ジョージ・マクレラン

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ジョージ・B・マクレラン
George B. McClellan
1826年12月3日 - 1885年10月29日

渾名 リトル・マック
生誕地 ペンシルバニア州フィラデルフィア
死没地 ニュージャージー州オレンジ
所属組織 アメリカ合衆国
軍歴 1846 - 1864
最終階級 少将アメリカ陸軍総司令官
指揮 ポトマック軍
戦闘 米墨戦争
南北戦争
除隊後 ニュージャージー州知事

ジョージ・ブリントン・マクレラン (George Brinton McClellan, 1826年12月3日 - 1885年10月29日) は南北戦争中の北軍(Union Army)の少将。有名なポトマック軍を編成し、1861年11月から1862年3月の短い期間に北軍の最高司令官を務めた。

[編集] 経歴

南北戦争の初期、マクレランは北軍の部隊を訓練して育てる重要な役割を演じた。しかし、マクレランは計画と準備においては綿密であったが、この彼の特徴は、動きの速い戦場の環境で攻撃してくる敵軍に対して挑戦する彼の才能を妨げた。彼は慢性的に敵部隊の強さを過大評価し、一般的な原則を適用することに気乗りがしなかったため、彼の軍の大部分は、決定的な戦地でもたびたび先約のないまま残されがちだった。

1862年のマクレランの半島戦役は、ロバート・E・リー将軍のより小規模な軍隊に、自軍より多くの損害を与えることに成功したが、連合国首都のリッチモンドを占領する計画には失敗した。凄惨なアンティータムの戦いでの彼の活躍は、リー将軍によるメリーランドへの侵略を阻止したが、しかし兵力で勝っていたにもかかわらず、リーに引き分けと破壊の回避を許してしまった。これは、リーと戦った北軍の将軍が、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたことからすれば、極めて健闘したと言える。しかし結果として、戦闘中のマクレランのリーダーシップは、エイブラハム・リンカーン合衆国大統領に疑問視され、最終的に彼はまず最高司令官を解任され、次にポトマック軍から解雇された。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も有名な司令官であった。

マクレランはリンカーンの信頼を維持することにも失敗し、苛立たしいほどに最高司令官に服従しなくなった。解任された後、マクレランは1864年の大統領選挙でリンカーンと争う民主党の指名候補になって、敗れた。民主党は戦争の終結と連合国との交渉を公約した反戦の政治要項を掲げたが、マクレランは彼の戦役の有効性へダメージがあるとしてこれを否定せざるを得なかった。彼は1878年から1881年まで第24代ニュージャージー州知事を務めた。彼は最終的には作家になり、半島戦役と南北戦争の間の自らの行動を擁護した。

[編集] 評価

現代の歴史家のほとんどは、マクレランを戦場の将校としてあまり評価していないが、それでも少数の歴史家は、マクレランはきわめて有能な司令官であり、アメリカ合衆国の逆行のスケープゴートを必要とした親リンカーンの支持者の手による不公正さによって彼の名声が苦しめられた、と声高に主張する。

このように、彼の評価は簡単なカテゴリー化を難しくしている。戦争の後、ユリシーズ・グラントはマクレランを将校として評価するかと訊ねられ、「マクレランは私にとって戦争の謎のひとつだ」と応えた。またロバート・E・リーは、北軍で最高の将軍は誰かと訊ねられ、「マクレランだな、文句なしに」と即答した。所詮用兵の素人でしかないほとんどの歴史家の言葉と、用兵家として南北戦争で最高の名声を得たリーの言葉と、どちらを信じるかの問題でもある。

[編集] 外部リンク


先代:
アービン・マクドウェル
ポトマック軍司令官
1861 - 1862
次代:
アンブローズ・バーンサイド
先代:
ウィンフィールド・スコット
アメリカ陸軍総司令官
1861 - 1862
次代:
ヘンリー・ハレック
先代:
ジョセフ・ビードル
ニュージャージー州知事
1878 - 1881
次代:
ジョージ・ラドロウ