ポーランド回廊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポーランド回廊(ポーランドかいろう、ドイツ語: Polnischer Korridor)とは、第一次世界大戦後のポーランド国家復興の際にドイツ国から割譲された領土のうち、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)とドイツ国領プロイセン州に挟まれ、バルト海に面した回廊地帯。
概要[編集]
ポーランド回廊に当たる地域、すなわちプロイセン地方と神聖ローマ帝国領であったポンメルン・ブランデンブルク間は、元々ポーランド王国領であった(ポメラニア東部のポメレリア地方と呼ばれる地域であり、1466年から1772年まではポーランド王領プロシアになっていた)。しかし東方植民運動以来、ドイツ系の影響は数百年にもわたってこの地に及んできた。ポンメルンから、バルト地方にかけて住むドイツ系住民は、バルト・ドイツ人(あるいはチュートン人)と呼ばれ、またプロイセンに住むドイツ人はプロイセン人と呼ばれた。1772年~1795年に起こったポーランド分割の際はプロイセン王国領となっている。
連合国の戦後構想ではポーランドの復活が前提とされていたが、その際の根拠としてウィーン会議で決定された、ロシア帝国支配下のポーランド王国を領域とすることになった。しかしこの状態のポーランドは、北東側のバルト三国、北側はプロイセン王国の東プロイセンと西プロイセンによってバルト海への出口が塞がれていた。このためアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが十四か条の平和原則でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドのバルト海への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立をヴェルサイユ条約によって受け入れることとなった。
ポーランド回廊一帯の住民は、東のプロイセンや西のポンメルンと比べると、カシューブ人やポーランド人といったスラブ系人の割合が比較的多かった。しかし文化的にはドイツ人の影響の濃い地域でもあり、ドイツ人の数も都市部を中心に無視できないほど大きかった。ポーランド回廊の設定によって領土を東西に分割されたドイツ人、特に東プロイセンの怒りは大きく、ポーランドはナチス・ドイツの絶好の攻撃対象となった。第二次世界大戦でドイツが敗れると、東プロイセンはポーランド領となり、ポーランドの海に面した地域は大きくなったため、回廊地帯は解消された。また赤軍によってこの地域のドイツ人は追放された。