明号作戦

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明号作戦
戦争太平洋戦争
年月日1945年3月9日5月15日
場所フランス領インドシナ全域
結果:日本の勝利。フランス領インドシナの解体。
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 フランスの旗 フランス
指揮官
大日本帝国土橋勇逸中将 Flag of Colonial Annam.svgジャン・ドクー仏印総督
戦力
約30,000 約50,000
損害
死傷1,000 約2,129

明号作戦(めいごうさくせん)は、第二次世界大戦末期の1945年3月9日フランス領インドシナにおいて日本軍がフランス軍を攻撃し制圧した作戦。仏印武力処理

背景[編集]

1940年と1941年に、日本はヴィシー政権との協定に基づき、フランス領インドシナに軍隊を展開させた(仏印進駐)。その後の太平洋戦争中もフランスのインドシナ植民地政府が統治は続けており、軍事面では日本の印度支那駐屯軍とフランス軍が共同警備の形式をとっていた。フランス軍は大型艦艇の武装解除をされるなどしたものの、基本的には従来のままの戦力を維持していた。しかし、ヨーロッパ方面での枢軸国軍の戦況が悪化するにつれ、日本では外務省から、仏印政府解体の意見も出始めた。

1945年に入ると、フランスのヴィシー政権は崩壊し、日本の敗色も濃くなってきた。ジャン・ドクーen:Jean Decoux仏印総督は1944年2月18日の時点で、本国との連絡が途絶えた場合はペタン元帥から全権を与えられることとなっていた。

在インドシナのフランス軍が次第にドゴール寄りの行動を取り始めたことから、日本陸軍は、やがて上陸が予想される連合軍部隊との挟撃を警戒した。第38軍(1944年12月に印度支那駐屯軍から改編)司令部は、フランス軍を武装解除する作戦計画の検討を始め、これを最終的に「明号作戦」と命名[1]。この間、第38軍司令官土橋勇逸中将は、1944年末に行った会談での仏印側首脳の反応から、共同防衛は困難と判断していた。最後通牒としての要求事項(後述)は、1945年2月1日の最高戦争指導会議において決定された。2月28日、大本営南方軍に対して、3月5日~10日の間に明号作戦を発動するよう命じた。

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

フランス軍[編集]

フランス軍の主力はフランス領インドシナの現地人部隊だった。このほか第5外人歩兵連隊などがあった[2]。装備兵器は旧式なものが多く、例えば戦車はルノー FT-17 軽戦車が少数あるだけであった。ただし、ランソンなどの対中国国境地帯には近代的な要塞が築かれていた。

  • フランス領インドシナ軍(司令官:エメー中将) - ハノイに司令部。フランス一般兵・外人部隊約15,000人、現地人兵士約35,000人[3]
    • 北部集団軍(司令官:サバチエ中将) - トンキン
    • 中部集団軍(司令官:テュルカン中将) - アンナン及びラオス
    • 南部集団軍(司令官:デルシュック中将) - コーチシナ及びカンボジア
    • 保安隊(武装警察隊)
    • 海軍部隊
      • 極東艦隊 - 通報艦など若干。[4]
      • インドシナ艦隊 - 河川艦艇など若干。

経過[編集]

最後通牒[編集]

大本営からの指示に基づき、土橋第38軍司令官は1945年3月9日21時(現地時間。以下同様)の作戦発動を決めた。日本軍は第1期作戦としてフランス軍駐屯地を奇襲で撃破することを目標とし、各部隊は密かに攻撃態勢に移行した。最後通牒を仏印側が受諾した場合は「3・3・3」、拒絶した場合は「7・7・7」を、暗号として発動予定時刻5分前までに各部隊へ打電することとした。

3月9日18時、日本側の松本俊一特命大使が、米の供出に関する協定の名目でサイゴンのドクー総督を訪問。供出協定調印後、松本大使は最後通牒を提示して退去。通牒内容は、日仏共同防衛の精神に基づき、連合軍上陸の際には日本軍と協力する決意を求めるもので、次の2点について21時まで2時間以内の返答を要求した[5]

  • フランス軍及び武装警察を全面的に日本軍の指揮下に入れ、交通・通信機関を日本軍の管理下に移す。
  • 仏印全土に対し、日本の要請に全面的かつ忠実に協力すべき旨を布告する。

検討の後にフランスのドクー総督は、ロバン大佐を使者として送り、連合軍上陸時には日本軍司令部が戦闘指揮の一切の責任を有することは認めるが、2点の要求事項には即答できないと回答することにした。そして、交渉継続の意思がある旨を告げ、日本軍の挑発行為がない限りフランス軍は敵対行動は行わないとも申し出た。しかし、使者は21時までに日本側に到達できなかった。

この間、開戦予定時刻前の20時55分頃から、各地で日本軍の接近に気付いたフランス軍との間で戦闘が開始。歩兵第227連隊は独断で攻撃を開始した。土橋軍司令官は、21時を20分以上過ぎても回答が来ないため、正式に「7・7・7」の攻撃開始命令を発信させた。21時25分に使者のロバン大佐が日本軍司令部に到着したが、日本側は回答内容を最後通牒の拒絶とみなし、作戦は続行された。

第1期作戦[編集]

日本軍の夜襲は成功し、翌日にはフランス軍拠点の多くは制圧された。サイゴンではフランス軍幹部の2/3は外出中で組織的な応戦ができず、1時間程度で駐屯地が制圧され、ドクー総督も抵抗せずに捕虜となった。ランソンのシタデル兵営やドンダン堡塁、ハイフォンなどの北部の拠点ではフランス軍の激しい抵抗があったが、3月12日午後までに降伏。海軍艦艇も、日本海軍機の空襲や自沈拿捕などで壊滅した。日本軍の損害は比較的軽微で、第37師団では戦死者189人、戦傷約300人だった。

投降したフランス軍は武装解除された。この際にランソンでは、歩兵第225連隊が、捕虜3,000人のうちフランス人将兵300余人を、「情勢は、極めて不穏緊迫し、非常事態に直面す」との判断で処刑した[6]。別にハジャンでも約50人の捕虜が処刑された[7]。対照的に、ヴィンの陥落時には、捕虜の処刑を寸前で日本軍将校が制止したこともある[8]

第2期作戦・第3期作戦[編集]

その後、日本軍は、各地の重要施設を接収する第2期作戦と、フランス軍残存部隊に対する掃討戦である第3期作戦を実施した。第3期作戦はディエンビエンフーなどの山岳地帯で行われたために難航し、4月上旬終了の予定だったのが、完了宣言が出されたのは5月15日に遅れた。フランス軍は一部の部隊だけが中国領へ脱出できた。

結果[編集]

日本軍は、フランス軍を制圧するのと同時に、フランスの植民地政府機構を支配下に置いた。[9]

3月9日の作戦開始直前、日本軍は、フランス保護国だったベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、武力行使決意と「独立を宣言することが可能である」旨を連絡する使者を発していた[10]。これを受けて、ベトナム阮朝の保大帝(バオ・ダイ帝)は、フランスとの保護条約を破棄し、チャン・チョン・キム(陳仲金)を首班とするベトナム帝国(越南)樹立を3月11日に宣言した。カンボジアのノロドム・シハヌーク国王も3月13日に続いた。ラオスのルアンパバーン朝シーサワーンウォン国王は、当初はフランスの敗北を信じなかったが、日本軍部隊の展開を見て4月8日に独立宣言をした。

日本軍はフランス人にの財産などを保護すると宣言したが、仏印政権を温存する政策は、ホー・チ・ミンらの反発を招いた[11]。この年、ベトナム北部は洪水や異常低温による不作で食糧不足が深刻となったうえ、連合軍の空襲による鉄道破壊等もあって南部からの食料輸送が滞り、多数のベトナム人が餓死した。「ベトナム人の反日情緒が高まった」とみたホー・チ・ミンは同年5月、ヴォー・グエン・ザップ(武元甲)将軍を司令官とするベトナム解放軍を発足させ、各地で民族解放委員会を組織して保大帝のベトナム帝国と対峙した。

日本軍は、引き続きインドシナ半島及びマレー半島の防衛態勢強化を進め、陣地の構築や米などの食糧の備蓄を行った。ビルマ方面からのイギリス軍の侵攻に備え、明号作戦を終えた第37師団はタイへ、独混第70旅団はマレーへと転進。実際には連合国軍の侵攻は終戦まで無く、戦闘は起きなかった。

中国領への脱出に成功したフランス軍部隊は、元北部集団軍司令官サバチエ中将の指揮下で雲南省で再建が進められた。第5外人歩兵連隊は本来の3個大隊編成が1個大隊のみに縮小再編された。仏印への反攻の機会をうかがったが、太平洋戦争終結まで実現しなかった。降伏した日本軍の武装解除もイギリス軍と中国軍が行い、脱出したフランス軍が再進出したのは1946年になってからであった。

なお、日仏開戦直後には、これまでは「枢軸国の国民」として自由に行動していた在日フランス人全員が警察によって拘留され、駐日フランス大使以下全員が軽井沢などの避暑地へ送られ、終戦まで軟禁状態に置かれた。

注記[編集]

  1. ^ 当初は「マ号作戦」の名で研究していたが、秘匿名が漏れている虞があるとして1945年1月に変更された。
  2. ^ 柘植久慶 『フランス外人部隊』 原書房、1986年、145頁。
  3. ^ 戦史叢書引用のフランス側史料による。日本軍の事前予想では、フランス兵・外人部隊が20,000人、現地人兵士70,000人と見ていた。北部に約45,000人、中部に約10,000人、南部に約35,000人、保安隊約5,000人の配置と推定していた。
  4. ^ 主力の軽巡「ラモット・ピケ」は、仏印進駐後に武装解除され、明号作戦前に米軍の空襲で沈没。
  5. ^ 外務省(編) 『日本外交年表竝主要文書(下)』 原書房〈明治百年史叢書〉、1960年、606~607頁。
  6. ^ 藤田、541頁。この事件に関して戦後に鎮目武治連隊長ら4人が戦犯として処刑されたほか、収監中に自決・病死各1人が出ている。
  7. ^ 藤田、517頁。中隊長の一人だった大尉が責任者とされ戦犯として刑死したが、藤田は、責任者ではなく冤罪だったと推測している。
  8. ^ 柘植、147頁。
  9. ^ 藤田、538頁。
  10. ^ 藤田、539頁。
  11. ^ 藤田、539~540頁。

参考文献[編集]

  • 防衛研修所戦史室 『シッタン・明号作戦 ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
  • 藤田豊『夕日は赤しメナム河―第三十七師団大陸縦断戦記』第三十七師団戦記出版会、1980年。

関連項目[編集]