フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)

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フサイン・イブン・アリー
حسين ابن علي
ヒジャーズ国王
Sharef Husain 2.jpg
フサイン・イブン・アリー
在位 1916年6月10日 - 1924年10月3日
1924年3月5日 - 10月3日(カリフ)
別号 カリフ
出生 1853年
Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国イスタンブル
死去 1931年6月4日
Flag of Jordan.svg トランスヨルダンアンマン
埋葬 イラク王国の旗 イラクバグダード、アドハミーヤ、王室墓地
王家 ハーシム家
父親 アリー・イブン・ムハンマド
母親 サルハ・ビン・ガラム・アル=シャハル
宗教 イスラム教スンナ派
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フサイン・イブン・アリーアラビア語: حسين ابن علي, ラテン文字転写: Ḥusayn ibn `Alī1853年 - 1931年6月4日)はマッカ(メッカ)のシャリーフ(在位:1908年 - 1916年)でオスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者。のちヒジャーズ王国の国王(在位:1916年 - 1924年)、カリフ(自称、在位:1924年)。

現在のヨルダン王家の直接の祖である。ヨルダンで発行されている1ディナール紙幣に肖像が使用されている。

生涯[編集]

マッカのハーシム家(厳密に言うと、第4代正統カリフアリー・イブン・アビー・ターリブの長男ハサン・イブン・アリーの子孫であるハサニー家)に生まれ、1893年から1908年までオスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世の命によりイスタンブルに居住した。

1908年の青年トルコ人革命後、同年中にフサインはイスタンブルでの暮らしから解放され、マッカのアミール(太守)に任じられた。当時、マッカを中心とするヒジャーズはオスマン帝国支配下にあって半自治的な位置づけにあった。ヒジャーズを支配するのがシャリーフで、一般には預言者ムハンマドの子孫のことをいうが、マッカのアミール(太守)はシャリーフから任じられたため、マッカのアミールを指して単にシャリーフという。

第一次世界大戦中の1915年イギリスカイロ駐在のマクマホン高等弁務官と書簡を交換し、オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという「フサイン=マクマホン協定」を結んだ。そして、4人の息子と共に「アラブ反乱」を起こして1916年に独立を果たす。このときフサインはイラクシリアアラビア半島を含む大アラブ王国を構想していたが、イギリスは既にサイクス・ピコ協定によりこの地域をフランスとともに分割する方針を決めており、アラビア半島のみのヒジャーズ王国を創始することになったのである。

1920年3月8日に三男ファイサル1世シリア・アラブ王国英語版が独立すると、それに呼応したかに見えた3月16日アタテュルク率いるアンカラ政府英語版ソ連との電撃的な単独講和条約であるモスクワ条約締結によって、英仏はサン・レモ会議英語版1920年4月19日 - 4月26日)開催を余儀なくされ、アラブ地域におけるフランス及びイギリスの委任統治範囲が決定され、8月10日に旧連合国とオスマン帝国(イスタンブル政府)とのセーブル条約締結をもってイギリスの援助が途絶えた。1920年7月28日のファイサル1世のシリア・アラブ王国からの追放や1922年から1924年にかけてのイギリス=イラク条約英語版への反対、1922年10月11日ムダニヤ休戦協定英語版締結後はオスマン帝国の脅威が消滅したことなどで、ハーシム家の存在感は英仏において埋没していた。

1924年3月3日オスマン家アブデュルメジト2世がアタテュルク率いるアンカラ政府によってカリフ位を廃位させられると、その2日後にイスラーム世界における権威を求めてカリフ即位を宣言した。しかし、殆どのイスラム世界に広く受け入れられず、オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世が支持を表明した[1]ぐらいで、カリフ位を理由として重税を課したためにヒジャーズ内部からも広範な反対を招くことになり、在地勢力からも見捨てられた。

さらに以前からメッカ巡礼による経済効果とイスラム原理主義のひとつであるワッハーブ派のイマームとしての立場から聖地併合を希求していたナジュドスルタンイブン・サウード(後のサウジアラビア初代国王)に侵攻の大義名分を与えてしまい、マッカを奪われて孤立無援となる(1924年9月 - 1925年12月)。さらに国民からフサインよりもサウード家が講和に応じる可能性が高い長男アリー・イブン・フサイン英語版への譲位を要求されて、初めアカバに逃れるが、ワッハーブ軍がこの地に来ることを嫌ったイギリスによりさらにキプロス島への亡命を余儀なくされた。譲位の甲斐なくヒジャーズ王国そのものも翌1925年には滅び、ヒジャーズ王国はわずか9年で終わりを告げた。なお1926年、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがヒジャーズ王に即位する。

1930年、キプロス島で病に倒れると次男アブドゥッラー1世の治めるトランスヨルダンのアンマンへ移り、翌1931年、同地で死去した。遺体はエルサレムに葬られた。

家族[編集]

  • アリー・イブン・ムハンマド - マッカのシャリーフの一族であったが、マッカのシャリーフに就任することはなかった。

息子

  • アリー・イブン・フサイン(1879年 - 1935年) - ヒジャーズ王
  • アブドゥッラー・イブン・フサイン(1882年 - 1951年) - ヨルダン王
  • ファイサル・イブン・フサイン(1885年 - 1933年) - イラク王
  • ザイド・イブン・フサイン(1898年 - 1970年

逸話[編集]

ブノアメシャン『砂漠の豹 イブン・サウード』では、フサインの母はチェルケス人でトルコ人高官の娘を妻としたとの記載がある。また「知恵の七柱」では四男のザイドを[ファイサルの異母弟で母はトルコ人]と記述されていることからこのトルコ人の母はフサインの後妻でザイドの生母と思われる。

フサインはアラブの独立についてイギリスやフランスと一切妥協しなかった。このため、欧米側の資料では分からず屋の頑固爺のように扱われ、中傷された。なお、頑固で意思が強かったことは次男のアブドゥッラーの著書にもあると言う。フランスについては当初から野心を警戒していたが、イギリスについてはその野心を見抜けず、戦後の英仏による中近東分割以降はイギリスとの関係は悪化する。

出典[編集]

  1. ^ Teitelbaum, Joshua (2001). The Rise and Fall of the Hashimite Kingdom of Arabia, p.240, London: C. Hurst & Co. Publishers. ISBN 978-1-85065-460-5

参考文献[編集]