プロイセン

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プロイセンドイツ語: Preußenポーランド語: Prusyリトアニア語: Prūsijaプロシア語: Prūsa)は、バルト海南東岸の地域。かつては英語名Prussiaに基づくプロシア(普魯西)の名称も用いられていた。

領域・由来[編集]

ドイツ帝国(1871年 - 1918年)の東プロイセン(赤)の範囲。藍色はプロイセン王国の範囲

プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名ポモージェ、ドイツ名ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセン西プロイセンに分けられる。東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラード(ケーニヒスベルク)がある。プロイセンの住民のほとんどは第二次世界大戦後に逃亡したり追放されたりしてドイツに移住し、領域はロシアとポーランドに分割されたため現在ではプロイセンという地域名は使われていない。

プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人カシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも言われている。

キリスト教伝来[編集]

グニェズノ大聖堂にある聖アーダルベルト(聖ヴォイチェフ)の墓所

977年プラハアーダルベルト司教(聖アーダルベルトまたは聖ヴォイチェフと呼ばれる)によってこの地域にキリスト教が伝えられたがプルーセン人は服さず、アーダルベルト司教は997年4月23日斧で打ち殺された。ピャスト家のポーランド大公ミェシュコ1世とその子でポーランド王国初代国王ボレスワフ1世神聖ローマ皇帝オットー1世やその後継者たちと封建的主従関係を結んだことによりオーデル川(オドラ川)以東の支配権を得たが、プロイセンはその後も長くキリスト教化されなかった。アーダルベルトの遺体はボレスワフ1世がプルーセン人に大金を支払って買い取り、当時のポーランド王国首都ポズナニの郊外の街グニェズノに設置されたポーランド大司教座の大聖堂内の礼拝所に安置された(アーダルベルト司教は故郷のプラハ貴族層と折り合いが悪く、そのためにプラハを離れたのであるが、のちにプラハの貴族たちがポーランド王国に対し遺体の「返還」を要求してきた。当時のポーランド王は心の中ではプラハの貴族たちの要求に呆れ返っていたが、表面上は快く応じ、別人の遺体を聖アーダルベルトのものだとしてプラハに渡した。そのためグニェズノにあるアーダルベルトの墓所とプラハにあるアーダルベルトの墓所の2か所に、アーダルベルトのものとされる頭蓋骨が合計2個あり、グニェズノのものが本物だとされている)。

ドイツ騎士団とポーランド王国[編集]

ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの像
マルボルク城

1217年ころ、マゾフシェ侯コンラート1世は異教徒プルーセン人の平定と教化を企てたが、ローマ教皇の呼びかけにも周辺の諸侯は応じず、クルムラントの領有権と引き換えに協力を申し出たのは当時ハンガリーにいたドイツ騎士団であった。1226年には総長ヘルマン・フォン・ザルツァに率いられたドイツ騎士団による北への遠征が始まる。この征服戦争は北方十字軍とも呼ばれ、改宗に応じない先住民は容赦なく殺戮されるという凄惨なものだった。この人間狩りは次第に商業主義的性格を帯びていき、ドイツ各地の王侯貴族の子弟をプロイセンに呼び寄せて人間狩りと血みどろの虐殺を楽しませるツアー旅行と化し、ドイツ騎士団にとって主な収入源であった。

1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書(現在では偽造だとされる[1])により騎士団のプロイセン領有が認められ、この金印勅書を根拠として1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約ドイツ語版に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認めたため、ドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラードで、後にプロイセン公国、プロイセン王国の首都として発展した。)やトルン(トルニ)、マリエンベルク(マルボルク)、アレンシュタイン(オルシュティン)などに城を築いて拠点とし、ダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)をはじめとした都市からの税収などをもとに騎士団領が発展していった。残忍な征服者に対し先住民は頑強に抵抗し1260年に大反乱、1283年に至ってなお反乱が見られた。だがドイツ騎士団の軍事的優位は動かしがたく、14世紀前半までにプロイセンの大半はキリスト教化された。文字を持たなかったプルーセン人は文字での記録を残さず、生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため、今ではこれら先住民のことはドイツ騎士団が作成した原住民語の記録がいくつか残っているほかは史料が少なく、ほとんど分からない。

グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)

ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割されており、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていた。騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会してきたため人材は豊富で、移民の受け入れも盛んだったためそこからの収益を基にして14世紀中葉には騎士団領は繁栄の頂点にあった。

しかし一方、ドイツ騎士団は異教徒に対する残酷の手を緩めず、当時異教徒であったリトアニア部族国家はキリスト教化を条件にポーランド王国との同盟を持ちかけてきた。当時のローマ教皇もプロイセンにおけるドイツ騎士団の非行を耳にし、調査を開始した。ポーランドピャスト朝の男系が途絶えたときであり、また1306年ごろからドイツ騎士団との間で領土やポメラニア遠征費用を巡って紛争の状態にあった。ポーランド・リトアニア双方の貴族や有力者が会議を開き、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公のヨガイラが結婚して両国が連合することが決定された。ヨガイラはキリスト教洗礼を受けて自称をポーランド風のヤギェウォとしてリトアニア部族国家をリトアニア大公国とし、ヤドヴィガと結婚してヴワディスワフ2世としてポーランド王に即位、ヤドヴィガ女王との夫婦共同君主としてポーランド王国を統治することとなった。ヤギェウォ朝の成立である。北方十字軍の前にはポーランド王国と対立していたプロイセンの原住民であるプルーセン人もポーランド王国とリトアニア大公国の力によってドイツ騎士団の恐怖支配から解放されること望んだ(en:Polish–Lithuanian–Teutonic War)。1410年ポーランド・リトアニア連合グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を討った。翌1411年に結ばれた第一次トルニの和約でドイツ騎士団は領土の一部を失い、多額の金銭を支払い武器を引き渡し、以後ポーランド王国に反抗しないことを約束させられたうえ、プロイセンで行っていた人間狩りや殺戮という残虐行為を禁止させられた。

ドイツ騎士団領プロイセン(1466年、第二次トルニ和約以後の範囲)(黄土色の部分)
紋章は左の白地に黒十字がドイツ騎士団で、右の赤地に白鷲がポーランド王国
ドイツ騎士団がポーランド王国に従属していることを表している

1440年にはドイツ騎士団に反発し自治権を求める都市、世俗諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶からなる自治領連合であるプロイセン連合が発足し、ポーランド王の庇護を受けるようになった。1454年よりポーランド王国とドイツ騎士団との間で再び激しい戦い(十三年戦争)が勃発したがまたもやポーランド側の勝利に終わった。第一次トルニ和約で反抗しないと約束したのにポーランドに戦いを挑んできたドイツ騎士団をポーランドは容赦しなかった。1466年に結ばれた第二次トルニの和約によって大幅な領土割譲が行われ西プロイセンの全域と東プロイセンの一部がポーランド王の領土であるポーランド王領プロイセンとなった。ドイツ騎士団を大幅に弱体化させる措置も取られ、ドイツ騎士団は残された東プロイセンを保ったものの、ドイツ騎士団領はポーランド王に服従する事実上の従属国となった(ドイツ騎士団はローマ教皇直属の修道会であるから、ポーランド王国の一存で解散するわけにはいかなかった)。

西プロイセンに残されたうち昔のローマ教皇から与えられた騎士団の自治権、ポーランド王がこの地域に持つことになった司教の任命権、ポーランド王国がドイツ騎士団に課したポーランド国会(セイム)への参加強制、といったことを巡って1467年から三たび戦争(司祭戦争英語版)が起こったが、1478年にポーランド王国が勝利し、1479年に結ばれたピョトルクフ和約によってこれらの問題が解決し、ドイツ騎士団領に対するポーランド王の支配が確認された。

ポーランド王領プロイセンとドイツ騎士団領にあったプロイセン連合に加盟していた都市や侯領は1466年の第二次トルニ和約以後ポーランド王の全面的な庇護を受けて自治権を確保し大いに繁栄した。ポーランド王領プロイセンでは1772年まで306年間、ドイツ騎士団領(のちにプロイセン公領)では1660年まで194年間ポーランド王国の強い支配権が及び、ポーランド王の庇護によって市民や世俗諸侯の自由、および農民の安全が守られた。

ドイツ騎士団領からプロイセン公領、そしてプロイセン公国へ[編集]

ヤン・マテイコ「プロイセンによる臣従」
1525年伯父のポーランド王ジグムント1世に対して臣従の礼をするプロイセン公アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ

1511年総長に選出された南西ドイツ・シュヴァーベン地方のホーエンツォレルン城一帯出身のホーエンツォレルン家アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは当時のポーランド国王ジグムント1世(王の妹ゾフィア・ヤギェロンカの息子)であった。en:Polish–Teutonic War (1519–21)1525年en:Treaty of Krakówを締結し、彼はルター派に改宗、領内の騎士団を解散して世俗の諸侯となり、伯父のポーランド国王ジグムント1世に臣従の誓いを立てプロイセン公国(領土としてはプロイセン公領)を創始する。1568年、アルブレヒトの死にともなって、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは、アルブレヒトの子アルブレヒト・フリードリヒと共にポーランド国王からプロイセンの共同相続を認められ、同君連合への道を開いた。

1618年プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死によりプロイセンにおけるホーエンツォレルン家は断絶し、プロイセンはヨアヒム・フリードリヒの子ヨーハン・ジギスムント選帝侯がプロイセン公を兼ねる同君連合となる(ブランデンブルク=プロイセン)。このころはまだ選帝侯の領土は各地に分散した飛び地ばかりであり、プロイセンもその1つに過ぎなかった。

17世紀に入ると新興のスウェーデン王国バルト海に勢力を伸ばし、またロシアポーランド王国と対決する。この過程でポーランドは弱体化し、プロイセン公領の自立化が進む。1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯とポーランド王ヤン2世カジミェシュ・ヴァーサとの間でオリヴァ協定が締結され、プロイセン公領はポーランドの宗主権を廃止して独立国家としてのプロイセン公国となった。1679年大選帝侯はスウェーデンよりポンメルンを占領し、ドイツへの影響力を排除した(1720年に獲得)。海軍も強化し、バルト帝国に君臨したるスウェーデンのくびきをいち早く脱して強国への足掛かりを築く。

プロイセン王国[編集]

1701年大選帝侯の子、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴きプロイセン王として即位、フリードリヒ1世となる。当時、三十年戦争で疲弊したとはいえ神聖ローマ帝国の威光はいまだ衰えず、名目上は皇帝の臣下であるブランデンブルク選帝侯が王号を称するには多少の困難があった。そのような僭越が許されたのはスペイン継承戦争に備えて皇帝レオポルト1世が一兵でも多くの軍勢を集めねばならず、フリードリヒ1世が8,000の兵を援軍として送ることを約束したからである。これによりブランデンブルク選帝侯は、帝国の領内ではないプロイセンにおいて王 (König in Preußen) であることが許された。しかしこの称号は神聖ローマ帝国外の国家の王号であって、ブランデンブルク選帝侯が正式に神聖ローマ帝国内の国家の王号であるプロイセン国王 (Könige von Preußen) として認められるには孫のフリードリヒ2世(大王)による西プロイセン獲得を待たねばならなかった。王国においてむしろ北辺に過ぎないプロイセンがこのホーエンツォレルン家の支配する国の名となったのは、プロイセン公国がどの大国にも属さず独立していたからである。そして大北方戦争後期の敗勢のスウェーデンから前ポンメルンを獲得するなど、バルト海地域の勢力図を塗り替えていった。

その後、プロイセン王国はホーエンツォレルン家の支配の下軍事大国への道を歩んでいく。移民を受け入れる伝統は新たな王国に受け継がれ、プロイセン地方にはフランス王国ザクセン公国などから追放された有能なユグノーたちが移住してきて産業を振興させた。1772年にはフリードリヒ大王による第一次ポーランド分割の結果、西プロイセンもプロイセン王国領となった。

解消[編集]

1807年から1871年にかけてのプロイセンの拡大
ヴァイマル共和国時代のプロイセン州

プロイセン王国は19世紀後半さらに勢力を増し、1867年北ドイツ連邦の盟主となる。さらに1871年プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝となったが、皇帝自身はそれがドイツ帝国によるプロイセン王国の併合だと感じ、嫌悪感を隠さなかった。事実プロイセン王国意識は急速に薄れていき、皇帝ヴィルヘルム2世がプロイセン王を名乗ることはもはやほとんどなかった。プロイセン地方もまた大帝国の中では影が薄くなってしまった。

1914年第一次世界大戦が勃発すると東プロイセン南部にロシア軍が侵攻し、ドイツ軍タンネンベルクの戦いで勝利を収め、ロシア軍を撃退した。 1918年第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗戦にともないプロイセン王国はヴァイマル共和国の一邦・プロイセン州となる。西プロイセンはポーランドに割譲されて「ポーランド回廊」と呼ばれ、これによって東プロイセンはドイツ本土と隔てられた飛び地となった。この地域に対するドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。

1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散させられ、プロイセン王国の名残りであった州はナチ党政権下で大管区(ガウ)に分割されて有名無実のものと化した。第二次世界大戦中のプロイセン地方はドイツ軍が劣勢になるにしたがって東部戦線の戦場となり、プロイセンの人々は敗戦直前の混乱の中でソ連軍を恐れて大量の難民となって西方に押し寄せた。このときプロイセンに留まった人々もまた戦勝国の占領政策の対象として土地を追われることになり(ドイツ人追放)、これによってポーランドやロシアなどの住民がプロイセンに移住した。戦争中にナチス・ドイツによってプロイセンから追放されていたポーランド人の多くもプロイセンに帰還した。いわゆる「ドイツ人」ではないスラヴ系の少数民族は追放を免れたが、あまりに激しい人口の入れ替わりのためプロイセン地方固有の文化はほとんど失われた。

終戦後の1947年2月25日連合国管理理事会法令47号によりプロイセン州の解体が宣言されたが、とうの昔にプロイセン国家などというものは存在しなくなっていた。

現在のプロイセン[編集]

戦後、プロイセンの領域はポーランドソ連の二カ国に暫定的に統治されることとなり、東プロイセンのうちリトアニアに接する北部はソ連領(現ロシア連邦カリーニングラード州)、その他の地域はポーランド領となった。旧東プロイセン南部にあたる地域はオルシュティン県庁を置くヴァルミア・マズールィ県となり、旧西プロイセンと旧ポンメルン東端部に当たる地域はグダニスクに県庁を置くポモージェ県に含まれている。

敗戦直前までプロイセンに居住していたバルト・ドイツ人の多くは自発的に避難、あるいは戦後追放されて、ドイツ西部に移住、新天地に溶け込み、その方言や習慣などは故郷を覚えている高齢者のなかで細々と保たれている。戦後の混乱の中で追放されなかった少数の人々もまたポーランドとソ連の支配下ではドイツ人としてのアイデンティティをほとんど放棄せざるを得なかった。ドイツに移住した人々の一部は故郷追放者連盟を組織している。

歴代プロイセン公[編集]

1701年、フリードリヒ1世は「プロイセンの王」(König in Preußen) の称号を獲得した。

以後はプロイセン王国を参照。

脚注[編集]

  1. ^ S. キェニェーヴィチ編 『ポーランド史』 加藤一夫、水島孝生訳、恒文社、1996年、ISBN 978-4-7704-0637-8

関連項目[編集]