北アフリカ戦線
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| 北アフリカ戦線 | |
|---|---|
進撃するドイツアフリカ軍団 |
|
| 戦争:第二次世界大戦 | |
| 年月日:1940年9月13日~1943年5月13日 | |
| 場所:北アフリカ北岸 | |
| 結果:連合軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 損害 | |
| アメリカ兵16,000 イギリス兵35,359 捕虜79,978 合計131,337 |
ドイツ兵102,860 イタリア兵850,000 合計950,000 |
北アフリカ戦線は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアでの戦いまでを指す。エジプトからアルジェリアまで、北アフリカ北岸で行われた。
目次 |
[編集] 概要
第二次世界大戦の中でも非常に特異な戦場である。砂漠地域での戦いであり、その地形を利用した大胆な機動戦が行われた。同時に両軍の戦力や補給量の問題により、戦線が短時間で大きく移動した。
アフリカで苦戦するイタリア軍への援軍として送り込まれたドイツアフリカ軍団の指揮官であるエルヴィン・ロンメル大将は、少数の派遣軍という劣勢な状態ながら地理・気候を利用した巧みな用兵で連合軍を翻弄したことから「砂漠の狐」と呼ばれ、北アフリカ戦線での働きが認められてドイツ国防軍最年少の元帥となった。
[編集] 経緯
[編集] 1940年秋 イタリア軍のエジプト侵攻
当時のイタリア政府は東アフリカ戦線への助勢を必要としており、またイギリス本土への攻勢を控えたドイツ政府より度々北アフリカ駐留英軍への攻撃を要請されていた。イタリア軍上層部は装備や補給面での不足から慎重な行動を求めたが、ムッソリーニは軍の反対を押し切る格好で、1940年9月13日、軍にイタリア領リビアからエジプトへの進軍を命じた。
作戦を開始したグラッツィアーニ元帥は兵員8万人からなる伊第10軍(5個師団基幹)を戦地に投入し、イギリス軍が撤退を行ったこともあって、順調に進撃し国境より100kmほど東のシディ・バラニを占領した。しかし、徒歩移動の部隊が大勢を占め、かつ補給が慢性的に不足したため、そこで進撃を停止した。その結果、十分な機械化と補給を受けたイギリス軍3万人は優位に戦いを進めた。
[編集] 1940年末 イギリス軍の反攻(コンパス作戦)
イタリア軍は、シディ・バラニに留まったままであったが、その間にイギリス西部砂漠軍(第7機甲師団、第4インド師団)は兵員6万人を投じて、1940年12月9日よりオコンナー将軍によって、大規模な反攻作戦であるコンパス作戦を開始される。
イギリス軍の圧倒的な機甲戦力の前にまともな機甲戦力や機械化部隊を持たないシディ・バラニの伊軍3万8000人は成す術も無く包囲され壊滅、後方のバルディアに展開していた残余部隊もムッソリーニの死守命令の元、半月近い激戦の末に降伏した。その後、これを好機と見てリビアにまで足を伸ばした英軍に対し伊第10軍は徒歩での後退戦闘を続けた末にペダ・フォムで英軍の機械化部隊によって完全に包囲される。伊第10軍は2月7日に決行された包囲突破を目的とする最後の突撃をもって壊滅、第10軍指揮官のベルティ将軍は戦死し、駐留軍の総指揮官も辞意を伝えたグラッツィアーニ元帥に代わり、ガリボルディ将軍に引き継がれた。
緒戦において、イタリア軍は将兵23万人中、捕虜13万名を出す敗北を喫し、イギリス軍は勢いに乗じ、リビアに侵入する。1941年2月までにトブルクやバルディアなどキレナイカ地方はイギリス軍が占領した。そこで、イタリアの要請を受けたドイツが支援を開始、ロンメルがその責任者として北アフリカに派遣されることとなった。
[編集] 1941年から1942年6月 ドイツ軍の参加とトブルクの攻防
1941年2月にイタリア軍支援のためにエルヴィン・ロンメルを指揮官とするドイツアフリカ軍団が編成され、リビアに送られた。ロンメルは3月には反攻を開始し、4月にはベンガジを奪回、イギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げた。
ドイツ軍はイギリス軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの、補給の不足などにより陥落させることはできなかった。イギリス軍はトブルクの解囲を目指し、5月にブレビティ作戦、6月にバトルアクス作戦を行うも失敗。11月にクルセーダー作戦でもって、解囲に成功した。
一時、エル・アゲイラまで撤退した枢軸軍であったが、1942年1月には反攻を開始、1942年5月にはトブルク西方でガザラの戦いを行った。これにイギリス軍は敗北し、トブルクは枢軸軍が占領した。
[編集] 1942年7月から1942年10月 エル・アラメインの戦い
ガザラの戦いに敗北したイギリス軍は、エジプト領内に撤退し、カイロの西、エル・アラメインに防御ラインを設定した。1942年7月1日には、ドイツ軍との戦闘(エル・アラメインの戦い)が開始されたが、ドイツ軍の戦力不足により戦闘はこう着状態に陥った。
1942年8月にイギリス軍はエル・アラメインの防御にあたっていたイギリス第8軍の指揮官にバーナード・モントゴメリーを任命した。モントゴメリーは早期反攻を否定し、戦力の充実につとめた。1942年10月24日よりイギリス軍はスーパーチャージ作戦を開始する。この攻撃に枢軸軍は敗退し、リビアへの撤退を開始した。
[編集] 1942年11月から1943年5月 チュニジアの戦い
1942年11月8日に連合軍はトーチ作戦によりモロッコとアルジェリアに上陸、北アフリカの枢軸軍を西から攻撃することを開始した。1943年1月に枢軸軍はチュニジアに集結し、東西から連合軍の攻撃を受けた。この戦いは5月まで続いたが、枢軸軍の壊滅という形で戦闘は終結、ここに北アフリカ戦線は消滅した。
[編集] 1943年7月~連合軍イタリア上陸
詳細は「地中海の戦い (第二次世界大戦)」を参照
1943年7月10日より連合軍はイタリアのシチリア島へ上陸した。ドイツ軍は果敢に応戦したが、2ヵ月後の9月8日にはイタリア全域が占領され降伏した。

