ハサン・イブン・アリー

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ハサン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ((アラビア語حسن بن علي بن أﺑﻲ طالب‎ ​)‎ 624年669年[1])は、アリー・イブン・アビー=ターリブファーティマ・ザフラーの子で、ムハンマドの初孫。スンナ派からは第5代正統カリフとして、また大部分のシーア派ムスリムから第2代イマームとして扱われるが、弟フサインを第2代として扱うシーア派分派もある。いずれにしろアフル・アル=バイト(ムハンマドの「御家」の人々)としてスンナ派、シーア派のいずれにおいても重要な人物である。

出自[編集]

ハサン・イブン・アリーが生まれたのは、ヒジュラ(西暦622年; イスラームの信徒らがマッカからマディーナへと遷ったことを指す)の約2年後である[2]。父はムハンマドの従兄弟であり、信頼厚いアリー、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラーであった。

ハサン・イブン・アリーはムハンマドの初孫に当たる。シーア派伝承によれば、ハサンの名は神の示唆を受けてムハンマドが名付けたものであるという。ハサンはアラビア語で「凛々しい」を意味する。

ハサンと弟フサインは祖父ムハンマドに大いに愛されたといい、これを示す多くのハディースや口承伝承が残る。またハサンとフサインが楽園において若者たちの指導者となるであろうとするハディースもある。シーア派はハサンを外套のハディースにおけるの四人のうちの一人と信じる。

カリフ職をめぐって[編集]

父カリフ・アリーが現在のイラク南部の軍営都市クーファに没すると、当地のアリー支持者らはハサンを後継のカリフとして忠誠を誓い、アリーとカリフ職を争っていたムアーウィヤの脅威となった。ムアーウィヤは指揮下にあるシリア、パレスティナ、ヨルダンの指揮官らに自らの勢力につき、闘いに備えるよう申し渡す一方、若いハサンに対し、カリフ職継承を断念するよう書簡を送っている。ハサンにカリフ職継承を断念させることができれば、ムアーウィヤは内乱の危機を回避することができる。さらに戦ってハサンを屈服させれば、絶対的権力を手中にすることができるものの正当性に疑問符がつき、問題が尾を引いてしまうからである。

しかし、交渉は進まず、ムアーウィヤは6万と号される軍をハサンに差し向け[3]、一方のハサンもこれに対して軍を送った。両軍はサバト近郊で対峙することとなる。

この緊張の時期、ハサンは共同体の分裂を憎み、支持者らに同意できないとしてもなおハサンの命に従うよう訴えたといわれる。これを降伏への手配りと捉えて、ハサンに反抗して刃をむける者もいた。ハサンは負傷したものの、忠誠を誓う兵士らによって守られた。これにより反逆者らを誅するを得たが、ほかにもウバイドゥッラーのようにムアーウィヤにつく指揮官もいた。

両軍のあいだに数度の衝突はあったが、雌雄を決するものではなかった。ムアーウィヤは、戦いが多くの人命を損ない人口を減らすことを憂慮し、二人のクライシュ族の男性を停戦交渉のため、ハサンの許へ送った[4]。ハサンも自身が負傷し、また自軍内での不満の高まったことにあわせ、もとより長く続く内乱の終結は望むところであり、最終的に停戦交渉をもつこととした。スンナ派学者によれば、ハサンは、ムアーウィヤがクルアーンとスンナに従うこと、そしてその死後にはカリフ職選任のシューラー(集会)がもたれるべきこと、そしてハサンの支持者に対するいかなる報復をも禁ずることを条件としたという。シーア派学者はさらに、ムアーウィヤ没後ハサンが生存していればハサンへ、ハサン没後であれば弟フサイン・イブン・アリーへカリフ職を変換することも条件であったという。[6]

ムアーウィヤはクーファへ進軍し、当地のムスリムに自身への忠誠(バイア)を要求した。またハサンにも、反抗的なハワーリジュ派との戦いにおいてムアーウィヤへの支持を強制しようとしている。ハサンはこれに対して書簡を送ったという。「私は、正統な権利の主張による戦いさえも、平和と調和のために断念した。そのような私があなたとともに戦うとお思いか」と[5]

ハサンはスンナ派カリフか?[編集]

ほとんどのカリフ年代記はハサンをカリフに含めない。ハサンがカリフ職を称したのはごく短期間であり、またイスラーム帝国のわずかな部分に承認されたに過ぎず、やがてムアーウィヤのカリフ職を承認している。しかし一部のスンナ派史家、たとえばスユーティーイブン・アラビーイブン・カスィールらはハサンをムアーウィヤの前代カリフとして認める[6]12イマーム派シーア派ムスリムでは、ハサンを無謬の12イマームの一人とする。

マディーナに隠遁後のハサン[編集]

ハサンは、マディーナに隠遁後は、性依存症の症状を強く見せ、一度に多くの女性と結婚して性交渉にふけり、飽きたら一度にそれらの女性を離婚して、他の女性と結婚するという行為を繰り返すことで、多くの女性とセックスを行った。ガッザーリは200人以上という説を挙げている。ガッザーリは、ムハンマドが、ハサンが自分に似て、フサインはアリーに似たと述べたというハディースを引きながら、ハサンの多婚は預言者ムハンマドに似たものであるとしている。ガッザーリは、男性の性依存症については、妻の数を1人でなく4人まで増やし、それでもだめなら離婚と再婚を繰り返すのが良いとして、性依存症自体の治療ではなく、性依存する権利と、イスラーム的道徳を調和させるべきとしている[7]

ハサンの死[編集]

ハサンは669年(若干の史料では670年)、マディーナに没したとするのが史家の説である。マディーナの預言者モスク(マスジド・アン= ナバーウィー)に対する有名なジャンナトゥル・バキー墓地に葬られた。

毒殺説[編集]

ほとんどはシーア派よりのものであるが、初期のアラブの歴史家はハサンの死について別の記録をのこしている。それによるとムアーウィヤはカリフ職を息子ヤズィード・イブン・ムアーウィヤへと相続することを望み、ハサンをその障害と考えて殺害をもくろんだ。ムアーウィヤはハサンの妻ジャーダ・ビント・アル=アシュアース・イブン・カイスに通じ、毒殺をけしかけた。ジャーダはムアーウィヤの提案通り、蜂蜜に毒を混ぜ合わせてハサンに供した、というものである。マデルングは毒を盛ったのは、別の妻スハイル・イブン・アムルの娘、あるいは従者によるとする伝承についても指摘おり(pp. 331-3)、さらにバラーズリーワーキディーなども引用している。マデルングは歴史研究者でもシーア派伝承を多く受け入れているが、ハサンの毒殺説についても、有名な初期イスラーム史家タバリーが人々の信仰に揺らぎを与えることをおそれて隠蔽したものと考えている。

シーア派史料では上記の基本的な物語にさらなる潤色が加えられている。ジャーダは黄金とヤズィードとの結婚が約束されていたという。金銭と権力に誘われた彼女はダマスカスのムアーウィヤの宮廷へと急いだ。しかしムアーウィヤは約束を違えて、別の男性と結婚させてしまった、というものである[8]

スンナ派ではこれらは全てムアーウィヤを中傷することを唯一の目的とした寓話であると捉えられている[9]

葬地をめぐって[編集]

シーア派では葬地を巡って次のようにいう。ハサンはその死の前に、可能であれば祖父・預言者ムハンマドに並んで葬ってほしいとの願いを口にした。当時、預言者の墓のまわりに誰かを葬るについては、ムハンマドの妻アーイシャの許可が必要であった。しかしハサンについてはアーイシャがこれを拒絶した。ムアーウィヤに任じられたマディーナの統治者は、預言者に並んでハサンが葬られることを防ぐために部隊を派遣した。こうしてハサンの家族は別の場所への埋葬を余儀なくされ、ジャンナトゥル・バキー墓地へと埋葬した。

スンナ派での評価[編集]

スンナ派ではハサン・イブン・アリーはアフル・アル=バイト、そしてサバーハ(教友)のひとりとして崇敬される。またスンナ派学者の一部は先述のようにアリーによる指名を根拠として、第5代カリフとしての栄誉を与えている[6]

シーア派での評価[編集]

テレビシリーズ: タンハータリーン・サルダールは、ペルシア語アラビア語トルコ語および同時音声によるウルドゥー語、字幕スーパーでの英語スペイン語スワヒリ語版がある[10]。このシリーズでは、父の悲劇から説き起こし、ハサンをめぐる数々の政治的事件、イマームとしてのハサン、ムアーウィヤとの停戦、その死と埋葬までを描く。イランの連続テレビドラマとして制作され、全19話、DVDで7巻組である。

シーア派ではハサン・イブン・アリーについて非常に肯定的に扱う。ハサンは第2代イマームであり、また殉教者とされる。


関連項目[編集]

参考資料[編集]

  1. ^ キターブ・アル=イルシャード, シャイフ・ムフィード
  2. ^ キターブ・アル=イルシャード, シャイフ・ムフィード
  3. ^ イブン・アアサム IV, p. 153. Other numbers: [1]
  4. ^ ブハーリーの真正集 3:49:867
  5. ^ マデルング The Succession to Muhammad 1997 pp. 324-325
  6. ^ a b
    スユーティー, The Khalifas who took the right way page 9 and History of the Caliphs Vol 12
    イブン・アラビー, Sharh Sunan al-Tirmidhi 9:68-69 ref
    イブン・カスィール, The Beginning and the End Vol 6 page 249-250
    このようなごく短期間、あるいは部分的な承認によるカリフの例としてはムアーウィヤ2世アブドゥッラー・イブン・ズバイルをあげることができる。
  7. ^ 『現代に生きるイスラームの婚姻論―ガザーリーの「婚姻作法の書」訳注解説』青柳かおる、2003、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、P60-P61
  8. ^ [2], [3], [4], [5]
  9. ^ ムアーウィヤによるハサン殺害への関心を示す兆候はなく、自然死でないとの確証のない限り、ハサンの毒殺を命じたとすることはできない。
  10. ^ 「タンハータリーン・サルダール」(ペルシア語。もっとも孤独なる指導者)別名"Imam AlHassan bin Ali (as)", "Yalnız İmam (HZ. İMAM HASAN)", "The Loneliest Commander" and/or "The Most Lonely Commander".

外部リンク[編集]

先代:
アリー・イブン・アビー=ターリブ
12イマーム派イマーム
661年 - 669年
次代:
フサイン・イブン・アリー