ジョージ・H・W・ブッシュ
| ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ George Herbert Walker Bush |
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| 任期: | 1989年1月20日 – 1993年1月20日 |
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| 副大統領: | ダン・クエール |
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| 任期: | 1981年1月20日 – 1989年1月20日 |
| 元首: | ロナルド・レーガン大統領 |
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| 出生: | 1924年6月12日(87歳) |
| 政党: | 共和党 |
| 配偶者: | バーバラ・ピアーズ・ブッシュ |
| サイン: | |
ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - )は、アメリカ合衆国の第43代副大統領および第41代大統領(1989年~1993年)。日本では、第43代大統領でありファーストネームが同じである長男のジョージ・ウォーカー・ブッシュと区別するために、「父ブッシュ」「大ブッシュ」「ブッシュ・シニア」と呼ばれることもある。2011年現在、存命中のアメリカ大統領経験者では最高齢。
目次 |
[編集] 人物・来歴
ジョージ・ブッシュは、プレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の息子として生まれた。父親はコネチカット州のリベラルな共和党上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン」に在籍していた。
ブッシュは高校卒業後、国への義務を果たすべく海軍に志願する。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。1942年より太平洋戦線に従軍しており、少尉時代の1944年マリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機アベンジャーを撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。二度目の際には敵地近くであり、同乗していたウィリアム・ホワイトとジョン・デラニーは戦死し自身も捕虜になる危機を迎えたが当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助され、その後しばらくフィンバックで勤務した。後に航空殊勲十字章などいくつかの勲章を受章した。その後大尉にまで昇進し退役。エール大学に進学し、4年次には有名なクラブに所属している。
1945年1月6日にバーバラ・ピアスと結婚し、6人の子供をもうけた。
- ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush, 1946年7月6日 - 第43代大統領)
- ポーリン・ロビンソン「ロビン」・ブッシュ('Pauline Robinson "Robin" Bush, 1949年12月20日 - 1953年10月11日。白血病で死去。)
- ジョン・エリス「ジェブ」・ブッシュ(John Ellis "Jeb" Bush, 1953年2月11日 - フロリダ州知事)
- ニール・マローン・ブッシュ (Neil Mallon Bush)
- マーヴィン・ブッシュ (Marvin Bush)
- ドロシー・ウォーカー・ブッシュ・コッチ(Dorothy Walker Bush Koch, 1959年8月18日 - )
父親の上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事および大統領、三男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズおよびケネディ家と比較された。
長男のW(ウォーカー)は父H(ハーバート)が22歳という若さで誕生しており、息子が任期中に生存している珍しい例になった。H(ハーバート)は眼鏡をかける事が多いのが特徴である。
[編集] 政治経歴
1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。
ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。ブッシュは70年代を通してリチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォード大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所長)、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。
[編集] 副大統領(1981年 - 1989年)
1980年に彼は共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこで彼はレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗。党大会直前に、レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。
ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも銃撃事件をきっかけにブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。
ブッシュは外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であった。
[編集] 1988年の大統領選挙
2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、マサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。
→ 詳細は「1988年の大統領選挙」の項を参照。
[編集] 大統領職
1989年1月、第41代大統領に就任した父ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。彼はその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権に対する侵攻を決意する(パナマ侵攻)。12月、2万4千人の米軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕されアメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大葬の礼」に出席した。1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。
マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にサッダーム・フセインの率いるイラク軍が隣国クウェートへ突如侵攻すると、国際連合はイラクの侵略行為を非難する決議を発表。米軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した(湾岸戦争)。1991年1月17日の多国籍軍によるイラク空爆により、湾岸戦争は本格化した。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、父ブッシュの支持率は急上昇した。
1991年2月28日に湾岸戦争に勝利し、対外的成果を強調して1992年の大統領選挙に挑んだ父ブッシュであったが、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙で公約した「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出るなどの条件が重なり、民主党のビル・クリントンに敗北した。
[編集] 1992年の大統領選挙
再選をかけた1992年の大統領選ではアーカンソー州知事のビル・クリントンに惜敗。現職大統領としては1976年のフォード、1980年のカーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。
→ 詳細は「1992年の大統領選挙」の項を参照。
[編集] 大統領退任後
左から息子のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)、本人、施工主ノースロップ・グラマン社長のマイク・ペタース、娘のドロシー・ブッシュ・コッチ。2006年10月7日。
大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからは、その妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。
そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、同じ「元大統領」としてブッシュをさまざまな非政治的な式典や被災地の慰問などに誘った。そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスタープレジデントが三人もいるんですよ」と評したこともある。
ブッシュは1期限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設や艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したビル・クリントンの名は忌避される傾向にある)。1997年には地元テキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。存命中の元大統領の名前が合衆国海軍の艦船に冠せられるのは、カーター、レーガンに続き史上3人目。
[編集] 逸話
[編集] 訪日時の事件
1992年1月7日の来日では、今上天皇、内閣総理大臣宮澤喜一とそれぞれ会談した。この来日では、最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日、今上天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。翌日、首相官邸には諸外国のプレスが大挙して押しかけたが、膝に嘔吐された当の宮澤が堪能な英語で淡々と記者会見を行っている。
[編集] ブロッコリー嫌い
大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したことに怒ったブロッコリー農家から、トラックで大量のブロッコリーを送りつけられたことがある。このシーンは全世界のニュース番組で話題となっていた。
[編集] 撃墜体験
太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から僚機と共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。降下中に乗機は被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、目標に爆弾投下後にパラシュート脱出した。同乗者1名は脱出できず、もう1名はパラシュートが開かず戦死。父ブッシュは3日間、太平洋を孤独裏に漂流し、他の4人のパイロットとともに潜水艦フィンバックに救助された。
なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、8人の米軍兵士が捕虜として日本兵により人肉食されていたことが戦後の裁判で明らかになり、日本国民はその事実に驚愕することになる。この小笠原事件は、ブッシュの対日観に長いこと影を落としたといわれている。敵将であった昭和天皇の葬儀に参列したが、ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。またブッシュ機を撃墜した砲台だが、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった[1]。
[編集] 父ブッシュ政権の大統領顧問団
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ジョージ・H・W・ブッシュ | 1989 - 1993 |
| 副大統領 | ダン・クエール | 1989 - 1993 |
| 国務長官 | ジェイムズ・ベイカー | 1989 - 1992 |
| ローレンス・イーグルバーガー | 1992 - 1993 | |
| 財務長官 | ニコラス・ブレイディ | 1989 - 1993 |
| 国防長官 | リチャード・チェイニー | 1989 - 1993 |
| 司法長官 | リチャード・ソーンバーグ | 1989 - 1991 |
| ウィリアム・バー | 1991 - 1993 | |
| 内務長官 | マヌエル・ルージャン | 1989 - 1993 |
| 商務長官 | ロバート・モスバカー | 1989 - 1992 |
| バーバラ・フランクリン | 1992 - 1993 | |
| 労働長官 | エリザベス・ドール | 1989 - 1991 |
| リン・マーティン | 1991 - 1993 | |
| 農務長官 | クレイトン・キース・ヤイター | 1989 - 1991 |
| エドワード・レル・マディガン | 1991 - 1993 | |
| 保健福祉長官 | ルイス・ウェイド・サリヴァン | 1989 - 1993 |
| 教育長官 | ラウロ・フレッド・カヴァゾス | 1989 - 1990 |
| アンドルー・ラマー・アレグザンダー | 1991 - 1993 | |
| 住宅都市開発長官 | ジャック・ケンプ | 1989 - 1993 |
| 運輸長官 | サミュエル・スキナー | 1989 - 1991 |
| ジェームズ・ブゼイ | 1991 - 1992 (代理) | |
| アンドルー・カード | 1992 - 1993 | |
| エネルギー長官 | ジェームズ・ワトキンス | 1989 - 1993 |
| 退役軍人長官 | エドワード・ダーウィンスキー | 1989 - 1992 |
| アンソニー・プリンシピ | 1992 - 1993 (代理) | |
[編集] 脚注
- ^ 多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』123-126頁(三笠書房、1993)
[編集] 関連項目
- ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(長男、第43代アメリカ合衆国大統領)
- ジェブ・ブッシュ(次男、第43代フロリダ州知事)
- バーバラ・ピアーズ・ブッシュ
- アメリカ中央情報局(CIA)(元長官)
- マルタ会談
- 湾岸戦争
- 全米ライフル協会
- ボブ・ドール
[編集] 外部リンク
- Inaugural Address
- Photos of George Bush during the Gulf War.
- The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web
- Audio recordings of Bush's speeches
- Page discussing the scanner story
- George Bush: The Unauthorized Biography by Webster G. Tarpley & Anton Chaitkin
- George Bush's political donations
- White House biography
- Medical and Health History of George H. W. Bush
- プロジェクト・グーテンベルクにおけるGeorge Bushの作品
- ブッシュ ジョージ:作家別作品リスト(青空文庫)
- 地上放火を浴びた兄島瀬戸東口の風景
- 2002年に父島と硫黄島を訪問した折の記念植樹のノヤシ
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ロナルド・レーガン |
第41代:1989 - 1993 |
次代: ビル・クリントン |
| 先代: ウォルター・モンデール |
1985年7月13日に大統領代行 第43代:1981 - 1989 |
次代: ダン・クエール |
| 先代: ウィリアム・コルビー(en) |
第11代:1976 - 1977 |
次代: スタンズフィールド・ターナー (en) |
| 外交職 | ||
| 先代: フランソワ・ミッテラン フランス |
先進国首脳会議議長 1990年 |
次代: ジョン・メージャー イギリス |
| 先代: デービッド・ブルース (en) |
1974 - 1976 |
次代: トーマス・ゲイツ・ジュニア (en) |
| 先代: チャールズ・W・ヨスト (en) |
第10代:1971 - 1973 |
次代: ジョン・A・スカーリー (en) |
| 党職 | ||
| 先代: ロナルド・レーガン |
共和党大統領候補者 1988、1992 |
次代: ボブ・ドール |
| 先代: ボブ・ドール |
共和党副大統領候補者 1980、1984 |
次代: ダン・クエール |
| 先代: ボブ・ドール |
共和党全国委員会委員長 第48代:1973 - 1974 |
次代: メアリー・スミス (en) |
| 先代: ロイ・ウィッテンバーグ |
共和党テキサス州上院議員候補者 1964、1970 |
次代: アラン・スティールマン (en) |
| 受賞 | ||
| 先代: ルドルフ・ジュリアーニ |
ロナルド・レーガン自由賞 2007 |
次代: ナタン・シャランスキー |
| 名誉職 | ||
| 先代: ジェラルド・フォード |
アメリカ合衆国大統領経験者の最高齢 2006 - |
次代: (現行記録保持者) |
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