ムハンマド・バーキル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ムハンマド・アル=バーキルアラビア語: أبو جعفر محمد بن علي الباقر ; 西暦676年 - 743年; 全名アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・アリー・アル=バーキル)は、シーア派第5代イマーム。アル=バーキルとは「知を分き開く者」の意。

ムハンマドは676年マディーナに生まれた。713年、父アリー・ザイヌルアービディーンの跡をついで第5代イマームとなった。シーア派伝承によれば、732年ウマイヤ朝カリフヒシャームの従兄弟イブラーヒーム・イブン・ワリード・イブン・アブドゥッラーの手で毒殺されたという。遺骸は祖父フサイン、父アリーとともにマディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に葬られている。

生涯[編集]

ムハンマド・アル=バーキルは680年カルバラーでの事件(アーシューラー参照)に参加している。

アリー・ザイヌルアービディーンの継承をめぐっては、ムハンマド・アル=バーキルと、その弟ザイド・イブン・アリーのあいだに争いがあった。ザイドはイマーム職の継承にあたっては、それを公式に宣言したものにのみ権利があり、しかるにムハンマドはイマーム職継承を欲すると公式に宣言していないと主張した。これに対しムハンマドは、父アリー・ザイヌルアービディーンも公式に宣言したことはなく、とすれば父もイマームではなかったのかと反論する。議論はすすみ、ザイドが、従来シーア派ではイマームと認めないウマルウスマーンをイマームとして認めると、信徒らはこれを非難した(イブン・ハルドゥーンによる)。ザイドを支持する人々はのちにザイド派英語版となっている。

ムハンマド・アル=バーキルがイマーム位にあるあいだ、ウマイヤ朝では6人のカリフが交替している。また弟ザイドはクーファにおいて対ウマイヤ朝反乱をおこした。多くのシーア派信徒がマディーナにあったという事実と複合して、このように不安定な状況は、ムスリム全体へシーア派の大義を広める可能性をもたらすものであったといえよう。これ以降シーア派は名高い学者を多く輩出している。

典拠[編集]

先代:
アリー・ザイヌルアービディーン
12イマーム派イマーム
713年 - 743年
次代:
ジャアファル・サーディク