ビル・クリントン
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ビル・クリントン Bill Clinton |
|
|
アメリカ合衆国
42代大統領 |
|
| 任期: | 1993年1月20日 – 2001年1月20日 |
|---|---|
| 副大統領: | アル・ゴア |
|
|
|
| 出生: | 1946年8月19日 アーカンソー州ホープ |
| 政党: | 民主党 |
| 配偶: | ヒラリー・ローダム・クリントン |
| サイン: | |
ウィリアム・ジェファソン・“ビル”・クリントン(William Jefferson “Bill” Clinton, 1946年8月19日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第42代大統領(1993年-2001年)。愛称は “Bubba”(ババ、南部英語で「兄弟」)。身長185cm。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 生い立ちから弁護士時代
1946年8月19日アーカンソー州ホープ市生まれ。ビルが生まれる約3ヵ月前に自動車事故で死去した父ウィリアム・ジェファソン・ブライス・ジュニアにちなんでウィリアム・ジェファソン・ブライス三世と名づけられた。ビルが生まれた後、母のヴァージニア・キャシディ・ブライスは、看護婦の勉強のためニューオーリンズへと移り、ビルは4歳になるまでホープにある母方の祖父母のもとで育つ。1950年ニューオーリンズから戻った母が、自動車販売店を営む ロジャー・クリントンと再婚し、義父、母と3人で暮らし始めた。1953年一家は同州ホットスプリングスへ移り住む。義父は強度のアルコール中毒であり、家庭内で頻繁に暴力を振るった。ビルが小学生の頃、酒に酔った義父が発砲した弾丸がビルの耳元をかすめる事件がおきるなど不遇の少年時代であった。1956年には異父兄弟のロジャー・キャシディ・クリントンが誕生。その後ビルは自ら姓をクリントンへ正式に改めている。
高校在学中の1963年の夏、ボーイズ・ステイトで選出されたアーカンソー州上院議員としてボーイズ・ネイションに参加、ホワイトハウスに招かれてケネディ大統領と握手する機会を得た。1964年ジョージタウン大学外交学部に入学,在学中フルブライト上院議員のもと外交委員会で働いた。大学4年生の時義父が死去している。1968年同大学を卒業、フルブライト議員の選挙運動に参加した後、ローズ奨学生としてオックスフォード大学へ2年間留学。英国ではしばしばベトナム反戦運動に参加していた。帰国後イェール・ロー・スクールに入学。在学中にヒラリー・ローダムと出会う。1972年の大統領選ではジョージ・マクガバン民主党候補の選挙運動に参加。1973年法務博士号(ジュリス・ドクター、J.D.)を取得し卒業。その後、アーカンソー大学フェイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。
[編集] 政治家・大統領として
1974年の中間選挙でアーカンソー州選出の下院議員に出馬するが落選。1975年ヒラリー・ローダムと結婚。1977年のアーカンソー州司法長官に選出されて政界入りを果たした。また同年の大統領選では民主党候補のジミー・カーターの選挙運動に参加した。1978年に32歳でアーカンソー州知事に初当選、同州の教育水準の向上や道路の整備などに取り組んだ。1980年娘のチェルシーが生まれる。同年の春、カーター大統領が他州に収容されていたキューバ人難民をアーカンソー州に移すのをクリントン知事が容認したため、一部から批判された。道路整備の財源確保のための自動車登録料の値上げやキューバ人難民の問題などが原因で、再選をかけた同年の知事選に敗れた(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)。次の1982年の知事選では当選してカムバックを果たした。以後1984年、86年、90年と連続当選を果たした。アーカンソー州知事時代には南部成長政策理事会理事長、全米知事協会副会長、全米知事協会会長、全州教育委員会委員長を歴任。 大統領選挙戦では、前大統領のネガティブ・キャンペーンに敗れたマイケル・デュカキスの選挙スタッフを重用し、守りを固めた。1992年の大統領選挙で当選し、翌1993年アメリカ合衆国大統領に就任。第二次世界大戦後のベビーブーム世代初の大統領。1996年に再選を果たし二期をつとめあげる。永年の平和活動への貢献に対しガンディー平和賞が与えられている[1]。
[編集] 政策
[編集] 内政
大統領選挙では中道や保守派からその左派的色彩を批判され、徐々に中道よりへの修正を図った。1994年の中間選挙以後は政策の一貫性のなさがしばしば批判の対象にされる。中道で時によってはリベラルなスタンスを打ち出すポピュリストとも呼ばれる。急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。
経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。また1994年のギングリッジ率いる共和党が上下院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、ロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミックスに対し、クリントノミックスと呼ばれる。
教育を重視し、学校へのPC導入など、IT教育を推進した。その他、就学前児童の早期教育プログラムの拡大、移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。
税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。また、『忘れ去られた中間層』というキャッチフレーズの下、中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした民主党の方針を大幅に転換した。妻のヒラリーが提案した国民健康保険を導入しようと試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動でこの国民皆保険制度は成立させることは出来なかった。
[編集] 外交
ブッシュ政権が国内問題・経済問題を軽視していると批判し、ホワイトハウスに上り詰めたクリントンだったがその公約の通り、外交は不得意分野だった。彼の政治キャリアはアーカンソーの地方政治に限定されており、また彼が頼りにすべき民主党も外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされている。政権の後期には、外交に力を入れ、中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したが、さしたる成果のないまま時間切れに終った。
[編集] 南北アメリカ
北米地域では、アメリカ合衆国、メキシコ、カナダが自由貿易圏をつくり、関税障壁をなくすというNAFTA(北米自由貿易協定)に調印した(1994年1月1日発効)。
[編集] アジア太平洋
経済関係においては、歴代政権と違い親中国の傾向が強く、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本などの同盟国には貿易問題などで厳しい態度を取った。1998年の中国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明した。この訪中の際には日本に立ち寄ることなく帰国したことで、日本からは「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)と非難され、日本の政財界に、民主党政権に対する不信感を植え付けることになった。一方、日本政府に対しては減税や銀行への公的資金の投入、スーパー301条に基づいた市場開放を高圧的に内政干渉にも近い形で要求した。アメリカ政府による日本政府への「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」、所謂年次改革要望書もクリントン政権からである。
しかし政権の後半にかけては対日関係の修復に動き、とりわけ日米の安全保障問題に関して、概ね伝統的な日米関係を基軸としながら、その深化を図った。1995年に策定された、ジョセフ・ナイ国防次官補らによるいわゆる「ナイ・イニシアティヴ」に基づき冷戦後におけるアジア太平洋への関与を再定義、日米同盟をその機軸と位置づけた。1996年には日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)を策定、冷戦後における日米同盟の新たな定義付けを行い、今日に至る日米協力の基礎を敷いた。
また、北朝鮮との間で核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたが、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。政権末期には駆け込み的に国交正常化を急ぎ、国務長官の訪朝にまで至ったが、目的は果たせないまま共和党政権にバトンタッチし、北朝鮮政策は転換された。なお、1994年には、1975年4月のベトナム戦争終結後より19年間におよんだ、ベトナムに対する貿易禁止の撤廃を発表した。
[編集] 中東
中東地域では、イスラエルとパレスチナを仲介し、ノルウェーの仲介によるオスロ合意によって和平への一定の枠組みを作り、イスラエルのイツハク・ラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が歴史的な和平協定(パレスティナ暫定自治協定)を結ぶことに成功した。1995年にはイスラエル・ヨルダン平和条約を結ぶことに成功した。
パレスチナ暫定自治政府が成立すると、イスラエル・パレスチナ双方で強硬派がオスロ合意に反対し、ラビン首相が暗殺されると、和平継続反対派のベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され和平は頓挫した。1999年にエフッド・バラクがイスラエルの首相になると、和平交渉は再開された。しかし2000年3月イスラエルとシリアの和平交渉を仲介するも失敗に終わる。そして7月、キャンプデービットにバラク首相とアラファト議長を招いて中東和平交渉を仲介するも、聖地・エルサレムの帰属権などをめぐり両者が対立。クリントンとしては、残り半年の任期中に交渉を結実させようと15日間に及び徹夜で両者を説得したが、バラク、アラファト双方の溝は最後まで埋まらず、中東和平交渉は決裂した。その後、9月にパレスチナ自治区にて第2次インティファーダ(民衆蜂起)が起こり情勢が悪化する。2001年2月に、対パレスチナ強硬派のアリエル・シャロンが首相になり、パレスチナ暫定自治政府にたいして武力攻撃を行い、再びオスロ合意は頓挫した。
またクリントンはブッシュ親子同様にサダム・フセインを敵視しており、米英軍により、イラクの首都バグダットなどの軍事施設に対する巡航ミサイル「トマホーク」などを使った大規模な空爆を開始し、砂漠の狐作戦を行った。
[編集] ヨーロッパ
ヨーロッパ地域では、ロシアとの融和や西欧諸国の協調などをベースに行動し、旧ユーゴスラヴィアで発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平調停に乗り出して、和平協定締結に成功した。だが、コソボ紛争に対するNATO軍単独での武力介入(1999年)は、ロシアや中華人民共和国との協調関係に亀裂を生じさせた。また、このユーゴ空爆は、「人道のためには国連決議無しで武力行使しても良い」とする「前例」を産み出した。ただし、介入それ自体は未だに賛否両論である。
[編集] アフリカ
アフリカ地域では、1993年に、国連の多国籍軍の一員としてソマリア内戦に介入した。これは、人道目的による武力行使(「人道的介入」)の最初の例である。これにより、一時的に援助物資の輸送路が確保され、1日平均の餓死者を1/3以下に激減させる効果を上げた。だが、モガディシュの戦闘では多数の死傷者を出したため、世論の反発から、アメリカ軍はソマリアから撤退することとなった。そして結局、アメリカ軍主導であった国連ソマリア活動そのものも失敗に終わった。この事件は、アメリカが国連平和維持活動に消極的となった一因とされる。
また、1998年には、アルカーイダの関与したアメリカ大使館爆破事件への報復を名目として、アフガニスタンとともにスーダンをミサイル攻撃した。この際、スーダンの医薬品の5割以上を供給していた工場が、「化学兵器工場」であるとして破壊された。
[編集] その他
他には、政権末期において、レームダックから来る政治的空白から、世界貿易機関(WTO)シアトル会議を決裂させたなどの点が一部で指摘されている。
また、退任直前に176人の服役囚に対し恩赦を実施(特赦140人、減刑36人)したが、この中に脱税などの容疑がかけられ逮捕直前に国外逃亡していた実業家マーク・リッチなどが含まれていたため批判の対象になっている[2]。
[編集] 閣僚
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ビル・クリントン | 1993 - 2001 |
| 副大統領 | アル・ゴア | 1993 - 2001 |
| 国務長官 | ウォーレン・クリストファー | 1993 - 1997 |
| マデレーン・オルブライト | 1997 - 2001 | |
| 財務長官 | ロイド・ベンツェン | 1993 - 1994 |
| ロバート・ルービン | 1995 - 1999 | |
| ローレンス・サマーズ | 1999 - 2001 | |
| 国防長官 | レス・アスピン | 1993 - 1994 |
| ウィリアム・J・ペリー | 1994 - 1997 | |
| ウィリアム・コーエン | 1997 - 2001 | |
| 司法長官 | ジャネット・レノ | 1993 - 2001 |
| 内務長官 | ブルース・バビット | 1993 - 2001 |
| 農務長官 | マイク・エスピー | 1993 - 1994 |
| ダニエル・R・グリックマン | 1994 - 2001 | |
| 商務長官 | ロナルド・H・ブラウン | 1993 - 1996 |
| ミッキーマウス・カンター | 1996 - 1997 | |
| ウィリアム・M・ダレー | 1997 - 2000 | |
| ノーマン・ミネタ | 2000 - 2001 | |
| 労働長官 | ロバート・B・ライシュ | 1993 - 1997 |
| アレクシス・M・ハーマン | 1997 - 2001 | |
| 保健福祉長官 | ドナ・E・シャララ | 1993 - 2001 |
| 教育長官 | リチャード・ウィルソン・ライリー | 1993 - 2001 |
| 住宅都市開発長官 | ヘンリー・G・シスネロス | 1993 - 1997 |
| アンドリュー・クオモ | 1997 - 2001 | |
| 運輸長官 | フェデリコ・F・ペーニャ | 1993 - 1997 |
| ロドニー・E・スレーター | 1997 - 2001 | |
| エネルギー長官 | ヘイゼル・オレリー | 1993 - 1997 |
| フェデリコ・F・ペーニャ | 1997 - 1998 | |
| ビル・リチャードソン | 1998 - 2001 | |
| 退役軍人長官 | ジェッセ・ブラウン | 1993 - 1997 |
| トーゴー・D・ウェスト・ジュニア | 1998 - 2000 | |
| ハーシェル・W・ゴッバー (act.) | 2000 - 2001 | |
[編集] スキャンダル
クリントンは1992年の大統領選挙からジェニファー・フラワーズ事件など多くのスキャンダルに見舞われていた。
1998年にはモニカ・ルインスキー事件が発覚し否定していた「ルインスキーさんと不適切な関係を持った」(I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate.) と告白せざるを得ない状況に追い込まれた。この「不適切な関係(relationship that was not appropriate)」は同年の流行語となった。大統領の「品格」を問われる事態に世論から批判がおき、アメリカ大統領としては第17代のアンドリュー・ジョンソン以来の弾劾裁判にかけられた。下院による訴追後行われた上院での弾劾裁判では、50:50、45:55と有罪評決に必要な2/3には達せず、辛うじて辞任は免れた。
ヒラリーの寛大な援護と民主党の根強い支持によって、これを乗り切ったがクリントン政権は、このルインスキー事件の進展にタイミングを合わせるかのようにアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行い「スキャンダルから目をそらさせるための爆撃」だと批判された。しかし9.11テロ後になってこれがアルカイダに対する先制攻撃だったことが明らかになり、今日では再評価がされるようになった。
とはいえ、このスキャンダルが2000年アメリカ合衆国大統領選挙に与えた影響は大きく、自身の政権で副大統領を務めたアル・ゴアが敗北する一因ともなった。
[編集] 大統領退任後
大統領退任後は退任直前に上院議員となったヒラリーの選挙区であるニューヨーク市にオフィスを構え、世界中で講演会活動などを行っている。
なお、クリントン政権のスタッフは、ブッシュ前大統領からホワイトハウスを引き渡された際に、コンピュータのハードディスクを全て取り外されるといういやがらせを受けており、その息子であるジョージ・W・ブッシュのスタッフと交代するときに、キーボードから“W”のキーだけを抜き取るという意趣返しをした。
2003年にはケント・ナガノ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団のプロコフィエフ「ピーターと狼」のCDでミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領らとともに朗読を担当し(正確にはカップリングされているフランスの作曲家、ジャン=パスカル・バンテュスの「狼のたどる道」の朗読を担当)、グラミー賞の最優秀児童向け朗読アルバム賞を受賞した。
2004年6月には先述のモニカ・ルインスキーとの不倫事件のことなども綴った回顧録『マイ・ライフ』を出版。発売日には一部の書店に行列が出来るほどの売れ行きを示した。
同年9月に体調不良を訴え、冠状動脈の異常が見つかり、バイパス手術を受けている。
現在では、「平和と好景気の時代の大統領」として記憶されており、その人気は非常に高い。2004年7月にボストン市で行なわれた民主党全国大会の演説で登壇した際には、満場の拍手と喝采で迎えられた。
2004年11月18日には、地元アーカンソー州のリトルロックに「ウィリアム・J・クリントン大統領センター(大統領図書館)」がオープン。
2007年1月、妻であるヒラリーが2008年の大統領選挙への出馬を正式に表明した。民主党の候補者指名獲得に向けて、前大統領という抜群の知名度と人気を最大限に利用し、ヒラリーの選挙運動を支援した。時には対立候補のバラク・オバマを非難するコメントを出すこともあったがオバマが民主党の候補者となると徐々に協力する姿勢を明らかにし、オバマがヒラリーを国務長官に指名する際には自らの財団が外国政府から受けた寄付の状況などを公表している。
2009年5月、国連よりハイチ担当特別大使に任命された。ハイチは昨年、ハリケーンで甚大な被害を受けており、西半球の最貧国でもある。
2009年8月、平壌を訪問し北朝鮮当局に拘束されている米女性記者2人の解放に向けて交渉し、合意に達した。米大統領経験者の訪朝は1994年6月に故金日成主席と会談したカーター以来、2人目。
[編集] 立場
民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は中道左派サミットに参加していることなどから第三の道に共感している中道左派である。
[編集] 脚注
- ^ 事情により後に返上
- ^ クリントンがハーレムにお引越し 恩赦疑惑はどうなった?WORLD NEWS cafe、2001年3月2日
[編集] 関連項目
- ヒラリー・クリントン
- モニカ・ルインスキー
- 南部バプテスト連盟
- クィーン - ニュース映像の引用という形でカメオ出演している。
[編集] 外部リンク
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Bill Clintonの作品
- White House biography
- William J. Clinton Foundation official website
- Clinton Global Initiative official website
- Clinton Presidential Library official website
- Clinton School of Public Service
- The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web
- First Inaugural Address, via Yale Law School
- Second Inaugural Address, via Yale Law School
- Audio recordings of Clinton's speeches, via Yale Law School
- Executive Orders signed by Clinton, via Michigan State University
- Pardons Granted By President Clinton, via United States Department of Justice
- Draft Articles of Impeachment, 1998, via United States House of Representatives
- Clinton Found in Contempt of Court by Federal Judge Susan Webber Wright
- Documents: U.S. condoned Iraq oil smuggling, via CNN
- Political donations made by Bill Clinton, via Newsmeat
- Bill Clinton, Governor of Arkansas, et al., appellants v. M.C. Jeffers, et al., 498 U.S. 1019 (1991), via United States Department of Justice
- The Clinton Presidential Center(クリントン記念図書館。英語)
- クリントン ビル:作家別作品リスト(青空文庫)
- Photos of Bill Clinton's actions to bring peace to the Middle East.
- 【大統領就任演説(第一期、第二期)】ビル=クリントン/katokt訳(プロジェクト杉田玄白)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||