第1SS装甲師団

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第1SS装甲師団

SS第1装甲師団
ライプシュタンダーテ・アドルフ・ヒトラーの師団章
創設 1923年11月9日
廃止 1945年5月8日
国籍 ナチス・ドイツ
所属 武装親衛隊
規模 師団
兵種 装甲
人員
所在地
上級部隊
愛称 アドルフ・ヒトラー
モットー
主な戦歴 第二次世界大戦
(ポーランド侵攻)
(フランス侵攻)
(バルバロッサ作戦)
(第一次ハリコフ攻防戦)
(クルスクの戦い)
(グッドウッド作戦)
(ファレーズ・ポケット)

第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー(だいいちSSそうこうしだん―、独:1. SS-Panzer-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler")は、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。部隊名の意味は武装親衛隊の項目に詳しい。SS第1装甲師団は、第二次世界大戦における東部戦線西部戦線において活躍した。師団章は初代の指揮官ヨーゼフ・ディートリッヒの名前に鍵の意味があることに由来する。

ヒトラー個人の護衛として発足、ヒトラーが政権獲得後徐々に拡大され、エリート集団であるSS装甲師団の中でも最精鋭の師団だった。部隊の出動先は常にヒトラーにより決定されており、戦争中最も有名な武装親衛隊の師団の一つとして知られるようになった。

目次

[編集] 1923~1933年

LSSAHの軍服の肩章
LSSAHの軍服の肩章

ナチス党の初期に、信頼でき忠実な男性から成る護衛部隊編制が賢明な情勢であることが認識された。エアンスト・レームは、第19迫撃砲中隊から護衛組織を編成した。そしてこの組織から突撃隊へとすぐに発展、その規模は拡大していった。アドルフ・ヒトラーは、その突撃隊の存在への潜在的脅威に気がついており、1923年に、自分自身の護衛部隊の編制を命じた。当初、ユリウス・シュレックヨーゼフ・ベアヒトルトに指揮された僅か8名で編成された部隊は、シュタプスヴァッヘ(Stabswache、幹部護衛隊の意)と呼ばれた。 この時点では、部隊は突撃隊の統制下にあったにも関わらず、彼らは、突撃隊と異なった制服を着用していた。シュレックは、プロイセンドイツ帝国において、エリート部隊の象徴であった、髑髏の記章を復活させた。

その後、この部隊はシュトーストルップ アドルフ・ヒトラー(Stosstrupp Adolf Hitler、突撃部隊アドルフヒトラーの意)と名を変え、1923年11月9日に、突撃隊や他のナチス党の準軍事的部隊とともに、ミュンヘン一揆に参加した。決起が失敗し、ヒトラーが収監されると、ナチス党とそれに関わる部隊は、解散されることになった。

1924年にヒトラーは釈放され、彼は直ぐに新しい護衛部隊を組織する。その部隊は再びシュタプスヴァッヘ(Stabswache)と名づけられるが、突撃隊の統制下には置かれなかった。1925年にこの部隊は、シュッツシュタフェル(SchutzStaffel,SS)と改称した。1933年まで、SS は小さな個人護衛部隊から、5万人を越える組織へ成長した。

1933年3月17日、ヒトラーは自分自身の護衛部隊の編制を命じた。ヒトラー個人のボディガードだったヨーゼフ・ディートリッヒを指揮官に、そして彼が有能で信頼できる親衛隊員120名を選抜しSSシュタプスヴァッヘ ベルリン(SS-Stabswache Berlin)を編成、直ぐにSSゾンダーコマンド ベルリン(SS-Sonderkommando Berlin)と改称した。部隊はベルリンにあるヴェルサイユ条約により廃校となった陸軍士官学校の兵舎を根拠地とした。

その後、SSゾンダーコマンド ツォッセン(SS-Sonderkommando Zossen)と、SSゾンダーコマンド ユーターボク(SS-Sonderkommando Juterbog)が編成された。この2個の部隊は9月にSSゾンダーコマンド ベルリンに統合されるまで、ナチス党幹部の護衛に使用され、SSの訓練部隊として機能し、短い間ではあったが準警察的な役割も果たした。

1933年11月、ソンダーコマンドはミュンヘン一揆10周年記念祭典の集会と、決起の際多くのナチス党員が倒れた場所に建てられた将軍廟の追悼式に参加した。その際、ゾンダーコマンドの全員は、ヒトラーへの忠誠を誓い、ゾンダーコマンドは新たな部隊名ライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte Adolf Hitler)を授与され式典を終えた。

[編集] 火の試練~ライプシュタンダーテの拡大

1934年の初め、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは部隊名にSSを付けるよう命じ、最終的にライプシュタンダーテ SS アドルフヒトラー(LSSAH)となった。

6月の終わりにLSSAHは、最初の出動を命じられた。 突撃隊の指揮官エアンスト・レームは、自分の配下の突撃隊により大きな力をつけることを要求し始めていた。ヒトラーは突撃隊をその地位に留める事に決定し、ヒムラーとヘアマン・ゲーリングに命令を下した。二人の精鋭部隊、ヒムラーのLSSAHとゲーリングのランデスポリツァイグルッペ ゲネラル ゲーリング(Landespolizeigruppe General Göring、「国家警察集団ゲーリング将軍」の意)が行動に移った。LSSAHはユアゲン・ヴァグナーオットー・ライヒの指揮下、2個中隊を編制し6月30日ミュンヘンへ移動した。

ヒトラーは、全ての突撃隊の指揮官に、ミュンヘン近くのバドヴィッセにあるハンゼルバオアーホテルで行われる会合に出席するように命令した。6月30日、ヒトラーはディートリッヒ及びLSSAHからの部隊と合流し、レームの逮捕と処刑を命じるためバドヴィッセに向かった。LSSAHの実行中隊はゲーリングの警察部隊と共に、死の部隊として数日間裁判なしで多くの処刑を実行した。ナチスはこれをレーム・プッチュ(Putsch:クーデター、別名、長いナイフの夜)と呼び、自分たちの行動の正当性を主張した。1934年7月13日迄に少なくとも177名が処刑された。

LSSAHとゲーリングの部隊による行動は、ヒトラー支配への障害である、突撃隊による脅威を効果的に取り除くことに成功した。長いナイフの夜の「成功」に伴い、LSSAHとゲーリングの部隊は連隊規模に拡張され、自動車化された。そしてSSは突撃隊の統制下から完全に離れた。SSは新しい志願者でいっぱいとなった。LSSAHは、ヒトラーのアーリア民族至上主義を反映しており、志願者は厳格な募集規則により、心身とも強固で熱心なナチス党党員でありアーリア民族である場合のみ認められた。

LSSAHはニュルンベルク党大会の儀杖隊を勤め、1935年にはザールラント併合に参加し、又、オーストリア併合の為に派遣された。ズテーテン地方の進駐にも参加した。1939年3月ボヘミアモラヴィアの併合に参加した後、LSSAHは、装甲車小隊とオートバイ部隊を含む幾つかの自動車化された構成部隊が配属となった。そしてSS連隊ライプシュタンダーテ SS アドルフヒトラー(SS-Standarte "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と改称された。

1939年1月、「ライプシュタンダーテ舞踏会」がベルリン動物園で開催された。ディートリッヒは部下とともに、有名な芸人ハンス・アルバースハインリッヒ・ゲオーゲケーテ・フォン・ナギを用いて、この祭典を企画した。このときの主賓は、ドイツ陸軍総司令官ヴァルター・ブラウヒッチュだった。

ヒトラーが1939年中頃にSS師団の編制を命じた時、ライプシュタンダーテは、親衛隊特務部隊 (SS-VT) のSS連隊ドイッチェラント、SS連隊ゲルマニア、SS連隊デア・フューラーとは異なる独自の編制を指示された。1939年のポーランド危機はSS師団の編制計画を延期させ、LSSAH はポーランド侵攻を準備する南方軍集団麾下の第XIII軍団に所属した。

[編集] 戦争初期の戦い

ポーランド侵攻(1939年)初期、LSSAHは第17歩兵師団に配属され挟撃の南側面防護を担った。連隊は、前進中のドイツ軍の側面を攻撃するポーランド騎兵部隊との激しい戦いに参加した。ウッチ近郊のパビャニツェで、LSSAHはポーランド第28歩兵師団とヴォリニア(Wołyńska)騎兵旅団を苛烈な白兵戦で退けた。 パビャニツェの勝利の後、LSSAHはワルシャワ近郊へ移動し、ゲオーク・ハンス・ラインハート上級大将の第4装甲師団に配属された。そこで包囲突破を試みるポーランド軍と遭遇、突破へと必死な幾つかの試みを撃退した。 これらの戦闘で被ったLSSAHとSS-VTの高い損耗に対して一部の将軍は疑念を持ったが、LSSAHは作戦期間中、有能な戦闘部隊であることを証明した。

連隊はフランス侵攻作戦「黄色の場合(Fall Gelb)」の為に、オランダ国境に移動した。連隊はクアト・シュトゥデント上級大将指揮下の航空部隊(第7航空師団、第22空挺師団)の降下猟兵と提携し、アイセル川に架かる重要な橋の占拠の任務を受け、オランダ侵攻の先鋒を形成した。

フランスとオランダ侵攻は1940年5月10日に開始した。その日LSSAHは目標の橋の破壊されていることを発見した後、ズトフェン近くでアイセル川を渡り75km進出した。次の4日間の戦闘でLSSAHは215km前進、アムステルダム近郊で過失によりシュトゥデントに重症を負わせ不信感を持たれた。5月14日オランダ降伏後、連隊はB軍集団予備になった。

英軍機甲部隊によるアラスの反撃の後、LSSAHは親衛隊特務師団と共に、ダンケルク周辺の防御線を確保し、包囲した英軍派遣部隊とフランス軍を拘束、包囲網を縮める為に第一線へ移動した。LSSAHはヒトラーの前進停止の命令を無視し攻撃を続け、ウォルムハウトに近いワッテンバーグ高地の英軍砲兵陣地を制圧した。この戦闘で連隊は大きな損耗を被った。

攻撃の後、ヴィルヘルム・モーンケSS大尉指揮のLSSAH第II大隊の部隊は、連隊長のディートリッヒが戦死したという誤った報告を受けた。この誤報はウォルムハウトの虐殺と知られる、ディートリッヒの死に対する報復として英軍王立ワーウィックシャー連隊第2大隊の約80名の捕虜を殺害する事件を引き起こした。この虐殺が起こった事実にも拘らずモーンケの関与を知ること出来ず、その為、彼はこの件で裁判にかけられることはなかった。([1]参照)

その後、連隊は第XIV軍団に配属され、フランスで軍事行動を終えた。

[編集] 旅団への拡大―バルカン半島での戦闘

西部戦線の戦いが終了したあと、LSSAHに対空砲(FLaK)大隊と、突撃砲(StuG)中隊が加わり、旅団規模に拡張されたが名称は連隊のままであった。

その後、1940年後半にあしか作戦の準備の為に連隊は強襲上陸の訓練を受けたが、英本土上陸作戦は中止となり、部隊はギリシアとバルカン半島侵攻計画の一案であるマリータ作戦の準備の為、ブルガリアに移動した。

1941年4月6日、作戦は発動されLSSAHはゲオーク・シュトゥンメ将軍指揮の第XXXX装甲軍団麾下の第9装甲師団に続いて進軍した。連隊はプリレップ近郊で国境を越え、ギリシア領深くへ進出した。

LSSAHは4月10日ヴェヴィを占領した。増強されたクアト・マイヤーSS少佐のLSSAH捜索大隊は、ヴェヴィ南西のクリスラ峠の抵抗を排除し、ギリシア軍と英連邦軍の撤退を防止するために、カストリアへ突破する任務を受けた。ギリシア第20師団の抵抗は激しく、いくつかの文献では、SSはマイヤーが自軍の兵士の足元に手榴弾を投げて、やっとクリスラ峠を占領できたかの様な記述となっていた。[2]

フリッツ・ヴィットSS少佐の第I大隊は、オーストラリア軍、英軍、ニュージーランド軍が強硬に防衛するヴェヴィ南のクリディ峠の掃討任務を受けた。増強されたカンプグルッペ ヴィット(ヴィット戦闘団)は道路から排除され、2日以上激しい抵抗に直面した。4月12日朝、正面から強襲を開始し、午後遅くには峠から敵は掃討された。LSSAH第I大隊は戦死37名と負傷95名の損耗で、敵に520名以上の捕虜と多数の損耗を与えた。

2つの峠の陥落により、ギリシア第1軍の主抵抗線は崩壊し、撤退を阻止する戦いへと移った。4月20日に、ピンダス山脈の1,500mの高さにあるメツォボ峠での激戦が終わり、ディートリッヒに対して、ギリシア第1軍司令官によりギリシア全軍が降伏した。英連邦部隊は、ギリシアに唯一残った同盟軍となり、ペロポネソス半島コリントス運河を渡って撤収した。4月26日、LSSAHは撤退する英連邦軍を遮断する為、パトラス湾に到達した。ディートリッヒは連隊に、湾を渡りペロポネソスのパトラスの町を確保するよう命令を下した。輸送船舶が入手できなかった為、LSSAHは重装備の多くを残さざるを得なかったものの、釣り船を徴用し湾を渡ることに成功した。4月30日、英連邦軍の部隊は捕虜となるか脱出した。LSSAHはアテネでの戦勝パレードで名誉ある地位を占めた。

マリータ作戦の後、LSSAHはバルバロッサ作戦の為に集結している南方軍集団に加わるよう命令され北に移動した。

[編集] 独ソ戦(バルバロッサ)

マリータ作戦でのLSSAHの優れた功績に、ヒムラーは師団規模へ拡大する様に命令を下した。既に旅団規模の部隊であったが、部隊はSS(自動車化)師団ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(SS-Division (mot.) "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と改称した。にもかかわらず、ソビエト侵攻作戦であるバルバロッサ作戦発動前の為、完全な師団に編成する時間がなく新しい「師団」はまだ旅団規模のままであった。

LSSAHは、第LIV軍団に配属され予備部隊に置かれた。8月、エヴァルト・フォン・クライスト元帥指揮の第1装甲集団麾下の第III装甲軍団に転属となった。この間、LSSAHはウーマニ戦キエフ占領に参加した。部隊は特に名を馳せたマイヤーの大隊と共に、激しい戦いに没頭した。

9月初め、クリミア半島掃討作戦の準備の為、部隊は再度第LIV軍団に転属となった。作戦は、1941年9月17日に発動された。LSSAHは、ターテルディッチ近郊のソ連軍防御陣地強襲の為、ペレコープ地峡を越える前にペレコープの町において激しい戦闘に巻き込まれた。

11月には、LSSAHは再度、第1装甲集団に転属しロストフ攻略戦に参加、11月の終わりに占領した。バルバロッサ作戦の間、師団はソビエト領内を960kmも深く進攻した。

冬季のソ連軍による強烈な反撃は、南方軍集団の防御線をロストフから、ミウス河まで後退させた。 LSSAHは不十分な冬季装備と一日150gの糧食だけで、激しい防御戦闘を行った。それでも、師団は持ちこたえた。1942年春の泥濘の時期が終了した後、消耗した師団はブラオ作戦に投入されロストフ奪回戦に参加、7月終わりにロストフは陥落した。

完全に消耗し戦力を保てなくなったLSSAHは、前線から引き抜かれた。師団は装甲擲弾兵師団への再編成とSS装甲軍団を新たに作る為、占領下のフランスノルマンディー地方に送られた。

[編集] ハリコフの戦い

LSSAHは1942年の残りを装甲擲弾兵師団への再編成に費やした。 戦車部隊を大隊でなく、完全な連隊を持つ4個装甲擲弾兵師団(LSSAHと、ヴィーキングダス・ライヒトーテンコープ)が編成された。これはSS装甲軍団司令官、パウル・ハウサーSS大将とヒムラーの努力の成果である。これはSS装甲擲弾兵師団が、その名称にもかかわらず、事実上の戦車師団であることを意味した。同様に、師団は9輌のティーガー戦車を受領し、LSSAH戦車連隊重戦車中隊を構成した。

スターリングラード付近の前線の崩壊と、ドイツ第6軍の包囲は東部戦線全体の崩壊が近いことを意味していた。ドン軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ハリコフ近郊のソ連軍の攻撃を止めるための増援を要請、SS装甲軍団は出動命令を受けた。

1943年1月後半、LSSAHは前線に到着し、ハリコフの防衛線にハウサーのSS装甲軍団は投入された。彼らに対したのは、ソ連軍先鋒部隊を構成した戦車軍規模のポポーフ戦車集団の数百輌のT-34であった。1943年2月8~9日、フリッツ・ヴィットSS少佐のLSSAH第1装甲擲弾兵連隊はマックス・ヴュンシェSS少佐のLSSAH戦車連隊と共に、メレファ近郊でソ連軍の大攻勢を止めるべく激しい戦闘を行なった。師団は数週間に亘り、絶望的な防御戦を戦い抜いたが、次第にハリコフへと押し戻されていった。

ソ連軍に多大な損耗を強い、全ての攻撃を阻止したにもかかわらず、ソ連軍は軍団の翼側迂回に成功した。2月15日、ハウサーはヒトラーの死守命令を無視し、SS装甲軍団はハリコフを放棄しクラスノグラードへ撤退した。翌週、SS装甲軍団は、一連の戦闘でポポーフ戦車集団を殲滅した。LSSAHはこの戦闘でソ連軍数個師団を全滅させ、多大な損耗を負わせた。

ハウサーは直ちにハリコフ奪還を命令した。LSSAH、ダス・ライヒ、トーテンコープが攻撃の先鋒を形成、攻撃は3月2日に始まった。LSSAHは3個戦闘団を編成し、3月11日からハリコフ攻略を開始した。マイヤー戦闘団は、孤立する前に赤の広場まで進入した。ヴィット戦闘団は都市に突入する前に、デルガッチ近郊でソ連軍阻止部隊と遭遇し激しい戦闘になった。 両戦闘団とも混乱した戦闘で何度も孤立した。そしてついに防御側を圧倒し、ヨアヒム・パイパー指揮の戦闘団が突破に成功、3月15日ハリコフはドイツ軍の手に戻った。LSSAHは引き続きベルゴロッドへ突進し、3月18日パイパーは「奇襲によりベルゴロッドを占領した」と報告した。その後クルスクを目指すが抵抗が激しくなり、3月26日に全ての作戦行動を終了した。

ハリコフ周辺での戦闘においてLSSAHは約4,500名の損耗を被り、その犠牲者の名誉を称え、ハリコフの「赤の広場」は「ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラーの広場(Platzder Leibstandarte SS Adolf Hitler)」と改称した。師団は後方に休養と再編成のため退いた。

[編集] クルスク

春の泥濘が攻撃を止め、ライプシュタンダーテは休養と再編成の時間を与えられた。4月、師団長ディートリヒ他、将兵の一部が新しく編成された第ISS装甲軍団とSS装甲擲弾兵師団ヒトラーユーゲントに移動になった。後任の師団長はテオドーア・ヴィッシュになり、ハリコフ戦の損耗と併せて空軍から人員の補充を受け、6月末まで訓練に費やした。4月末、ホート上級大将の第4装甲軍に配属され第IISS装甲軍団に改称した。5月、第I戦車大隊が装備更新の為ドイツに帰り、8月まで師団に戻らなかった。

7月2日、城塞作戦に備え、ベルゴロッド北西の集結地に移動した。7月4日夜、LSSAHの準備地域に破砕射撃を受けるが損耗は軽微。7月5日深夜、増強されたLSSAH第1、第2装甲擲弾兵連隊が高地の前哨を占領した。0500時に城塞作戦が発動され、準備射撃後に各戦闘団は前進を開始、ソビエト軍の入念に準備された防御陣地を突破した。

7月10日、プロホロフカ占領を命令され、先頭に立ったLSSAHは戦車戦力を62輌(9日現在)まで減らしていた。突撃砲大隊とティーガー中隊に支援されたLSSAH第2装甲擲弾兵連隊は強力な抵抗に遭いながらも前進した。正午までに、コムソモレット国営農場の敵を一掃し241.6高地への攻撃を開始、日没後に占領した。

7月11日、師団はオクティアブリスキー国営農場と252.2高地を、戦車部隊に支援されたソ連第9親衛空挺師団の空挺降下兵と激しい戦闘の末、占領した。7月12日ソビエト軍は、プロホロフカ近くにソ連第5親衛戦車軍を投入し反撃を行った。2個の戦車軍団はLSSAHとぶつかり、オクティアブリスキー国営農場と252.2高地から前進中の戦闘団と戦闘に入った。この戦闘は、数で圧倒するソ連軍に、大量の戦車を破壊し多大なる損耗をあたえ、対してLSSAHは比較的軽い損耗だった。しかしソビエト軍の反撃は、師団の前進を止めオクティアブリスキーに後退を強いた。戦闘は13日まで続き、ソビエトの攻撃の焦点はLSSAHの左翼にいる第3装甲擲弾兵師団トーテンコープにシフトした。

17日、ヒトラーの指示により、SS装甲軍団はベルゴロッドに後退した。これは、バドリオ政府によるムッソリーニ罷免と、7月10日の連合軍のシチリア島上陸による状況に対応するためで、軍団はイタリアに送られることになっていたが、ミウス河の第6軍の戦線を突破された為投入されることになり18日移動した。23日、ミウス橋頭堡に対する攻撃準備を完了したが、ヒトラーの命令でLSSAH師団は攻撃を中止し、戦車連隊の装備を第2SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒと第3SS装甲擲弾兵師団トーテンコープに残し、イタリアへ移動した。

[編集] イタリア

師団は前線から戻り、オーストリアのインスブルックで降ろされ、車輌の補充を受け、アルプスを越え北イタリアへ向かった。師団は1943年8月8日にポー川平原へ到着した。

LSSAHは、トレント-ヴェローナ地域の重要な道路と連絡駅の警備を命令された。この地域での数週間の作戦行動の後、師団はパルマ-レッジョ地域へ移動した。この期間中、師団はパルチザンとの幾つかの小戦闘を行った。 1943年9月8日のイタリアの崩壊で、師団は近くのイタリア部隊の武装解除を命令され、9月9日パルマに駐屯するイタリア部隊との短い衝突を除いて、順調に進んだ。9月19日までにポー川平原の全てのイタリア軍隊は武装解除された、しかし、OKWはフランス国境の近くのピエモンテで、イタリア第14軍の部隊が再編成を行っているとの報告を受け懸念を抱いた。それに対して、パイパーSS少佐のLSSAH第2装甲擲弾兵連隊第III大隊が、武装解除の為に派遣された。クーネオに到着すると同時に、パイパーはイタリア軍将校と会った。彼は、パイパーの部隊が直ちにクーネオ県から撤退しなければ攻撃すると警告した。パイパーはこれを拒絶した。それはイタリア軍を攻撃に駆り立てた。パイパー大隊の歴戦の兵は、イタリア軍を制圧し、更に地域内に残るイタリア軍部隊を武装解除していった。これらの軍事行動により、LSSAHは大量のイタリア軍の迷彩布とドイツがイタリア海軍に供与したUボート搭乗員用の革ジャケットを押収した。これらの押収品を着用したLSSAH将兵がノルマンディー上陸作戦時の記録写真のフィルムに残されている。

イタリアの崩壊と降伏により、パルチザンの活動は、各地で活発となった。LSSAHはイストリア半島に送られ、対パルチザン作戦に従事した。イタリアにいる期間に、LSSAHは完全な装甲師団に刷新され、第1SS装甲師団ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(1.SS-Panzer-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と改称した。11月初め、東部戦線の情勢悪化により師団をロシア戦線に送ることが決まり、11月中旬、ジトーミルに到着した。

[編集] 東部戦線

師団は、ジトーミル付近の戦線保持に苦闘中の第4装甲軍麾下の第XXXXVIII装甲軍団に配属された。師団は数個の戦闘団に分割され、戦闘に投入された。11月18日、フレイ戦闘団はコッチェロボ近くの町で第5親衛戦車軍の前進を止めた。次の2ヶ月、師団はジトーミル地域で火消し部隊の任務を遂行し激しい戦闘を展開、軍団の戦線保持を可能にした。

1944年1月、LSSAH重戦車中隊のティーガー戦車の指揮官ミハエル・ヴィットマンの戦功に対して柏葉付騎士鉄十字章が与えられた。師団は、チェルカースィ地域に移動し、第1装甲軍麾下の第III装甲軍団所属となった。

1944年2月、シュテンマーマン集団の56,000名がコルスン包囲網に閉じ込められた際、LSSAHの第III装甲軍団と第XXXXVII装甲軍団はソ連軍の包囲線を突破し、孤立した部隊を救助する命令を受けた。これに対しヒトラーが介入し、ソ連軍の2個方面軍を逆包囲するという不可能な命令を下した。Dr.フランツ・ベーケ少佐の第503重戦車大隊を含む陸軍戦車部隊と共に、LSSAHは攻撃の先鋒を形成した。初期の成功にもかかわらず、ソ連軍の4個戦車軍団の抵抗とラスプティツァ(rasputisa)の泥濘により攻撃は直ぐに失速した。ドイツ軍は消耗しつつも、グニロイ・ティキッチ川に到達し、そこに小さな橋頭堡を構築した。2月の終わりまで包囲網内の残存部隊は橋頭堡を経由して脱出し、戦闘は終了した。

LSSAHの大半はベルギーに移動し、休養と再編成を行った。しかし戦闘団は残された。3月22日、第1装甲軍全体が、カネベッツ・ボドルスキー包囲網で孤立した。LSSAHの戦闘団は、包囲網を脱出するための激しい戦いに参加し、4月6日にはブチャッチ近くで第IISS装甲軍団と提携した。消耗した戦闘団の残余はベルギーに休養のために送られ、師団の残りに合流した。

[編集] ノルマンディー

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
  • '訳注:元の英文自体が状況整理ができていません。

ノルマンディー上陸作戦開始時、ヒトラーはノルマンディーへの上陸は陽動作戦とみなしていたため、LSSAHはベルギーに駐留を続け、ノルマンディーへの上陸が陽動でないことが判明した6月下旬に、ノルマンディーに派遣された。しかし、制空権は完全に連合国側にあったため、鉄道での移送は困難を極め、多くの部隊は自走による移動を余儀なくされた。ノルマンディーでのLSSAHの最も重要な役割は、グッドウッド作戦に対しての対応であった。7月18日に開始された作戦において、3個の英軍機甲師団は、歩兵の側面支援を受け、カーンとその東の高地の間の隙間を抜けて、ドイツ軍を包囲する予定になっていた。そこでは、ブルギバスで高地を越え、広がった平地へ突破しなくてはいけなかった。2,500機の航空機による3時間の爆撃でドイツ軍歩兵部隊を混乱させ、戦車を地上で破壊した後、作戦は開始された。

開始後すぐ、英軍の戦車が進出し第一目標を奪取した。第1SS戦車連隊第2中隊は、ガーセルスの近くの森に位置しており、ソリヤーズにいる英軍の攻撃命令を受けた。マルコメスSS中尉は、13輌のパンター戦車でブルギバス方面に進軍し、村の南南東に60輌の敵戦車を発見した。彼はそれを攻撃し戦車20輌を破壊、ソリヤーズを確保した。1200時頃に、第1SS戦車連隊第1大隊のパンター46輌は英軍第11機甲師団の第29機甲旅団と交戦に入った。ファレーズに予備として拘置していたLSSAH本隊は前線に急行した。1700時頃、左翼の英軍の攻撃を停止させた第21装甲師団と共に反撃、英軍は126輌の破壊された戦車を残しカーンに撤退した。

7月19日、最初のうちは散発的な戦車による突撃が行われていたため、グッドウッド作戦が中止になったかの様であった。しかし、1300時に英軍は再度増援を送り込み攻撃を開始した。彼らは、攻撃の先鋒に立った戦車の波でドイツ軍前衛部隊を蹂躙して行った。しかし、先頭のシャーマン・ファイヤーフライ戦車、クロムウェル戦車が1600時頃ブルギバス近くの112高地に近づくと、部隊は攻撃をうけ大損害を受けた。この時、LSSAHのパンター戦車が112高地の陣地を保持していた。1500時頃、SS第12装甲師団の最初の部隊が到着し右翼を交代した。英軍は自分たちの橋頭堡から抜け出すことができなかったが、彼らは戦車493輌と4011名の損耗を被りながら橋頭堡を9km拡大した。

このドイツ軍の勝利にもかかわらず数の優勢により5日後、アメリカ軍は橋頭堡から進撃する機会が生じた。増援部隊の欠如、日中の移動の妨害、乏しい補給により、ドイツ軍の防御は弱体化し、消耗が激しく戦闘を維持することができなかった。アメリカ軍は開けた土地を、一部隊はアヴランシェへ、他の部隊は、サン・ローを包囲するように突破していった。ヒトラーは撤退を許さず、彼の信念のままに攻撃を命じた。 LSSAHは8月5日と6日に集結地に移動後、他の4個SS装甲師団と国防軍の3個装甲師団と共に8月7日に攻撃を開始した。2個装甲擲弾兵大隊、1個工兵中隊、1個対空砲大隊と共に、SS第1戦車連隊が攻撃に使用された。その日の天候は飛行に適しておらず、連合軍は攻撃が来ることを知っていたにも関わらず、初めの内は攻撃は順調に進んだ、ダスライヒはモルタンを再占領し、パイパー戦闘団はボーロピンに接近したが、大量の連合軍の航空機の来襲により攻撃は停止した。再度の攻撃が翌日に行われたが、それは失敗した。

第2SS装甲擲弾兵連隊第10中隊プロイスSS中尉は酷い状況を描写した。

我々が撃ち落した戦闘爆撃機が、戦車の上に落下し、戦車は破壊されたと言うのは事実である。しかし、ほとんどの戦車と装甲兵員車は、数時間続いた空軍の徹底的な爆撃の犠牲になった。戦うことのできる擲弾兵は隠蔽物を抜けて左右に散開した。彼らは幸運であった。それは、頭の上を蜂のように飛び交っている爆撃機が、人間より目立つ目標を見つけた為である。私は彼らの考えに同意した。私はパイパーが致命的な攻撃を受けたことを聞いた。第2連隊第3大隊指揮官ディーフェンタールは彼の右横に爆弾が落ち聴力を失った。クールマンは再攻撃のために前進することもできなかった。私の部下の勇敢な伝令である、ホアスト・ライニッケン二等兵は、我々が従属した陸軍戦車大隊指揮所に来ようとして死んだ。彼は、戦車大隊に指揮官と副官が我々の隠蔽物から遠くないところで倒れて死んでいると言うことを伝えようとしていたのだった。

その後、ノルマンディーでの戦闘は終結した。LSSAHは連合軍にファレーズで包囲された。しかし、それまでに部隊は小さな戦闘団規模に減っていた。第7軍司令官ハウサーはフォン・クルーゲ(西部方面軍司令官、フォン・ルントシュテットの後任)により、車輌と管理要員、第IISS装甲軍団(ホーヘンシュタウフェンとフルンツベルク)を包囲網から撤退させることを命じられた。総統はこの包囲網から撤退する許可を与えていなかったため、部隊自体の意思によることとなった。8月22日、LSSAHは作戦可能状態の戦車や野砲が無いと報告をした後、下級指揮官や指揮官が各小戦闘団を率い包囲環を破り、撤退した。これらの一連の軍事行動でLSSAHは5000名近い損耗を受けた。

[編集] アルデンヌの戦い(ラインの守り作戦)

東部戦線でも西部戦線でもドイツ軍の敗北は決定的な状況となっていた。ヒトラーは最後に残った装甲予備戦力で、1940年のフランス戦の再現を狙い、英米との単独講和を行う実現不可能な夢を見ていた。将軍たちの反対もあったが、ルクセンブルグ近傍のアルデンヌの森を突破し、ムーズ川を渡りアントワープブリュッセルを占領する作戦(ラインの守り作戦、通称バルジの戦い)が実行された。主力攻撃部隊は第6装甲軍と第5装甲軍で、LSSAHは、ヒトラーユーゲントとともに、第6装甲軍のSS第1装甲軍団に所属していた。

最初の計画では、LSSAHはムーズ川流域のアメィ、ヒュイの2つの町を占領しムーズ川を渡るとされていた。師団はいくつかの戦闘団に分割され、12月16日攻撃が開始された。前線のアメリカ第106師団は奇襲と圧倒的な装甲兵力に壊滅し、前線の突破を許したものの、地形の困難さに加え連合国の航空支援を避けるため悪天候時での作戦であったため、各道路では渋滞が生じ装甲部隊の進軍は中々進まなかった。夕方、パイパー戦闘団に前進命令が下り、12月17日には前線を突破しパイパーはスタブローを、ハンセン戦闘団はべヒットを確保した。翌日の12月18日にはパイパーはストゥーモンを経由し、ワルボモント近くまで前進するものの、アメリカ第10歩兵師団に進路をふさがれ、ラ・グレイズ近傍に撤退した。LSSAHの主力もスタブロー近傍に到着したが、北にはアメリカ軍の増援(第30歩兵師団)が到着してスタブローが奪回された。師団の進路正面には第10歩兵師団が、北には第30歩兵師団、南には第7機甲師団が存在し、包囲の危険が迫っていた。並進する予定のヒトラーユーゲントはヴィッテンバッハ近傍でのアメリカ第1師団の抵抗にあい作戦は頓挫していた、LSSAH救出のためヒトラーユーゲントは作戦を中止し、南部へ転進したが、既にパイパーは包囲され、ストゥーモン近傍でアメリカ第3機甲師団との戦闘で大きく消耗していた。12月23日天候が回復し、連合国の航空支援が再開するとドイツ軍の進軍は停止し、パイパーは撤退を決定した、これによりパイパーの部隊は重装備をほとんど失い、事実上パイパーの部隊は全滅した。南では第5装甲軍配下の第47装甲軍団の進軍によりバストーニュが包囲されていたが、12月26日アメリカ第4機甲師団の活躍により包囲が解かれた。LSSAHは、ヒトラーユーゲント、ホーエンシュタウフェンと共に12月28日から1月2日にかけて、再度バストーニュ包囲を試みようと攻撃を行ったが、損失を出すだけで、作戦は失敗した。

1月23日作戦の中止が決定される。これによって、ドイツ軍が残す最後の予備兵力を使用してしまうこととなった。

[編集] 春の目覚め作戦・降伏

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攻撃に失敗し、LSSAHは、オーストリアに移動し、終戦時アメリカ軍に降伏した。

[編集] 作戦地域

  • 1939/09-1939/?? ポーランド
  • 1939/??-1940/05 ドイツ国内
  • 1940/05-1941/04 フランス
  • 1941/04-1941/?? ブルガリア・ユーゴスラビア・ギリシア
  • 1941/??-1942/07 ソビエト
  • 1942/07-1943/01 フランス
  • 1943/01-1943/07 ソビエト
  • 1943/07-1943/11 オーストリア・イタリア
  • 1943/11-1944/04 ソビエト
  • 1944/04-1945/03 ベルギー・フランス・ドイツ西部
  • 1945/03-1945/05 ハンガリー・オーストリア

[編集] 部隊編成と指揮官

騎士鉄十字章受賞者数:58人
構成人種:ドイツ人

[編集] 部隊名の変遷

  • 1923/??-1923/?? シュタプスヴァッヘ (Stabswache) (突撃隊に属する)
  • 1923/??-1923/11 シュトシュトルップ アドルフ・ヒトラー(Stostrupp Adolf Hitler) (突撃隊配下)
  • 1924/??-1925/?? シュタプスヴァッヘ (Stabswache) (突撃隊から独立)
  • 1925/??-1933/03 シュッツシュタッフェル (Schutzstaffel)
  • 1933/03-1933/05 SSシュタプスヴァッヘ ベルリン(SS-Stabswache Berlin)
  • 1933/05-1933/09 SSゾンダーコマンド ツォセン(SS-Sonderkommando Zossen)
  • 1933/05-1933/09 SSゾンダーコマンド ユーターボク(SS-Sonderkommando Juterbog)
  • 1933/09-1933/11 SSゾンダーコマンド ベルリン(SS-Sonderkommando Berlin)
  • 1933/11-1934/?? ライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte Adolf Hitler)
  • 1934/??-1939/03 ライプシュタンダーテ SS アドルフヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler,LSSAH)
  • 1939/03-1941/?? (自動車化)歩兵連隊 ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー (Infanterie-Regiment (mot.) Leibstandarte SS Adolf Hitler)
  • 1941/??-1942/11 SS(自動車化)師団 ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー (SS-Division (mot.) Leibstandarte SS Adolf Hitler)
  • 1942/11-1943/10 SS装甲擲弾兵師団 ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(SS-Panzergrenadier- Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)
  • 1943/10-1945/05 SS第1装甲師団ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー (1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)

[編集] 指揮官

[編集] 戦闘序列

  • 1940年 (自動車化)歩兵連隊「ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー」
  • 第1大隊 (I. Sturmbann)
  • 第2大隊 (II. Sturmbann)
  • 第3大隊 (III. Sturmbann)
  • 第4警備大隊 (IV. Wachtbatallion)
  • 砲兵連隊 (Artillerie-Regiment)
  • LSSAH装甲車小隊 (Panzerspäh-Zug "LSSAH")
  • LSSAH通信小隊 (Nachrichtenzug "LSSAH")
  • LSSAHオートバイ指揮小隊 (Kradmeldezug "LSSAH")
  • LSSAHオートバイ小隊 (Kraderkundungszug "LSSAH")
  • LSSAH工兵中隊 (Pioniersturm "LSSAH")
  • 装甲突撃中隊 (Panzer-Sturm-Batterie)
  • LSSAH軍楽隊小隊 (Musik-Zug "LSSAH")
  • LSSAH軽歩兵縦列 (Leichte Infanterie-Kolonne "LSSAH")
  • 1942年 装甲擲弾兵師団「ライプシュタンダーテ SS アドルフヒトラー」
  • LSSAH 第1歩兵連隊 (Infanterie-Regiment 1 LSSAH)
  • LSSAH 第2歩兵連隊 (Infanterie-Regiment 2 LSSAH)
  • LSSAH 戦車連隊 (Panzer-Regiment LSSAH)
  • LSSAH 砲兵連隊 (Artillerie-Regiment LSSAH)
  • LSSAH 偵察大隊 (Aufklärungs-Abteilung LSSAH)
  • LSSAH 戦車猟兵大隊 (Panzerjäger-Abteilung LSSAH)
  • LSSAH 突撃砲大隊 (Sturmgeschütz-Abteilung LSSAH)
  • LSSAH 対空砲大隊 (Flak-Abteilung LSSAH)
  • LSSAH 工兵大隊 (Pionier-Bataillon LSSAH)
  • LSSAH 装甲通信大隊 (Panzer-Nachrichten-Abteilung LSSAH)
  • LSSAH 補給部隊 (Versorgungs-Einheiten LSSAH)
  • 1943年 装甲師団「ライプシュタンダーテ SS アドルフヒトラー」
  • SS第1戦車連隊 (SS Panzer-Regiment 1)
  • SS第1装甲擲弾兵連隊LSSAH (Panzer-Grenadier-Regiment 1 "LSSAH")
  • SS第2装甲擲弾兵連隊LSSAH (Panzer-Grenadier-Regiment 2 "LSSAH")
  • SS第1装甲砲兵連隊 (SS Panzer-Artillerie-Regiment 1)
  • SS第1対空砲大隊 (SS Flak Artillerie-Abteilung 1)
  • SS第1ロケット砲大隊 (SS Nebelwerfer-Abteilung 1) (1944年9月時点)
  • SS第1突撃砲大隊 (SS Sturmgeschütz-Abteilung 1)
  • SS第1装甲偵察大隊 (SS Panzer-Aufklärungs-Abteilung 1)
  • SS第1戦車猟兵大隊 (SS Panzerjäger-Abteilung 1)
  • SS第1装甲工兵大隊 (SS Panzer-Pionier-Bataillon 1)
  • SS第1装甲通信大隊 (SS Panzer-Nachrichten-Abteilung 1)
  • SS第1補給部隊 (SS Versorgungs-Einheiten 1)
  • SS第野戦補充大隊 (SS Feldersatz-Bataillon 1) (1944年10月時点)

[編集] 参考文献

  • Ralf Tiemann and Rudolf Lehmann, The Leibstandarte - Volumes I - IV/2 (J.J.Fedorowicz Publishing).
  • Michael Reynolds, Steel Inferno: I SS Panzer Corps in Normandy (New York: Sarpedon, 1997, ISBN 1-885119-44-5; Staplehurst, Kent : Spellmount, 1997, ISBN 1-873376-90-1).
  • Herbert Walther, The 1st SS Armored Division: A Documentation in Words and Pictures (West Chester, Pa.: Schiffer Pub., 1989, ISBN 0-88740-165-1).
  • James J. Weingartner, Hitler's Guard: The Story of the Leibstandarte SS Adolf Hitler, 1933-1945 (Carbondale, Southern Illinois University Press, 1974, ISBN 0-8093-0682-4).
  • Rupert Butler, SS-Leibstandarte: The History of the First SS Division, 1934-45 (Staplehurst, Kent: Spellmount, 2001, ISBN 1-86227-117-8).
  • Michae; Schadewitz, The Meuse First And Then Antwerp (J.J.Fedorowicz Publishing) ISBN 0-921991-44-4.
  • Danny Parker The Last Gamble -スタディブック- (Hobby Japan Co.Ltd,)

[編集] 外部サイト

[編集] 関連項目