デビッド・ロイド・ジョージ
| デビッド・ロイド・ジョージ David Lloyd George |
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| 任期: | 1916年12月7日 – 1922年10月22日 |
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| 元首: | ジョージ5世 |
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| 出生: | 1863年1月17日 マンチェスター |
| 死去: | 1945年3月26日 ウェールズカーナボンシャー |
| 政党: | 自由党 |
| 配偶者: | マーガレット・ロイド・ジョージ フランシス・スティーブンソン |
デビッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George、1863年1月17日 - 1945年3月26日)、初代ロイド・ジョージ・オブ・ドワィフォー伯爵は、イギリスの首相。第一次世界大戦におけるイギリスの指導者であった。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
1863年1月17日、マンチェスターに生まれる。父はウェールズのヨーマンの家柄で、母は、バプティスト派の牧師デビット・ロイドの娘である。生後1年半にもならないうちに父親は死亡し、一家は困窮に追い込まれた。バプティスト派の牧師をしていた母方の叔父がロイド・ジョージ母子の生活を支えた。
14歳のとき、弁護士事務所に雇われ、1884年に弁護士試験に合格した。非国教会の埋葬権を獲得する訴訟に勝利し名をあげる。1888年、メソジスト派の農家の出身であったマーガレット・オーウェンと結婚、二男三女をもうける。二人の結婚生活は決して幸福とは言い難く、1941年にマーガレットが死去すると、2年後の1943年に、1913年から彼の秘書だったフランシス・ルイーズ・スティーブンソン(1888-1972)と再婚した。また、ロイド・ジョージは他の女性とも艶聞が絶えず、問題をたびたび巻き起こしていた。
[編集] 政治家として
1890年、自由党から出馬し、下院議員に当選。以後、55年間下院議員として活動することになる。ロイド・ジョージは当初、ウェールズ民族主義と非国教会の立場から、急進派の指導者として頭角をあらわす。南アフリカ戦争(ボーア戦争)に際しては激しくこれに反対し、保守党のジョゼフ・チェンバレンを攻撃するため彼の故郷バーミンガムに行ったが、逆にリンチに遭いそうになり警官に変装して逃げた。
1905年12月、ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党内閣が成立。ロイド・ジョージは商業相(商業院総裁)として入閣した。商業相として商船法、特許法、ロンドン港法など重要法案成立を実現させた。1908年、キャンベル=バナマンが病気のため辞任し、後任首相に蔵相のハーバート・ヘンリー・アスキスが就任すると、ロイド・ジョージはアスキスの後任の蔵相となった。当時、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の海軍政策に対抗し、イギリス海軍も艦隊増強策を取っていたが、そのため社会政策にあてる財源を圧迫していた。蔵相となったロイド・ジョージは、「人民予算」とよばれる富裕層からの増税による予算案を策定し、保守党と激突する。予算案は保守党が多数を占める上院で異例の否決を見た(慣習によって上院は予算に介入することはなかった)。アスキス首相は下院を解散し総選挙を実施。ロイド・ジョージはアスキス首相をよく補佐し、選挙戦を通じて保守党・貴族・富裕層を舌鋒鋭く攻撃し、イギリス政界最大の雄弁家の一人と目されるに至った。選挙は自由党の勝利に終わり、1911年には上院の権限を縮小する議会法も通過した。
1908年、ドイツを訪問、ビスマルクが制定した社会保険制度を学ぶ。イギリスに帰国後、健康保険・失業保険の実施を目指し、労使双方の反対に屈することなく、1911年に国民保険法を施行。福祉国家の基礎を作った。
[編集] 第一次世界大戦
第一次世界大戦開戦まではドイツの帝国主義に対して警告を発していたが、イギリスは孤立主義を守るべきと考えていた。しかし、1914年に開戦を見ると、直後に蔵相として戦時予算を組み、その主張も主戦論へと変わっていった。1915年、自由党と保守党の連立内閣が成立し、軍需相に転ずる。翌1916年陸相のホレイショ・キッチナー元帥がロシアを訪問する途中に座乗していた軍艦が触雷して死亡したため、後任の陸相に就任した。ロイド・ジョージはこの時点で、軍部の西部戦線に主力を置く方針に反対であり、なおかつアスキス首相の戦争指導にも懐疑的であった。ロイド・ジョージは自らを長とする軍事委員会の設置を目論み、アスキスの棚上げを図った。このような経緯でアスキスとは決定的に対立し、アスキスは1916年12月5日に辞任した。代わって12月7日、ロイド・ジョージはついに首相の座についた。
連合国の勝利として第一次世界大戦が終わるとジョルジュ・クレマンソー、ウッドロー・ウィルソンらと共にパリ講和会議を主催し、ヴェルサイユ条約ほか、諸々の条約を締結した。
[編集] 大戦後
休戦後およそ一ヶ月、1918年12月の総選挙では、「レモンの種が泣くまでドイツを搾れ!」(この言葉自体は海事委員会第一卿のエリック・キャンベル・ゲデスによる)の言葉に代表される敗戦国ドイツへの厳しい賠償請求をスローガンに当選し、また彼の率いる戦時内閣派(保守・自由・労働の三党から構成。保守党が全体の三分の二。ただし労働党はこの選挙直前に連立脱退。自由党内ではアスキス派も離反)は当選者500名を超す圧倒的勝利を果たした(クーポン選挙)。
しかし、やがて戦後不況が訪れると英国各地でストライキが頻発する。これに対し彼の内閣は軍事力を背景とした弾圧政策を以って臨み、1920年10月には非常事態措置法を制定しストライキに圧力をかけた。結果的にストライキは一応の沈静化を見たものの、リベラルとして名のあった自由党の求心力は大幅に低下し、トルコなど中近東での外交的失敗も加わって彼の人気はいよいよ失墜、ついに1922年10月、保守党も連立を解消し内閣は辞職した。その後、内閣を引き継いだ保守党の下で総選挙が行われるが、自由党は分裂していたこともあって61議席と完敗し、以後自由党は衰退、英国政界は右派の保守党と左派の労働党が票田を二分する二極化の時代に入る。
[編集] 首相退陣後
1926年にアスキスが引退すると、1918年以来分裂していた自由党両派は合流し、ロイド・ジョージが統一された自由党の党首となる。しかし党の頽勢は回復せず、以後も彼は下院の議員ではあったが政治の表舞台に立つことはなかった。
1936年、ロイド・ジョージはドイツ総統アドルフ・ヒトラーに招かれ、オーバーザルツベルクにあるヒトラー山荘でヒトラーと会談した。この時のヒトラーの印象を9月17日のデイリー・エクスプレス紙に寄稿し、「生まれついての指導者」「老人に信頼され、若者に理想視されるダイナミックな性格」と評している[1]。
第二次世界大戦が始まると、1940年5月、戦時内閣を組織したウィンストン・チャーチルに入閣を求められるが、チャーチルと戦争方針の違った彼は「戦時内閣ではない」としてこれを拒否する。1945年1月1日、ロイド・ジョージ・オブ・ドワィフォー伯爵とグウィネズ子爵に叙せられたが、同年3月26日に82歳で死去した。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- クーポン選挙
- マーガレット・マクミラン (曾孫:カナダの歴史家)
- リベラリズム
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