ポーランド回廊

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ポーランド回廊と周辺の状況 1920年の国境線を示した地図。ドイツ領は桃色で、ポーランド領は黄色で示されている。ポーランド領のうち西北端のバルト海に面した細長い部分をポーランド回廊と呼ぶ
ポーランド回廊付近拡大図

ポーランド回廊(ポーランドかいろう、ドイツ語: Polnischer Korridor)とは、第一次世界大戦後のポーランド国家復興の際にドイツ国から割譲された領土のうち、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)とドイツ国領プロイセン州に挟まれ、バルト海に面した回廊地帯

概要[編集]

ポーランド回廊に当たる地域、すなわちプロイセン地方と神聖ローマ帝国領であったポンメルンブランデンブルク間は、元々ポーランド王国領であった(ポメラニア東部のポメレリア地方と呼ばれる地域であり、1466年から1772年まではポーランド王領プロシアになっていた)。しかし東方植民運動以来、ドイツ系の影響は数百年にもわたってこの地に及んできた。ポンメルンから、バルト地方にかけて住むドイツ系住民は、バルト・ドイツ人(あるいはチュートン人)と呼ばれ、またプロイセンに住むドイツ人はプロイセン人と呼ばれた。1772年~1795年に起こったポーランド分割の際はプロイセン王国領となっている。

連合国の戦後構想ではポーランドの復活が前提とされていたが、その際の根拠としてウィーン会議で決定された、ロシア帝国支配下のポーランド王国を領域とすることになった。しかしこの状態のポーランドは、北東側のバルト三国、北側はプロイセン王国東プロイセン西プロイセンによってバルト海への出口が塞がれていた。このためアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン十四か条の平和原則でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドのバルト海への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立をヴェルサイユ条約によって受け入れることとなった。ヴィスワ川の河口に近い港湾都市ダンツィヒ(後のグダニスク)はドイツ人が大多数を占める街だったが、ポーランドも海運・水運をダンツィヒに依存しているため双方が譲らず、結局ポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「自由都市ダンツィヒ」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まったため、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸にあるグディニャという小さな港町に当時最先端の埠頭を建設して100%ポーランドが管理できる港を作りあげ、ダンツィヒと激しく競合するようになった。

ポーランド回廊一帯の住民は、東のプロイセンや西のポンメルンと比べると、カシューブ人ポーランド人といったスラブ系人の割合が比較的多かった。しかし文化的にはドイツ人の影響の濃い地域でもあり、ドイツ人の数も都市部を中心に無視できないほど大きかった。ポーランド回廊の設定によって領土を東西に分割されたドイツ人、特に東プロイセンの怒りは大きく、ポーランドはナチス・ドイツの絶好の攻撃対象となった。第二次世界大戦でドイツが敗れると、東プロイセンはポーランド領となり、ポーランドの海に面した地域は大きくなったため、回廊地帯は解消された。また赤軍によってこの地域のドイツ人は追放された。

関連項目[編集]