サラエボ事件

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サラエボ事件
FranzFerdinandCar.jpg
暗殺されたときにフランツ・フェルディナントが乗っていた車。弾丸の穴は後部車輪上にある。
場所 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国 サラエヴォ
座標
標的 フランツ・フェルディナント
日付 1914年6月28日
概要 オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者暗殺事件。
武器 ピストル
死亡者 フランツ・フェルディナント
ゾフィー・ホテク
犯人 ガヴリロ・プリンツィプ
ダニロ・イリイッチ英語版
対処 絞首刑:イリイッチ
終身刑:プリンツィプ他
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サラエヴォ事件(サラエヴォじけん、サラエボ事件サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国皇帝国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人ボスニア語版の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

背景[編集]

ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年ベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。

オーストリア当局はセルビアにとって重要な祝日である聖ウィトゥスの日(Vidovdan)の6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの行われた日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。

フランツ・フェルディナントは帝国再建の夢を抱いていたが、それは国籍の異なった諸民族が“奴隷”として一本化されるのではなく、連邦を形成するという形態を理想としていた。しかしながら、ボスニア内部のスラブ人にとって彼は抑圧のシンボルでしかなく、更に彼の暗殺を企んだ民族主義者たちにとってより巨大な「ユーゴ・スラブ帝国」を建設しようとする彼らの目論見を潰す恐れもあり、余計に憎悪されるべき存在であった。[要出典]

暗殺を実行したとされる犯人グループはセルビア軍の陸軍将校を中心とした秘密組織である黒手組から拳銃爆弾を受け取っていた。黒手組がどの程度暗殺事件に関与していたのかについては意見がわかれており、暗殺事件は黒手組の計画したもので、暗殺犯たちはその実行部隊にすぎないとする見解や、それに反して実行犯たちは自らのイデオロギーに基づいて行動したと主張する歴史家もいる。どちらにしろ、黒手組が実行犯たちに武器と自決用の青酸化合物を手渡したことには疑問の余地はない。[要出典]若狭和朋によると、犯人たちはレフ・トロツキーウラジーミル・レーニンらに心酔した共産主義者であり、彼らのテロの目標は世界大戦を引き起こして、「帝国主義戦争を内乱へ、内乱から革命へ」を実践することであった。また、セルビア陸軍の青年将校らはロシアの革命派と気脈を通じ合わせていた[1]

また、6月28日は大公夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。大公の妃ゾフィーはボヘミアの伯爵妃付女官であり、ハプスブルク家は彼女を皇族の一員とは認めていなかった。フェルディナントも彼女との婚約故、宮廷では半ば軽蔑の目で見られるなど評判は悪かった。ウィーンで不遇の生活を強いられていた妻を気遣って、大公はサラエヴォへの旅に彼女を伴うこととした。[要出典]

なお、オーストリア政府には事件前に黒手組に関する情報が届けられていたとされるが、当局の対応は極めて杜撰なもので、黒手組の動きを察知していたセルビア政府も、彼らを国境付近で逮捕する命令も出していたが、当の国境警備員が黒手組のメンバーだったために逮捕に失敗してしまった。

暗殺グループメンバー[編集]

ベオグラードで組織された黒手組急進派といわれる。[要出典]計画決行後に自殺するための青酸が全員に配られた。

暗殺[編集]

サラエボ事件が発生した「ラテン橋」
逮捕されるプリンツィプ

事件の正確な経緯は明らかとなっていない。この節で示すのは、互いに矛盾する目撃者からの情報を集めたものである。

7人いた暗殺犯は武器に習熟しておらず、計画が成功したのはいくつかの偶然が重なったためである。午前10時15分に4台の車からなる車列が1人目の暗殺犯ムハメド・メフメドバシッチ英語版の前を通り過ぎた。彼は窓から大公を狙撃しようとしたが、狙いが定まらず引き金を引かなかった。10時頃、2人目の犯人*ネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版手榴弾(またはダイナマイト)を大公の乗る車に投げつけたが、爆発に時間差があって後続の車の12名が負傷した。車列はスピードを上げて市庁舎に向かった。車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。サラエヴォ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみである。

失敗したチャブリノヴィッチは毒を飲み川に身を投げたが、飲んだ毒物が変質していたのか、あるいは致死量に達していなかったのか、彼は水深が10cmしかない川から引きずり出された後、身柄を警官に拘束されるまで民衆から手ひどい暴行を受けた。爆発音を聞いて、残りの暗殺犯の数名が持ち場を離れた。

市庁舎に到着していたフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。一方、食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で(彼が暗殺の不成功を知っていたのかは明らかではない)、病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で、プリンツィプはその車に大公が乗っている事に偶然気がついた。ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼はピストルを取り出して、車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

暗殺に成功したプリンツィプは最初は毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、拒否反応で毒を吐いてしまい、ピストルも奪われて自殺できなかった。

その後の影響[編集]

ガヴリロ・プリンツィプ

当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチ英語版が自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

第一次世界大戦へ[編集]

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた(オーストリア最後通牒)。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

暗殺犯のその後[編集]

暗殺犯たちは、逃走したメフメトバシッチ、成年であったために1915年絞首刑となったイリイッチを除いて、懲役刑を課せられた。終身刑のプリンツィプ(1918年)、懲役刑のチャブリノヴィッチ(1916年)とグラベジュ(1918年)は獄中で結核のために死亡している。メフメトバシッチは第一次世界大戦後に帰国して服役した後1919年に出所、1943年にサラエボでウスタシャにより殺害されている。ポポヴィッチとチュブリロヴィッチは終戦直後の1918年に出所。ポポヴィッチはサラエボ博物館学芸員を勤め、1980年に死去。サラエボ事件当事者最後の生き残りとなったチュブリロヴィッチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。

第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊までプリンツィプはセルビアの愛国者として賞揚された。暗殺現場付近の橋はプリンツィプ橋と名づけられたが、現在は元のラテン橋英語版という名称に戻されている。また、プリンツィプが狙撃前に立っていたといわれる場所にはそれを記念する足形も設置されていたが、こちらも現在は撤去されている。

銘板内容の変遷[編集]

セルビアの週刊誌『ヴレーメ』(2013年10月31日号)によると以下の内容の変遷を辿っている[2]

  1. 1枚目の銘板は、1930年2月2日に設置された。その大理石記念銘板の碑文内容は、「この歴史的場所で、ガヴリロ・プリンツィプは、1914年6月15日(注:サラエボ事件発生日は、1914年6月28日)、聖ヴィトゥス(ルカニアのヴィトゥス)の日に自由をもたらす。」と刻記され設置された。この内容に周辺国等は反発したが、ユーゴスラヴィア王国政府は「暗殺者の友人たちと家族等が私的に作って設置したものである」と釈明した。なおこの碑文は、1941年4月20日のアドルフ・ヒトラーの52歳誕生日に誕生日プレゼントとして特別に持参されて送られている。
  2. 2枚目の銘板は、1945年4月6日にサラエボを解放したパルチザン部隊は、1945年5月7日に「この場所からのガヴリロ・プリンツィプの発砲は、反専制の人民的抗議と我等諸人民の長年にわたる自由への希求を表現している。」と刻記された新しい記念銘板を現場の石壁にはめ込んでいる。
  3. 1992年3月1日に独立後、45年に設置された2枚目の銘板は、撤去されている。2004年に「1914年6月28日、この場所からガヴリロ・プリンツィプは、オーストリー・ハンガリー皇太子フランツ・フェルデナントと妻ソフィアを殺害した。」との内容が刻記された3枚目の銘板が設置されている。

陰謀[編集]

セルビア政府の関与の有無についても未だ明らかとはなっていない。バルカン戦争に勝利を収めたばかりのセルビア政府が、オーストリア=ハンガリー帝国を刺激することを恐れてボスニアにおけるテロを防ごうとしていたと思われる証拠が存在する。オーストリア側の捜査でも、セルビア政府が暗殺に関与したことを示す証拠は見つかっていない。[要出典]

近年ではロシア帝国の秘密警察であるオフラーナウラジーミル・レーニン率いる共産主義者の関与を指摘する声も存在する。[要出典]

都市伝説[編集]

大公夫妻の乗っていた自動車については、「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」という都市伝説が語られることがあり、「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に爆撃を受けて失われた」と続く場合もある[3]

実際の車両はウィーン軍事史博物館に保存展示されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 日本人に知られては困る歴史』[要ページ番号]
  2. ^ 訳は下記による
    岩田昌征(千葉大学名誉教授)「サライェヴォ事件とヒトラー誕生日」『ちきゅう座』2013年11月12日
  3. ^ オカルトライターとして知られた佐藤有文の著書『怪奇ミステリー』(学習研究社、1973年)や『ミステリーゾーンを発見した』(KKベストセラーズ・ワニ文庫、1986年)にこうした記述が見られる。

関連項目[編集]