レオン・ブルジョワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
レオン・ブルジョワ

レオン・ブルジョワ(Léon Victor Auguste Bourgeois, 1851年5月21日 - 1925年9月29日)はユダヤ系フランス人の政治家である。

ブルジョワはパリで生まれ、法律を学んだ。1876年から下級官庁で公共事業の仕事をした後、1882年にタルヌ県の、1885年にオート=ガロンヌ県の知事を経験してパリに戻り内務省に入った。1887年11月にジュール・グレヴィー大統領が辞任した危機の際には警察の長官を務めた。翌年彼はジョルジュ・ブーランジェに対抗してマルヌ県の代議士に選出され新左翼の政党に加盟した。シャルル・フロケ内閣では1888年から1889年に辞任するまで内務大臣の秘書官を務め、その後は議会に戻った。ピエール・ティラール内閣では内務大臣を務め、1890年3月18日からのシャルル・ド・フレシネ内閣では教育大臣を務めた。この地位を利用して、彼は1890年に重要な第二次教育改革を行った。

1892年に始まった次のエミール・ルーベ内閣でも席を保持し、その年の暮れに成立したアレクサンドル・リボ内閣ではパナマスキャンダルが起こっている中、司法大臣を務めた。彼はパナマ側の起訴を積極的に進め、証拠を得るため被告の妻の一人に不当な圧力をかけるほどだった。1893年に辞任したが、フレシネ内閣が終わると再び復帰した。

1895年11月、彼は左翼の内閣を結成したが、大統領が上院の選挙を拒否したことから憲法の危機がおき、崩壊した。ブルジョワ内閣は、世論の力で上院に対する違憲状態も乗り越えられると考えていたらしいが、世論は無関心で結局上院が勝利した。1898年からはアンリ・ブリッソン内閣で再び教育大臣を務め、大人のための初等教育コースを整備した。1899年と、1907年のハーグ平和会議ではフランス代表を務め、1903年に常設仲裁裁判所の判事に任命された。

彼はピエール・ワルデック=ルソーエミール・コンブの政権争いからは距離を置き、外国を旅した。1902年と1903年には国民議会の議長に選ばれた。1905年にマルヌ県の上院議員となると、1906年5月からフェルディナン・サリアン内閣で外務大臣を務め、アルヘシラス会議でのフランスの立場を支持した。

第一次世界大戦後は国際連盟の委員会の委員長を務めるなどして、1920年にノーベル平和賞を受賞した。フランス代表として出席した国際連盟委員会に関するパリ講和会議では日本代表が提示した人種差別撤廃案に強く賛同した。[1]

脚注[編集]

  1. ^ Power and Prejudice, The Politics and Diplomacy of Racial Discrimination, Paul Gordon Laumen ISBN 0-8133-0678-7
先代:
アレクサンドル・リボ
フランスの首相
1895年 - 1895年
次代:
ジュール・メリーヌ