ジョージ・マクレラン
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ジョージ・B・マクレラン
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第24代 ニュージャージー州知事
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| 任期 1878年1月15日 – 1881年1月18日 |
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| 前任者 | ジョセフ・ビードル |
| 後任者 | ジョージ・ラドロウ |
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| 出生 | 1826年12月3日 ペンシルベニア州、フィラデルフィア |
| 死亡 | 1885年10月29日(58歳) ニュージャージー州、オレンジ |
| 政党 | 民主党 |
| 配偶者 | エレン・メアリー・マーシー・マクレラン |
| 母校 | アメリカ陸軍士官学校 |
| 専業 | 軍人(将官) |
| 信仰 | 長老派教会 |
| 署名 | |
| 兵役経験 | |
| 渾名 | リトル・マック、若きナポレオン |
| 所属組織 | ユニオン |
| 部門 | |
| 軍歴 | 1846年 - 1857年, 1861年 - 1864年 |
| 最終階級 | |
| 指揮 | ポトマック軍 |
| 戦闘 | 米墨戦争 南北戦争 |
ジョージ・ブリントン・マクレラン(George Brinton McClellan, 1826年12月3日 - 1885年10月29日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争中の北軍(Union Army)の少将として有名なポトマック軍を編成し、1861年11月から1862年3月の短い期間に北軍の最高司令官を務めた。背が低かったため、兵たちからは「リトル・マック」、新聞などからは当初「若きナポレオン」と呼ばれていた(しかし後に「ターディ・ジョージ」、つまり「のろまのジョージ」へと変化する)。
目次 |
[編集] 生い立ちと初期の経歴
マクレランはフィラデルフィアで、著名な眼科医で、ジェファーソン医科大学の創設者であるジョージ・マクレラン博士の息子として生まれた。母親のエリザベス・シュタインメッツ・ブリントン・マクレランはペンシルベニアでも著名な家の出で、「かなりの優雅さと気品」を持ち合わせていた[1]。夫妻には5人の子どもがいた:フレデリカ、ジョン、ジョージ、アーサー、メアリー。マクレランの祖父はアメリカ独立戦争時の将軍、サミュエル・マクレランであった。彼は1840年、13歳の時にペンシルベニア大学に入学し、法学を志した。2年後、彼は目標を軍人に変更する。父親からジョン・タイラー大統領へ手紙を書いてもらい、1842年に陸軍士官学校に入学したが、これは入学基準の16歳以下でのことであった[2]。
ウェストポイントでの彼はエネルギッシュで野心家の士官候補生であった。デニス・ハート・マハンに深く教わり、アントワーヌ=アンリ・ジョミニの戦略理論に興味を持った。彼は南部の良家出身の学生、ジェームズ・スチュアート、ダブニー・モーリー、カドマス・M・ウィルコックス、A・P・ヒルらと親交を深めた。彼らとのつながりはマクレランに南部への同情心を与えることとなった[3]。彼は1846年に、59人中2番の席次で卒業した。首席になれなかったのは絵を描く能力でチャールズ・シーフォース・スチュワートに劣っていたためである[4]。彼は少尉に名誉昇進し、陸軍工兵司令部に着任した[5]。
[編集] 米墨戦争
マクレランの最初の任務はウェストポイントで結成された工兵中隊であったが、すぐに米墨戦争に従軍するよう命令を受ける。1846年10月に、二連式の散弾銃、2丁のピストル、サーベル、礼装用佩刀、ボウイナイフを装備してリオ・グランデ川の河口に到着した。アメリカ軍は9月にモンテレーの戦いで勝利していたが、彼はそれに間に合わなかったことが不満であった。ザカリー・テイラー将軍の部隊の一時的な休戦の間、マクレランは赤痢とマラリアに罹患し、およそ一ヶ月を病院で過ごした。マラリアはその後も再発し、彼はそれを「メキシコの病気」と呼んだ[6]。彼は工兵士官として勇敢に戦い、頻繁に敵の砲撃を受け、コントレラス、チュルブスコ、チャプルテペクでの功績で中尉に名誉昇進した[5]。彼はウィンフィールド・スコット将軍(マクレランの父親の親友)の為の偵察任務に従事した[7]。
マクレランの戦場における経験は、後の南北戦争および政界での様々な出来事に影響を与えた。彼は正面からの攻撃に対して側面に位置すること(スコット将軍がセルロ・ゴードの戦いで使った戦術)および包囲戦(ベラクルス包囲戦)の価値を学んだ。彼はスコットが軍事作戦において政治的な均衡を保つのに成功したのと、侵攻した都市の住民と良い関係を築き、市民の財産への損害を最小にするため、兵に厳しい規律を守らせたのを目撃した。そして、マクレランは義勇兵と士官、特に規律と訓練を好まなかった政治家を軽蔑するようになった[8]。
[編集] 平時の勤務
[編集] 南北戦争
南北戦争の初期、マクレランは北軍の部隊を訓練し組織化された軍隊とするために重要な役割を果たした。彼は計画と準備においては綿密であったが、この気質は素早く変化する戦場において相手に攻撃を行う際にその能力を妨げたかもしれない。彼は敵部隊の戦力を過大評価しがちで、ナポレオン時代に比べて兵器が進歩し攻撃側が著しく不利になったことを知っていたため、無謀な総突撃をしようとはしなかった。それが幸いして、ほとんどの将軍が幾度となく敗れたロバート・E・リー将軍に、勝利または大損害を与えることができた。
1862年のマクレランの半島戦役では当初はジョセフ・ジョンストン、次いで彼と交代したリー将軍と戦った。七日間の戦いでマクレランはリーのより小規模な軍隊に、自軍より多くの損害を与えることに成功したが、敗北したために当初の目的であった連合国首都のリッチモンドを占領する計画は放棄せざるをえなかった。リーの北部侵攻によって起こった凄惨なアンティータムの戦いでの彼の活躍は、リーによるメリーランドへの侵略を阻止したが、兵力の不利を有利な地形でカバーするリー相手には、同程度の損害を与えただけで北バージニア軍を壊滅させることはできなかった。ただ、これはリーと戦った北軍の将軍たちが、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたことからすれば(彼のグラントでさえ倍近い兵力でリーに当ったにもかかわらず、幾度も敗れている)、驚異的な戦績である。さらに、政治的には、アンティータムの勝利はエイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言を表に出す絶好のタイミングを与えた(負け続けの状態だと奴隷解放宣言は苦し紛れの策、ひいては北部は劣勢だと内外に思われる危険があるため、どうしても勝った後に宣言を出す必要があった)。しかし結果として、戦闘中のマクレランのリーダーシップは、リンカーン合衆国大統領に疑問視されたため、最終的にマクレランはまず最高司令官を解任され、次にポトマック軍の指揮官職から解任された。リンカーンはマクレランについて「彼は自分自身と戦うことができないなら、他の者を戦わせる準備を行うのに優れている」[9]と語った。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も人気のある司令官であった。
マクレランはリンカーンの信頼を維持することにも失敗し、苛立たしいほどに最高司令官に服従しなくなった。解任された後、マクレランは1864年の大統領選挙でリンカーンと争う民主党の指名候補になって、敗れた。民主党は戦争の終結と連合国との交渉を公約した反戦の政治要項を掲げたが、マクレランは彼の戦役の有効性へダメージがあるとしてこれを否定せざるを得なかった。彼は1878年から1881年まで第24代ニュージャージー州知事を務めた。彼は最終的には作家になり、半島戦役と南北戦争の間の自らの行動を擁護した。
[編集] 評価
現代の歴史家のほとんどは、マクレランを戦場の将校としてあまり評価していないが、それでも少数の歴史家は、マクレランはきわめて有能な司令官であり、アメリカ合衆国の逆行のスケープゴートを必要とした親リンカーンの支持者の手による不公正さによって彼の名声が貶められたと主張する。外国人から見れば、リーとの戦闘のスコアからマクレランが有能な将軍であることは明白だが、アメリカ人の大統領びいきが、これほどまでにマクレランを低く評価をしようとする理由の一つとなる。大統領となったグラントより優れた将軍が同じ北軍にいるなどということは認められず、歴史に名を残す偉大な大統領リンカーンに逆らい選挙で争った相手が有能だなどとは、許容できないということである。
また、戦場における働きとオーガナイザーとしての能力はきわめて優秀な人物であり、基本的には少数の正規軍と州兵、それに多くの観光気分で入隊した(当初この戦争は数ヶ月で終わると思われていた)志願兵の寄せ集めであったポトマック軍を曲がりなりにも北バージニア軍に対抗できる『軍』に鍛え上げた功績は決して小さいものではない。しかし彼は自分が精魂込めて育て上げた軍隊をなかなか使おうとせず、暇さえあれば訓練を施したり将兵の待遇を改善したりとその軍隊を磨き上げる事に熱心であった。これがゲティスバーグに次ぐ損害を出した七日間の戦いや1日の戦闘で最大の損害を出したアンティータムの戦いを戦い抜き、壊走状態にあったヴァージニア軍を驚くべき速さで回復させる原動力となる。そのせいで軍の将兵には大変好かれていたが、リンカーン大統領には「もしマクレラン将軍が(ポトマック)軍を使う気がないのであれば、少々貸してもらえないだろうか」と皮肉られる事になってしまう。
彼の戦場に赴くまでの消極的な指揮ぶりが個人的武勇の欠如のせいではないことは、彼の米墨戦争や南北戦争初期のウェストヴァージニアでの活躍を見ても明らかであり[10]、南北戦争専門の歴史家のスティーブン・シアーズenなどは、彼が手塩にかけて育てた兵たちを戦場で失うことを極度に恐れたからこそ、戦闘を避けようとしたり、実際戦闘になったときは消極的になってしまったのではないかと分析している。シアーズ曰く、マクレランは「事務的な物事を取り扱う将官としては最高であり、戦略などを立案する将軍としても活躍できただろうが、実際戦場で兵を指揮するような立場は完全に向いていなかった」としている。
しかし、リッチモンドを目指して南部に侵入した北軍がことごとく敗れて追い返されていることでわかるように、東部における初期の南軍は強力で、海上封鎖で弱らせてからでなければとても打ち破れる相手ではなかった。このことからすれば、リッチモンドを目指して突進するのではなく、敵の兵力をすり減らし、北部への侵入を確実に阻止するマクレランの戦い方は、消極的なのではなく、戦況に合った戦い方を適切に選んだものとも言える。
このように、マクレランの評価は簡単なカテゴリー化を難しくしている。戦争の後、グラントはマクレランを将校として評価するかと訊ねられ、「マクレランは私にとって戦争の謎のひとつだ」と応えた。グラントに戦闘でことごとく完勝したリーに勝ったマクレランが[11]、なぜ早期に解任されなければならなかったのかは、まさに謎である。また用兵家として南北戦争で最高の名声を得たリーは、北軍で最高の将軍は誰かと訊ねられ、「マクレランだな、文句なしに」(McClellan. Without Question.)と即答した。一般の民衆や歴史家は攻撃精神でしか将軍を評価せず、天才を理解できるのは天才だけということである。
[編集] 脚注
- ^ Rowland, Leaders, p. 259.
- ^ Sears, Young Napoleon, p. 3; Rafuse, pp. 10, 27–28.
- ^ Rowland, Leaders, p. 260; Rafuse, pp. 36. McClellan's friend James Stuart was a South Carolinian killed skirmishing with Indians in 1851.
- ^ Rowland, Leaders, p. 260.
- ^ a b Eicher, p. 371.
- ^ Sears, Young Napoleon, pp. 14–15.
- ^ Rafuse, p. 43.
- ^ Rafuse, pp. 47–49; Rowland, Leaders, pp. 260–61; Sears, Young Napoleon, pp. 16–17.
- ^ McPherson, Tried by War, p. 122.
- ^ 彼は米墨戦争中に戦場での勇気ある行動を軍に認められ、2度も名誉進級(brevet)している。
- ^ グラントは1864年の一連の荒野戦役において、補給も不足し士気も下がり両腕とも言えるジャクソンとロングストリートを欠いたリーの軍に対し、倍の兵力で攻撃したにも関わらず、戦場確保の点でも倍の損害を受けたという点でも完敗した。それでもグラントがリッチモンド前面までたどり着けたのは、グラントの不屈の闘志以上に、両腕ジャクソンとロングリストリートを持たないリーには、もはや転進するグラントを捕まえる術がなかったということが大きい。一方マクレランは1862年のアンティータムの戦いで、やはり倍の兵力を持ってリーを攻撃した。この時のリーの軍は連戦連勝で士気も高くジャクソンもロングストリートもいる絶頂期だったが、マクレランはこの戦いで戦場を確保して勝利し、損害も同程度に過ぎなかった。グラントが北軍勝利に大きな貢献をしたのは確かだが、軍を率いて戦場で戦う能力については、リーやマクレランに及ばなかった。
[編集] 外部リンク
- マクレランだな文句なしに
- McClellan Society
- George B. McClellan in Encyclopedia Virginia
- Georgia's Blue and Gray Trail McClellan timeline
- Lincoln and Lee at Antietam
- Mr. Lincoln and New York: George B. McClellan
- National Park Service biography
- Harper's Weekly political cartoon, October 27, 1877, "All Quiet on the Hudson", McClellan caricature in the campaign for governor of New Jersey
- Marcy, Randolph B, assisted by McClellan, George B., Exploration of the Red River of Louisiana, in the year 1852 hosted by the Portal to Texas History
- Biography of George B. McClellan, New Jersey State Library
- New Jersey Governor George Brinton McClellan, National Governors Association
- "L'il Mac" George McClellan Song parody
- American Heritage on George McClellan's appointment
- The Mexican War diary of George B. McClellan at archive.org
- Abraham Lincoln and George B. McClellan
- Newspaper articles about reaction to Lincoln appointing McClellan head of the Army of the Potomac
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ジョセフ・ビードル |
ニュージャージー州知事 1878年1月15日 – 1881年1月18日 |
次代: ジョージ・ラドロウ |
| 党職 | ||
| 先代: スティーブン・ダグラス ジョン・ブレッキンリッジ¹ |
民主党大統領候補 1864年 |
次代: ホレイショ・シーモア |
| 先代: ジョセフ・ビードル |
民主党ニュージャージー州知事候補 1877年 |
次代: ジョージ・ラドロウ |
| 軍職 | ||
| 先代: アービン・マクドウェル |
ポトマック軍司令官 1861年8月20日 – 1862年11月9日 |
次代: アンブローズ・バーンサイド |
| 先代: ウィンフィールド・スコット |
アメリカ陸軍総司令官 1861年11月 – 1862年3月 |
次代: ヘンリー・ハレック |
| 注釈 | ||
| 1. 民主党は1860年に分裂し、2人の大統領候補を擁立した。スティーブン・ダグラスは北部民主党の候補となり、ブレッキンリッジは南部民主党の候補となった。 | ||