ウィリアム・グラッドストン
| ウィリアム・グラッドストン
William Gladstone
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| 生年月日 | 1809年12月29日 |
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| 没年月日 | 1898年5月19日(満88歳没) |
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| 出身校 | オックスフォード大学・クライスト・チャーチ・カレッジ |
| 所属政党 | 保守党 → 自由党 (イギリス) |
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| 任期 | 1868年12月3日 - 1874年2月17日 |
| 任期 | 1880年4月23日 - 1885年6月9日 |
| 任期 | 1886年2月1日 - 1886年7月20日 |
| 任期 | 1892年8月15日 - 1894年3月2日 |
| 国王 | ヴィクトリア女王 |
ウィリアム・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809年12月29日 - 1898年5月19日)は、イギリスの政治家。首相に4度任命され、84歳で首相を解任されるまで精力的に勤めた。また、蔵相としても4度任命されている(1852年~1855年, 1859年~1866年, 1873年~1874年, 1880年~1882年)。 保守党の党首ベンジャミン・ディズレーリの好敵手として、またヴィクトリア女王との不和でも有名である。
[編集] 概要
1809年にリヴァプールのスコットランド系の豪商ジョン・グラッドストン(en:Sir John Gladstone, 1st Baronet)の四男として生まれる。
1828年にイートン校・オックスフォード大学に学び、1831年に古典と数学の最優秀成績者として学位を取得した。
1833年より保守党に所属する下院議員となり、1835年に植民次官、1843年に商務院総裁、1845年に植民相を歴任する。1846年、穀物法の廃止のさいロバート・ピールを支持し、保守党からは次第に離れ、1852年アバディーン連立内閣に蔵相として入閣。1855年に辞職して、1858年に「ホメロス研究」を発表する。
1859年から1866年にかけて再び蔵相を務め、1867年に自由党党首となる。1868年から1874年に首相としてアイルランド国教廃止、第1次アイルランド土地法・軍制改革・秘密投票法・司法制度の改革を成立させた。1880年から1885年の第2次グラッドストン内閣では第3次選挙法改正を行い、1886年の第3次内閣はアイルランド自治問題で崩壊。1892年から1894年の第4次内閣の時に提出したアイルランド自治法案は、上院で否決された。
19世紀イギリスの典型的な議会政治家で、国民から愛称GOM(偉大なる老人、Grand Old Man)で呼ばれ親しまれたが、1885年スーダンの反乱に関与した英国軍を救出に向かったチャールズ・ゴードン少将が戦死した際には、それをもじってMOG(ゴードンの殺人者、Murderer of Gordon)と呼び、非難。第2次内閣崩壊のきっかけともなった。
アヘン戦争の際は議会において反対の演説を行ったが、当人は登壇前にはいつもアヘン入りのコーヒーを飲んでいることは有名であった。ちなみに当時のイギリス国内においても、アヘンの売買や使用は不道徳と看做されてはいたが違法ではなく、法的に禁止されたのは後世の出来事である。
明治期日本の政党政治家には、自由主義の理想を追求する政治家として人気があった。中江兆民が大政治家の一人に挙げている。
なお1839年にキャサリン(en:Catherine Gladstone)と結婚しており、その後8人の子供に恵まれている。
[編集] 画像
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グラッドストーン(1830年代撮影)
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グラッドストーン(1861年撮影)
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ウェストミンスター寺院のグラッドストーンの墓
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グラッドストーンの像(マンチェスター、アルバート広場)
[編集] 関連項目
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