北方十字軍
北方十字軍(ほっぽうじゅうじぐん)あるいはバルト十字軍は、カトリックのデンマーク王、スウェーデン王、リヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のことで、すなわち北ヨーロッパおよびバルト海沿岸の異教徒に対して行われたカトリック教会諸国の同盟による遠征である。
スウェーデンとドイツによるルーシ(ノヴゴロド共和国)、フィンランドの一部(ラップランド、カレリア)の正教会地域に対する遠征もまた「北方十字軍」の一部と考えられている。[1]北方十字軍とは、西欧のゲルマン系民族(ドイツ民族)、中欧の西スラヴ系民族(ポーランド民族)、東欧のバルト系民族・東スラヴ系民族・フィン系民族(バルト民族、ロシア民族など)との三元闘争の歴史の最初の局面であったという見方がなされることが多いが、このような視点は正しいとは言えない。これらの人々の間の民族ぐるみの闘争というものは、後の時代である「現代」に発生したものである。実際、当時はドイツ人王国貴族の子弟から成る北方十字軍がプロイセンの支配を巡ってポーランドと対立する一方、ドイツ人市民たちはポーランドとの同盟を望み、さらに多くのドイツ人都市がポーランド王国への積極的加入を実現してポーランド市民となっていった。バルト系であるリトアニアも北方十字軍との闘争を経てポーランドと連合を結成していった。
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背景 [編集]
教皇クレメンス3世の1193年の呼びかけが北方十字軍の公式の発端となったが、それ以前からすでにスカンジナビアのキリスト教国と神聖ローマ帝国は隣接する異教徒の諸国の征服に取りかかっていた。
遠征の対象となった非キリスト教の人々は、様々な時代のものを含めると以下の通りである。
「フィンランド正教会」も参照
- エストニアとラトビア、リヴォニア(ドイツ人とデーン人によって1193年から1227年にかけて征服された)
- リトアニア(13世紀はじめから1316年にかけてドイツ人がキリスト教化しようとしたが失敗した)
- クロニア人(Curonians)とセミガリア人(Semigallians)
- 古プロイセン人
- ポラーブ人(Polabians)と Abotrites (エルベ川とオーデル川の間の民族)
バルト人とバルト海沿岸まで移住していたスラヴ人との間の武力衝突は、十字軍以前から何世紀ものあいだ常態化しており、南のサクソン人と西のデーン人にも波及していた。十字軍以前の戦いは、主に陸上貿易と海上貿易のルートを統制しようという意図によって引き起こされ、バルト地域への経済的優位を確立するための戦いだった。そして、十字軍も基本的にこの衝突のパターンを継承した。軍事作戦は、教皇の呼びかけにより動機を正当化された騎士団と武装僧によって開始された。最初の遠征は聖地に対する第2回十字軍と並行して1100年半ばに着手され、16世紀まで不定期に継続された。
| リーヴ人 |
| バルト人 |
| ヴァイキング |
| 北方十字軍 |
| テッラ・マリアナ / リヴォニア (1207–1561) |
| リヴォニア帯剣騎士団 |
| リヴォニア騎士団 |
| 東方植民 |
| バルト・ドイツ人 |
| クールラント・ゼムガレン公国 (1562-1795) |
| クンタ・キンテ島 (1651-1661) |
| クールラントによるアメリカ大陸の植民地化 |
| リトアニア大公国 |
| ポーランド・リトアニア共和国 (1569-1795) |
| バルト帝国 (1629-1721) |
| 大北方戦争 (1700-1721) |
| ポーランド分割 (1772-1795) |
| ロシア帝国 (1721-1918) |
| 第一次世界大戦 (1914-1918) |
| ブレスト=リトフスク条約 (1918) |
| ラトビア共和国 (1918-1940) |
| バルト諸国占領 (1939) |
| 第二次世界大戦 (1939-1945) |
| ラトビア・ソビエト社会主義共和国 (1940-1990) |
| ラトビア共和国 (1990-) |
リヴォニア、ラトビアおよびエストニアの従属 [編集]
征服と伝道 [編集]
12世紀までに、現在はエストニア、ラトビア、リトアニアとして知られている土地に住んでいた非キリスト教徒の人々は、興隆するキリスト教国(カトリックの西欧諸国と、正教会のロシア諸公国)の間に「異教のくさび」を形成していた。その後150年以上の間、この地域へのドイツ人十字軍の到来にはじまって、エストニアはロシアの諸公国から、またデンマークとスウェーデン王国から13回もの攻撃をうけた。エストニア人の一部はデンマークとスウェーデンに対して反撃を加えた。
アダルベルト(ブレーメン大司教、1054年から1072年)の派遣によって、エストニア人をキリスト教徒に改宗させようとする西方教会の試みもあった。しかし、これら平和的努力は限られた成功しか収めなかったようである。かつてのヴァイキングの交易を引継いだドイツ人商人が勃興し、1180年マインハルトと名乗る僧が今のラトビアにあたるダウガヴァ川の河口に上陸し、1186年には司教に叙階された。
1193年、教皇はバルト海沿岸の異教徒に対する十字軍を布告し、1198年にマインハルトの後継者ベルホルトに率いられた十字軍の使節団がリヴォニア(現在のラトビアのリガ湾に囲まれたところ)に上陸した。十字軍は初戦に勝利したが、ベルホルト司教は瀕死の重傷を負い、十字軍は撃退された。
1199年、アルベルト・フォン・ブクスヘーフェンデンはブレーメン大司教によってバルト諸国のキリスト教化を行うよう任命され、派遣された。アルベルト司教が死ぬまでの30年間に、現在のエストニアとラトビア北部の征服と公式のキリスト教化が完了した。アルベルトは教皇の回勅を携えて神聖ローマ帝国内を巡り、十字軍兵士を募った。この回勅は、バルト海の先住民と戦うことは聖地の十字軍に参加するのと同様の意味があることを宣言するものであった。彼は1200年にダウガヴァ川の河口に、わずか23隻の舟と500人の兵士とともに上陸したが、十字軍募集のための努力は結実し、続けてドイツから多くの兵士が送り込まれた。
初期の十字軍は通常、春の間に戦うために到来し、秋には本国へと帰っていた。恒常的に軍を駐留させるため、リヴォニア帯剣騎士団が1202年に設立された。1201年のアルベルト司教によるリガの市場の開設は帝国から多くの市民をひきつけ、経済的繁栄を実現した。アルベルトの希望により、教皇インノケンティウス3世は、陸軍の徴募を進めるためにバルト海諸国に聖母マリアの名を捧げ、テッラ・マリアナ(マリアランド、聖母の国、Terra Mariana)と名づけた。
リヴォニア人 [編集]
リヴォニア人は東方のポラツァク公国(現ベラルーシ)などのスラヴ人君主国に貢物を送っていた。はじめ彼らはドイツ人を便利な同盟者として考えていたが、ゲルマンのくびきが苛酷だったため同盟を外れ、準王カウポのもとで十字軍に対抗して決起した。リヴォニア人は一敗地に塗れ、リューリク朝の指導者ヴャチコも1206年に囚われの身となった。
その後、ドイツ人は関心をラトガリアの東のラトビア民族に転じた。1208年までにバルト地域におけるドイツ人はエストニアに対して作戦を始めるほどの十分な強さを有していた一方、エストニア人は8つの大きな郡と幾つかの小さな郡に分断されていた。長老によって導かれていたエストニア諸郡は、共同作戦を行うほどの大きな結束力には欠けていた。
1208年から1227年の間、異なる方面からの幾つもの軍団が、リヴォニア、ラトガリアとエストニアの諸郡を暴れ回った。リヴォニア人とラトガリア人は普通十字軍と同盟を組み、エストニア人はその時々で十字軍側と東方のスラヴ人領主側との双方と同盟した。
エストニアの重要拠点である岡の砦は、双方によって幾度となく包囲され占領された。1213年から1215年の3年の休戦期間は、総じてドイツ人にとって一層望ましいものであった。エストニア人が緩やかな同盟のシステムを統一国家へと発展させることができなかった間に、ドイツ人はエストニアでの政治的地位を強めた。1217年9月21日リヴォニアの指導者・準王カウポはViljandi近くの戦いで殺されたが、エストニアも指導者レムビツ(Lembitu)を殺され、壊滅的な敗北を喫した。レムビツは1211年以来、エストニアの特筆すべき長老としてドイツの年代記作家の注目を集めており、エストニアの抵抗の支柱ともなっていた人物であった。
スウェーデンとデンマークの活動 [編集]
デンマークとスウェーデンの両キリスト教王国もまた、バルト海東岸の征服に貪欲であった。スウェーデンは1220年、西エストニアに対して一度だけ侵略したが、失敗に終わった。デンマーク王ヴァルデマー2世は1219年に現在のタリンの近くに上陸し、砦を築いた。この砦は1220年と1223年にエストニア人によって包囲されているが持ちこたえた。結果として、北エストニア全体がデンマークの手中におさまった。
侵略者に対し最後まで粘ったエストニアの郡はサーレマー島にあった島嶼部の郡であり、彼らの艦隊は、ドイツの十字軍との戦いの間にもデンマークとスウェーデンを襲撃したほどであった。1227年1月、サーレマーの艦隊が凍った海に閉じ込められている間に、教皇使節のヴィルヘルム・フォン・モデナ(Wilhelm von Modena)指揮下の20,000人の屈強な陸軍が凍結した海を横断し、サーレマーを滅ぼした。エストニアの征服のあと、十字軍はダウガヴァ川の南と西に住んでいるラトビア民族、クロニアとセミガリアの地に侵攻した。
スウェーデンは、フィンランド南部を併合し、1240年には、ノヴゴロド公国にまで侵攻する。しかし同年にノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーによって敗れ、以後スウェーデンの十字軍活動は収縮して行った。スウェーデン、ノヴゴロドは、現ロシア領のヴィボルグを境に1300年頃まで睨み合いを続けていたが、スウェーデンは、その頃までに十字軍活動を中止した。その後、1323年に両国でシュルッセルブルクの和議が成立し、スウェーデンの十字軍は終了した。
ドイツ騎士団 [編集]
北方十字軍は、12世紀終わりにパレスチナで設立されたドイツ騎士団のドイツ人騎士たちに、成長と拡大のための理論的根拠を提供した。ムスリムによって聖地が再支配され、シリアおよびパレスチナにあった十字軍国家がすべて消え去ったことにより、騎士団は新たな使命をヨーロッパで探していた。また、騎士団は当時拠点としていたハンガリー王国でハンガリー王と対立していた。1226年、異教のプロイセン人の度重なる侵入に悩んでいたポーランドのマゾフシェ公コンラート1世は、騎士たちに東部国境守護とプロイセン平定を依頼した。ドイツ騎士団はマゾフシェ公国の傭兵としてプロイセンを征服すると、リトアニア大公国と戦った。
リヴォニア帯剣騎士団が1236年の太陽の戦いでリトアニア人に敗れたとき、同時にエストニアでも反乱が続発し、リヴォニア騎士団はドイツ騎士団によって吸収合併され、ドイツ騎士団にはバルト海地域を支配した。この支配権の正当性を巡ってはポーランドとの間で争いが発生した。ドイツ騎士団は最終的にリトアニアの征服に失敗したが、リトアニアは1385年、公式にキリスト教に改宗した。しかし、のちのコンスタンツ公会議で示されたようにドイツ騎士団はこのキリスト教化を全く認ず、偽りの改宗であり大罪であるとした。また、プロイセンに居座った騎士団とポーランドとの間の争いも深刻化した。
ドイツ騎士団の、教皇グレゴリウス9世による推薦を受けた、正教会を信奉するロシア(特にプスコフ公国とノヴゴロド公国)に対する征服の試みもまた北方十字軍の一部と考えられている。ロシア征服の試みはロシア人による反撃を受けたが、特に大きな一撃であったのは北東ルーシのアレクサンドル・ネフスキーの軍に敗れた1242年の氷上の戦いである。教皇の祝福を受け、スウェーデンもまた数次にわたり正教のノヴゴロド公国に対する十字軍(スウェーデン・ノヴゴロド戦争)を開始した。
一方、ピャスト家本流の最後の王であったカジミェシュ3世亡き後、ポーランドの貴族たちは強大な権限を持つことになるピャスト家の王を望まず、ピャスト家と血縁のある外国人の王を望んだ。ピャスト家の外戚であるアンジュー家に属するハンガリーのラヨシュ1世(カジミェシュ3世の姉でアンジュー家に嫁いだエルジュビェタの息子)が選ばれ、戴冠はしなかったがルドヴィク(ラヨシュのポーランド語名)として暫定的なポーランドの君主となった。その後、ルドヴィクの娘でまだ幼いヘドヴィグがカジミェシュ3世のポーランド王位を継いで、ポーランド女王ヤドヴィガとして正式に戴冠した。
ポーランドとリトアニアは同盟を画策し、リトアニアのヨガイラ大公がわずか11歳のヤドヴィガ女王と結婚し、ポーランド王ヴワディスワフ2世となった。これによりポーランド・リトアニア連合が成立した。ヴワディスワフ2世はポーランドの貴族たちと契約を結び、王としての自らの政治的権限を大幅に譲歩した。その結果、ポーランドの政治は王でなく、貴族たちが実権を握った。ポーランドとリトアニアはドイツ騎士団との決戦を決めた。そしてポーランド・リトアニア連合は1410年のグルンヴァルトの戦いで騎士団を徹底的に破り、回復し得ない打撃を与えた。
その後、ドイツ騎士団の専制政治を嫌っていたドイツ系住民などはプロイセン連合(または「闘争連合」、「ゲバルト連合」とも呼ばれる)を結成、自由を保障する国是のポーランド王国と同盟してドイツ騎士団と対立した。その後、ドイツ騎士団は何度かポーランドに反抗したが、戦いが起こるたびにことごとく敗北した。騎士団はポーランドに完全に支配され、ついにはポーランドの属国であるプロイセン公国となった。これによりプロイセン連合は連合の目的を遂げたため、連合を解消しポーランド王国に加入し、王国の一般都市となって黄金時代を迎ることになる。
脚注 [編集]
- ^ エリック・クリスチャンセン著『北方十字軍』ニューヨーク : ペンギン・ブックス 1997年 ISBN 0140266534
関連項目 [編集]
- 十字軍
- スウェーデンの歴史
- エストニアの歴史
- フィンランドの歴史
- ラトビアの歴史
- リトアニアの歴史
- カレリア
- スウェーデン=フィンランド
- テッラ・マリアナ
- ノヴゴロド公国
- 汎ゲルマン主義
- 汎スカンディナヴィア主義
- 汎スラヴ主義