ウッドロウ・ウィルソン

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ウッドロウ・ウィルソン
Woodrow Wilson (Nobel 1919).jpg


アメリカ合衆国大統領
任期 1913年3月4日 – 1921年3月4日
副大統領 トーマス・R・マーシャル


ニュージャージー州知事
任期 1911年1月17日 – 1913年3月1日

任期 1902年 – 1910年

出生 1856年12月28日
バージニア州スタントン
死去 1924年2月3日(67歳)
ワシントンD.C.
政党 民主党
配偶者 エレン・アクソン・ウィルソン
イーディス・ボーリング・ガルト・ウィルソン
署名 Woodrow Wilson Signature 2.svg

トーマス・ウッドロウ・ウィルソンThomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国政治家政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領。

概要[編集]

進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選では共和党セオドア・ルーズベルトウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州ウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ英語版と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[1][2]

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジミール・レーニン平和に関する布告に対抗して十四か条の平和原則を発表、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ウィルソンは第一次世界大戦におけるリーダーシップから、最も偉大な大統領の一人として見なされる[3]

生い立ち[編集]

ウィルソンは1856年12月28日に牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目、長男としてバージニア州スタントンで生まれる[4]。彼の祖先はスコットランド人およびスコッチ=アイリッシュであった。父方の祖父母は1807年に北アイルランドティロン州ストラベーンから移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。

母親はペイズリー出身のトーマス・ウッドロウ博士と、グラスゴー出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、カーライルで生まれた[5]。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった[6]

ウィルソンの父親はオハイオ州スチューベンビル出身で、そこでは祖父がウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった[7]。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、連合国を支持した。父親は奴隷制を擁護し、奴隷を所有、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した[8]。ウィルソンの最も初期の記憶は、エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、戦争が始まったことであった。ウィルソンはロバート・E・リーの横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった[8]

ウィルソンの父親は1861年にアメリカ合衆国長老教会から分裂した南長老教会の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代の常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めたジョージア州オーガスタで成長した[9]。父親は彼に牧師の後を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった[10]

ウィルソンはディスレクシアの為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった[11]。しかしながらそれを克服するため、速記を独学で覚えた[12]。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父親の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った[13]レコンストラクションの間はサウスカロライナ州の州都コロンビアで暮らし、父親は同地でコロンビア神学校の教授を務めた[14]

ウィルソンは1873年にノースカロライナのデイヴィッドソン大学で学び、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。彼はファイ・カッパ・サイのメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、ヘンリー・ルーシーであった。彼はアメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティの活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した[15]

1879年、ウィルソンはバージニア大学で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、バージニア・グリー・クラブおよびジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティの活動に深く関わり、会長を務めた[16]。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、ウィルミントンの自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた[17]

ニュージャージー州知事〜大統領へ[編集]

ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党ウィリアム・タフトセオドア・ルーズベルトはお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。

大統領職[編集]

ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。

任期一期目でウィルソンは連邦準備法英語版連邦取引法英語版クレイトン法農業信用法英語版および1913年歳入法英語版に基づく初めての連邦の累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンはその政権に多くの南部人を起用し、彼らによる多くの連邦機関における隔離の拡大を許容した[18]

第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した(彼の再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込みませんでした」であった)。しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。

1917年に彼は南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債英語版を発行して何十億ドルもの戦費を調達、戦時産業局英語版を設置し、労働組合の成長を促進、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継ぎ、最初の連邦政府による麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。彼は1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情の波を奨励しなかったが、その動きを止めることもしなかった。

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際連盟創設への貢献[19][20]

第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会(上院)の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種的差別撤廃提案に対し、イギリスオーストラリアが反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。

このことから、彼の唱える進歩的自由主義は白人のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会(上院)の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が人種差別撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。いずれにせよ、彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。

内閣[編集]

ホワイトハウスのポートレイト
職名 氏名 任期
大統領 ウッドロウ・ウィルソン 1913 - 1921
副大統領 トーマス・マーシャル 1913 - 1921
国務長官 ウィリアム・ブライアン 1913 - 1915
  ロバート・ランシング 1915 - 1920
  ベインブリッジ・コルビー 1920 - 1921
財務長官 ウィリアム・マカドゥー 1913 - 1918
  カーター・グラス 1918 - 1920
  デイヴィッド・ヒューストン 1920 - 1921
陸軍長官 リンドリー・ガリソン 1913 - 1916
  ニュートン・ベイカー 1916 - 1921
司法長官 ジェームズ・マクレイノルズ 1913 - 1914
  トーマス・グレゴリー 1914 - 1919
  ミッチェル・パルマー 1919 - 1921
郵政長官 アルバート・バーレソン 1913 - 1921
海軍長官 ジョセファス・ダニエルズ 1913 - 1921
内務長官 フランクリン・レーン 1913 - 1920
  ジョン・パイン 1920 - 1921
農務長官 デイヴィッド・ヒューストン 1913 - 1920
  エドウィン・メリディス 1920 - 1921
商務長官 ウィリアム・レッドフィールド 1913 - 1919
  ジョシュア・アレグザンダー 1919 - 1921
労働長官 ウィリアム・ウィルソン 1913 - 1921


政権末期[編集]

イーディス・ウィルソン夫人(右)と

もともと偏頭痛が持病であったが、1919年10月2日、コロラド州脳梗塞を発症、一命を取りとめたが、左半身不随、左側視野欠損、言語症と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期頃になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事勿れ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。

こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。

結婚[編集]

エレン・ルイーズ夫人

1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。

1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。

[編集]

1921年、ウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.のエンバシー・ロウにある自宅に移った。ウィルソンは毎日のドライブを続け、土曜の夜はキースのボードビル劇場に通った。ウィルソンはアメリカ歴史協会の会長を務めた2人の大統領の一人であった(もう一人はセオドア・ルーズベルト[21]

ウィルソンは1924年2月3日に自宅で死去した。彼はワシントン大聖堂に埋葬された。彼はワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領である[22]

妻のイーディスは夫の死後37年間を自宅で過ごし、1961年12月28日に死去した。その日はワシントンD.C.近くのウッドロウ・ウィルソン記念橋開通式典開催日で、彼女は式典の主賓であった。彼女は愛犬のルーターを枕元において死去した。

イーディスはアメリカ合衆国ナショナル・トラスト英語版に自宅を、夫の記念博物館にするよう託した。ウッドロウ・ウィルソン・ハウス英語版は博物館として公開される。1964年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、1966年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された[23]

ウィルソンは1917年5月31日に遺書を執筆し、妻イーディスを執行者に指名した。彼は娘のマーガレットに独身でいる限り毎年2,500ドルの年金を残し、前妻の動産も娘に託した。残りの財産と不動産はイーディスに相続させ、イーディスの死後に娘達が等分に相続するようにとした。イーディスに子供がいた場合、彼女の子供はウィルソンの娘と同等に遺産を相続したであろう。イーディスには子供がいなかったので、ウィルソンは彼女が三度目の結婚で子供を作った場合に備えていた[24]

その他[編集]

  • ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 プリンストン大学公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。
ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル紙幣
  • ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで10万ドル紙幣 ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン (USS Woodrow Wilson, SSBN-624) も彼にちなんで命名されたもの。
  • 現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
  • 伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
  • 議会での口頭による一般教書演説を、ワシントン以来124年ぶりに行っている。

脚註[編集]

  1. ^ 『行政学』、間渕勝、有斐閣、2009年、p.532
  2. ^ 『行政学』、西尾勝、有斐閣、2001年、p.28
  3. ^ John Morton Blum, Woodrow Wilson and the Politics of Morality (1956); Richard M. Gamble, "Savior Nation: Woodrow Wilson and the Gospel of Service", Humanitas Volume: 14. Issue: 1. 2001. pp 4+; Cooper, Woodrow Wilson (2009) p 560.
  4. ^ John Milton Cooper, Woodrow Wilson: A Biography (2009) pp 13-19
  5. ^ Genealogy of President Woodrow Wilson”. Wc.rootsweb.ancestry.com. 2010年9月11日閲覧。
  6. ^ President Wilson House, Dergalt”. Northern Ireland - Ancestral Heritage. Northern Ireland Tourist Board. 2011年2月11日閲覧。
  7. ^ Walworth 1958 p. 4
  8. ^ a b Woodrow Wilson - 28th President, 1913-1921”. PresidentialAvenue.com. 2011年2月11日閲覧。
  9. ^ White, William Allen (2007-03-15). “Chapter II: The Influence of Environment”. Woodrow Wilson - The Man, His Times and His Task. ISBN 9781406776850. http://books.google.com/?id=pXYqVxLyRrwC&printsec=frontcover&dq=Woodrow+Wilson:+The+Man,+His+Times+and+His+Task#PPA28,M1. 
  10. ^ Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」岸田秀訳(紀伊国屋書店、1969年)
  11. ^ Wilson: A Portrait”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
  12. ^ Woodrow Wilson, Episode One: He Was a Quiet Man (transcript)”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
  13. ^ Link Road to the White House pp. 3-4.
  14. ^ Walworth ch 1
  15. ^ Link, Wilson I:5-6; Wilson Papers I: 130, 245, 314
  16. ^ The World's Work: A History of our Time, Volume IV: November 1911-April 1912. Doubleday. (1912). pp. 74-75. 
  17. ^ Cranston 1945
  18. ^ Wolgemuth, Kathleen L. (1959). “Woodrow Wilson and Federal Segregation”. The Journal of Negro History 44 (2): 158-173. doi:10.2307/2716036. ISSN 00222992. http://jstor.org/stable/2716036. 
  19. ^ "The Nobel Peace Prize 1919". Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.
  20. ^ Lundestad, Geir (2001-03-15). "The Nobel Peace Prize, 1901–2000". Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.
  21. ^ David Henry Burton. Theodore Roosevelt, American Politician, p.146. Fairleigh Dickinson University Press, 1997, ISBN 0-8386-3727-2
  22. ^ John Whitcomb, Claire Whitcomb. Real Life at the White House, p.262. Routledge, 2002, ISBN 0-415-93951-8
  23. ^ "Woodrow Wilson House", National Park Service Website, accessed 12 Jan 2009
  24. ^ Wills of the U.S. Presidents, edited by Herbert R Collins and David B Weaver (New York: Communication Channels Inc., 1976) 176-177, ISBN 0-916164-01-2.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
ウィリアム・タフト
US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国大統領
1913年3月4日 - 1921年3月4日
次代:
ウォレン・ハーディング
先代:
ジョン・フランクリン・フォート
Flag of New Jersey.svg ニュージャージー州知事
1911年1月17日 - 1913年3月1日
次代:
ジェームズ・フェアマン・フィールダー
(代行)
党職
先代:
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
民主党大統領候補
1912年, 1916年
次代:
ジェイムズ・コックス
先代:
フランク・S・カッツェンバック
民主党ニュージャージー州知事候補
1910年
次代:
ジェームズ・フェアマン・フィールダー
学職
先代:
フランシス・L・パットン
プリンストン大学総長
1902年 - 1910年
次代:
ジョン・A・スチュワート (代行)
ジョン・グリアー・ヒベン
受賞や功績
先代:
ジュリオ・ガッティ=カザッツァ
タイム誌の表紙となった人物
1923年11月12日
次代:
エーリヒ・ルーデンドルフ
先代:
赤十字国際委員会
ノーベル平和賞受賞者
1919年
次代:
レオン・ブルジョワ