第一次世界大戦下の日本

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英輸送船トランシルヴァニア救出翌日の駆逐艦榊
1917.5.4撮影

第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき連合国陣営に加わり第一次世界大戦へ参戦した日本について述べる。

参戦[編集]

日英同盟に基づく参戦[編集]

シュリーフェンプランを採用したドイツ帝国陸軍ベルギーに侵入したことを確認したイギリスは、1914年8月4日にドイツ宣戦布告した。膠州湾租借地を本拠地としていたドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐため、イギリスは日英同盟に基づいて日本に対し参戦を要請した。日本が中国における権益を過度に拡大させることを懸念するイギリスは参戦地域を極東および西太平洋に限定しようとした。日本はこれに反対し、一旦参戦した場合に戦闘に参加する地域を限定することは不可能であると主張した。両国の折衝を経てイギリスは参戦地域を限定しないことを認め、日本政府は1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、ドイツはこれに回答せず日本は8月23日に宣戦布告した。

大隈重信首相御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになる。

青島・南洋諸島の攻略[編集]

11月7日に大日本帝国陸軍イギリス軍の連合軍は、ドイツ帝国東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省租借地である青島膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。

また大日本帝国海軍は9月までに、太平洋におけるドイツ帝国の植民地だった南洋諸島のうち赤道以北の島々(ドイツ領マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島)を占領した。戦争勃発時にこれらの島々に派遣されていたドイツ東洋艦隊は優勢な日本海軍を避け南アメリカ大陸最南端のホーン岬経由で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。

陸軍の欧州派遣要請[編集]

戦争が塹壕戦により長期化することが予想されるようになると、イギリス、フランス、ロシアは日本に対して陸軍をヨーロッパ戦線に派遣するよう繰り返し要請した。8月下旬にフランス、ロシアはイギリスを介して三個軍団の欧州派遣を求めた。10月に二度目の、さらに三度目の派遣要請が行われた。外相の加藤高明は、日本軍兵士が国民皆兵の徴兵制度に基づき召集されており、国益に直接関与しない外征に参加させることはできないと声明を出した。その後もベルギー、セルビアからも派遣要請があったがこれも拒否された[1]

海軍の船団護衛参加[編集]

マルタ共和国旧イギリス海軍墓地 (現イギリス連邦墓地) にある大日本帝国海軍第二特務艦隊戦没者の墓
1975.8.6撮影

1914年9月にイギリスから、物資をすべてイギリスが負担する条件で艦隊を地中海、さらに他の海域にも派遣するよう要請があった。10月にはバルト海への派遣が、11月にはダーダネルス海峡封鎖作戦への参加が要請されたが、日本はこれも拒否した[1]

連合国からの再三の要請を受けた日本はインド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。

1917年1月から3月にかねて、日本とイギリス、フランス、ロシア政府は山東および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認し秘密条約を結んだ。

大日本帝国海軍は1917年2月に、巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し艦隊は合計18隻となった。1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。駆逐艦「榊」はオーストリア=ハンガリー帝国海軍潜水艦「U27」からの攻撃を受け大破し59名が戦死した。「榊」の修理には8か月を要した。

他の戦闘をあわせて地中海において日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。Uボートによる無制限潜水艦作戦により輸送船が被害を受けていたインド洋地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。

対華21ヶ条要求[編集]

青島攻略後の1915年1月18日、大日本帝国は同じ連合国である中華民国袁世凱政権に14か条の要求と7か条の希望条項を提示した。これは次のような内容であった。

  • ドイツ帝国が山東省に持っていた権益を大日本帝国が継承すること
  • 関東州の租借期限を延長すること
  • 南満州鉄道の権益期限を延長すること
  • 沿岸部を外国に割譲しないこと

要求に対して中国国内では反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。これにより中国人の反日感情が高まり、五四運動を引き起こした。これは蒋介石北伐との衝突である山東出兵1927年 - 1928年)に至る。

シベリア出兵[編集]

ウラジオストク内をパレードする連合国軍

1917年11月7日に、連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1919年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施した。なお、イギリスやフランス、イタリアなども出兵したが、その規模は日本に比べ小さいものであった。

しかし、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。また、シベリア出兵の継続により、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれた。

ドイツ人捕虜への待遇[編集]

日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4700名は徳島県板東俘虜収容所千葉県習志野俘虜収容所広島県似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。

ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ帝国軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。「今では日本語として定着している『びっくり』はドイツ人捕虜の発した『Wirklich(本当に?)』が語源である」との説も流布している。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。

545名が移送された似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げたり、広島市産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売も行ったりした他、捕虜のサッカーチームが地元の師範学校チームと試合を通じて技術を教えるということもあった。この選手の一人はドイツに帰国後、サッカークラブ「SVヴァンヴァイル」を創設し、後にギド・ブッフバルトを輩出する礎を築いている。

戦後[編集]

連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

影響[編集]

経済への影響[編集]

国土が戦火に見舞われなかった上に、当時すでに世界有数の工業国として近代工業が隆盛を誇っていた日本は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、成金が出現するなど大戦景気に沸いた。一方、急激にインフレーションが進み、貧富の差が広がった。また、戦争が終わると一転して戦後恐慌と呼ばれる不景気に見舞われた。工業は成長して生産力は増大、都市に人口が集中するなど人々の生活は大きく変わった。

アメリカとの関係悪化[編集]

日本が列強の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約によりドイツが持っていた山東省の権益と、アメリカが植民地支配するフィリピンハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなどしたことが、日本がアジア太平洋地域において排他的経済ブロックを構築し、アメリカによる中華民国への経済進出を阻害するのではないかとの警戒を呼んだ。

これに対してアメリカは、元宗主国で関係が深いイギリスに働き掛けて日英同盟を撤廃にさせるよう圧力をかけたほか、日本が国際連盟で主張した人種差別撤廃案に対しても他国を上回る勢いで強硬に反対した。さらに国内でも、日本人移民が多いカリフォルニア州などを中心に、黄色人種に対する人種差別を背景に日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。

これらのアメリカによる人種差別も背景にした一方的ともいえる敵対的行動に対して、日本でも反米感情が高まり日米関係は悪化することとなり、日本のアメリカとの別離と、アメリカによるイギリスとの引き離し、その結果としてのドイツ、イタリアへの接近、その後の第二次世界大戦における両国の衝突につながった。

日英同盟解消[編集]

日英間の関係を分断すると同時に、アジア太平洋地域と中国における自国の権益を守るべくアメリカが提唱した、「太平洋における領土と権益の相互尊重」と、「諸島における非軍事基地化」を取り決めた「四カ国条約」が、1921年に日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で締結され、アメリカの願いどおりに日英同盟は解消された。日露戦争後には友邦となっていたロシアが革命によって共産化したことも重なり、日本は実質的な同盟国をもたない状態となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』江口朴郎編集、中公文庫、昭和50年

外部リンク[編集]

関連項目[編集]