子の天皇から『2人の交際を前向きに検討してほしい』とのご指示もあった」と交際の経緯や川嶋紀子の経歴、家族の略歴などを説明した。

1年間と服喪期間が最長である今上天皇などの喪が明け、皇族全員が服喪期間を終えた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した。皇室会議での可決を指して「婚約成立」であるとしている媒体も多く、「秋篠宮は昭和天皇の喪中に婚約会見を開いた」と言う者も存在するが誤りであり、納采の儀が正式な婚約成立である[33]。宮内庁は公式HPにおいて、納采の儀=ご婚約と記載している(例:文仁親王同妃両殿下のご略歴)。また、皇位継承順位の変更や皇族の婚姻等を合議するための皇室会議を開催する権限は内閣総理大臣にあり、2人の婚姻は、田村元衆院議長小野明参院副議長矢口洪一最高裁長官伊藤正己最高裁判事藤森昭一宮内庁長官福田一衆院議員三笠宮常陸宮の全員が満場一致で可決している。皇室会議での可決を受けた後の会見を誤って「婚約会見」だとしている媒体もあるが、宮内庁納采の儀が行われて初めて整う事としており[34]、皇室会議での承認のみでは正式な婚約であるとは認めていない。また、この皇室会議と婚約の違いについて天皇は、「礼宮の納采の儀は喪明けでなくてはならないが、皇室会議は喪中でもいいのではないでしょうか」という話を側近に語ったといわれる[35]

その他[編集]

  • 成婚を祝う記念番組の一部としてアニメ作品「平成のシンデレラ紀子様物語」も製作・放映(フジテレビ、秋篠宮および同妃の声は同局アナウンサー笠井信輔と、石川秀美が担当した)されている。
  • 政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもウェブサイトなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮」の表記も用いられる。
  • 『週刊ポスト』1989年4月7日号で「礼宮が兄・浩宮との待遇の差にショックを受け、皇籍離脱したいと発言した」、との記事が掲載されたが憶測記事であったことが判明した[36]。1989年(平成元年)9月21日に行われた公式会見で、徳仁親王は、「弟が皇籍を離脱すると言ったということが一部の雑誌などで取り上げられました。私たち家族としてはそういうことは一度も聞いたことがありませんで、非常にびっくりしたというのが事実ですが、その根拠は何だったのでしょうか。一つの雑誌が取りあげて、それを別の雑誌が引用して独り歩きをするということはやはり困ることだと思いますけれども」と発言した。
  • 2006年9月6日8時27分に東京都港区愛育病院で文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産した際、同病院の待合室に置かれたテレビでNHK連続テレビ小説純情きらり』(NHK総合テレビ)を視聴していたとされる[37]

著作[編集]

※鳥類・家禽関係の著書。

  • 『欧州家禽図鑑』(共著。写真と解説を執筆)平凡社、平成6年(1994年)、ISBN 4582518133
  • 『鶏と人―民族生物学の視点から』、平成12年(2000年) 小学館ISBN 4096260622
  • 『鳥学大全―「鳥のビオソフィア-山階コレクションへの誘い」』(編纂)東京大学総合研究博物館、平成20年(2008年)、ISBN 4130603507 大著
  • 『BIOSOPHIA of BIRDS(鳥のビオソフィア)』(編集)東京大学出版会、2008年、ISBN 4130831526 大著
  • 『日本の家畜・家禽 フィールドベスト図鑑』(監修・文)学研 平成21年(2009年)
  • 『ヒトと動物の関係学2 家畜の文化』(共編・文) 岩波書店、平成21年(2009年)
※このほか雑誌ANIMALにも推薦文を寄せている。

関連書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 日本経済新聞 1990年6月29日夕刊
  2. ^ 毎日新聞 1990年1月13日夕刊
  3. ^ 週刊文春』2006年2月23日号
  4. ^ 読売ウィークリー』2006年10月6日臨時増刊号・悠仁さま P.6
  5. ^ 博士論文タイトル:Molecular Phylogeny of Junglefowls,genus Gallus Monophyletic Origin of Domestic Fowls
  6. ^ 博士論文書誌データベース
  7. ^ ただし湯浅長官は半年前の6月の記者会見で、皇太子および同妃に対しても第二子を願う発言をしている[1]
  8. ^ 読売新聞 2006年2月8日「紀子さまご懐妊、コウノトリほほ笑む 歌会始、夫婦で詠まれ1か月
  9. ^ 秋篠宮さま初の天皇名代務める 叙勲受章者らと面会” (日本語). 共同通信 (2011年11月15日). 2012年1月9日閲覧。
  10. ^ 伊勢新聞 2006年7月31日
  11. ^ 伊勢志摩経済新聞 2007年5月15日「華原朋美さんが伊勢神宮のお木曳に参加、一時パニックに」にて文仁親王親子の参加が言及
  12. ^ [「皇太子ご夫妻はPCが趣味。秋篠宮はマック派」と宮内庁筋 http://www.news-postseven.com/archives/20111204_73021.html]
  13. ^ 移住者にねぎらいの言葉=パラグアイ=秋篠宮さまラ・コルメナご訪問=勤勉さや不屈の精神讃える” (日本語). ニッケイ新聞 (2006年11月7日). 2012年1月9日閲覧。
  14. ^ 政府支える人材育成を=パラグアイ=秋篠宮さま日パ学院ご視察” (日本語). ニッケイ新聞 (2006年11月8日). 2012年1月9日閲覧。
  15. ^ 入倉康ジュエリー工房” (日本語). Die Presse. 2012年1月9日閲覧。
  16. ^ Österreich-Japan-Jahr: Prinzenpaar auf Donau-Tour” (ドイツ語). Die Presse (2009年5月11日). 2012年1月9日閲覧。
  17. ^ 日本テニス協会公式サイト - ミュージアム:伊達、松岡、テニス新世代の登場”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
  18. ^ 文仁親王同妃両殿下 - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  19. ^ 秋山英宏. “日本はシングルスに添田と鈴木を起用”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
  20. ^ 中俣拓哉. “秋篠宮殿下のご臨席を賜り、抽選会がおこなわれました。”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
  21. ^ 文仁親王同妃両殿下のご日程:平成16年(10月~12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  22. ^ 文仁親王同妃両殿下のご日程:平成17年(10月~12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  23. ^ 文仁親王同妃両殿下のご日程:平成18年(10月~12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  24. ^ 文仁親王同妃両殿下のご日程:平成17年(1月~3月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  25. ^ 文仁親王同妃両殿下のご日程:平成18年(1月~3月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
  26. ^ 江森敬治『秋篠宮さま』
  27. ^ 礼宮さまと紀子さん、学習院入学直後に書店の出会い 1989年9月12日 読売新聞
  28. ^ 日本経済新聞 1989年9月12日
  29. ^ a b 読売新聞 1989年1月7日夕刊 「新天皇、1年間の服喪 国事行為は平常通り」
  30. ^ 村上重良編『皇室辞典』
  31. ^ 江森敬治『秋篠宮さま』84頁
  32. ^ 読売新聞 1989年8月26日
  33. ^ 読売新聞 1989年8月27日社説
  34. ^ 朝日新聞 1989年9月12日
  35. ^ 清水一郎・畠山和久監修『平成の皇室辞典』P159
  36. ^ 『週刊朝日』1989年4月21日号
  37. ^ 当時の各メディアの報道より

外部リンク[編集]