モリエール

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モリエール
Moliere2.jpg
モリエールの肖像画
ペンネーム モリエール
誕生 ジャン=バティスト・ポクラン
1622年1月15日
フランス、パリ
死没 1673年2月17日(51歳没)
フランス、パリ
職業 劇作家
言語 フランス語
国籍 フランス
活動期間 1643年-1673年
ジャンル 喜劇
文学活動 古典主義
代表作 人間嫌い
女房学校
タルチュフ
守銭奴
病は気から
ドン・ジュアン
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モリエール(Molière、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は17世紀フランス劇作家コルネイユラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人。本名ジャン=バティスト・ポクランJean-Baptiste Poquelin)。

生涯[編集]

青年期[編集]

1622年1月15日に現在のパリサントノーレ通りで、ジャン・ポクラン(Jean Poquelin、父27歳)とマリー・クラッセ(Marie Cressé、母20歳)の間に富裕な商人の長男として生まれる。ポクラン家は先祖代々商業を営んでおり、モリエールの祖父の代からは室内装飾業者を営んでいた。父の代になって商売は大繁盛し、「王室付き室内装飾業者」という肩書を買い取り、宮中に出入りするまでになっていた。当然貴族たちとも顔なじみとなり、ますます仕事が舞い込むこととなって、いよいよ隆盛を極めていたのである。母マリー・クラッセもパリの裕福な商人家の出身であり、庶民階級の女性としてはかなり高度な教養を身につけた女性であった[1][2]

1631年ころ、ジェズイット派の運営するコレージュ・ド・クレルモンへ入学。1632年、母マリー・クラッセが死去。彼女の財産目録によれば、モリエールが生まれてから10年で一家の財産が3倍に膨れ上がっている。翌年父親がカトリーヌ・フルーレットと再婚し、継母となるが、1636年に死去している[2]

1633年9月、父親が家を購入し、転居。この家は当時の商業の中心地であった中央市場や、様々な芸人が集まっていたポン・ヌフ、フランス国内で最初に有名になったサロン、ランブイエ邸の近くであった。また母方の祖父ルイ・クラッセが芝居好きであったことから、度々当時一流の劇場であったブルゴーニュ劇場(Hôtel de Bourgogne)などへも足を運んでおり、このような環境で育ったことが劇作家としての基盤となった[3][4][5]

1640年ころ、コレージュ・ド・クレルモンを卒業。その後、オルレアンの大学に進学し、法律を学んだ。この頃、女優であり、彼にとっては初めての恋人であるマドレーヌ・ベジャールに出会ったようである。シラノ・ド・ベルジュラックらとともに、ピエール・ガッサンディに哲学を学んだとされるが、定かではない。1643年、大学を卒業。弁護士として活動する資格を得る[6][7]

この翌年、父親の代理として国王ルイ13世に随行しナルボンヌへ出向くなど、父親の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりし家業を継ぐことを断念して、「王室付き室内装飾業者」世襲の権利は弟へ譲り、演劇の世界で生きていく決意を固めた。マドレーヌ・ベジャールに出会い、恋に落ちたために、この決意を固めたとする説もある[6][8]

南フランス修業時代[編集]

1643年6月30日、マドレーヌ・ベジャールを座長として、彼女の兄弟、他数名とともに「盛名座」結成。彼らの演劇への熱意は素晴らしいものであったが、俳優として実績があったのは座長のマドレーヌだけであり、ほかの団員は全員素人であった[9]。当然その実力はお粗末なもので、設立当初から資金繰りに困窮することとなった。1644年6月28日の公正証書に、初めて「モリエール」と芸名を用いた。由来は定かではない[10]

1645年、座長格に昇格。金策のために東奔西走するも、盛名座の運営がいよいよ厳しくなり、破産した。142リーヴルを返済できなかったため、監獄へ収監されるという憂き目にあっている。出所後パリを追放され、盛名座の団員とともに、ボルドーへ赴く。ボルドーにてギュイエンヌ総督エペルノン公爵(Duc D'Pernon,Jean Louis de Nogaret de La Valette)の庇護を受けることに成功し、盛名座は公爵が所有していた劇団と合併し、消滅した。こうして新たに出来た劇団を率いて、南フランス各地を巡業する旅へ出る[11][10]。このときの出し物は同時代劇作家の悲劇とモリエールの手による短い笑劇が中心。

南フランス巡業時代について詳しいことはよくわかっていないが、1647年の秋にトゥールーズアルビカルカッソンヌで興行を行った。48年にナントフォントネー=ル=コント、49年にポワチエアングレームリモージュ、トゥールーズ、モンペリエナルボンヌを巡業し、興行を行った[12]

1650年にはラングドック地方の議会がペズナスで開催された為、会期中に街に滞在する参加者たちの退屈しのぎとして3か月間の契約で街から招聘され、興行を行っている。この際、ペズナスから謝礼金4000リーヴルが贈られ、それに対するモリエールの署名入り受取書が残されているため、およそこの時期に、座長に就任したようである。同年にエペルノン公の不興を買い、庇護を失った。また、リヨンに拠点を据え、ここから巡業先へ出向くようになった。マルキーズ・デュ・パルクカトリーヌ・ド・ブリーが劇団に加入。後に、この2人はモリエールの劇団の看板女優となり、17世紀屈指の名女優となった[12][10]

1653年には、かつてコレージュ・ド・クレルモンでの学友だったアルマン・ド・ブルボン (コンティ公)の招待を受けて、コンティ公の別荘がある街へ赴くが、すでに先着していた「コルミエ劇団」がしっかりと根を張っており、なかなか公演を許されなかった。コルミエがコンティ公の愛人(ボルドー高等法院の評定官の妻であった)に金を掴ませていたからである。モリエールは途方に暮れたが、大変な美人で評判だった団員のマルキーズ・デュ・パルクを使ってコンティ公の側近であった詩人・サラザン(Jean=François Sarasin)を動かし、コルミエを追放することに成功し、コンティ公の庇護を獲得した[13][10][14]

1655年、初の本格的な自作の喜劇作品「粗忽者」を上演。これまでに既に2作品を書いているが、当時の慣習として「喜劇」というのはおよそ3~5幕からなる大作のことを指したため、これが初の喜劇となった[15]

1657年にコンティ公が突如カトリックへ改宗し、敬虔な信者となった。これまでの奔放な行いを深く悔い、カトリックの秘密結社「聖体秘蹟協会(La Compagnie Du Saint-Sacrement)」の一員となった。これと同時にモリエールの劇団は庇護を失うどころか、「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となった[16][17][18]

この頃には劇団の座員数も増え、すっかり経済的な余裕が生まれていたが、安心して公演を行うには有力者の庇護が欠かせなかった。幸い、ブルゴーニュの総督に任じられていたエペルノン公の庇護を再び受けることで出来、問題は解消された[16]

パリでの大成功[編集]

1658年、モリエールはパリ進出をもくろみ、その下準備を始めた。パリの目と鼻の先の位置にあるルーアンで行った興行は大成功を収め、より一層の自信をつけた[17]。13年にも及ぶ南フランスでの修業時代に、有力者の庇護を受けたり失ったりを繰り返していたモリエールは、演劇の腕を磨いただけではなく、有力者との交渉人としても腕が立つようになっていた[19]

その結果ルイ14世の弟、フィリップ1世 (オルレアン公)の庇護を受けることに成功し、「王弟専属歌劇団(Troupe de Monsieur)」と名乗ることを許された。10月24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことが許され、コルネイユの悲劇と自作の「恋する医者」を上演し、大成功を収めた。国王とその延臣たちに気に入られ、プチ・ブルボン劇場を使用する許可を獲得。既にこの劇場はイタリア人で構成される劇団が使用しており、通常日(日、火、金曜のこと。17世紀フランスには特にこの曜日に観劇をする習慣があり、客入りがよくなるので、稼ぎ時であった)を除く曜日のみ使用できるという不利な条件であったが、翌年イタリア人の劇場が母国へ帰ったことで、プチ・ブルボン劇場の使用権を独占。プチ・ブルボン劇場の出演のほか、ルーヴル宮殿や各地の宮殿に赴いてルイ14世の御前で公演を行うなど、このようにして、パリの街においても、宮廷においても、着実に根を張っていった[17][20]

1659年、「才女気取り」が大成功。1660年10月、モリエールの大成功を妬むブルゴーニュ劇場、マレー劇場などの策略によって、プチ・ブルボン劇場が取り壊される。拠点を失ったモリエールは国王に請願し、パレ・ロワイヤルの使用権を獲得。この劇場が生涯を通しての本拠地となった。1661年、悲劇「ドン・ガルシ・ド・ナヴァール」上演開始。珍しく大失敗。大蔵大臣ニコラ・フーケからの命令で、「はた迷惑な人たち」執筆、上演[21][17]

1662年、プチ・ブルボン劇場を使用していたイタリア人の劇団が戻るも、モリエールの劇団が通常日の使用を許可される、有利な条件となった。同年2月20日、劇団の女優アルマンド・ベジャール(20歳)と結婚。年の差も20歳。同年12月「女房学校」初演。大成功し、演劇界にその名を轟かせ、不動の地位を獲得するに至った。この「女房学校」及びモリエールの僅か数年でのパリと宮中における大成功は、当然ながら同業者たちの嫉妬心を激しく炙りたてた[22][23]

1663年、「女房学校」を巡って、モリエールと作家たちの間で応酬が起こった。批判の言葉を並べるなど、直接的な方法ではなく、あくまで喜劇の形を借りての応酬であるのが特徴的である。この戦争は、以下のような経過をたどった[24][25]

  • 1月、ニコラ・ボアロー=デプレオー、「モリエールに与える詩」でモリエールを讃美
  • 2月、ジャン・ドノー・ド・ヴィゼ、作品「ヌーヴェル」にて攻撃
  • 6月、モリエール「女房学校批判」にて反駁、演劇に対する自説を主張。この自説がコルネイユ兄弟らの怒りを買う。
  • 8月、ヴィゼ「ゼランド、またの名を真の女房学校批判」で再び攻撃
  • 10月、ブールソー参戦。「画家の肖像」にて攻撃
  • 同月、モリエール「ベルサイユ即興劇」で再度反駁
  • 11月、ヴィゼ「ヴェルサイユの即興劇への返答、あるいは侯爵達の復讐」で攻撃
  • モンフルーリの息子アンソニー、「コンデ公爵邸での即興劇」にて攻撃
  • 1665年3月、フィリップ・ド・ラクロワ(Philippe de Lacroix)、「喜劇の戦い,またの名を女房学校の弁護」にて擁護。戦争終結。
  • 同年、ヴィゼ、コルネイユ兄弟らと和解

この年、国王より、年金1000リーヴルが支給されるようになった[26][23]

1664年、長男が誕生、ルイ14世が代父母となり、名づけ親になるが、夭折[26]。この頃から胸部に疾患を抱え始める。ラシーヌとの交遊が始まる。ヴェルサイユ宮殿の増築の竣工を祝う祝典で「タルチュフ」上演。大反響を呼ぶ。国王夫妻は興味深そうにご覧になったとのことだが、キリスト教信者たちの激しい反発を受け、タルチュフのパリでの上演が禁止された。この上演禁止騒動を巡って、モリエールは今後数年間に亘って、多大な労力を使う羽目になる[27]。また、このあたりから彼の若妻アルマンドが浮気をし出したようだ[28]

1665年、「喜劇の戦争」で論争相手となっていたコルネイユ兄弟、ジャン・ドノー・ド・ヴィゼと和解。同年「ドン・ジュアン」の上演開始。大成功を収めるも、依然として攻撃が止まず、やむなく上演を早々に打ち切った。上映打ち切り後も攻撃が続いたため、ルイ14世が仲裁に乗り出すこととなった。この年、モリエールの劇団はフィリップ1世 (オルレアン公)の下から、正式にルイ14世の庇護下へ入り、国王の名前を冠した劇団名を名乗ることが許された。これによって年金が6倍に増額される。8月に長女誕生。子供の中で唯一成人した。12月4日にはジャン・ラシーヌの「アレクサンドル大王(Alexandre le Grand)」を劇団で上演。客足の伸びない理由を「モリエール劇団の演技力の不足」と考えたラシーヌは数日後ライバルのブルゴーニュ劇場に同作を持ち込んだ挙句、劇団の看板女優だったマルキーズ・デュ・パルクを引き抜いた為、ラシーヌとの関係が悪化。

晩年[編集]

1666年は6月まで舞台を踏めなかった。家庭生活の不和(妻の浮気や息子の夭折など[29])、ラシーヌの裏切りなどもあって、持病の胸部疾患が極度に昂進し、床に臥していたのである[30]。死亡したという噂さえ広まったが、6月に「人間嫌い」初演。速筆のモリエールにしては珍しく2年もの歳月をかけ、推敲を重ねて練りに練った作品であった。高い教養のある宮廷人たちや識者たちには大変な好評を博したが、パリ市民には理解されず客足が伸びなかったため、急遽「いやいやながら医者にされ」を書き上げる[31][32]

1667年、国王から「タルチュフ」の上演に関してある程度の承諾を得た。以前国王に注意を受けたように刺激的な部分を削除し、1667年8月5日、「タルチュフ」を「ペテン師」と名前を変えて上演するも、高等法院 (フランス)によって翌日、再び上映禁止。高等法院に請願を繰り返しだすも、相手にもされなかった。国王ルイ14世はネーデルラント継承戦争で国内におらず、最後の手段として請願書を書いて届けさせるも、上映解禁の命が下りなかった。同年8月11日、パリの大司教ペレフィックスにより、「タルチュフ」の公的、私的を問わず一切の上演を禁じ、違反者には破門を宣告する旨の通告が発せられた。この年、ブルゴーニュ劇場に移ったマルキーズ・デュ・パルクがラシーヌの戯曲の主人公を演じ、絶賛を博した[33][34]

1668年、「守銭奴」初演。これ以後3年間、モリエールは5幕からなる大作喜劇の創作を中断する。宮廷やパリ市民の嗜好が変化し、オペラ風の作品が人気を集めだしたほか、機械仕掛けの大掛かりな舞台が喜ばれるようになったことが理由である。この頃になってモリエールの父の商売が傾き、他人名義で父に援助をしている[33]

1669年2月5日「タルチュフ」の禁令解除。これまで上演に猛反発していたキリスト教の狂信者たちの力が弱まったためである。即日上演し、大反響を呼んだ。2月25日に父親が死去。翌年、国王の命を受け、サン=ジェルマン=アン=レー城で催される祝典の構成の任に当たる。コルネイユらの協力を得て完成した大掛かりな悲劇「プシシュ」をテュイルリー宮殿で初演。絶賛を博した。この悲劇は7月にパリ市民にも披露され、やはり大成功を収めた[35][36]

1670年、シャリュッセー(Le Boulanger de Chalussay)という人物によって刊行された「憂鬱病に取りつかれたエロミール(Elomire Hypocondre)」なる書物が刊行される。題名の「エロミール(Elomire)」とは「モリエール(Moliere)」のアナグラムであり、これは極めて分かりやすい形でモリエールに向けられた、誹謗中傷の書物である。モリエールとその妻アルマンドを俎上に載せ、手厳しい攻撃を行ってあるが、後世の研究によればこの本に書かれていることは概して正確であり、悪意のある解釈が行われているだけであるという。であるから、モリエールを攻撃するために書かれた本が、彼について研究するための重要な資料となっている。同年、彼の作品が初めてドイツ、イギリスなどの外国に紹介される[37][38]

1672年2月17日、初めての恋人マドレーヌ・ベジャール死去。国王の寵愛がリュリに移る。これに関連してジャン=バティスト・リュリと不仲になった。はじめモリエールはリュリの保護者のような役割にあり、互いに協力し合ってきたが、次第に野心を膨らませたリュリが国王に巧みに取り入って、舞踊や音楽を含む一切の興行に対する絶大な特権を獲得したためである。これによってモリエールは公演、また経済的な面で大きな迷惑を被った[39][40]

1673年、「病は気から」初演。1673年2月17日、4回目の公演中に激しい咳の発作に襲われ、苦痛に耐えながらも最後まで演技を続けた。幕が下りると同時に舞台に倒れ、自宅に担ぎ込まれたが、大量に喀血し、妻が呼びに行った司祭の到着を待たずして息を引き取った。マドレーヌの死去のちょうど1年後である。当時の慣習として、俳優は司祭の前で俳優の職を放棄した旨を誓わなければ協会から埋葬の許可を得ることができなかったため、未亡人アルマンド・ベジャールは国王に請願し、国王が協会に口添えしたことでようやく埋葬が許された[41][40][42]

モリエール亡き後、アルマンドは彼の劇団を率いてゲネゴー劇場へ移り、マレー劇場の俳優を吸収した。さらに1680年、国王の命を受けブルゴーニュ劇場と合併し、こうしてコメディ・フランセーズが創設されたのである[40]。彼はその初代名誉座長に据えられた。現在においてもコメディ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている[43]

エピソード[編集]

  • 青年期にピエール・ガッサンディに哲学を学んだとされる。哲学にのめり込んだモリエールはルクレティウスの著作の翻訳に着手し、いずれは刊行するつもりであったが、ある日召使がうっかりその数枚の原稿を破いてしまったために、癇癪を起して残りをすべて燃やしてしまった[8]
  • かなり恋愛に奔放であった。盛名座結成以来の同士であるマドレーヌ・ベジャールとの関係がありながら、劇団の女優であるマルキーズ・デュ・パルクカトリーヌ・ド・ブリーに言い寄っている。ちなみに2人とも既婚者であり、マルキーズには振られ、カトリーヌとは成功している。マルキーズが女優として成り上がるためには、当時地方劇団のリーダーに過ぎなかったモリエール程度では愛人として不足もいいところだったのである[44]
  • モリエールは喜劇よりも悲劇を好み、喜劇作品に出るのを嫌ったようである。しかし、悲劇作品を中心として臨んだ盛名座の初回公演の大失敗(演技力の著しい欠如という理由もあるが)、自信を持って上演にかけた「ドン・ガルシ・ド・ナヴァール」の完全な失敗など、明らかに悲劇作品には才能がなかった。また、プチ・ブルボン劇場の使用権を獲得した際も、はじめは専ら悲劇ばかりを上演したが、不評であるなど、劇団自体も悲劇より喜劇向きの役者ぞろいであったようで、観客も座員もモリエールに喜劇を書くように度々要求したし、彼自身も悲劇作品に対する才能のなさを自覚し、喜劇の道を進んでいくこととなった[45]
  • 1663年に勃発した「喜劇の戦争」において以下の4点を主張した。

1、喜劇は悲劇と比較しても、決して劣ったジャンルではないこと。生きた人間をありのままに描いて、滑稽味を加えねばならない喜劇に対して、悲劇は実在の人間らしさを感じさせなくても問題とならないし(英雄を描くときなど)、大げさな文句や韻文を用いて感情を表現できるため、容易である。
2、演劇理論に対する態度について。三一致の法則など、理論から外れて制作された芝居が観客に喜ばれ、理論に則って作られた芝居が受けないとすれば、それは理論自体が間違っているということ。
3、表現について。芝居における表現方法とは何も外面的なものばかりではなく、心理的なものも存在するということ。
4、演技について。誇張された演技を排除し、自然な発声、わざとらしさを感じさせない演技の必要性を強調すること。[46]

  • 「病は気から」の上演中、発作に襲われながらも演じ切り、その後亡くなったモリエールであったが、その上演の際に用いられ、実際にモリエールが座っていた肘掛け椅子が現在でもコメディ・フランセーズにて保存、公開されている[47]
  • 未亡人、アルマンド・ベジャールはモリエール亡き後、彼の原稿をモリエールの側近であったラ・グランジュに託し、1682年に「モリエール全集」として刊行された。最初期の作品、「飛び医者」と「バルブイエの嫉妬」はこれに含まれておらず、この時期までにはすでに散逸していたと考えられるが、19世紀になってジャン・バティスト・ルソーがたまたま原稿を保管しており、それ以後、あらゆる全集に収録されるようになった[48]
  • アカデミー・フランセーズ入会を勧められていたが、劇団から離れて俳優の職を捨てなければならなかったため、断っている。モリエールの死後100年以上が経過した1778年には、議場に彼の胸像が飾られた。「彼の栄誉には欠けるところがない。しかし我らの栄誉には彼が欠けていた。」会員の1人、ベルナール=ジョゼフ・ソーランによって、胸像に刻まれた銘文である[49]

評価[編集]

ジャン=ジャック・ルソーは「ダランベールへの手紙」において、演劇、特に喜劇を登場人物が普通の人間に似ていることから、模倣する誘惑に駆られることを指摘し、それ故「有害であり、すべてが観客に重大な影響を及ぼす」と批判した。その文脈において、モリエールの批判に及び、以下のように記した[50]:

…モリエールの喜劇は賢明な人々でさえも、その抗いがたい魅力によって、本来なら彼らの憤激を招くはずの意地の悪い冗談に引きずり込みます。(中略)冗談を続けるためにこの男が、如何にして社会のあらゆる秩序を混乱させているかをご覧ください。社会の基礎となっている、もっともな神聖な諸関係のすべてを、彼がいかに破廉恥な言行で以て覆すか、父の子に対する、夫の妻に対する、主人の召使に対する尊重すべき諸権利を彼がいかに嘲笑しているかをご覧ください。(中略)彼は人を笑わせます。それは本当です。(中略)それによって、彼の罪はますます重くなるだけでしょう…(中略)プラトンは彼の共和国からホメロスを追放したのに、我々は自分たちの共和国でモリエールを許すとは、なんということでしょうか!たとえモリエールが我々に愛されようとしている人物であろうと、彼の作品に登場する人物に似ること以上に悪いことが、我々の身に起こりうるでしょうか![51]

評価の変遷[編集]

  • 現在でこそ「フランスを代表する国民的作家」と高く評価されているモリエールだが、どうやら生前はそうではなかったらしい。19世紀にアシェット社から「フランスの大作家シリーズ( Les Grands Ecrivains de la Flance )」の刊行が始まったが、その中のモリエール全集には、彼の死について以下のような説明がある[52]:

当時唯一の新聞であった「ガゼット紙」はしばしば同時代の作家、特に何らかの公的な資格を得ている作家の名前を挙げている。ガゼット紙はこうした作家の宮廷やアカデミー、その他の場所における成功を報告している。そして作家が死んだときには、多少なりとも賞賛の念を込めた追悼記事を載せていた。しかしモリエールに関しては、「ガゼット紙」は生存中も決して彼の名前を紙面に載せなかったし、死んだときにも1行の記事も出さなかった。[53][54]

さらに1863年に刊行が始まった「19世紀世界大辞典( Grand dictionnaire universel du XIX siècle )」によると、モリエールは「死後100周年を記念して全身像を立てるために寄付が募られたが、目標額に到達せず、やむなく胸像に変更される」程度の扱いであった[55]

しかし同辞典においては、モリエールを「喜劇作家の中でもっとも偉大な作家」と位置づけており、アシェット社のシリーズに採録されていることなどからもわかるように、19世紀にはすでに「偉大な作家」と見做されていたようである[56]

  • モリエールがこれほどまでに広く受け入れられたのは、その祖先にゴール人を持つからであると言う。19世紀にソルボンヌ大学で教鞭を執っていたブリュヌティエール( Ferdinad Brunetière )によれば、

もし祖先を探したならば、あのコルネイユのように祖先がローマ人である作家もいるだろう。ラシーヌのように祖先がギリシア人である作家もいるだろう。モリエールの祖先はゴール人だ。これが彼の人気の秘密である[57][58]

かくしてモリエールは「古代からの純粋なフランス精神」の代弁者となり、モリエールを批判することが、フランスを批判することと同義となり許されなくなってしまった。ブリュヌティエールはこの行き過ぎたモリエール崇拝に気づいていたようで、「モリエールは『神』になりつつある[59]」とも述べている[60]

著作[編集]

日本語訳[編集]

映像化[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  • 「白水社」は「モリエール名作集 1963年刊行版」、「筑摩書房」は「世界古典文学全集47 モリエール 1965年刊行版」。
  1. ^ 白水社 P.578
  2. ^ a b 筑摩書房 P.464
  3. ^ 白水社 P.579
  4. ^ 筑摩書房 P.464,5
  5. ^ 新潮文庫版,人間嫌い,内藤灌訳,1952年刊行,P.104
  6. ^ a b 筑摩書房 P.465
  7. ^ 白水社 P.580,1
  8. ^ a b 白水社 P.581
  9. ^ 白水社 P.582
  10. ^ a b c d 筑摩書房 P.466
  11. ^ 白水社 P.583
  12. ^ a b 白水社 P.584
  13. ^ 白水社 P.580,4-5
  14. ^ コルネイユとマルキーズ・デュ・パルク:Pierre Corneille et Marquise Du Parc,村瀬延哉,広島大学総合科学部紀要. III, 人間文化研究 Vol.10 P.117
  15. ^ 筑摩書房 P.439,66
  16. ^ a b 白水社 P.585
  17. ^ a b c d 筑摩書房 P.467
  18. ^ 村瀬 P.118
  19. ^ 白水社 P.586
  20. ^ 白水社 P.587-8
  21. ^ 白水社 P.589
  22. ^ 白水社 P.590
  23. ^ a b 筑摩書房 P.468
  24. ^ 筑摩書房 P.468
  25. ^ 白水社 P.592,622
  26. ^ a b 白水社 P.592
  27. ^ 白水社 p.594,6
  28. ^ 白水社 P.597
  29. ^ 白水社 P.597
  30. ^ 筑摩書房 P.447
  31. ^ 白水社 p.598,9,600
  32. ^ 筑摩書房 P.468,9
  33. ^ a b 筑摩書房 P.469
  34. ^ 白水社 p.601,2
  35. ^ 白水社 P.604,5
  36. ^ 筑摩書房 P.469,70
  37. ^ 白水社 P.605,6
  38. ^ 岩波文庫版,病は気から,鈴木力衛訳,1970年発行,P.122
  39. ^ 白水社 P.605,6
  40. ^ a b c 筑摩書房 P.470
  41. ^ 白水社 P.608,9
  42. ^ 鈴木訳 P.124
  43. ^ モリエール 恋こそ喜劇「モリエールとは?」モリエール豆知識
  44. ^ 村瀬 P.117-8
  45. ^ 白水社 P.583、7
  46. ^ 筑摩書房 P.442
  47. ^ 世界人物逸話大辞典,角川書店,1998年刊行,P.1026
  48. ^ 白水社 P.610
  49. ^ 角川書店 P.1026
  50. ^ ルソーのスキャンダル,哲学 Vol.2012 (2012) No. 63,P.66, オルバーグ・ジェレマイア
  51. ^ Ibid P.68-70
  52. ^ 第三共和制と聖別化されるモリエール Moliere consacre sous la Troisieme Republique 教養論集(24),P.32,2012-12,永井典克,成城大学
  53. ^ Oeuvres de Molière.Tome 1,Les Grandes Ecrivains de la France,Hachette,1873,p.ii.
  54. ^ 永井 P.33
  55. ^ Ibid.
  56. ^ Ibid.
  57. ^ Ibid P.42
  58. ^ Ferdinad Brunetière,Ètudes critiques sur l'hisoire de la littèrature française,vol.1 Librairie Hachette et Cie,1880,P.137
  59. ^ Ibid P.138
  60. ^ 永井 P.42-3

外部リンク[編集]