ヴァイキング

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ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は航路、数字は到達年。黒海カスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

ヴァイキング: Viking: Vikingar: Wikinger)とは、ヴァイキング時代Viking Age800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアバルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉。

後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からは、ノルマン人とも呼ばれる。中世ヨーロッパ歴史に大きな影響を残した。

ヴァイキングは海賊交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェー考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地においては農民であり漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであった[要出典]

また、ヴァイキングたちの収益の98%が交易によるものだったと言われている[要出典]。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。

名称[編集]

古ノルド語: vikingr氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vik氷語: vík)は入り江フィヨルドを意味する。

背景[編集]

どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。

現在の説[編集]

ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期10世紀 - 14世紀)にはじまり、小氷河期14世紀半ば - 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。

キリスト教と宗教的対立[編集]

ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている。Rudolf Simek教授は”初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない”と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返していた訳であり、スカンディナビアにおけるその脅威は容易に想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。イギリスの商人の間には二重の取引条件が存在した。キリスト教徒として異教徒や無宗教者(イスラム教徒やノース人)と取引をしないと広く公言した場合は、ネットワークを通じて有利な価格や条件で取引することができた。それにより追放された者とそうでない者の間に二つの取引価格制度が存在し、不平等な条件に苦しんだ結果、取引の破棄から侵攻に至ったことが考えられる[要出典]。ヴァイキングによる通常の通商・貿易遠征と、侵攻遠征は別のものではあったが同じ時期に存在し、名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは容易に考えられる。

技術的優位性からの富を求めた侵略[編集]

ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東を中心とした異民族・異人種との交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していった、とされるものである。

その他の説[編集]

  • 進出の原因を求める説の一つに、人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなかったし、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になった、という仮説が有力と考えられたこともあった。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
  • むしろ逆で、中世の温暖期が原因ではないかとされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出産制限も何もない時代では、一度上昇し始めた出生率は、歯止めが利かずに増え続け、域外へと進出することを招いたと言う説である。
  • 大陸ヨーロッパでは民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに付け入る隙が大いにあった、という説も原因として挙げられることが多い。
  • 一方、原因とは別に、能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかった、というものである。原因は特にない。なぜなら、域外進出をしたがるのは、あらゆる民族に共通するためである。たとえば、アフリカで発祥した人類が、南欧から北欧へ、あるいは、アジアや北米へ進出した、というようなものである。このような域外進出は、いつの時代、どの民族、どこ地域でも見られるので、当り前のことであり、ことさら原因は必要ではなく、あとは、その能力があるか否かの問題、というものである。

風俗[編集]

ステレオタイプなヴァイキング
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公リューリクであり、半伝説的な人物である事には留意されたい。

一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に別れていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。

実際のヴァイキングの格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特長となる。

ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。

族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。

ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。

ヴァイキングの舟[編集]

オーセベリ(Oseberg)のロングシップ (バイキング船博物館、ノルウェー)

ヴァイキングは「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸フランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。戦闘に主に用いられたロングシップのほか、主に貿易船として使用するクナールなど、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた。

ヴァイキング船については、ノルウェーのオスロ郊外ビュグドゥイにある「ヴァイキング船博物館」、およびデンマークのロスキレにあるヴァイキング船博物館が中心となって研究がおこなわれている。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船やゴクスタ船が展示されている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習があり、ノルウェー・ヴェストフォル県トンスベルグ近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船や、同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ農場墳丘墓で見つかったゴクスタ船など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした。

商業[編集]

ヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビューや、スウェーデンのビルカは商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、ルーシの地を経てビザンツ帝国イスラム帝国へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシャへの道によって東方世界とつながっており、9世紀のイスラム・ディレム銀貨がバルト海のゴトランド島から大量に発掘されるなど、当時混乱していた地中海交易の補完的な役割を果たしていた。

初期のヴァイキング[編集]

リンデスファーン修道院の廃墟

西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島フリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。

本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドリンデスファーン修道院襲撃からとされる。以後、795年にはヘブリディーズ諸島アイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

各国のヴァイキング[編集]

デンマークおよびノルウェー[編集]

デーンロウ:黄色の部分

デンマークのヴァイキングは、デーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。

804年、フランク王国のカール大帝はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズは、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビューへと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミングの代には一時和平が成立したものの、834年にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年には、フランク王ロタール1世はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する[1]。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。

840年代にはロワール川河口やナントブルターニュを襲い、850年代にはジブラルタル海峡を回って地中海にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。

セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリアからイースト・アングリア一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス王国アルフレッド大王877年にデーン人を撃退し、翌878年ウェドモーアの和議によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ)とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。

ヴァイキングはノルマン人と言われるが、このノルマンディー公国に由来する。後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる[2]

ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年〜1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョーム1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。

一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカール1059年プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争)さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した。(ノルマン人による南イタリア征服)。

イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。

ノース人の北方進出[編集]

インゴールヴル・アルナルソン
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ランス・オ・メドーの家

ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀にはオークニー諸島シェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。

フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて「植民の書」と呼ばれる書物にまとめられた。930年、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリルへと集結し、全島議会アルシングを開催し、以降毎夏開催されるようになった。

985年赤毛のエイリークグリーンランドを発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソン北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。1000年のことである。(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニは再到達に成功している。1960年にはカナダニューファンドランドにあるランス・オ・メドーでノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリングと彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。

なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化)。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領となっている。

スウェーデン[編集]

地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシャへの道」を示す

スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家群のルーシ・カガン国の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人の他、バルト人スラヴ人フィン人テュルク系民族も含まれている)。彼らはフランク王国の「サンベルタン年代記」などでノース人、あるいはスウェーデン人であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリクノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記』にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾フィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[3]伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサーガスノッリ・ストゥルルソンヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。

ヴァイキング後裔国家[編集]

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国キエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソンや後にノルマン・コンクエストに関わるハーラル3世親衛隊としてキエフ大公国に仕えてた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたことなど影響として残された)。リューリクは、862年ラドガを自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソンラドガ湖を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガに記されているほか、11世紀にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会の教会と要塞が建てられ、北欧との関係は薄れていった。

ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。

こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。

イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、となり、貴族となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。

一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。

こうして、13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。

その他[編集]

  • スカンジナビア航空は、創設以来の伝統として、保有する航空機一機ずつに全て "○○ Viking" とヴァイキングの英雄の名を愛称として名づけており、北欧の民族としての誇りを強調する形を取っている。
  • 勇猛果敢なイメージから、活躍した北欧出身のスポーツ選手に「ヴァイキング」のあだ名が付くこともある。特にノルウェーではバイキングFKのようにチーム名としても盛んに用いられている。
  • 日本の遊園地ではヴァイキングの舟の遊具を一般に「バイキング」と言う。
  • 日本の飲食店では、食べ放題メニューがしばしば「バイキング」と呼ばれる。これは北欧の食べ放題メニューであるスモーガスボードを日本に導入した際、日本人には馴染みが無い言葉で発音もしにくい事から「北欧といえばバイキング」という連想で命名されたものである。

関連作品・ジャンル[編集]

上述の通り、角兜・毛皮のベストなどの、史実と異なるヴァイキングのステレオタイプの風俗が採用されている作品が多い。

漫画[編集]

映像[編集]

ゲーム[編集]

  • The Fury of the Norsemen: Micro history 4 - メーカーMetagaming、デザイナーK. Hendryxの1980年のゲーム。10〜11世紀前後に活発に活動した、北欧のヴァイキングたちが蛮族として登場する戦略級〜作戦級のウォーゲームは色々とあるが、非常に珍しい(おそらく唯一の)ヴァイキングのその襲撃行動そのものをシミュレートした作品。
  • ワールドヒーローズ - 使用キャラクターとしてエリック(エリック・ザ・バイキング)が登場する。赤毛のエイリークをモデルとしており、角兜に片手斧、ラウンドシールドを装備している。息子の名前がビッケ。

音楽[編集]

スポーツ[編集]

参考文献[編集]

日本語で記述された基本的な文献を出版年の新しい順に並べた。

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』p22 河出書房新社、2012年。
  2. ^ 例えば11世紀におけるノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランドの征服は、ノルマン・コンクエスト、つまり「ノルマン人による征服」と呼ばれる。だが9世紀においての、デーン人によるイングランド侵略、デーンロウの成立は、ノルマン・コンクエストとは呼ばない。
  3. ^ 『中世ヨーロッパの歴史』p130-131 堀越孝一(講談社学術文庫, 2006年)

関連項目[編集]