ティーガーI

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ティーガーI
Bundesarchiv Bild 183-J14953, Sizilien, Panzer VI (Tiger I).jpg
シチリア駐留の第504重戦車大隊第2中隊の初期型ティーガー(1943年)
性能諸元
全長 8.45 m[1]
車体長 6.316 m[1]
全幅 3.705 m[1]
全高 3 m[1]
重量 57 t(戦闘重量)[1]
懸架方式 トーションバー方式[1]
速度 40 km/h[1]整地
20-25 km/h[1]不整地
行動距離 整地100 km、不整地60km[2]
主砲 56口径8.8 cm KwK 36 L/56(92発)[1]
副武装 7.92 mm MG34機関銃×2[1]
装甲 前面 100 mm
側面および後面 80 mm
上面および底面 25 mm[1]
エンジン マイバッハ HL230 P45
水冷4ストロークV型12気筒ガソリン[1]
700hp
乗員 5 名
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ティーガーI とは、第二次世界大戦ドイツ国防軍武装親衛隊が使用したVI号戦車(制式名称 Panzerkampfwagen VI Ausf. E (Sd Kfz 181) )の通称である。1942年後半からナチス・ドイツが降伏する1945年まで第一線で活躍した重戦車である。一般にはタイガー戦車という英語読みで広く知られている。登場直後から乗員の間で「無敵の戦車」と呼ばれ、伝説化した。書籍における日本語表記は「六号重戦車」「虎号戦車」に始まり、英語読みの「タイガー」やドイツ語での発音の一つである「ティーゲル」が多く見られたが、1970年代後半頃から、現代ドイツ語の音に近い「ティーガー」が見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。

目次

設計 [編集]

ティーガーI はこの戦車が登場する以前のドイツ戦車と比較し、主にその設計哲学において異なっている。これ以前のドイツ戦車は機動力と装甲、砲力のバランスを重視したものであった。当時、ドイツ軍において最強の砲火力を持つ戦車は、50mm砲装備のIII号戦車であり、これに対して敵戦車の火力が上回ることもあったが、ドイツ軍は優れた戦術でこの不利を跳ね返した。

設計哲学上、ティーガーI はそれまで重視されていたバランスを捨て、機動力を犠牲にして火力と装甲を強化した重戦車である。開発当初、VI号戦車となるべく1937年に作られたDW I、及び翌年作られたDW II、さらに後者を発展させたVK 3001(H)が1941年までに3輌試作されたが、これらの開発は中止となり、より大型のVK 3601(H)の開発が優先された。この車輛はヘンシェル社が開発を行っていたものである。VK 3601(H)には、距離1,400mで100mm厚の装甲を撃ち抜く能力と、前面装甲100mmの防御が要求された[3]。この要求は、この後ドイツ軍が遭遇したT-34との戦訓に由来するものではなく、フランス戦で遭遇したルノーB1マチルダII歩兵戦車などの連合軍重戦車との戦訓によるものであった。III号戦車、IV号戦車の搭載する短砲身砲が、イギリスフランスの戦車を撃破するには非力なことは明白で、アドルフ・ヒトラーはこの貫徹力性能の不足に不満を持ち、1941年5月26日、新型戦車開発の命令を下した。この新型戦車は、従来の戦車よりも強力な主砲と装甲を持っていることとされ、また、攻撃の先頭に立ち、敵の陣地を突破できることが要求された[4]

ヘンシェル社のVK3601(H)に搭載する予定であったゲルリッヒ砲の開発は、弾芯に用いるタングステンの不足を理由に中止された。VK3601(H)が要求を満たすには、新規に8.8cm高射砲を改造した戦車砲を搭載することが考慮されたが、これを実現するにはターレット幅の拡大、車体の大型化などの変更を行わざるを得なくなった。そこでヘンシェル社ではVK3601(H)の拡大版として新規にVK 4501(H)を設計することとし、これが後にティーガーI として採用された。砲塔には、並行してポルシェ教授がクルップ社で開発していたVK4501(P)の設計を用いた。これは開発期限に間に合わせるためのやむを得ない処置であった[5]。こののち、VK4501(P)は、1942年7月27日にクンマースドルフで行われたVK 4501(H)との比較審査において性能を満たさず、最終的に開発が中止された[6]

ティーガーI の車体形状とレイアウトはIV号戦車によく似ていたが、戦闘重量57tと二倍以上の重さがあった。これははるかに厚い装甲と大口径の主砲を備えていることに加えて、この重量を駆動させるために必然的に大きくなる540リットルの燃料タンクと92発の弾薬格納庫、更に大きなエンジン、強固な変速機とサスペンションを備えた結果であった。

1943年、チュニジアで米軍に鹵獲された第504重戦車大隊第1中隊の初期型
第1SS装甲師団のティーガー

IV号戦車の前面装甲は初期型で20mm、強化されたF型でも50mmに過ぎない。対してティーガーI の車体前面装甲は100mm、鋳造製の砲塔前面は120mm、側面と後面装甲の厚さも80mm、側面下部は60mm、上面と底部の装甲の厚さは25mmである。後に砲塔の天蓋の装甲は40mmに強化された。車体装甲は直線を多用した鋭角的な形状を用い、ソ連戦車またはアメリカ戦車に見られる鋳造形式の滑らかな曲線は見られない。これは装甲にほぼ平板な圧延装甲板を用いているためである。戦車に避弾経始の概念の用いられる前の設計で、車体前面、側面とも砲弾の直撃に対して装甲を斜に構えるような配置は行われていない。砲塔側面は筒状に構成されて曲面を実現し、被弾に対してより優れた防御力を持っている。この側面装甲は曲げ加工したものを連結して作られていた。車体、砲塔とも、装甲の接合にはリベットではなく、同時期の他のドイツ戦車同様の溶接による高品質のものであった。IV号戦車では車体の構成に際し、基本フレームに組みつけていく方法をとったが、ティーガーI では基本フレームを用いず、装甲板同士を直接嵌合し、溶接して組む構成であった。

東部戦線でのティーガー(1943年6月)

ティーガーI の57tの全重は、当時のほとんどの橋梁の荷重制限を超えていた。このため本車は4mの深さまで水中を走行できるよう設計された。水中でのエンジンの吸気と冷却のため、機関室後部上面に高さ3mの伸縮式吸気筒を装備し、ハッチと各種接合部には防水シールが施された。潜水は2時間半程度まで可能だった。車内への漏水は汚水排出用ポンプで排出された[7]。この潜水機能の獲得のためには車体に完全な水密構造が求められ、生産に手間がかかった。さらに水中走行の準備には30分かかり、砲塔と主砲は真正面の位置に固定し、開口部には防水カバーや栓、また隙間にはゴムによる密閉を行い、車体背面にはシュノーケルを立てる必要があった。この潜水機構は495輌生産された極初期型に搭載されたが、ごく一部のみの装備にとどまり、後の生産型では廃止された。潜水装置を用いない渡渉では1.6mないし1.2mまでの深さを渡ることができた[8][9]

SS第101重戦車大隊のティーガー

ティーガーI の後部には機関室が設けられている。機関室中央にエンジンを配し、その両側のスペースには燃料タンクとラジエターおよび2基ずつのファンが配置された。機関にはガソリンエンジンを採用した。これは排気量21リットル、シリンダーが60度に配置されたV12型液冷エンジンのマイバッハHL210P45で、最高出力は650馬力であるが57tのこの巨体には充分でなかった。この機関は250輌目に生産されたティーガーI から換装され、最高出力が700馬力に改良されたHL230P45が搭載された。エンジンのエアフィルターには油性湿式のものが用いられた。ほか、アフリカ戦線やロシア南部に配備された車両には乾式のファイフェル型フィルターが装備された。これは機関室リアパネルの外側上部に取り付けられており、冷却用吸気口とパイプで接続している。この乾式フィルターは1944年初頭に廃止された[10]。ガソリンエンジンはディーゼルエンジンにくらべて燃料が発火しやすく、防御上極めて不利だが、加速性能は同等の排気量のディーゼルエンジンより良好であった。エンジンの始動には車体のリアパネルに設けられた穴を通して、クランク、またはシュビムワーゲンの後部のプロペラシャフトと連結、もしくは小型の始動用の外部エンジンで始動した。エンジンの交換は、機関室上面に設けられた、グリルのあるハッチを開いて機関を吊り上げ、車外に搬出した。火災に備えて機関室には自動消火装置が装備された。電気検知式の温度センサーを備えており、摂氏160度以上で作動、消火剤を約7秒間放出する[10]

東部戦線におけるティーガー(1943年)

重さ11tの砲塔は、エンジンから動力供給される油圧装置を通じて動かされ、エンジン回転数が1,500回転の場合には全周旋回に1分かかった。これはこの戦車の欠点の一つで、そのため近接移動する敵戦車を取り逃がすことがしばしば起きた。エンジンの回転数と砲塔の旋回速度は比例した。機力旋回のほか、戦車長と砲手はハンドルを用いて砲塔を人力旋回させることができた。砲手はフットペダルによって砲塔の旋回を操作した。履帯へ動力を伝達する起動輪は車体最前部に設けられた。ティーガーI に採用されたトーションバーサスペンションは現用戦車にも採用されている先進的な構造であり、床下に横置きに納められた16本のトーションバーから構成された。このトーションバーは棒ばねを捩じる働きで衝撃を緩衝する。直径は58mmから55mm、長さは1,890mmである。床下のスペースを節約するため、棒ばねと転輪を接続する部分であるスイングアームは左側で前向き、右側で後ろ向きに配置されていた。それぞれのトーションバーには、ピッチングを減衰するため一方向に作動する緩衝器がついている。これは車体内部に設けられた[11]。一本のスイングアームには三枚の転輪がついており、不整地でも良好な走行性能を発揮したが、生産コストが高かった。転輪の直径は80cmで差込式だった。また接地圧を分散し低減するために千鳥式配置を採用したが、この転輪と転輪とを挟み込むように配置する構成はいくつもの問題を抱えていた。内側の転輪から(よくあることだが)ゴムリングが外れ、この転輪を外して修理する必要が生じた場合、この転輪を挟み込んでいる外側の転輪のいくつかまで外さなければならず、整備時には大きな負担となった。また転輪は泥や雪が詰まって凍り付いて動かなくなることがあり、車体最前部の最も外側にある第一転輪を外す車両もあった。ソ連軍はこの足回りの凍結という欠点につけこみ、しばしば厳冬期にティーガーI がすぐに稼動できない早朝に攻撃を行った。さらにゴム自体に耐久性がなく、常時交換の必要がつきまとった[12]。ティーガーI の後期型からは、内側にダンパーゴムを付けた新しいスチールリムホイール(鋼製転輪)が採用され、後に生き残った初期・中期生産型にも換装して使われている。鋼製転輪は従来の転輪に比べてゴムの消費が少なかった。

ティーガーI に用いられた履帯の幅は、大重量を分散して良好な接地圧を得るために前例のない725mmの幅が採用された。この大きな履帯の採用には問題が生じた。車幅に制限のある鉄道輸送に際してティーガーI の車体がはみ出し、そのままでは輸送できなくなったのである。これに対処するため、最も外側に位置する転輪を外し、520mm幅の輸送用の履帯をつけて鉄道輸送を行った。履帯は乾式で、一本のピンにより連結される。片側96枚、約3tを連結した。接地圧は1.05kg/平方cmである[13]。履帯の交換には、熟練した乗員の場合で約25分を要した[14]

ティーガーI の内部構造は一般的なドイツ戦車と同様であった。機関を後部に配し、主変速機と操向変速機およびブレーキを車体前部に配した。砲塔は車体中央部に位置する。後方から見て車体前部左側に運転手席、右側に無線手席を設け、車体中央の戦闘室には戦車長、砲手および装填手を配した。戦闘室は防火壁を介して機関室とは完全に隔離されており、機関室の騒音を遮蔽し、防熱上有利だった。戦闘室には一段高くなった床と、砲塔と連動して旋回する砲塔バスケット(砲塔壁面と連結した三本の支柱で吊られた円形の床)が設けられており、砲塔の回転とともに砲備品や乗員も回転した。砲塔バスケット上に立つ装填手は、容易にスポンソン(履帯上の車体側面の張り出し)に搭載されている8.8cm砲弾薬をかかえ出すことができた。砲塔内部左側には砲手が座り、車長はその後ろに位置した。装填手は砲を挟んだ砲塔右側に立って作業を行うが、走行時に腰掛ける専用の折りたたみ式ベンチもあった。また床から砲塔天井までの高さは157cmだった。ターレットリンクの直径は1,850mmである。砲塔には側面に脱出用ハッチが設けられている。このハッチは厚みが80mmあり、開閉にはかなりの筋力が必要だった。また戦車長用のスリットやコマンダーハッチのキューポラの形状は当初単純な筒型だったが、防御上不利なため、後期型ではパンター同様の伏せられた椀のような避弾経始に優れる形に改良された。

ティーガーI に採用された主砲の砲尾と点火機構は、有名なドイツ軍の8.8 cm 高射砲のものが用いられた。8.8 cm Kwk 36L/56砲はティーガーI のための改造版であり、ティーガーII の8.8 cm Kwk 43L/71とともに第二次世界大戦半ばまでは最も威力があり、終戦まで連合軍に恐れられた戦車砲であった。ティーガーI の主砲は弾道が非常に低伸するものであり、照準機には極めて正確なツァイスのTZF9b照準機を装備していた。砲弾は、被帽徹甲弾である8.8cmPzGr39、合成硬核徹甲弾である8.8cmPzGr40、また榴弾を主に使用した。8.8cmPzGr39は弾頭重量10.16kgで初速は810m/sである。射程2,000mで84mm、1,500mで92mm、1,000mで100mm、500mで111mmを貫通した。8.8cmPzGr40は弾頭重量7.5kgで初速は930m/sである。射程2,000mで110mm、1,500mで125mm、1,000mで140mm、500mで156mmを貫通した。ほかに成形炸薬弾である8.8cmHLGrが用意されており、全ての射程で90mmを貫通する性能を発揮した[15]。この砲の射撃の正確さに関し、戦時中にイギリスで行われた捕獲兵器の試射において、1 km の距離でわずか41 cm ×46 cm の大きさの標的に5回連続で命中させた記録が存在する。ティーガーI はしばしば1.6 km 以上の距離で敵戦車を撃破したと言われる。第二次世界大戦において大半の戦車戦闘は遥かに近距離でなされていた。

ティーガーI に見られるその他の新たな機構は、油圧式のプリセレクターギアボックスとセミオートマチックトランスミッションである。ティーガーI の駆動力は、後部のエンジンから床下のカルダンシャフトを通じて車体前部の主変速機へ送られ、減速されたのちにステアリング操作をつかさどる操向変速機へと分配される。この操向変速機での動力の分配の調節により戦車は方向を変え、またはカーブしたり、後退前進を切り替える。この操向変速機から出力される動力は、さらに最終減速機へ送られ、減速されたのちに起動輪へつたえられる。起動輪は履帯を駆動させる。ティーガーはその大重量から、より軽量の車両に使われるクラッチとブレーキではなく、イギリスのメリット-ブラウン式のシングルラジアス機構の改造版が使用された。ティーガーI の操向変速機は二つのラジアス(半径)を持つヘンシェル製L600Cが用いられた。これはそれぞれのギアで二通りの一定半径での旋回が可能であり、一速での最小旋回半径は4m、構造的に超信地旋回も可能であった。マイバッハ製の「OLVAR」OG40-12-16主変速機は前進8速だったので、操向変速機によるステアリングには16通りの旋回半径があり、もし旋回半径を小さくしたければブレーキが使われた。後進は4速が用意された。これらのギアは手動のレバーで段を選択するもので、レバーに連動して油圧回路が閉鎖または解放され、変速は油圧によって自動的に作動した。メインクラッチは湿式多板を使用した。ステアリング操作はレバーではなく、ハンドル(ステアリングホイール)でおこなわれ、パワーステアリング式のため操作にはほとんど力がいらなかった。走行用のブレーキ、また操向変速機用のブレーキにはディスク方式が用いられた[16]。ティーガーI の操縦機構は操作しやすく、当時使用されていた戦車の中では先進的なものであったが、本戦車は全体としては機械的に欠点がないとは言い難かった。

ティーガーの機械的信頼性はその57tの車重により大きく損なわれた。この過大な重量はサスペンションに負荷をかけたが、これは複雑で修理が困難だった。複雑な変速器と操向装置は、実戦で大きな負荷をかけると壊れやすかった。そのため移動は基本的に列車で行われた。もし、行軍の必要がある場合は低速で行動しなければ、ブレーキやトランスミッションが著しく消耗し、肝心の戦闘ができなくなった。適切なオーバーホールや整備を受けない車輛は簡単に故障を起こして使用不能となった。また巨大な重量を受ける履帯、転輪、起動輪、変速機は消耗が大きかった。重量過大なことから履帯は破損しやすく、粗い運転や不適切な地形での走行で屈曲、切断などの故障を起こした。大重量を駆動させるエンジンも損耗が激しく、しばしば過熱や火災を起こした。後に機関室には温度の上昇を検知して自動的に作動する自動消火装置が装備された。これらの故障、整備に対して要する労働と時間は乗員や整備大隊を大きく拘束した。故障を起こして動けなくなったティーガーI の回収は厄介な(特に敵前において)作業であった。もし、ティーガーI が動けなくなったティーガーI を牽引すると、エンジンはしばしばオーバーヒートし、故障や発火の原因となった為、ティーガーI が僚車を牽引することは禁じられた。駆動輪は低い位置にあるため、あまり高い障害物は乗り越えられなかった。操縦手が粗雑な運転をすれば、履帯はしばしば駆動輪から外れ、すぐに行動不能となる悪い傾向があった。履帯が外れて絡まった場合、2輌のティーガーI が牽引のため必要になった。からまった履帯は緊縮がきつくて軸を抜いて外すことができなくなり、その為履帯を爆破、またはトーチによって熔断して外さなければならないこともあった[17]。ドイツ軍最大の重牽引車である18t半装軌式牽引車(制式番号:Sd Kfz 9, FAMO社)を用いても、1台ではティーガーI を牽引できず、しばしば3台をワイヤーで連結しなければならなかった。一線部隊では、このような回収車両の手配の労や切迫した戦闘状況などから、禁止命令にもかかわらずティーガーI で牽引を試みた場合もあった。平地においてさえ難渋するティーガーⅠの回収は窪地や泥濘にはまった際などは数両の牽引車を必要とした。更に自身が大重量と強力なブレーキを持つ他のティーガーⅠ 2両をカウンターウエイトとして連結しなければ牽引車が転覆する恐れもあった。

ティーガーI は、第二次世界大戦に投入された戦車において重装甲かつ強力な砲を持つ戦車の一つであり、連合軍戦車の強敵だったが、設計は保守的でいくつかの重大な不利があった。車体とその装甲板は避弾経始の概念が採用される前の設計のため、ソ連のT-34やパンターのように傾斜を取り入れないほぼ垂直の面構成で作られた。そこで充分な防御力を与えるために厚くて重いものとなった。更に生産コストが非常に高かった。第二次世界大戦中に50,000輌弱のアメリカシャーマン戦車と、58,000輌のソ連のT-34戦車が生産されたのに比べ、ティーガーI はわずか1,350輌、ティーガーII は480輌(1945年1月までに417輌)程度に過ぎない[18]。ドイツ戦車の設計は複雑で、連合軍戦車に比べ生産コストの面でいずれも高くついたが、ティーガーI はパンターの約2倍、III号戦車の約3倍、III号突撃砲の約4倍も高価だった。ティーガーI の性能に匹敵する敵戦車は、アメリカのM26パーシングとソ連のIS-2スターリンであるが、これらは大戦中に、前者は約700輌(うち実戦参加は僅か20輌、最終的な生産数は約2,200輌)、後者は3,600輌(うち85mm砲搭載のIS-1が105輌)が生産された。

設計の歴史 [編集]

兵器局から陣地突破用重戦車の開発を依頼されたヘンシェル・ウント・ゾーン社は、1937年春から前述のDW I、DW II、VK 3001(H)を開発した。いくつかの試行錯誤を経て、1941年にヘンシェル社と他の三社(ポルシェMANダイムラーベンツ)は75mm主砲を持つ35t型戦車の設計を提出したが、これらの計画は、主砲を8.8cm戦車砲に変更した総重量45トンのVK 4501(H)に取って代わられた。この製作案は1941年5月26日にヒトラーのバイエルンの山荘イーグルネストで行なわれた兵器の基本的問題を討議する会議で決定されたとされる。この会議は独ソ戦開始の直前であり、このことからもティーガーI がいわゆるT-34ショックで開発されたものではない[19]

その後、バルバロッサ作戦でドイツ軍が遭遇したソ連のT-34は、既成のドイツ戦車を時代遅れのものへ変えた。ヘンシェル社の設計技師だったエアヴィン・アーダース(Erwin Aders)は「ソ連軍の戦車が国防軍のどの戦車よりも優れていると判った時は皆仰天した」と語っている。ティーガーI はそれまでの試作重戦車を拡大した設計であって、後のパンター戦車と異なり、T-34と遭遇したうえでの機械的比較や戦訓をもととした、傾斜装甲などの革新的な設計は取り入れられていない。しかしながら装甲の厚さがこれを補った。

ティーガーI の生産を行うヘンシェル社工場

ポルシェ社とヘンシェル社は試作車の設計案を提出し、実際に製作された車両は1942年4月20日のヒトラーの誕生日に、ラステンブルクにおいてヒトラーの前で比較された。ポルシェ案のVK4501(P)は、故障の多かった変速機を省略するため、エンジンで発電機を廻してモーターを駆動する電気駆動方式を採用し、サスペンションも外部にトーションバーを配置する簡易な設計であった。ヒトラーはこれに関心を示したが、モーターには不足していた銅を大量に必要とするためもあって堅実なヘンシェル案が採用された。ティーガーI ことVI号戦車E型の量産は1942年8月に開始された。なお既にポルシェ案の車体も90輌先行生産されており、これを流用してフェルディナントまたはエレファントとして知られることになる重駆逐戦車が製造された。

ポルシェティーガーには、通常に広く知られているティーガーI(ヘンシェル社型)と比較して多くの相違点が存在する。この戦車の砲塔は車両半分より少し前に配されており、砲塔の形状もヘンシェル社製のものと異なり、操砲時の俯角をとるため、中央部分に突起したクリアランスが設けられている。また、ヘンシェル社製のものと比べると、モーターを搭載する分、全長が約1m長く、全幅と全高は少しずつ低い。出力ロスの多いモーター駆動のために最高速度も3km/hほど低かった。電気駆動を採用した結果、機関室が大型化し、また空冷ガソリンエンジンの出力は不足していた。この巨体を動かすには相当大きな電力が必要であったが、平地の走行実験では、電力を供給するコードが焼け、エンジンから煙が出るなどの結果となった。改良を加えてから、下り坂で走行実験をしたところまたしてもコードが焼け、砲塔を旋回させても大電流にコードがもたず、即座に中止となった。放っておいても砲塔は重力に引かれて下を向くという結果となった。ポルシェティーガーの一応の期限は1942年4月20日であり、この日にはヒトラーの査閲を受けるため完成が目指された。しかしエンジンが完成して届いたのは4月10日であり、列車で運ぶ途中にも必死で溶接作業をし、やっと完成して到着したが、満足に行動できないという結果となった。このような過程を経てヘンシェル社の車輛が選定された。後、東部戦線に配備された重駆逐戦車部隊の中に、指揮戦車として数輌のポルシェティーガーが配備された。

当初は Pzkw VI Ausf. H の名称で開発されたが、後に Ausf. E と変更された。制式番号はSd.Kfz.181 である。「ティーガー」の愛称はフェルディナント・ポルシェ博士による命名であった。

ティーガーI は、実質的に試作のまま大急ぎで実戦に投入されたため、生産期間中にわたって大小の改良が続けられた。まずコストを削減するため、初期型にあった潜水能力と外部取り付けのファイフェル型エアフィルターが省略された。防弾ガラスのはめられたスリット式の車長用ハッチのキューポラをペリスコープによる間接視認方式の安全なものに交換したものが中期型、緩衝ゴムを内蔵した鋼製転輪に変更したものが後期型と、後年の研究者によって分類されている[20]。また、修理に戻された本車の一部は、後にシュトルムティーガーに改造された。

本車の運用に当たる戦車兵などの兵士用に製作されたマニュアル『ティーガーフィーベル』は、ティーガーIを「エルヴィラ・ティーガー」という女性に擬人化し(挿絵つき)、兵士のキャラクターがその世話をしながら口説くための恋愛入門書という図式でティーガーI の運用法を解説していた。

生産 [編集]

ティーガーI の生産は1942年8月に始まり、1944年8月の生産終了までに1,355輌が生産された。当初月産25輌のペースは1944年4月には月産104輌まで増加していた。保有台数は1944年7月1日に671輌に達したのが最高だった。通常、ティーガーI の生産には他のドイツ戦車の2倍の時間がかかった。改良型のティーガーII が1944年1月に生産開始されると、ティーガーI の生産は徐々にライン上から外された。

バリエーション [編集]

ティーガーII
ティーガーII
Panzerkampfwagen VI Ausführung B "Tiger II" (Sd.Kfz.182)
ティーガーIの発展型。更なる重装甲、重武装が施されている。ティーガーI の後継車輌として生産された。
ヤークトティーガー
Jagdtiger (Sd.Kfz.186)
ティーガーIIをベースに開発された、128mm砲を搭載した駆逐戦車
Gerät 809
ティーガーIIをベースとした対戦車自走砲。 17cm K72(Sf) カノン砲を搭載している。
モックアップが1両製作されたのみであり、量産はされていない。
シュトルムティーガー
シュトルムティーガー
38cm RW61 auf Sturm(panzer)mörser Tiger
損傷を受けたティーガーIを改造して製作された、38cm臼砲を搭載した突撃砲
ベルゲティーガー
Bergetiger
ティーガーI をベースとした戦車回収車。ティーガーI の砲身部分をウィンチに換装している。
ティーガーの様な超重量級の戦車を牽引するために、破損したティーガーI を現地の野戦修理中隊が独自に改造した車輌であり、軍に制式採用された物ではない。

運用 [編集]

ティーガーI は、主要な敵戦車であるT-34M4中戦車チャーチル歩兵戦車を1,600m以上の遠方から撃破できた。対照的に、76.2mm砲を装備したT-34はティーガーI の前面装甲を零距離でも貫けなかった。側面装甲はBR-350P APCR弾を使用すればおよそ500m以内で貫けた。T-34-85中戦車の85mm砲はティーガーI の側面を500mで射貫できた。IS-2の122mm砲は、ティーガーをあらゆる方向から1,000mで撃破することができた。

M4シャーマンの75mm砲はティーガーI の正面装甲を零距離射撃でも貫けず、側面装甲も300m以内でないと貫けなかった。アメリカ軍の76mm砲は、一般的なAPCBC弾を使用した場合、いかなる距離でもティーガーI の前面装甲を貫けなかったが、供給量の少なかったHVAP弾を使用すれば1,000mで前面装甲を貫けた。シャーマン ファイアフライに使用されるイギリス製17ポンド砲は、APDS弾を使用した場合、1,500m以上で前面装甲を貫けた。

ただし熟練した搭乗員はティーガーI の装甲を増加させた。敵戦車に対して車体を斜に構えることにより、傾斜装甲と同じはたらきをつけたのである。正面装甲を敵に対して45度傾けた場合、敵弾が貫通しなくてはならない装甲は換算すると141mmになった。さらにこれに減衰効果が加わり、貫通は難しくなった。

通常、徹甲弾はその存速に貫徹能力を持つ。したがって戦闘距離が短くなればより厚い装甲を貫くことができる(第二次大戦ではほとんど使用されなかったHEAT弾を除く)。ティーガーI の主砲の大きな貫通威力は、敵戦車を相手が反撃できない遠距離から撃破できることを意味する。ロシアなどの、平地の多い開けた地形ではこれは大きな戦術的優位だった。敵戦車はティーガーI を撃破するために側面からの攻撃を強いられた。

ティーガーI は1942年8月29日に初めてレニングラード近郊のムガにおける戦闘で使用された。ヒトラーの圧力で計画より数ヶ月も早く使用されたため、初期型の多くは機械的な問題を抱えたままであることが判明した。1942年9月23日の初陣で、投入されたティーガーI の4輌は全てが湿地にはまり込み、ソ連のトーチカに据えられた対戦車砲により撃破された。うち3輌は回収に成功したものの、1輌は回収不能となった。これは爆破処分されたが捕獲され、ソ連に同戦車を研究し、対抗手段を準備する機会を与えた[21]

北アフリカ戦線での最初の戦闘では、ティーガーI は開けた地形で連合国戦車を圧倒できた。しかし機械的欠陥により、同時に投入できたティーガーI の台数はごく少なかった。レニングラードでの経験をなぞるように、少なくとも1輌のティーガーⅠ はイギリス軍の6ポンド対戦車砲により撃破された。

側面に着弾しながらも貫通しなかった砲弾痕

ティーガーI の過大な重量から渡れる橋は限られており、地下室のある建物跡を横切ることは危険だった。もう一つの弱点は、油圧旋回する砲塔の回転速度が遅いことだった。砲塔は手動で動かすこともできたが、照準の微調整に用いられる程度であった。

ティーガーI の最高路上速度は38km/h、好敵手のIS-2の37km/hと同程度で、共にほとんどの中戦車よりかなり低速だった。ただし操縦性はティーガーの方が容易で優れていることは、両軍の報告書で明らかになっている。ティーガーI の初期型の最高速度は45km/hほど出たが、1943年秋にエンジンが改造された際に38km/hに落とされた。ティーガーI はまた常に信頼性の不足に悩まされた。ティーガーI の部隊は故障により定数不足のまま戦闘に参加することが多く、部隊での路上行軍ではほとんど常に故障によって脱落する車両が出た。また燃費が悪く、航続距離も短かった。しかし履帯幅の広さが幸いし、重戦車であるにもかかわらず、ソ連のT-34を例外として大半の戦車より面積当たりの接地圧が低かった。

防御戦闘では低機動力はあまり問題にならず、ティーガーI の装甲と火力は全ての敵にとって恐怖の的だった。遭遇確率の高いパンターの方がより大きな脅威だったが、ティーガーI の存在が連合軍兵士に与えた心理的影響は大きく、「タイガー恐怖症(タイガー・フォビア)」を引き起こした。連合軍兵士はティーガーI を見かけると立ち向かうよりも逃げ出したが、シュルツェンIV号戦車のようにティーガーに似ているだけの戦車に対しても同様のことが起こった。ノルマンディー作戦では、1輌のティーガーを撃破するにあたり、側面や背面装甲を狙うため4、5輌のシャーマンが協力して攻撃した。ソ連のT-34もティーガーI を恐れた。それはまるで以前ドイツのIII号戦車がソ連の重戦車を恐れたのと同じであった。連合軍側で受け入れられた戦術は、一団となってティーガーに当たることであった。1輌がティーガーの注意を引き付けている間に、他が側面や背面を狙う。ティーガーI に搭載されている弾薬や燃料は、スポンソンに格納されているため、側面を貫通すれば撃破できることが多かった。しかしこれはリスクのある戦術であり、連合軍側は複数の戦車を失うこともあった。ティーガーの部隊を撃滅するには実に巧妙な戦術が必要だった。

チュニジアに進出した第501重戦車大隊の極初期型

ティーガーI は軍直轄の独立重戦車大隊に配備されることが多かった。これら大隊は突破作戦でも、さらに反撃戦においても激戦地に投入された。陸軍の精鋭である大ドイツ師団や武装SS師団の内でも番号の若い精鋭師団は、ティーガーI をある程度装備していた。

クルスクの戦いにおいて、1943年7月7日、SS第1戦車連隊第13中隊第2小隊のフランツ・シュタウデッガー軍曹が指揮する1輌のティーガーI は、テテレーヴィノ付近でソ連軍のT-34 約50輌との遭遇戦闘において約22輌を撃破した。シュタウデッガーは弾薬を使い果たし、敵の残車両は退却した。この戦果でシュタウデッガーは7月10日に騎士鉄十字章を受章した。

1944年8月8日、SS第102重戦車大隊第1中隊のヴィリー・フェイ曹長が指揮するティーガーI は、イギリス軍第11機甲師団と遭遇した。彼はシャーマン戦車14輌、装甲車12輌、対戦車砲1門を撃破し、弾薬が尽きた。フェイ曹長は別のティーガーI から主砲弾を調達し、同日中にもう1輌を撃破して計15輌のシャーマンを撃破した。同戦車大隊はノルマンディーの戦いで保有するティーガーI 全車を失ったが、227輌の連合軍戦車を6週間の内に撃破した。なお同戦車大隊最後の稼動ティーガーI は前述のフェイ曹長が指揮し、8月28日ルーアンで渡河に失敗しセーヌ川に沈んだ。

ミハエル・ヴィットマンはティーガーI の多くのエースの中でも最も有名な戦車長であった。彼は様々な車両を乗り継いで戦い続け、最後にティーガーI に搭乗した。ヴィットマンは一日で戦車数台を含む20両以上の敵車両を破壊したヴィレル・ボカージュの戦いで、騎士鉄十字章に剣の飾りを受章したが、1944年8月8日に戦死した。

10名以上の戦車長が100輌以上の敵戦車を破壊した。ヨハネス・ベルターは139輌以上、オットー・カリウスは150輌以上、クルト・クニスペルは168輌以上、ミハエル・ヴィットマンは138輌以上、ヴァルター・シュロイフは161輌以上、アルベルト・ケルシャーは100輌以上を撃破した。

連合軍による捕獲 [編集]

鹵獲したティーガーを視察するヴォロシーロフジューコフら赤軍

1943年4月21日、第504重戦車大隊の砲塔番号131番のティーガーI が、チュニジアのジェベルジャッファの丘でのイギリス軍チャーチル歩兵戦車との戦闘後に捕獲された。その戦車は修理され、チュニジアでしばらく展示された後、イギリス本国に送られ徹底的に調査された。しかし米英など西側連合国はこのドイツ戦車がいかなる自軍戦車より優れていることが判明したにもかかわらず、ほとんど対策をとらなかった。これは、一つにはティーガーI は大量生産がなされないだろうという正しい推測による。またアメリカ陸軍の戦術教条では、戦車というものは戦車対戦車の戦闘には重点をおかず、対戦車戦闘は駆逐戦車の担当となっていたことによる。一方イギリス陸軍はティーガーI の調査後、17ポンド砲を搭載したシャーマン ファイアフライコメット巡航戦車を投入したが、後者は登場時期がライン渡河作戦以降であったため、ドイツ戦車と遭遇する機会はほとんどなかった。

1951年9月25日、捕獲されたティーガーI はイギリス軍需省によってボービントン戦車博物館へと正式に寄贈された。1990年6月、本車が完全に稼動できるように修復作業が始まった。2003年12月、ABRO(陸軍基地修理組織?)による大規模な修復作業の末、完全に稼動可能なエンジンを装備した131号車は博物館に戻された。今日、ティーガーI はボービントン戦車博物館において稼働展示が行われることがあり、その走行の様子を見ることができる。

ソ連軍の反応 [編集]

ティーガーI は、より軽装甲のドイツ戦車に対して戦果を上げていたソ連の重戦車KV-1や中戦車T-34に対する対抗策として登場したとも言える。ティーガーI が東部戦線に初登場したのは1942年12月だった。翌年1月に捕獲されたティーガーI はソ連に対抗策をとらせることとなった。ティーガーI が現れるまで、ソ連はもっぱら戦車の生産数量を重視し、質的な改良は量産を遅らせるため見送られてきた。

ソ連の対抗策はいくつかの形をとった。152mm砲を装備した自走砲の早急な開発が命じられた。SU-152自走砲は25日という記録的な早さで設計を完了し実地試験に入った。ソ連時代の記録では、同車を装備した一個連隊が定数不足のままクルスクに5月に送られ、クルスクの戦いで12輌のティーガーI と7輌のエレファント駆逐戦車を破壊したとされた。しかしソ連崩壊後判明したデータにより、事実とは異なっていたことが判明している。損害の数においても、この戦いで様々な理由で全損となったティーガーは10ないし11輌であった。また、新型重戦車が計画され、1943年末に85mm砲装備のIS-85(後にIS-1)、1944年始めに122mm砲装備のIS-122(後にIS-2)が就役した。さらにこの車台を使用したISU-152ISU-122自走砲が完成した。T-34は1944年には新たに85mm主砲を装備した3人乗り砲塔を与えられた。終戦間際には、新たな牽引式対戦車砲となるBS-3 100mm野砲が供給された。これらの新兵器は全て既存の車輌や砲の拡大改良型であったため、すぐに大量生産に入ることができた。

ソ連戦車の持つ最大の威力は、ドイツ重戦車と比較してのその圧倒的な生産量であった。わずかに生産台数1,350輌のティーガーI と、500輌足らずのティーガーII が生産されたに過ぎない一方、58,000輌のT-34、4,600輌のKV-1、3,500輌のIS-2が生産され、合わせて66,000輌のソ連戦車が1,850輌のティーガーI/ティーガーII と対していた。約6,000輌が生産されたパンターと各型合計約8,200輌が生産されたIV号戦車を数に入れても、ドイツ戦車の総数は約15,000輌にしかならないため(但しここには戦車同様に利用されたドイツ突撃砲が含まれていない)、米英戦車を計算に入れなくてもソ連戦車の総数がドイツ戦車の総数の4倍以上という数的優位にあった。

対戦車兵器としてのティーガーI [編集]

木陰に身を隠すティーガー、手前の乗員が履帯の跡を消している

ティーガーI はもともと陣地突破のための攻撃用兵器として設計されたが、実戦投入されたときには軍事情勢は劇的に変化しており、主に敵戦車隊の突破を阻止する「火消し役」としての機動防御戦闘に多用された。

ティーガーI が、他のドイツ戦車と比較して傑出した対戦車兵器だったかには疑問が付される。個々の車両の戦果として、パンター戦車の内でもティーガーI に匹敵する連合軍戦車の撃破実績を残したものもある。装甲、火力、機動力を見ればティーガーI を上回る性能を持つドイツ軍戦闘車輛も存在する。しかしながら投入時期と彼我の性能、および戦果を考慮すれば、間違いなくティーガーI は傑出した対戦車兵器である。必要な戦場に間に合って投入できた兵器こそが優良な兵器であり、性能は良くても量産できず、また戦場に間に合わなかった兵器はその資格を得ることはできない。独ソ戦が始まると多くの種類の戦車・自走砲が生産されたがその多くは戦局の分水嶺であったクルスクの戦い前後であり、それ以前に登場した当戦車は戦時中の設計の兵器としては間に合った兵器の代表的な例であると言えるであろう。

全体として東部戦線でも西部戦線でもドイツ戦車は連合軍戦車より戦果を上げた。一例として、ノルマンディーで8月には6,000輌の連合軍戦車が1,400輌のドイツ軍戦車に対峙していたが、装甲、兵装、機動性の全てにおいて劣り、ドイツ軍戦車の3倍の損失を出した。しかしこの不利は空軍の優位によっておおむね帳消しにされた。連合軍の航空優勢からドイツ軍戦車は大きな戦果を上げるために集結して行動することはできず、昼間の行動、鉄道輸送、整備や補給に大きな制約を受けた。

ソ連赤軍と西側連合軍の戦車生産台数を考慮すると、ティーガーI が敵より10倍の戦果を上げる必要があったが、いくつかの重戦車大隊は実際にこれを上回る戦果を上げ、例えばグロースドイッチュラント師団所属の隊は16.67倍の戦果を上げた。

出典 [編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『ティーガー戦車』付録1、「ティーガーE型(初期型砲塔)の諸元」222から224頁。
  2. ^ 『ティーガー戦車』付録9、「試作型および派生型の諸元表」243頁。
  3. ^ 『ティーガー戦車』39頁。
  4. ^ 『PANZER』98年2月号、「ティーガー重戦車Part1 その開発経緯とバリエーション」47頁。
  5. ^ 『ティーガー戦車』40から41頁。
  6. ^ 『ティーガー戦車』94頁。
  7. ^ 『ティーガー戦車』81頁。
  8. ^ 『ティーガー戦車』222頁。
  9. ^ 『ティーガー戦車』付録9 試作型および派生形の諸元表。245頁。
  10. ^ a b 『ティーガー戦車』42頁。
  11. ^ 『ティーガー戦車』58頁。
  12. ^ 『ティーガー戦車』56頁。
  13. ^ 『ティーガー戦車』60頁。
  14. ^ 『ティーガー戦車』128頁。
  15. ^ 『ティーガー戦車』235頁。
  16. ^ 『ティーガー戦車』50頁から53頁。
  17. ^ 『ティーガー戦車』67頁。
  18. ^ 『ティーガー戦車』107頁、128頁。
  19. ^ ドイツ戦車発達史 128頁
  20. ^ 『PANZER』98年2月号、「ティーガー重戦車Part1 その開発経緯とバリエーション」54頁から55頁。
  21. ^ 『ティーガー戦車』108頁。

参考文献 [編集]

  • ヴァルター・J・シュピールベルガー 著、津久部茂明 訳、富岡吉勝 監修『ティーガー戦車』大日本絵画、1998年。ISBN 4-499-22685-6
  • 後藤仁「ティーガー重戦車Part1 その開発経緯とバリエーション」『PANZER』98年2月号、アルゴノート社。

外部リンク [編集]