アングレーム
| アングレーム | |
|---|---|
| 行政 | |
| 国 | |
| 地域圏(Région) | ポワトゥー=シャラント地域圏 |
| 県(département) | シャラント県 (県庁所在地) |
| 郡(arrondissement) | アングレーム郡 (郡庁所在地) |
| 小郡(canton) | 3小郡庁所在地 |
| INSEEコード | 16015 |
| 郵便番号 | 16000 |
| 市長(任期) | フィリップ・ラヴォー (2008年-2014年) |
| 自治体間連合 (fr) | fr:Communauté d'agglomération du Grand Angoulême |
| 人口動態 | |
| 人口 | 42 669人 (2007年) |
| 人口密度 | 1 976人/km² |
| 住民の呼称 | Angoumoisins[1] |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯45度38分56秒 東経0度09分39秒 / 北緯45.648906度 東経0.160847度座標: 北緯45度38分56秒 東経0度09分39秒 / 北緯45.648906度 東経0.160847度 |
| 標高 | 平均:100 m 最低:27 m 最高:130 m |
| 面積 | 21.85km² (2 185ha) |
| 公式サイト | http://www.angouleme.fr/ |
アングレーム(Angoulême)は、フランス・シャラント県のコミューン。
目次 |
地理 [編集]
シャラント川の湾曲部を見下ろす高台の上にアングレームはある。
歴史 [編集]
アングレームは古代ローマ以前から知られていた地である。墓地からの発掘物によって、丘の上にはオッピドゥムがあり、イクリスマ(Iculisma)という名であったことがわかっている。
ローマ詩人アウソニウスは、イクリスマはローマの主要街道に面しておらず、小さな町だとみなしていた。ローマ時代の記念物はないが、パックス・ロマーナ時代、イクリッシマはシャラント川の水上貿易で繁栄していた。川を見下ろす岩の露頭は戦略的要所とみなされ、3世紀終わりから4世紀にかけての時期にチヴィタスの地位に格上げされた。最初に築かれた砦はローマ時代末期のものである。
アングレーム初代司教となったのは、3世紀の聖オーソヌである。行政都市としての重要性から、6世紀には宮廷がおかれたこともあった。
アリウス派を信仰する西ゴート族に占領された後、ヴイエの戦いを制したクロヴィス1世は507年にイクリスマを包囲して落とした。
848年、ヴァイキングの首領ハスティング(fr)がアングレームを略奪した。896年または930年にもヴァイキング来襲があったが、アングレーム伯ギヨーム1世の抵抗が功を奏した。この戦いで、ギヨーム1世は見事な一撃(magistral coup de taille)で、ヴァイキング首領ストニウスの兜と胸当て、腰を切断した。彼はタイユフェル(Taillefer)の別名を得て、ジョン王妃イザベラ・オブ・アングレームに至るまでの子孫は全員タイユフェルの名を名乗った。
中世にはアングレーム伯領の中心都市であり、アングーモワ州の中心でもあった。1204年5月18日にイングランド王ジョンから都市としての特許状を得た。2004年には800年祭が行われた。
1308年、最後のアングレーム領主ギー・ド・リュジニャンが死ぬと、アングレームはフランス王領となった。
中世にはまた、フランス王家親王采地の一つであり、同地を治めていたヴァロワ家傍系のヴァロワ=アングレーム家出身のフランソワ1世が国王として即位した後、アングレーム領主は伯爵から公爵に昇爵された。のちのフランス王アンリ3世は幼少時にアングレーム公爵を称した。またルイ16世とマリー・アントワネットの娘であるマリー・テレーズは従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚し、アングレーム公爵夫人と称された。
フランス革命期、コミューンは名称をモンターニュ=シャラント(Montagne-Charente)と改名させられた。
アングレーム出身の人物 [編集]
- マルグリット・ド・ナヴァル - ナバラ王国の王妃
- シャルル・ド・クーロン - 物理学者
姉妹都市 [編集]
バリー、イギリス
シクティミ、ケベック州、カナダ
ゲレンジク、ロシア
ヒルデスハイム、ドイツ
ホフマン・エステーツ、イリノイ州、アメリカ合衆国
セグー, マリ共和国
トゥルダ、ルーマニア
ビトリア、スペイン
脚注 [編集]
- ^ Gentilé sur le site habitants.fr Consulté le 18/07/2008
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- Town council website(フランス語)