731部隊

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再建された建物(1号棟)
石井四郎中将
731部隊遺跡建物表札

731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3]や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

沿革

現存する監視塔。現在は休憩所になっており守衛がいる。外国人の入場にはここでパスポートの提示が必要。

軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[4]

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[5]関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[4]

関東軍防疫給水部本部731部隊ボイラー棟建物 終戦前に爆破された姿をそのまま残している。隣接地に平和記念公園を作る予定がある。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。他に支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[4]厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[6]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[7]

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判戦争犯罪人として訴追された[8]

軍組織における位置

沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦(生物兵器化学兵器戦)の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。

部隊の活動

中国語と英語で書かれている731部隊本部建物説明。
6号棟跡
煉獄門と書かれた建物
建物内部は資料館になっておりさまざまな証拠資料が展示されている。
1号棟右側

本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、終戦時に活動実態を示す資料が隠滅されたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がペストコレラ性病などの生物兵器びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究や、生体実験に携わっていた特別の部隊であったと認定された。

防疫活動と自作自演説

表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[9]

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリスen)は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張している[10][11]。731部隊による寧波、常徳、浙贛(ズイガン)での大規模なペスト菌攻撃の詳細について明らかにしている神奈川大学教授の常石敬一は、当初は新京や農安で発生したペスト流行については、日本軍による自作自演説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと指摘していた[12]。しかし2011年になって、1940年の新京や農安でのペストの大流行も、731部隊の細菌散布によってもたらされたことを示す元731部隊の金子順一軍医の論文が発見されている[13]。この論文の出現により、731部隊による細菌攻撃は、新京からわずか60キロの農安で始まったことが明らかになった。そして農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、新京でのペスト流行が拡大していったとする有力な新説が登場している[14]

生物兵器開発

731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていた。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。

日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。実際に石井は、戦後のノーバート・フェル博士による尋問で、炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%~90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト媒介節足動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました[15]。」

後述のように、731部隊が生物兵器開発に関与したことを示す証拠は多く、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていた。ただし、終戦直後にアメリカ軍が元部隊員に行った尋問の記録とされる「田中淳雄少佐尋問録」によると、1943年に防疫研究の余暇を使ってノミ増殖の研究を命ぜられたものの、大量増殖は不可能であるとの結論になっている。

人体実験

731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていた。石井四郎自身、医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると考えられる[16]

元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一(のちの「ミドリ十字」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」[17]さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていたのです。」と供述している[18]

「マルタ」と呼ばれた人々

人体実験の被験者とされたのは主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていた。マルタの中には、一般市民、女性(中国人女性やロシア人女性など)や、子供(モンゴル人少年やロシア人少女など)が多数含まれていた[19]だけでなく、731部隊の少年隊員も人体実験の犠牲になった。これは、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであると考えられるが、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという[20]

「マルタ」として捕えられた人々は、その瞬間から人格や名前を剥奪され、「マルタ(丸太)」、つまり実験材料として扱われたため、マルタには名前の代わりに3桁の番号が割り当てられ、重い足かせが取り付けられた。高い外壁で囲まれ、コンクリート造りの特設監獄(「マルタ小屋」と呼ばれた)に一度収容されると、マルタがそこから出られる可能性はほぼゼロに近く、人体実験の犠牲者として死亡する運命にあった。

マルタが容易に逃げ出せないことについては、野外での実験においても同じであった。石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたちの様子について次のように回想している。

一度、縛られていたマルタおよそ40人が、お互いに縄をほどき合って、散り散りになって逃げたことがあります。しかし、遠隔地の空港ですから、逃げおおせる場所はありません。トラックで次々に彼らを轢き殺しました。前輪でひっかけたり(中略)、轢いた時は衝撃を感じました。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、271頁 ---

元731部隊少年隊の篠塚良雄は、「マルタ」の実態について次のように説明している。「「マルタ」というのは、ここ(特設監獄)に監禁され、やがて生体実験、生体解剖される人たちのことです。私もあとで生体実験などにかかわるようになったのですが、隊員たちが夜おそく風呂に入りながら、「今日おまえンとこで何本倒した」「おれンとこ3本だよ」「おれンとこ2本だよ」と、まるで丸太のようないい方をするのをききました。人間の命を奪うのに……材木の丸太を倒したような感覚で……「何本倒した?」と……。731部隊の中で私たちは、人間としての感覚をなくしていたのだろうと思います[21]。」

マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる[22]。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、「毎日2~3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した。」と証言している[23]。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[24]。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという[8]。こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、以下に示す元部隊員など関係者の証言である[2][3]

細菌学的実験

前述のとおり、731部隊における人体実験の主目的は伝染病の研究であると同時に対人用生物兵器の開発であった。マルタにはペストコレラチフス赤痢梅毒スピロヘータなどの生菌を注射する細菌学的な人体実験が頻繁に行われた。通常、人体実験とは生体解剖を意味し、マルタは生きたまま解剖された。これは、被験者が死亡してしまうと人体に雑菌が入るため、マルタが瀕死の重症で、人体に雑菌が入らないうちに解剖して臓器などを取り出す必要があったからである[25]。細菌学的実験に関わったとする元731部隊員の証言は多い。

例えば、元731部隊員で中国帰還者連絡会(中帰連)会員の篠塚良雄en)は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことを、2007年にアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。TBSのインタビューでは、「マルタへの人体実験はマルタが死亡するまで繰り返し行われたため、マルタの激しい抵抗にあうことが少なくなかった。」と語っている。篠塚は、最初にペスト患者の生体解剖に関わった時の様子を次のように語っている。

「ワクチンなしでペスト菌を注射されたその男性は(中略)、2、3日後には、高い熱が出て顔色が悪くなり、その翌日くらいには瀕死の状態で顔が黒っぽく変わっていきました。(中略)この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。(中略)大山軍医少佐から「はじめよう」の命令がでました。細田中尉が、目でメスをわたすように私に合図します。足かせ手かせで固定された男は、カッと目を見開き、この凶行を確かめるように首を回しましたが、体の自由はききません。男は無念の涙を目にたたえ、天井の一点を見つめています。何か叫びを発しようとしているようですが、乾ききった口からは声は出ず、わずかに口を動かすだけです。男の首をなで回していた細田中尉が、右手のメスでズバリと頸動脈に沿って切り下げました。血がジューッと流れ出しました。男は、ペスト病の苦しみと、切りさいなまれた痛さで首を左右に振り回します。そのたびに顎にかかっている首かせが食い込み、ついにガクリと首をたれ失神しました。私はあわてて血を抜き取りました。(中略)ビタカン(ビタミン剤とカンフル剤を混合したもの)を4本打っても、男の鮮血を絞ることはできません。「鬼子ッ!」男は憎しみの火と燃える一言を絞り出すとスーッと顔色が代わり、呼吸が止まりました。「解剖刀をよこせ」細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るノコギリを引いて肋骨を引き切り、内臓の全部を露出させました。」


--- 篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、80-84頁 ---

生体実験では、日本人が犠牲になることもあった。篠塚は、ペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に自ら立会った時の様子を、次のように語っている。

「平川三雄は、すでに特別班の隊員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。(中略)うつろに開かれた眼には涙が溢れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうに息をはき、そのたびごとにビクビク腹を波うっていました。(中略)「少佐殿、少佐殿」平川の必死な叫びが、部屋にむなしく響きます。私の頭の中には、石井部隊に入隊するとき、「三雄と仲良くしてやってネ」と私の手に小さなくだもの籠をわたしてくれた平川の母親の顔が浮かびました。また、それ以来、共に過ごした生活が渦を巻いて脳裏に押し寄せてきました。「助けてやりたい」そう思った私の手が、止血剤を取ろうと薬物箱に伸びようとした瞬間、平川の全身をつつきまわして検査していた大山少佐の命令がかかりました。「はじめろッ」(中略)江川技手は、解剖刀を逆手に握ると上腹部を刺しました。「助けてくれーッ」平川の口からうめきがもれると、江川技手の手が震えました。「その態はなんだ」後ろから一喝を食った江川技手は、サーッと解剖刀を下にひくと、かえす刀で胸部の皮膚をさきはじめました。血は解剖台の血流しを通じて、下にボタボタ流れ出しました。「畜生!」平川の口から、血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、解剖台上に内臓がズッズーッとはみ出て、彼は絶命しました。」


--- 篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、90-95頁 ---

(なお篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[26]。ただし、中帰連関係者などの証言については、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であるという理由から、信憑性を疑問視する見方も一部である)[27]

同じく元731部隊少年隊の2期生だった森下清人は、1991年9月に大分協和病院で行われたインタビューにおいて、感染実験の直後に死亡したとするロシア人マルタの様子について、「まず(菌を)打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。」と語っている[28]

生理学的実験

731部隊では、凍傷実験、ガス壊疽実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた[29]

731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。 「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄リました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました[30]。」

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった[31]。」

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている[32]

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった[33]。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね[34]。」と語っている。

細菌爆弾の効果測定

731部隊では、単なる生物兵器に留まらず、ペスト菌や炭疽菌を砲弾や爆弾に詰め、大砲や飛行機で都市に散布するための研究が行われた。731部隊は、細菌爆弾や砲弾の改良や性能を調べるための屋外実験場を安達に持っていた。マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化したことが資料や証言で明らかになっている[35]。731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている[36]。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10~20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという[37]。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された[38]

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している[39]

「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた物、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」


--- 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店、94-97頁 ---

性病実験と女性マルタ

また731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった[40]。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した[41]。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医大学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものと考えられている[42]

元731部隊員の胡桃沢正邦は、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように証言している。

(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」

(胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、45-46頁 ---

手術演習

中国大陸の陸軍病院で幅広く行われていたという「手術演習」という名の生体解剖も、731部隊で頻繁に行われていたと考えられている。拡大を続ける中国戦線において、傷病兵を素早く治療して戦場に送り返すためには軍医が外科手術の腕をあげる必要があり、そのために中国人の生体解剖が頻繁に行われたのである。

731部隊員ではなかったが、軍医として中国に滞在した3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖して殺したという湯浅謙は、最初に経験した手術演習の様子を次のように語っている。

「手術演習は外科医を速成させるための練習だった。今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。集まっていたのは、軍医、衛生兵そして看護婦だった。(中略)1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。部屋の中には手術刀、ノコギリそれにメスなどがあり、自分の運命は分かっていた。彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内臓を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は、「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと私を見たのだった[43]。」


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、99頁 ---

なお、731部隊との関連性が疑われている、1989年に7月東京都新宿区戸山で発見された大量の人骨には、四肢が様々な位置で切断された形跡が残っている。11個の頭蓋骨と長骨のほとんどには、鋸で引いた跡やドリルで穴を開けた跡があった。頭蓋骨には銃撃されたものがあり、鋭利な刃物で刺された頭蓋骨も1つあった[44]

そして1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果により、人骨について次のような事実が明らかになっている。

1. 人骨は100体分以上のものである。

2. 人骨は一例を除き人種的にはモンゴロイド(アジア系の人種)だが、単一の人種からなるものではない。

3. 10数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡がある。

4. いくつかの頭蓋骨その他には、拳銃で打ち抜かれた孔や刀で切られた跡が残っている。

5. 骨が現地に埋められたのは1890年~1940年頃までの間である。

6. 人骨は四股の骨の多くは何ヶ所かで切断された形跡がある。


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、107頁 ---

以上の理由から常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している[45]


証拠隠滅とマルタの処理

1945年8月8日のソ連参戦に伴い、731部隊は他の日本軍に先立ち、9日からすぐに撤退を開始した。撤退における最優先事項は、人体実験の証拠を隠滅することであった。そのためにはまず、終戦時に本館の監獄に収容されていた40人前後のマルタを残らず殺害する必要があった。マルタの殺害方法については「青酸カリによる毒殺」、「銃殺」など諸説あるが、マルタの多くは毒ガスによって殺害されたとする説が有力である。 マルタの集団殺戮を目撃したという元隊員は、その時の様子を次のように証言している。

「マルタの中の数人は毒ガスで死にきれず、鋼鉄製のドアをたたき、苦悶のうなり声をあげのどをかきむしって苦しんでいた。特別班員がゆっくりと近づき苦悶するマルタを胸に向けてモーゼル拳銃の引き金を引いた。殺したマルタの足を引っ張って、7棟横にあった大きな穴の中に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ、火をつけた(中略)11日の午後だったと記憶している。731の焼却炉は、生首の標本や細菌培養の寒天、膨大な書類や器具を焼却するためふさがっていた(中略)マルタの死体はなかなか燃えなかった。しかし撤収は一刻を争う。浮き足立った特別班員らは死体焼却作業の半ばで土を掛け、逃亡してしまった(中略)そのため土の中から手足が突き出ており、とても証拠隠滅の役を果たしていない。部隊幹部がこの状況を見て『もう一度死体を掘り出し、完全に焼いてしまえ』と命令した(中略)目をむいて硬直しているマルタの死体(中略)掘り出す役目に当たった隊員らは、吐き気をこらえながら作業を続けた。」


--- 森村誠一 『悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年、280-281頁 ---

731部隊が証拠隠滅を急いだのはマルタだけではなかった。1棟2階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている[46]

さらに、石井四郎は特別列車での日本への帰路において、16日夜に731部隊員と家族に対し、「日本は負けた。お前たちは今から内地へ返す(中略)だが731の秘密をどこまでも守り通してもらいたい。もし軍事機密をもらした者がいれば、この石井はどこまでもしゃべった人間を追いかけていくぞ、いいな。」と貨車ごとに大声で演説したという[47]


人体実験を裏付ける文献資料について

一方で、人体実験に関わる部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は少ない。近年になって機密指定解除された731部隊関係の米国の公文書からも、非人道的な実験が行われた記録はいまだ発見されていない[48]。その理由として、米陸軍戦史センターの元主任研究員エドワード・ドリューは、「終戦直前の1945年8月12日から米軍の一部が日本に上陸する8月28日までの間に、人体実験に関わる主要な記録の多くが日本当局により隠滅されたため」であると指摘している[48]。また、コロンビア大学教授のキャロル・グラック(日本近代史専攻)は、米国の、日本軍の満州での初期の軍事行動に対する関心が終戦時と比べて低かったこと、そして連合軍が欧州におけるホロコーストの資料作成を優先したのに比べ、戦略諜報局CIAの前身)が日本軍の満州での初期の軍事行動に対して徹底的な調査を行わなかったからであると指摘している[48]

また、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の石井の行動の克明な記録に加えて、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていたが、その中には非人道的な活動を明示する内容は無かった[49]

ただし、アメリカ、ユタ州のダグウェイ細菌戦実験場では、731部隊による人体実験の数百ページに及ぶ詳細なデータ「ダグウェイ文書」が発見されている。この「ダグウェイ文書」には、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見の人体模型図入りの記録、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとの顕微鏡写真入りの記録が記載されている[50]

ほかに確認されている文献史料としては、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている[51]。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯匪賊アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[52][53]

また、現存する731部隊の医学的成果を分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法[54]の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[55]

なお、731部隊による人体実験の詳細を克明に描写している森村誠一悪魔の飽食』は、ノンフィクション作品としては問題点が多く指摘されており[誰によって?]、旧ソ連による「プロパガンダ小説」であるという批判がある[56]また、「731部隊によって生体解剖される中国人の犠牲者」として紹介された写真は、『山東省動乱記念写真帖』(青島新報、1928年)に掲載された済南事件被害者の検死中の写真であり、731部隊とは無関係であったことが指摘されている[要出典](詳細については、「悪魔の飽食」のページを参照)。

また常石敬一は、シェルダン・ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『悪魔の飽食』でも問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、ハリスの著作の信頼性を疑問視している[57]

生物兵器の実験的使用

731部隊は、生物兵器の単なる研究を行っただけではなく、実戦使用していたとも指摘される[58]日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリックen)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする[58]。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する[59]

最近まで、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用についてはハバロフスク裁判公判書類や中国側の防疫資料以外では確認されていなかった。しかし、1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の軍医の論文が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見されている[60]。この博士論文は、金子順一軍医が1940~44年に「陸軍軍医学校防疫研究報告」として発表した論文8点をたばねて論文集として、1949年に東京大学に医学博士号取得のために提出したものであり、ペスト感染ノミを投下した6つの事例の実戦データなどが詳述されている。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している[61]

両親と4人の弟、それに叔父までもペストに奪われ、家族の中でたった1人生き残ったという王栄良は、1942年9月に石井自身の指揮で行われた崇山村でのペスト菌攻撃の様子について、次のように語っている。

私は当時15歳でしたが、すべてはっきり覚えています。ある日、日本の軍用機が低空で円を描きながら、煙のようなものを落としました。小麦やトウモロコシなどでした。数日後死んだネズミが見つかるようになり、開明街の一帯で高熱や痛みに苦しんでどんどん人が死んで行きました。街のみんなは一体何が起きたのかまったく理解できませんでした、自分の家族が次々と死んでいくのです。本当に悲惨な状態でした。みんな死ぬ時は苦しみもだえて、全身痙攣しながら死んでいきました。その体ははじめ赤くなって、死んだあとはだんだん黒くなりました。母は私の目の前で水をくれ、水をくれと叫び、父も喉をかきむしりながらライオンのようなうなり声をあげて死んでいきました。(中略)村民380人が死亡しました。20人も亡くなる日もありました。最初の死人が出ると、保護衣とマスクを着用した日本人が村に入り、3日間村中を巡回して村人に注射をしました。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、83頁 ---

攻撃後、日本軍はそこから約1キロ離れた丘の頂上にある寺院を接収して、生体解剖所として使うようになった。もう一人の生存者、王達は、この生体解剖所について次のような手記を残している。

丘の頂上の寺に行くと、治療を受けられると言われました。私の友人は、妻が治療を受けるためにそこに行って、数日後台に縛り付けられて体を切り開かれているのが発見されたと私に話しました。彼女の足はまだ動いており、生体解剖されたことは明らかでした。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、84頁 ---

731部隊が生物兵器を最初に実践で使用したのは、1939年のノモンハン事件においてであった。この実践使用に関しては、第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。731部隊少年隊の篠塚良雄は、これらの証言によるとチフス菌、コレラ菌などの培養液をドラム缶で運んで川に流したときの様子を次のように証言している。

「私は(中略)1939年7月初旬より同年8月下旬に到る間(中略)旧関東軍防疫給水部本部の臨時編成に依る該隊培地班班長少佐早川清を総指揮とするノモンハン事件の細菌謀略に使用したチフス菌、コレラ菌、パラチフス菌の細菌大量生産隊に少年隊員傭人として加わり小林隊に属し無菌室において技師Kの直接指揮の下に2名の者と共に1組となり1日に約30缶の培養缶に細菌を植付しました。この間に私は約1キログラムの細菌を掻き取りました。細菌大量生産に依り生産した細菌は生産参加人員が逐次出張命令に依り将軍廟、ハイラル等に運搬しノモンハン事件の細菌謀略に使用しました[62]。」

一方、731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハンでの生物戦での実体験について次のように語っている。「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」さらに、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴び、腸チフスで死亡している[63]

1940年10月27日早朝に行われた寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している[64]

1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた[65]

一方で、同年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、これは中国による生物兵器攻撃だと教えられたという[66]

このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。例えば前述の金子順一の論文には、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容が記述されている[67]。 これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある[68]

731部隊の遺産

終戦による731部隊の解体は、決して731部隊そのものの消滅を意味するものではなかった。731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰り、最終的には米軍の戦後の生物兵器開発に生かされることになった。しかも、人体実験に手を染めた医学者、軍医たちは誰一人戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得た。開業した者や、製薬会社(のちの「ミドリ十字」)を設立した者もおり、その多くは戦後も日本の医学界の重鎮として君臨し続けることになる[69]

米ソによる人体実験データの奪い合い

終戦直後に特別列車で日本に帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。石井は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらました[70]

しかし、かねてから731部隊と人体実験データに強い関心を示していたソ連は、731部隊柄沢(からさわ)班班長であった、抑留中の柄沢十三夫少佐を厳しく尋問し、アメリカやイギリスなどが把握していなかった、中国での細菌戦と人体実験に関する証言を聞き出すことに成功した。柄沢は、1946年9月26日から30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中国での細菌兵器使用などについて詳細にわたり供述しただけでなく、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した[71]。さらに、柄沢の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述している[72]

こうした供述を踏まえ、ソ連側検事のヴァシリエフ少将は、1月の東京裁判で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に石井らの身柄の引渡しを要求した。急遽市ヶ谷の陸軍省で米ソ会談が行われ、ソ連側は、731部隊の実験データを米ソだけで独占することを持ちかけた。これを受けてGHQは、同年2月10日にワシントンの本国政府に「石井たちをソ連に尋問させるべきかどうか」について打電した。同年3月20日、アメリカ政府は「アメリカ人の専門家に石井たちを尋問させ、重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答し、人体実験データのアメリカによる独占を図ったのである。

戦犯免責工作

ペーパークリップ作戦も参照の事。

この米ソ間の足並みの乱れを見透かしたかのように、石井四郎は起死回生の戦犯免責工作に打って出る。1947年の5月、アメリカは急遽ノーバート・フェル博士を派遣して石井たちを尋問したが、石井は、「私は技術的データを渡すわけにはいかない。詳細などは知らん。知っていたことも忘れてしまった。すべての記録は破棄された。」と語る一方で、「もし、あなた方が私自身と上官、部下宛に文書で免責を保証するなら、すべての情報を提供できる。」とフェルに取引を申し出る。続けて石井は、すっかり米国側になびいた様子で、「細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい。ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです。」とすら語った[73]。これを受けてフェルは、人体実験、ノミの大量生産、中国に対する実験については一言もソ連に漏らさないよう、また米国側から受けた指示についても決して口にしないよう石井に警告した。

結果として、その後のソ連の石井たちへの尋問は何ら大きな成果をあげることなく失敗に終わり、戦犯から逃れようとする石井ら731部隊幹部と、ソ連にいかなる情報も与えまいとするアメリカ側の利害関係は見事に一致するのである[74]

9ヵ条の密約とアメリカによるデータ独占

731部隊員は人体実験について固く口を閉ざし、何も発言しない誓いを立てていた。その誓いを破らせ、彼らに人体実験に関する報告を英文で書かせるためには、彼らの安全を保証する条件を提示し、納得してもらう必要があった。そのために米国が731部隊員に提示した条件は、以下の9項目からなっていた[75]

--- 鎌倉会議で取り交わされた9ヵ条の密約 ---


1. この秘密調査報告書の閲覧はフェル博士、マックェール中佐、および吉橋通訳とGHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。

2. 日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。

3. 報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人のみに提供される。

4. ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである。

5. 報告書は一般に公表されない。

6. 研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意が払われる。

7. 主要な研究者は米国へ行くことを許可される。

8. 細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長の下に行われる日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく特別実験が予定される。

9. アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の一般的意図に基づく。

青木冨貴子『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』新潮社 2008年、428頁

731部隊の医学者たちは、以上の条件をのむことと引き換えに、鎌倉で60ページに及ぶ英文の人体実験リポート『19人の医者による(人体実験リポート』を書き上げる。さらに、フェル博士が発見し、石川太刀雄丸が解説をつけた病理標本8000枚が、米国のメリーランド州フレデリックのキャンプ・デトリックに送られた[76]

このようにアメリカは、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判で、残虐な人体実験を行ったかどでナチスの医師たちを追及する一方で、731部隊の医師たちに対しては、生物兵器のデータを得るために秘かに戦犯免責を与えたのである。GHQは、こうした二枚舌ともいえる姿勢が国際社会から厳しく糾弾される危惧について本国政府と何度も話し合ったが、米国政府は最終的に次のように結論する。

a. 日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。

b.【略】

c. アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。

d. 国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策ではない。

e. 日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり、「戦犯」の証拠として使用すべきではない。

State-War-Navy Coordinating Subcommittee for the Far East 1947. 常石編訳 1984年、416頁

さらに、エドウィン・V・ヒル博士(化学戦部隊基礎科学部主任)は最終報告書において、「今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた補強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、われわれの研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日まで要した費用は総額25万円である。この費用はこれらの研究の価値と比べれば些細な額にすぎない[77]。」と記している。

この様な、元731部隊員とアメリカ政府との取引の結果、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

日本国への賠償請求

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中華人民共和国の180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[78]

この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、日中戦争を含む第二次世界大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国(この場合は中華民国と中華人民共和国)との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

2002年8月、同訴訟一審の東京地方裁判所は、731部隊の活動に関する事実の有無の判断について、原告らが立証活動をしたのみで被告(日本国)は全く何の立証(反証)活動もしなかったという制約ないし問題があること、また、本件のような複雑な歴史的事実の確定は諸科学による学問的な考察と議論に待つほかはないことを前置きした上で、当該訴訟における民事訴訟上の事実認定としては、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定している[79]。さらに、731部隊による細菌戦の性格について、次のように結論づけた。


 国家が発動する戦闘行為においては、敵軍隊を撃退し、その軍事的能力を解体すること以上の行為は禁止されている。(中略)ところが、731部隊等は、明らかに軍事的拠点でもなく、また軍事的目標もない中国の普通の地方都市や農村に対して細菌戦を実行し、平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。(中略)国際法が発達した今日では、このような集団殺害行為は、国際法上のジェノサイドに該当するものである。  細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力と潜在力を持っている。その破壊作用は長期間にわたり、一度収まっても、二度、三度流行することもある。  また、細菌兵器は、その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を伴う。周知のとおり、731部隊は、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究に際し、常時200人から400人の捕虜を生体実験に用いた(証拠略)。生体実験の残虐さと、細菌戦の残虐さは、表裏一体をなすものである。細菌戦の被害の特徴は、その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は、致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく長期間流行する。一家族、一地域の大半が全滅する例が多い。

(中略)以上のとおり、日本軍による細菌兵器を使ったジェノサイドの被害は、ナチスのアウシュビッツでの残虐さと同罪であり、過去に例がないほどの残虐なものであった。


--- 東京地方裁判所平成14年8月27日判決(抜粋)---

関東軍防疫給水部

組織

  • 関東軍組織図
  • 防疫給水部組織表
  • 関東軍防疫給水部(通称号:満州第691部隊)
    • 関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)
    • 牡丹江支部(通称号:満州第643部隊)
    • 林口支部(通称号:満州第162部隊)
    • 孫呉支部(通称号:満州第673部隊)
    • 海拉爾支部(通称号:満州第543部隊)
    • 大連支部(通称号:満州第319部隊)

関東軍防疫給水部長

  • 1940年8月23日まで関東軍防疫部長
  • 階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。
  • 石井四郎 軍医中佐(1936年8月1日~1942年8月1日)
  • 北野政次 軍医少将(1942年8月1日~1945年3月1日)==日本学術会議南極特別委員・文部省百日咳研究会
  • 石井四郎 軍医中将(1945年3月1日~終戦)==>新宿区若松町で旅館経営。

関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)

第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。

支部

  • 牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
    • 総務課
    • 経理課
    • 第一課
    • 第二課
    • 第三課
    • 資材課
    • 教育課
  • 林口支部(満州第162部隊)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所文部省百日咳研究会)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 大連支部(満州第319部隊)
    • 総務部
    • 研究部
    • 製造部

脚注

  1. ^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。
  2. ^ a b 山本真(大分協和病院医師)「森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)の証言1991年9月。
  3. ^ a b ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8
  4. ^ a b c 秦(1999)、544-546頁。
  5. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター在満兵備充実に対する意見
  6. ^ “731部隊員は3560人 終戦直前、厚労省が集計”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年9月4日). http://www.47news.jp/CN/200309/CN2003090401000414.html 2012年11月25日閲覧。 
  7. ^ 秦(1999)、567頁。
  8. ^ a b 秦(1999)、578-579頁。
  9. ^ 秦(1999)、556-558頁。
  10. ^ シェルダン・H・ハリスen) 『死の工場―隠蔽された731部隊』 柏書房、1999年。
  11. ^ 解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。
  12. ^ 常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社、2005年、157-158頁。
  13. ^ 渡辺延志 「731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見」『世界』830号、岩波書店,2012年。http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf
  14. ^ 渡辺、岩波書店,2012年。http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf
  15. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、414頁
  16. ^ 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、101頁
  17. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、352頁
  18. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、352頁
  19. ^ 『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)
  20. ^ ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、178頁
  21. ^ http://uketugukaiiwate.jimdo.com/資料室1-撫順の奇蹟/証言-篠塚良雄さん-千葉/
  22. ^ 小俣和一郎「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。ISBN 4-476-03255-9
  23. ^ 2007年4月9日 読売新聞
  24. ^ 秦(1999)、552頁。
  25. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、132頁
  26. ^ 篠塚良雄「アメリカ・カナダの入国を拒否されて」『中帰連』第7号、1998年12月。
  27. ^ 田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』自由社
  28. ^ http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
  29. ^ 常石、1995年、155頁
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  31. ^ 2007年4月9日 読売新聞
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  33. ^ 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)
  34. ^ 常石敬一編訳『標的・イシイ』大月書店、1984、162頁
  35. ^ 常石(1995年)、155頁
  36. ^ 常石(1995年)、155頁
  37. ^ 常石(1995年)、156頁
  38. ^ 常石(1995年)、156頁
  39. ^ 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)
  40. ^ ハル・ゴールド、2002年、182頁
  41. ^ ハル・ゴールド、2002年、182-183頁
  42. ^ ハル・ゴールド、2002年、184頁
  43. ^ 常石(1995年)、99頁
  44. ^ 常石(1995年)、113頁
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  49. ^ 青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9。もっとも、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている。
  50. ^ 松村 高夫 『日本帝国主義下の植民地労働史』 不二出版、2008年、331頁。
  51. ^ 秦(1999)、550-551頁。
  52. ^ あいち・平和のための戦争展「[1][2][3]
  53. ^ 中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[4][5]
  54. ^ 「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵
  55. ^ 秦(1999)、552-553頁。
  56. ^ 『悪魔の飽食』は旧ソ連のプロパガンダだった 中川八洋正論」平成14年11月号 276-287頁
  57. ^ 常石(2005年)、171頁。
  58. ^ a b 秦(1999)、561頁。
  59. ^ 秦(1999)、565-566頁。
  60. ^ http://www.anti731saikinsen.net/nicchu/bunken/kanekokaisetu.html
  61. ^ http://www.anti731saikinsen.net/nicchu/bunken/kanekokaisetu.html
  62. ^ 常石(1995年)、136-137頁
  63. ^ 常石(1995年)、139頁
  64. ^ 常石(1995年)、143-144頁
  65. ^ 常石(1995年)、148頁
  66. ^ 常石(1995年)、149頁
  67. ^ http://www.anti731saikinsen.net/nicchu/bunken/kanekokaisetu.html
  68. ^ 秦(1999)、571-576頁。
  69. ^ Williams & Wallace 1989, Chap.17
  70. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、132頁
  71. ^ 青木、2008年、370頁
  72. ^ 青木、2008年、370頁
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  74. ^ 青木、2008年、413-415頁
  75. ^ 青木、2008年、427-428頁
  76. ^ 青木、2008年、427-428頁
  77. ^ 青木、2008年、438頁
  78. ^ 731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟
  79. ^ 東京地方裁判所平成14年8月27日判決

参考文献

書籍

  • 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7)
  • 軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年
  • 群司陽子 『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)
  • 近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7
  • 田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 不二出版、1991年
    • 「731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載
  • 田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2
  • 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9
  • 同上 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3
  • 同上 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269
  • 同上 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4
  • 秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5
  • ハル・ゴールド 『証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡』 廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8
  • 森村誠一悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1

その他

関連作品

小説

映画

舞台

マンガ

音楽

関連項目

外部リンク