リチャード・ニクソン

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リチャード・ニクソン
Richard Nixon
Nixon 30-0316a.jpg

任期 1969年1月20日1974年8月9日
副大統領 スピロ・セオドア・アグニュー(1969年 - 1973年)
ジェラルド・フォード(1973年 - 1974年)

任期 1953年1月20日1961年1月20日
元首 ドワイト・アイゼンハワー

出生 1913年1月9日
アメリカ合衆国の旗 カリフォルニア州ヨーバリンダ英語版
死去 1994年4月22日(満81歳没)
アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク州ニューヨークシティ
政党 共和党
配偶者 パット・ニクソン
署名 Richard M. Nixon signature.gif

リチャード・ミルハウス・ニクソンRichard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国軍人政治家下院議員上院議員、第36代副大統領、第37代大統領を歴任。

デューク大学ロースクール卒業後、弁護士として活躍した後、1946年共和党の政治家に転身。下院議員上院議員を経て、1953年よりドワイト・D・アイゼンハワー政権で副大統領を務めた。1960年の大統領選挙ではジョン・F・ケネディに敗れたが、1968年の大統領選挙で勝利し、第37代大統領に就任。ベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤退を実現し、当時東西対立の時代にあってソビエト連邦とのデタント(緊張緩和)、中華人民共和国との国交樹立など積極的な外交を展開した。また当時環境保護運動が高まり、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。経済政策で失業とインフレに悩まされながらも新しい国際通貨体制の確立に尽力した。しかし、ウォーターゲート事件により1974年に辞職に追い込まれ、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

目次

生い立ち[編集]

幼少時代[編集]

幼少時のニクソン

リチャード・ニクソンは1913年カリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダYorba Linda)にてギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)の間に生まれる。

父は結婚前はクェーカー教徒でなかったこともあり[1]宗教にさほど熱心ではなかったが[2]、母はクエーカー教の経典に従って、子供たちに保守的な福音主義のしつけを行った。

一家は元々は果樹園を経営していたが、その後1922年に母の実家の近くのウィッティアに引っ越し、食料品およびガソリン販売店を始める。ニクソンは回顧録などで幼少期を振り返って「貧しかったが幸せだった」と語っているが、実際は父の店の経営は軌道に乗っていた上に、母の実家が裕福であったことから、ピアノバイオリンを習う余裕もあるなど、当時のアメリカの平均的な家庭と比べて決して貧しいものではなかった[3]

青年時代[編集]

しかし、四男のアーサーと長男のハロルドが相次いで結核を患い医療費がかさんだこともあり、ニクソンは早起きして登校前にアルバイトをこなして家計を助けた。学外活動にも熱心で、放課後にはアメリカン・フットボールの練習に励み、万年補欠ながらガッツは人一倍であった。また、弁舌の才能を発揮し、弁論大会でも好成績を収めている。

地元のウィッティア高校卒業後、奨学金を得てハーバード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の医療費の負担から東海岸で生活する資金を工面できなかったため、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学。1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を得てデューク大学ロー・スクールに進んだ。

弁護士[編集]

デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した[4]

弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアン(愛称パット)と結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。

海軍時代[編集]

アメリカ海軍時代のニクソン

1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、アメリカ軍をはじめとする連合国軍が太平洋戦線で日本軍に対し劣勢に立たされていた1942年8月に士官募集に応募して海軍に入隊した。入隊後に通常の訓練を受けたものの、修士号のみならず弁護士資格を持つことから戦闘要員とはならず補給士官に任命された。

入隊後はしばらくアメリカ国内の基地で勤務し、1943年5月より、日本軍とアメリカ軍やオーストラリア軍を始めとする連合国軍との間で死闘が繰り広げられていた南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島に配属された。日本軍と連合国軍が一進一退を続ける中、戦線の移動とともにフランスニューカレドニアなどへ転属され、戦線へ軍需物資を補給させる補給士官として前線にほど近い戦場で兵站業務を執り行った。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に国務長官になるウィリアム・P・ロジャーズと知り合っている。

なお海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。

弁護士から下院議員・上院議員に[編集]

弁護士[編集]

第二次世界大戦の終結に伴い、少佐で海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパ日本で人脈を築くのにも役立った。しかし、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。

下院議員[編集]

上院議員選挙時のニクソン

しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、母の知人のバンク・オブ・アメリカウィッティア支店長ら地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出された[5]

同じ年の選挙では、将来のライバルとなるマサチューセッツ州ジョン・F・ケネディも初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。

その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の下院非米活動委員会のメンバーになり、国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスやウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員ジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスが偽証罪に問われた裁判に協力したことで、「反共の闘士」としてその名が全米に知れ渡った。

上院議員[編集]

1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。

ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラス[6]に対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。

副大統領時代[編集]

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。

「チェッカーズ・スピーチ」[編集]

「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン
アイゼンハワーと大統領就任式典に臨むニクソン

副大統領候補選定前よりニクソンは、彼に金銭的余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金の援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、反共和党であったニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[7]、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた[8]

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、テレビ番組でスピーチを行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、トルーマン政権の閣僚の妻達の中には「院外活動をする人々から高価な毛皮コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちがを飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた[9]

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払拭し、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補として留めることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補として留まることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった[10]

副大統領就任[編集]

インドネシアスカルノ大統領とともに
フルシチョフと「キッチン討論」を行うニクソン

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

副大統領に就任したニクソンは、初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いキューバベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンインドネシアラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

「キッチン討論」[編集]

この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都モスクワを初めて公式訪問した。

その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。

アイゼンハワーとの関係[編集]

娘のジュリーとともにアイゼンハワーを迎えるニクソン

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にスティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知った共和党全国委員長レン・ホールらによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[6]。また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[6]

しかし、ニクソンが大統領に就任した1968年に、娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、アイゼンハワー家との関係はその後改善されただけでなく、より密接なものとなっていく。

1960年の大統領選挙[編集]

共和党大統領候補へ[編集]

選挙中にニューヨークで歓迎を受けるニクソン

1951年にアメリカ合衆国憲法修正第22条の成立によって、1956年に大統領選挙で再選されたアイゼンハワー大統領は次の大統領選挙には出馬することができなかった。フーバー大統領までは三選はしないという習慣があり、第2次大戦下でのフランクリン・ルーズベルトがこの慣習を破ったが、トルーマン大統領の時代から、大統領は長くても2期8年という制度が法律で明文化された。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、共和党は1960年の大統領選挙で新しい候補者が立つこととなった。そして副大統領であったニクソンは予備選挙に出馬することとなった。

1960年に行われた共和党予備選挙は、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーが立候補の構えを見せたが、共和党の大半がニクソンを支持している情勢に、立候補を断念すると表明して、このロックフェラーの撤退でニクソンは共和党の大統領候補指名争いで有力な対抗馬はいなかった。

シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。その共和党大統領候補指名受諾演説でニクソンは選挙期間中に50州全てを遊説することを明らかにした。

本選[編集]

大統領選挙の本選に入る時に、ニクソンが立てた選挙戦略は、前半はペースを上げず、あまり早い段階で盛り上げることはせず、後半のある時期から一気に選挙運動のムードとペースを変えて、特に投票日の3週間前からはテレビと広告を使って盛り上げていき、そしてアイゼンハワー大統領の応援も最終段階に入ってから行うというものであった[11]。前半から盛り上げていくと必ずどこかで中だるみがあり、最初は緩いペースからでいく予定であった。しかし9月に入ってからの序盤に突然体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂い、これが選挙運動全体に影響することになった。一方ケネディ陣営は最初から一気に盛り上げていく作戦で積極的に選挙運動を展開する間、ニクソンは病院のベッドにいた。ある人は余裕と見ていたが、8月時点での世論調査の支持率はニクソン53%、ケネディ47%であった[12]

テレビ討論[編集]

ケネディとのテレビ討論

そして退院後すぐに行われたのがテレビ討論会である。序盤には支持率で完全に優勢であったニクソンは、この時病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず「議論の内容が重要である」としてその勢いを保ったまま、得意の外交政策などで論戦してケネディに勝つ作戦であった。しかし後に「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」とされている。

そのテレビ討論会は1960年9月26日に第1回が開かれた。この討論会は全米で約7,000万人がテレビかラジオで視聴した。そして歯切れがよくて、白黒テレビに映えるように黒っぽいスーツを着こなし健康的に見えたケネディに対して、グレーのスーツを着て病み上がりの顔のニクソンは視覚的には最初から不利であった。当時はまだ白黒テレビの時代で多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用し、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが白黒テレビを意識して選んだスーツを身に付け、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、テレビで見た人々の印象はそれとは違っていた。後にケネディ陣営はこのテレビ討論会は引き分けであったとしたが、ニクソンと互角であったということで十分な成果であった。結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えでケネディは勝った。この討論会は合計4回行われた。

そしてニクソンの誤算は共和党で指名を受けた時に50州全てを遊説すると述べたことで、病気のために休まざるを得なかったため選挙日程が狂い、選挙戦の一番大事な終盤に選挙人の多い重要な接戦州を回れず、遠いハワイ州やアラスカ州などを回らざるを得なかったことである。ケネディはその間に多くの接戦州を重点的に遊説して最後の逆転につながった。

最終的に投票総数ではケネディとは僅差でありながら、獲得した選挙人数では圧倒的な差をつけられた。

ケネディの選挙不正への対応[編集]

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人ジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴのマフィアの大ボス、サム・ジアンカーナを紹介してもらいウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、当時シナトラとマフィアの関係に注目し捜査を行っていたFBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[13]

さらに、禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係から、東海岸やシカゴ一帯のマフィアと関係の深いケネディの父ジョセフも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合・非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている[14][15]

これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正[注 1]に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワーから「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[16]。これには、当時東西関係が緊張していた時代であり、ソ連とキューバと対立していた状況で、大統領と副大統領であったアイゼンハワーとニクソンは、これ以上新大統領の就任にケチをつけて国を割るようなことはしないと決めたからでもある。

ただしニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠[注 2]をケネディ陣営がつかんでいたものの「切り札」として公開しなかったこともあり、「やぶ蛇になることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もある。

敗北[編集]

アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2パーセント(ケネディ49.7パーセント/34,220,984票、ニクソン49.5パーセント/34,108,157票)という、歴史上に残るほどの僅差であった。勝った州はケネディ24州、ニクソン26州。しかし獲得した選挙人数は全選挙人数537人でケネディは303人も獲得しており、ニクソンは選挙人219人の獲得に終わり、ケネディの選挙人の多い州を重点に回る選挙戦略の成果であった[17]。。

なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。

大統領選挙落選後[編集]

弁護士活動再開[編集]

リンドン・ジョンソンとともに(1961年)

1960年の大統領選挙の落選後、ニクソンは一時的に政治活動から離れ、ニューヨーク州に移り再びペプシコ社などのアメリカの大企業の弁護士として活動することになった。

なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であり、1960年に内閣総理大臣を辞任した岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった[18]

カリフォルニア州知事選[編集]

大統領選落選から2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙翌日の11月7日ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見で失意のニクソンは、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「これは私の最後の記者会見である("this is my last press conference")」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。

しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で学者エドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府(中華人民共和国)の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた[19]

1968年の大統領選挙[編集]

その後アメリカは、ケネディ政権下で南ベトナムへの「アメリカ軍軍事顧問団」の派遣や大量の武器供与が行われるなど軍事介入を始め、その後を継いだジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が派兵して軍事介入が本格化したベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、大学生を中心とした若者の反戦運動が過激化するなど混乱状態に陥った。

ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、共和党の保守派を含む多くのマスコミから「負け犬ニクソン」とまで言われていたが、再び政界への復帰を目指し1968年の大統領選挙に出馬する。そしてこの時期のアメリカ国内の混乱がニクソンに追い風となった。

予備選[編集]

1968年の大統領選挙時のニクソン

1968年共和党の予備選挙ではミシガン州のロムニー知事、ニューヨーク州のロックフェラー知事、カリフォルニア州のロナルド・レーガン知事などと争い終始リードを保ち、選挙戦を有利に進めて8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回目の投票で候補者に指名され復活を遂げた。副大統領候補にはメリーランド州知事スピロ・アグニューを選んだ。

なお民主党は、当初はリンドン・ジョンソン大統領が再選を目指すはずであったが、マッカーシー上院議員がベトナム戦争反対をスローガンに予備選挙に出馬し、最初のニューハンプシャー州で予想外の善戦で、急遽ロバート・ケネディ上院議員が出馬宣言をし、3月31日にジョンソンがベトナム政策の大幅な変更と大統領選挙不出馬を宣言して、以後ケネディ上院議員が予備選の本命候補に浮かび上がった。しかし最後のカリフォルニア州予備選挙で勝利宣言した直後に彼は暗殺されて、その後マッカーシー上院議員ではなく、予備選挙に出なかったヒューバート・H・ハンフリー副大統領が本命視されるようになった。そして同年8月26日から29日にかけてシカゴで行われた党大会で、ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警察と衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。最終的に民主党はハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され、民主党は大統領選挙で大きな不利を受けることとなった。

選挙戦[編集]

選挙戦では、前回の轍を踏まず早い時期から選挙運動を開始し、公民権運動やベトナム反戦運動が過激化したことに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めジョンソン政権で拡大の一途を辿ったベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。

対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関してジョンソン政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。

ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、最終盤では世論調査の支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でニクソンは3,178万3,783票(得票率43,4%)で、ハンフリーの3,127万1,839票(得票率42,7%)両候補者の得票率の差が0.7%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代合衆国大統領に就任する[20]

第37代合衆国大統領[編集]

就任式
ニクソン大統領とアグニュー副大統領

ニクソンは1969年1月20日に大統領に就任した。大統領就任当時は、ベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、若者を中心とした過激な「反戦運動」を嫌う保守層が、ニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、ジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、一定のリベラル層からの支持も獲得した。

就任後は、国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の積極的な外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーとともに、ベトナム戦争のベトナム化を図り、戦後続いたアメリカによる自由世界の警察官としての役割でなく、経済成長が著しい日本や西欧各国の連携を深め、なおかつアジアのデタントを進めて、中国との接近を図った。

これは戦後の東西対立が激しい時代であったトルーマン政権の「封じ込め政策」から、一時アイゼンハワー政権で東西の緊張緩和が進み、ケネディ政権ではキューバ危機以後に米ソ間でのデタントが進んで、欧州では米ソ協調の時代に入っていた。しかし一方アジアでは依然中国との厳しい対立が続き、ベトナム戦争への介入で硬直したアジア外交であったジョンソン政権の失敗を教訓に、アジアにおいても「デタント政策」を推進するために、中国との外交関係の樹立に動いた。この中国との関係改善が対ソ関係で米国に優位な位置を築き、対ソ関係で第一次戦略兵器制限条約などの成立に繋がり、これらの外交における大きな功績のみならず、経済面での思い切った保護主義で衰退期に入ったアメリカ経済をアメリカの主導でドル切り下げと他国通貨の切り上げで行い、それらが高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。

しかしウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後はその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争のアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国との外交関係樹立(国家としての承認はカーター政権時代である)など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。

また内政的には、当時環境保護運動が盛り上がり、ニクソンもアメリカ環境保護局(EPA)の設置、麻薬取締局 (DEA) の設置など、主に環境対策面や麻薬対策で一定の功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。

内閣[編集]

職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 リチャード・ニクソン 1969 - 1974
副大統領 スピロ・アグニュー 1969 - 1973
  ジェラルド・フォード 1973 - 1974
国務長官 ウィリアム・P・ロジャース 1969 - 1973
  ヘンリー・キッシンジャー 1973 - 1974
財務長官 デヴィッド・ケネディ 1969 - 1971
  ジョン・コナリー 1971 - 1972
  ジョージ・シュルツ 1972 - 1974
  ウィリアム・サイモン 1974
国防長官 メルヴィン・R・レアード 1969 - 1973
  エリオット・リチャードソン 1973 - 1973
  ジェームズ・R・シュレシンジャー 1973 - 1974
司法長官 ジョン・ミッチェル 1969 - 1972
  リチャード・クラインディーンスト 1972 - 1973
  エリオット・リチャードソン 1973 - 1974
  ウィリアム・B・サクスビー 1974
郵政公社総裁 ウィントン・ブローウント 1969 - 1974
内務長官 ウォルター・J・ヒッケル 1969 - 1971
  ロジャース・C・B・モートン 1971 - 1974
農務長官 クリフォード・モリス・ハーディン 1969 - 1971
  アール・ラウアー・バッツ 1971 - 1974
商務長官 モーリス・H・スタンス 1969 - 1972
  ピーター・G・ピーターソン 1972 - 1973
  フレデリック・V・デント 1973 - 1974
労働長官 ジョージ・シュルツ 1969 - 1970
  ジェームズ・ホジソン 1970 - 1973
  ピーター・ブレナン 1973 - 1974
保健教育福祉長官 ロバート・ハチソン・フィンチ 1969 - 1970
  エリオット・リチャードソン 1970 - 1973
  キャスパー・ワインバーガー 1973 - 1974
住宅都市開発長官 ジョージ・ロムニー 1969 - 1973
  ジェイムズ・トマス・リン 1973 - 1974
運輸長官 ジョン・ボルプ 1969 - 1973
  クロード・ブリンガー 1973 - 1974


ホワイトハウス[編集]

ニクソン大統領と政権メンバー
ニクソン大統領と側近、左からキッシンジャー、ニクソンを挟んでフォード副大統領、ヘイグ
ニクソン大統領と側近、左からハルデマン、ジーグラー、アーリックマン

ニクソンの政権の特徴は、従前の大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権限を抑え込んだところにある(帝王制大統領 Imperial Presidency)。国務長官のロジャースなどは重要政策で蚊帳の外に置かれ、キッシンジャー補佐官が重要な外交交渉に当たった[注 3]。また商務次官補(上院承認の必要な高官)に解任を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(バーグステン)であった[注 4]。 一方で、ハルデマン、アーリックマンの2人は重用され政権の中枢を担った(各人ドイツ系のため「ジャーマン・シェパード」と呼ばれていた)。しかしやがてこの弊害がニクソンの政治生命を失うことになる。

副補佐官 スチーブン・V・ブル
日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン
副補佐官 アレクサンダー・ヘイグ(後に陸軍大将、国務長官)
副補佐官 ブレント・スコウクロフト(後に空軍中将、国家安全保障補佐官)
上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr.
上級スタッフ モートン・ハルペリン(沖縄返還交渉で若泉敬と接触)
上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、アーリックマンの部下)
  • 法律顧問 ジョン・W・ディーンⅢ
副顧問 フレッド・F・フィールディング
  • 大統領報道官 ロナルド・Z・ジーグラー(名目上の上司はハーバート・G・クライン広報連絡局長、ケネス・W・クローソン広報連絡局次長)
  • 大統領個人秘書 ローズ・マリー・ウッズ
  • 大統領個人法律顧問 ハーバート・W・カームバック
  • 特別補佐官(政治担当)チャールズ・W・コルソン、マレー・チョティナー
  • 大統領顧問 レナード・ガーメント
  • 行政管理予算局(OMB)
局長 ジョージ・P・シュルツ
局長 ジェームズ・R・シュレジンジャー
次長 フレデリック・V・マレク

大統領任期中の主な施策[編集]

昭和天皇(左から2人目)、香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット
田中角栄首相を迎えるニクソン
ソビエト共産党書記長レオニード・ブレジネフ(左)とニクソン(右)
  • 1969年6月にベトナムからのアメリカ軍の撤退を開始した。
  • 1969年11月に日本の佐藤栄作首相と会談、在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還協定を締結。
  • 1970年3月にカンボジアロン・ノル将軍を支援して、シハヌーク王政を打倒した。[注 5]
  • 1970年に環境を保護し、環境破壊の予防と回復のための観察と政策のためのアメリカ環境保護局 (EPA) を設立した。
  • 1970年に海洋と大気の状態を観察し、海洋の資源と生態系の観察を行う、海洋大気局を設立した。
  • 1970年に包括的薬物乱用予防管理法に署名した。
  • 1970年に職業安全衛生法に署名した。
  • 1970年に大気浄化法(マスキー法)に署名した。[注 6]
  • 1970年に自然環境と生態系と自然資源の被害を予防するための国家環境政策法に署名した。
  • 1970年5月にベトナム戦争下でベトナムとカンボジアの国境を越えてカンボジアに侵攻。
  • 1971年2月にベトナム戦争下でベトナムとラオスの国境を越えてラオスに侵攻。
  • 1971年7月にそれまで対立していた中国に翌年訪問すると突然発表。(第1次ニクソン・ショック
  • 1971年8月にドルと金との交換停止、10%の輸入課徴金実施、賃金・物価を統制することを発表。(第2次ニクソン・ショック・ドル・ショック)
  • 1971年に国際連合で採択された海底軍事利用禁止条約に調印。
  • 1971年12月にスミソニアン会議でドルと金との交換レートを引き下げて、円などの外国通貨との為替レートでドルの切り下げを行った。
  • 1972年1月に「日米繊維問題」で政府間で規制することで交渉妥結した。[注 7]
  • 1972年1月にスペースシャトル計画を承認。[注 8]
  • 1972年2月にアメリカの大統領としては初めて中華人民共和国を訪問。事実上の外交関係を開始。[注 9]
  • 1972年5月に沖縄の統治権を日本に返還した。
  • 1972年に国際連合で生物兵器禁止条約の採択を推進し調印。
  • 1972年にアメリカとソ連が戦略核兵器の配備数を制限する第一次戦略兵器制限条約に合意し調印。
  • 1972年にアメリカとソ連が弾道ミサイルに対する迎撃ミサイルの配備数を制限する弾道弾迎撃ミサイル制限条約に合意し調印。
  • 1972年に国連人間環境会議国際捕鯨委員会で商業捕鯨の停止を提案。[注 10]
  • 1972年にラムサール条約に調印。[注 11]
  • 1972年に水質清浄法(水のマスキー法)に署名した。[注 12]
  • 1973年1月23日にパリ協定に調印。3月末までにベトナムからのアメリカ軍が全軍撤退。
  • 1973年2月に外国為替取引を市場取引による変動相場制へ移行。
  • 1973年に麻薬取締局 (DEA) の設置。
  • 1973年9月にチリのアジェンデ政権を打倒。
  • 1974年2月に、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。[注 13]

外交政策[編集]

ニクソンの外交政策には、カンボジアとチリにおける政権転覆とクーデターと傀儡政権の樹立などの力を背景とした政策を行うとともに、ベトナム戦争からのアメリカ軍の全軍撤退と軍縮政策の推進、国際協調外交の推進など硬軟織り交ぜた政策を展開した。ベトナム戦争では交渉と同時にカンボジアやラオスへの侵攻を辞さず、妥結寸前でも北ベトナムへの爆撃を強行したり、また北ベトナムと友好国であった中国と突然外交関係を結んで世界を驚かせ、あくまでアメリカの威信を傷つけず、アメリカの主導権を確保したうえでの柔軟な外交を展開している。国際経済では突然ドルの金交換を停止し10%の輸入課徴金を課し、ドルの切り下げをアメリカが主導権を取って多国間通貨調整という枠組みで行った。これは自由貿易の理念からは外れ他国を混乱に巻き込んだが、あくまでアメリカの国益を中心に西側の中心であることを軸にした積極的な外交展開であった。

デタント推進[編集]

ニクソン時代には、トルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係は緊張緩和が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。

またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「デタント政策」を推進した。1969年よりフィンランドヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉(SALT-Ⅰ)が開始され、1972年5月にニクソンがソ連を訪問して交渉は妥結してモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。

この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中国との関係改善を進めたことが、対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が米国の財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。

なお、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した。この事件の報復のために、ニクソン政権内では戦術核兵器で北朝鮮の基地を攻撃することも検討されたが、当時デタント推進を最優先していた上に、ベトナム戦争を抱えていたニクソンは、北東アジアにおける新たな戦争を招くことを避けるために、北朝鮮の金日成政権に対する報復を行わなかった[21]

ベトナム(インドシナ)戦争の終結[編集]

選挙公約[編集]
南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領と(1968年)
カンボジア戦線の状況について説明を行うニクソン(1970年)

アイゼンハワーがフランスに代わって行った軍事援助に始まり、後任のケネディにより本格的な軍事介入が開始され、さらにその後任のジョンソンによって拡大・泥沼化されたベトナム戦争を終結させ「名誉ある撤退」を実現することをニクソンは大統領選に向けた公約とした。そして当時アメリカの若者を中心に増加していた「ヒッピー」や過激なベトナム反戦論者、またそれらと対極に位置する強硬な保守主義者などの強い主張にも嫌うアメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉[編集]

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日南ベトナムへ予定外の訪問をし、大統領グエン・バン・チューおよびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との和平交渉を再開した。前年のジョンソンの北爆停止声明直後の1968年5月にパリに於いて、北ベトナム政府との正式な協議は始まっていた。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。撤退するために戦線を逆に拡大するニクソン流のやり方は、最後のパリ和平協定が締結する直前まで続く。

その後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、パリでの北ベトナム政府との和平交渉(四者会談)を継続させた上でキッシンジャー補佐官が和平交渉とは別に極秘に北ベトナム担当者と交渉に入った。それは北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問した1972年の秋で、ようやく秘密交渉が進み締結寸前までいった1972年12月には逆に北爆が強化されて爆撃が交渉のカードとして使われるなど硬軟織り交ぜた交渉は、パリでの正式な交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、最後にはハノイに爆撃するなど「ニクソン・ドクトリン」の発表からも3年半以上に亘って戦争を継続する結果となった。

アメリカ軍の完全撤退[編集]

そして4日後の1月27日に、国務長官ロジャーズと南ベトナム外相チャン・バン・ラム、北ベトナム外相グエン・ズイ・チンと南ベトナム共和国臨時革命政府外相グエン・チ・ビンの4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャーとレ・ドク・トにノーベル平和賞が授与された(レ・ドク・トは受賞を辞退した)。

中華人民共和国訪問[編集]

北京エアフォース・ワンから降りるニクソン夫妻(1972年)
ニクソンと毛沢東
電撃発表[編集]

1949年の国家成立後、朝鮮戦争における対立などを経て長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、米中関係を改善することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャーを極秘にパキスタンイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

これはアメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相・周恩来と会談して、正式に中国訪問の招待を受けて、帰国後ニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、世界を驚愕させた。

中国訪問[編集]

その翌年1972年2月21日エアフォース・ワンで北京を訪問、中国共産党主席毛沢東と中南海で会談し、また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。アメリカと中華人民共和国の間の国交樹立は、カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

この時に国交樹立まで至らなかったのは中華民国との関係があり、アメリカは防衛条約まで結んでいる関係で、このことにより蒋介石率いる中華民国との関係がギクシャクしたが結果的に断交することはなく、今日に至ってもアメリカは台湾への影響力は失っていない。

国内政策[編集]

国内政策では前半は失業やインフレ対策で有効な施策が打てず、国内から批判が強かったが、ドル・ショック時に減税と輸入課徴金制度の設立、物価・賃金の凍結を打ち出すなど国内経済の保護主義を辞さなかった。それは日米繊維交渉にそれは現れている。その他では環境保護政策の推進、公共インフラ事業の推進、麻薬取締の推進などを展開した。

ドル・ショック[編集]

1971年7月の突然の中国訪問の発表は世界をアッと驚かせたが、翌月1971年8月の新しい経済政策の発表も世界を驚かせた。ニクソンは景気対策で好ましい成果を挙げることが出来なかった。そして1971年夏にはインフレ、高い失業率、不況というスタグフレーションに苦しめられて、中国との電撃的な訪問を発表した直後に上下両院の共和党議員との懇談の席で、華々しい外交のことよりも国内の経済状況についての苦言と注文を出されていた。そして8月に発表した新経済政策で誰も想像しなかったドルの金交換停止、輸入課徴金制度の設立、物価・賃金の凍結という思い切った施策を打ち出した。

これらは不況から抜け出せないアメリカを取り巻く状況で、ドルの切り下げが避けられない局面で、単なるドル平価の問題とせず、多国間での通貨調整という場にして劇的に行うことで、当面の問題解決を狙ったものであった。しかし、結局は固定相場制が崩れて変動相場制に完全に移行して、アメリカが再び強い経済力を発揮するのは1980年代に入ってからで、ニクソン政権の時代には、従来のアメリカの経済力を背景にしたブレトンウッズ体制を自ら主導権を取って終わらせることは出来たが、その後の政策は無かった。

環境対策の推進[編集]

工場などからの排出物による大気汚染水質汚染土壌汚染に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるアメリカ環境保護局 (EPA) を1970年12月2日に設立した。設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景に、これを推進した。

ただ当時は国際的にも環境保護運動が盛り上がり、国内ではラルフ・ネーダーの消費者運動もあり、世論もかなり環境問題についての関心が高かった背景があった。そこへ民主党のマスキー上院議員が大気汚染についての法規制に尽力したこともあって、1970年の大気浄化法や1972年の水質清浄法がマスキー法と呼ばれるように、むしろ民主党が多数を占める議会が積極的に取り組んだ成果であり、これらは必ずしもニクソンの功績と呼べるものではない。むしろその後は共和党政権で骨抜きにされたものもあった。

また国際連合で採択された各種の保護規制も、この時代はどの国も取り組んでいたもので、これらもニクソンの功績と呼べるものではない。

麻薬取締局の設置[編集]

ニクソンと握手をするエルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)

ニクソンは、ベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した規制物質法の策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査及び追跡に関する単独責任を有している「麻薬取締局(DEA)」の設置を行った。

1972年の大統領選挙[編集]

1972年の大統領選におけるニクソン
2期目の就任式で宣誓を行うニクソン

1972年の大統領選挙では、1期目の実績を高く評価されたニクソンが予備選段階で圧勝し、共和党候補としての指名を受けた。副大統領候補は1期目においてその実務能力が高く評価されていたスピロ・アグニューが引き続き努めることとなった。

民主党は上院院内幹事のエドワード・ケネディがすでに1969年飲酒運転の上で女性秘書を死亡させた「チャパキディック事件」で1972年の大統領選挙の立候補を辞退しており、ニクソンの好敵手ではなかった。当初は1968年大統領選挙で副大統領候補だったエドモンド・マスキーが本命候補と目されたが予備選挙途中で失速してジョージ・マクガヴァンが民主党大統領候補となった。しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディ家の遠縁に当たるサージェント・シュライバーが変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶やマリファナ合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり劣勢に置かれることとなった。

投票は1972年11月7日に行われ、ニクソン / アグニュー陣営は一般投票の60%以上を得て、得票率で23.2%という大差を付け、マクガヴァン / シュライバー陣営を破り、アメリカ政治史上で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れている)。

しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていた大統領再選委員会のスタッフが、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。

副大統領交代[編集]

フォード副大統領とキッシンジャー国務長官

高い実務能力で第1期を通じてニクソン政権を支えた功績を評価され、2期目も引き続き副大統領を務めたアグニューは、ボルチモア連邦地方検事のジョージ・ビールにメリーランド州知事時代の収賄の証拠をつかまれ、1973年10月10日に副大統領職を辞任した(その後、法曹資格も失った)。

同日にニクソンはジェラルド・R・フォード下院内総務を副大統領に指名した。その後、上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。

これはケネディ大統領暗殺事件を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第25条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった。

ウォーターゲート事件と辞任[編集]

ホワイトハウスを去るニクソン

外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受け、72年大統領選挙で再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任という不名誉な状況に追い込んだのが、大統領選挙の予備選挙が最終盤を迎えた1972年6月に起きた民主党全国委員会本部への不法侵入・盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」である。

1972年6月17日に、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうち、1人はジェームズ・W・マッコード・ジュニアでニクソン大統領再選委員会の警備主任であった。また他の2人が所持していた手帳には、元ホワイトハウス顧問エドワード・ハワード・ハントの自宅の電話番号と「House.WH」と書かれていた。このために、ニクソン政権に近い者がこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソンとホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会本部オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」として、1972年秋の大統領選挙には全く影響は無かった。しかし2期目の大統領に就任後の1973年春になってホワイトハウスのスタッフが関与していることが次第に明らかになり、政権の屋台骨を揺さぶるスキャンダルに発展した。

この「盗聴」そのものにニクソンが関わっていたことはない。問題は侵入事件後のかなり早い時期にニクソンが知って「もみ消し」に関わっていたかが焦点となった。そして事件調査の過程で、大統領執務室内の会話が録音されていることが発覚して(バターフィールド証言。但しこれはニクソン以前にケネディも行っていた)、その会話テープの提出を求められて、事件の調査はホワイトハウス内でどのような会話がされていたのかに焦点が当てられた。最初は会話テープの提出を拒み、やがて一部提出されたテープには18分も消去された部分があって、謎が深まった。そして1973年秋にニクソン自身がこの事件調査のため任命したコックス特別検察官を突然解任しようとして司法長官や次官が相次いで辞任する事態(土曜日の夜の虐殺)となり、国民にも「大統領はもみ消しに関わっていた」という疑惑が拡大し、これで議会が大統領弾劾に動き、辞任に追い込まれる結果となった。

ニクソンはこの盗聴事件について詳細を知ったのは当初1973年3月という説明を行っていたが、実際には1972年6月23日(侵入事件の6日後)にはすでに知っていたことがテープで明らかになったため、弾劾を回避することがもはや不可能と判断して、下院司法委員会が弾劾の発議を可決した後に、1974年8月8日夜に行われたテレビ演説で辞意を表明し、事件の責任をとる形で8月9日に正式に辞任した。なお、任期中の大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も任期中に辞任した大統領は現れていない。大統領が議会の弾劾の動きに直面したのは、リンカーン暗殺後に昇格した17代大統領ジョンソン以来2人目であった。

後任の大統領に昇格したフォードはウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年9月8日にニクソンに対する特別恩赦を行った。誰が何のために不法侵入と盗聴を指示したかは未だに定かではないし、ニクソンもどこまで関わっていたのか明らかにならず、事件は幕が下ろされた。結局自ら辞職したことでニクソンは現実に弾劾されず有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。

ニクソン大統領図書館

なお事件後に、ニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。資料はワシントンD.C.地域外への持ち出しが禁止されたので、カリフォルニア州ヨーバリンダの「ニクソン生誕地図書館」ではなくアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた。

なお、ニクソンの死から10年以上が経過した2005年3月に、合衆国アーキビスト (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、2007年7月11日にこれまでは私営として運営されてきた「ニクソン生誕地図書館」は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の大統領図書館に変わった[22]

支持基盤[編集]

訪問先で支持者からの歓迎を受けるニクソン

前任者のケネディやジョンソンのように、理想主義者として実現が困難な政策に走らず、現実主義者として実現可能な政策を堅実に実現させたことにより、「サイレント・マジョリティ」に代表されるような、幅広い中道保守派層が支持者の多くを占めていた。

また、ベトナム戦争からのアメリカ軍の撤退を公約に当選し、実際にそれを実現させたことや、積極的にデタントを進めたことから、共和党選出であったものの民主党員やリベラル層にもその支持層を広げていた。

経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどから多くの支援を受けていたといわれる。

ニクソンの支援基盤の1つに、地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトマクドネル・ダグラスロッキードなどの軍需企業があったが、ベトナムへの軍事介入を拡大し続けたケネディやベトナム戦争を拡大・泥沼化したジョンソン、冷戦下で軍拡を推し進めたアイゼンハワーなど、軍需産業への発注拡大や軍の規模拡大になる政策を多数推し進めた前任者らとは異なり、デタントの推進やベトナム戦争からの全面撤退という、軍需産業への発注削減と軍の規模削減政策を大規模に遂行したことは後年高い評価を受けることとなる。

大統領辞任後[編集]

ウォーターゲート事件の後遺症[編集]

左からフォード、ニクソン、G. H. W. ブッシュ、レーガン、カーターの歴代大統領
レーガン大統領とともに

ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに深めている。

イメージの修復[編集]

しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交に強い政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ大統領として初めて訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。

これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からも高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンは自身のイメージをある程度修復することに成功した。

死去[編集]

ニクソンは、1993年6月に肺浮腫ならびに肺がんで死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日ニューヨーク州ニューヨークシティ脳卒中とその関連症により、81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。

評価[編集]

ウォーターゲート事件の後遺症や、一部の反共和党のマスコミからの執拗な攻撃もあり完全な名誉回復はついになされず、アメリカの一般大衆からの人気は現在も決して高いとはいえない。しかしヴェトナムからの撤退を決断したことやデタントの推進、冷戦の終結に向けた多大な貢献など、外交面で大きな成果を上げている。さらに内政面においても様々な環境保護政策を実現させたこともあり、アメリカの有識者の間では「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価を受けている。

冷戦下におけるニクソンの外交手腕に高い評価を与える外国の有識者も多く、フランスの元外務大臣で、1960年代後半にシャルル・ド・ゴールの下で首相を務めたモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルは、1986年1月に行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中でニクソンの外交政策とその手腕を絶賛している。

日本語文献[編集]

著書[編集]

  • 『ニクソン回顧録』全3巻、松尾文夫・斎田一路訳、小学館、1979年
  • 『リアル・ピース』宮崎正弘訳、ダイナミックセラーズ、1984年
  • 『リアル・ウォー 第三次世界大戦は始まっている』国弘正雄訳、文藝春秋、1984年
  • 『指導者とは』徳岡孝夫訳、文藝春秋、1986年/文春学藝ライブラリー(文庫)、2013年
  • 『ノー・モア・ヴェトナム』宮崎成人・宮崎緑共訳、講談社、1986年
  • 『1999年 戦争なき勝利』読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年
  • 『ニクソン わが生涯の戦い』福島正光訳、文藝春秋、1991年
  • 『変革の時をつかめ』福島正光訳、文藝春秋、1992年

関連文献[編集]

ニクソンに関係する作品[編集]

「フロスト×ニクソン」でニクソンを演じたフランク・ランジェラ(左)とニクソン

ニクソンを描いた映画[編集]

ニクソンを(基として)描いたテレビドラマ[編集]

ニクソンを描いた舞台[編集]

ニクソンが登場する映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「イリノイでニクソンからケネディに差し替えられた4,480票、ミズーリでの4,491票の操作、これがなかったら1960年の選挙は決着がつかないまま下院の裁定に持ち込まれていたであろう。」「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」95P 藤本一美・濱賀祐子著 専修大学出版 2004年10月出版。これは「大統領の犯罪」ヴィクター・ラスキ著 白城八郎訳 集英社 1979年発行 からの引用である。
  2. ^ 現在ではこのような経歴が問題視されることはないという向きもあるが、これより12年後の1972年に民主党大統領候補になったマクガバンに指名されて、副大統領候補になったイーグルトンが同じような過去が明らかになって副大統領候補辞退に追い込まれている。
  3. ^ キッシンジャーはその後ロジャーズの後に国務長官に就任している。
  4. ^ 補佐官は大統領行政特権があるため、行動や任免について議会に対する説明責任がないとされ、議会の規制を受けずに政策を実行できる。
  5. ^ その後アメリカの傀儡のロン・ノル政権を樹立し、1975年に内戦でクメール・ルージュに打倒されるまで支援を続けた。
  6. ^ 自動車の排気ガスを規制する初めてのもので世界的に注目された。マスキー上院議員が推進したので彼の名前を冠した法である。
  7. ^ 1968年大統領選挙で繊維業者の多い南部の支持を取り付けるために、繊維製品の輸入制限を公約に掲げたことで妥結まで3年を要した。
  8. ^ ニクソンの名前はの表面に置かれた特別の飾り額の上で前国連事務総長ウ・タントの名前と並んでいる。
  9. ^ 米中の正式な国交樹立は、1979年1月1日であった。
  10. ^ 国連人間環境会議は商業捕鯨の停止を採択し、国際捕鯨委員会は当時は商業捕鯨の停止を否決した。
  11. ^ 国際連合で採択された野鳥の生息地として重要な湿地を保護する条約。
  12. ^ 産業廃棄物・生活廃棄物の有害汚染を除去せずに環境に排出し、地下水、河川、湖沼、海洋の水質汚染を予防するための法でマスキー議員が推進した。
  13. ^ 第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響による。

出典[編集]

  1. ^ 『ニクソン わが生涯の戦い』P.117 (福島正光訳、文藝春秋、1991年)
  2. ^ デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影 第2部』(金子宣子訳、新潮文庫、2002年)元版は新潮社で上下巻、1997年
  3. ^ 「戦略家ニクソン」P.20 田久保忠衛著 中公新書
  4. ^ リチャード・ニクソン 『ニクソン わが生涯の戦い』略年譜より (福島正光訳、文藝春秋 1991年)
  5. ^ 「戦略家ニクソン」P.54 田久保忠衛著 中公新書
  6. ^ a b c ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第2部』
  7. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.267 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  8. ^ 「戦略家ニクソン」P.66 田久保忠衛著 中公新書
  9. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.270 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  10. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.272 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  11. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」83~84P 藤本一美・濱賀祐子著 専修大学出版 2004年10月出版。
  12. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」91P 藤本一美・濱賀祐子著
  13. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊 1992年
  14. ^ 『マフィアとケネディ一族』朝日新聞刊 1994年 ジョン・H. デイヴィス著、市雄貴訳
  15. ^ 『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』 サム ジアンカーナ、チャック ジアンカーナ著、落合信彦訳 光文社刊 1992年
  16. ^ 「戦略家ニクソン」田久保忠衛著 中公新書
  17. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」68~69P 藤本一美・濱賀祐子著
  18. ^ 原彬久編『岸信介証言録』
  19. ^ 『ライシャワー自伝』エドウィン・O・ライシャワー著 文藝春秋刊
  20. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」131P 藤本一美・濱賀祐子著
  21. ^ “北朝鮮への核攻撃検討―米公文書=偵察機撃墜受けニクソン政権”. 時事通信. (2010年6月24日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010062400278 
  22. ^ Joint Use Agreement Launches New, Federal Nixon Library(英文)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


先代:
アルバン・W・バークリー
アメリカ合衆国副大統領
1953年 - 1961年
次代:
リンドン・B・ジョンソン
先代:
リンドン・B・ジョンソン
アメリカ合衆国大統領
1969年 - 1974年
次代:
ジェラルド・R・フォード