サラエボ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

座標: 北緯43度51分28.5秒 東経18度25分43.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.42875度 / 43.857917; 18.42875

暗殺されたときにフェルディナント大公が乗っていた車。弾丸の穴は後部車輪上にある。

サラエヴォ事件(サラエヴォじけん、サラエボ事件サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国皇帝国王の継承者フェルディナント大公夫妻が、サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年プリンツィプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

目次

[編集] 背景

ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年ベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。オーストリア当局はセルビアにとって重要な祝日である聖ウィトゥスの日(Vidovdan)の6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの記念日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。

フランツ・フェルディナントは帝国再建の夢を抱いていたが、それは国籍の異なった諸民族が“奴隷”として一本化されるのではなく、連邦を形成するという形態を理想としていた。しかしながら、ボスニア内部のスラブ人にとって彼は抑圧のシンボルでしかなく、更に彼の暗殺を企んだ民族主義者たちにとってより巨大な「ユーゴ・スラブ帝国」を建設しようとする彼らの目論見を潰す恐れもあり、余計に憎悪されるべき存在であった。

暗殺を実行したとされる犯人グループはセルビア軍の陸軍将校を中心とした秘密組織である黒手組から拳銃爆弾を受け取っていた。黒手組がどの程度暗殺事件に関与していたのかについては議論の余地がある。ある歴史家は暗殺事件は黒手組の計画したもので、暗殺犯たちはその実行部隊にすぎないとしている。それに反して実行犯たちは自らのイデオロギーに基づいて行動したとする意見もある。黒手組が実行犯たちに武器と自決用の青酸化合物を手渡したことには疑問の余地はない。

6月28日はまた、大公夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。大公の妃ゾフィー伯爵家の生まれだったので、ハプスブルク家は彼女を皇族の一員とは認めていなかった。フェルディナントも彼女との婚約故、宮廷では半ば軽蔑の目で見られており、不人気であった。ウィーンで不遇の生活を強いられていた妻を気遣って、大公はサラエヴォへの旅に彼女を伴うこととした。

なお、オーストリア政府には事件前に黒手組に関する情報が届けられていたとされるが、当局の対応は極めて杜撰であった。また、セルビア政府も黒手組の動きを察知しており国境付近で逮捕する命令も出されていたが、当の国境警備員も黒手組のメンバーであったため、逮捕は未遂に終わった。

[編集] 暗殺グループメンバー

ベオグラードで組織された黒手組急進派といわれる。全員に計画決行後自殺するための青酸が配られた。

  • ダニロ・イリイッチ(爆弾運搬、プリンツィプの幼馴染、計画では監視役)
  • チャブリノヴィッチ(ボスニアの印刷工場で無政府スト決行で国外追放。結核末期。計画では手榴弾投擲)
  • トリフィコ・グラベジュ(学生時代に教師に暴行で前科)
  • ポポヴィッチ(学生、イリッチが誘う、計画では爆弾担当)
  • キブリロヴィッチ(学生、イリッチが誘う、計画では爆弾担当)
  • メフメト・メフメトバシッチ(計画では先手役だったが行動せず)
  • ガヴリロ・プリンツィプ(計画ではしんがりの刺客)

[編集] 暗殺

事件の正確な経緯は明らかとなっていない。この節で示すのは、互いに矛盾する目撃者からの情報を集めたものである。

7人いた暗殺犯は武器に習熟しておらず、計画が成功したのはいくつかの偶然が重なったためである。午前10時15分に4台の車からなる車列が、1人目の暗殺犯メフメト・メフメトバシッチen:Muhamed Mehmedbašić)の前を通り過ぎた。彼は窓から大公を狙撃しようとしたが、狙いが定まらず引き金は引かなかった。10時頃、2人目の犯人ネジェルコ・チャブリノヴィッチen:Nedeljko Čabrinović)は、手榴弾(またはダイナマイト)を大公の乗る車に投げつけたが、時間差で爆発し、後続の車が被害を受け12名が負傷した。彼は毒を飲み、川に身を投げた。車列はスピードを上げて市庁舎に向かった。車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。サラエヴォ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみである。

チャブリノヴィッチは水深が10cmしかない川から引きずり出され、身柄を警官に拘束されるまでに民衆から手ひどい暴行を受けた。彼の飲んだ毒物は変質していたか、致死量に達していないものだった。爆発音を聞いて暗殺犯の残りの数名は持ち場を離れた。

市庁舎に到着していたフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。その一方、プリンツィプは食事を摂ろうとある店に立ち寄っていた(彼が暗殺の不成功を知っていたのかは明らかではない)。病院へと向かう大公の車は、ちょうどその店の前の交差点で道を誤り、プリンツィプは方向転換をしている車に大公が乗っていることに偶然気づいた。サンドイッチを食べた後の彼はピストルを取り出し、車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

プリンツィプははじめ毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、生理的拒否により毒は吐き出し、ピストルは手からもぎ取られて失敗に終わった。

[編集] 影響

ガヴリロ・プリンツィプ

当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチen:Danilo Ilić)が自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた(オーストリア最後通牒)。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

暗殺犯たちは、逃走したメフメトバシッチ、成年であったために絞首刑となったイリイッチを除いて、懲役刑を課せられた。終身刑のプリンツィプ、懲役刑のチャブリノヴィッチは獄中で結核のために死亡している。

第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊までプリンツィプはセルビアの愛国者として賞揚された。暗殺現場付近の橋はプリンツィプ橋と名づけられたが、近年民族紛争のあおりもあって元のラテン橋という名称に戻されている。また、プリンツィプが狙撃前に立っていたといわれる場所にはそれを記念する足形も設置されていたが、こちらも現在は撤去されている。

[編集] 陰謀

セルビア政府の関与の有無についても未だ明らかとはなっていない。バルカン戦争に勝利を収めたばかりのセルビア政府が、オーストリア=ハンガリー帝国を刺激することを恐れてボスニアにおけるテロを防ごうとしていたと思われる証拠が存在する。オーストリア側の捜査でも、セルビア政府が暗殺に関与したことを示す証拠は見つかっていない。

近年ではロシアの秘密警察であるオフラーナレーニン率いる共産主義者の関与を指摘する声も存在する。

[編集] 都市伝説

別アングルから見た車両。四角内は弾痕を拡大したもの
  • 大公夫妻の乗っていた自動車については、「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」という都市伝説が語られることがある。「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に爆撃を受けて失われた」と続く場合もあるが、写真を見てもわかるように、現在もウィーン軍事史博物館に保存展示されている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語