ハル・ノート

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ハル・ノートHull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年11月26日アメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan、日米協定基礎概要案)と称する。

日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。ハル・ノートに関しては、「(事実上の)最後通牒であった」とする解釈と、「最後通牒ではない」とする解釈とがある。

目次

[編集] 前段

Strictly confidential, tentative and without commitment

極秘文書。試案にして法的拘束力無し。

November 26, 1941.

1941年11月26日。

Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan

日米協定として提案する基本方針の概略

Section I

第一項

Draft Mutual Declaration of Policy

共同宣言の方針案

以下第一項略

[編集] 第二項概略

ハル・ノートは、日米交渉において日本側の当事者野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である。その内容は、アメリカが日本とイギリス中国、日本、オランダソ連タイ、およびアメリカ合衆国の包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めるものである。と、当時は解釈され伝えられた。概要は以下の10項目からなる。

  1. アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する
  2. 日本の仏印(フランス領インドシナ)からの撤兵
  3. 日本の支那(中国)からの撤兵
  4. 日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中国国民党政府以外のいかなる政府を認めない
  5. [日本] 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
  6. 通商条約再締結のための交渉の開始
  7. アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
  8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
  9. 第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 - 日独伊三国軍事同盟の廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである。
  10. 本協定内容の両国による推進
原文の和訳はウィキソース参照。英語原文は英語版ウィキペディア「Hull note」のページを参照

[編集] 提示までの経緯

1941年11月20日、日米交渉において、日本側は以下の内容の乙案を提示した。

  1. 日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
  2. 日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
  3. アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する

これに先立ってアメリカ側ではハル・ノートの原案と暫定協定案の2通りの案を平行して検討していた。ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官が18日にハルに示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本側に提示されていた可能性はある。ホワイト原案はハル・ノートにかなり近いと言ってよいと思われる。ただし中国については原案では明確に満洲を除くという記述があった。

アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し、対案を示すこととした。暫定協定案の原案はそれ以前から検討されていたが、22日までに更に協議され以下の内容となった。

  1. 日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25,000人以下とする
  2. 日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す
  3. この協定は3ヶ月間有効とする

暫定協定案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部が要望していた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案である、アメリカ政府はこれについてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っている。25日まではこの暫定協定案が検討されていたが、おそらく26日早朝までに、ハル国務長官とフランクリン・ルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハル・ノートが提示された。なぜ急に暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したかは現在、明確ではない。ルーズベルト大統領は、ホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言ったという[1]

ハルの日記は25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述となっている。ルーズベルトについては26日午前、ヘンリー・スティムソン陸軍長官からの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報に際し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。ただし、これは日本の輸送船団をアメリカ軍が戦後まで軍艦と取り違えていたことがわかった。以上より、25日午後ないし26日早朝、ルーズベルトはスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したと思われている。ただしこの情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではない。

[編集] 日本政府の反応

東郷茂徳外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」と述べている。当時、東郷は中国の暗号を解読することでアメリカ側で日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[2]。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる。

なお、ハル・ノートの前段には“Strictly Confidential, tentative and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)”との記述があり、ハルノートは試案であることが明記されているのにもかかわらず、なぜ外務省が“tentative and without commitment”の箇所を削除して枢密院に提出し、東郷が昭和天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになったのか、外務省および東郷外相の真意は不明である。(日本の国立公文書館の記録では“tentative and without commitment”の箇所は有り)

日本政府はハル・ノートを最後通牒であると受け取り、東條英機総理大臣も「これは最後通牒です。」と述べた。日米交渉に対して日本政府内では当初妥協派が優位であったが、ハル・ノートを提示されたことで軍部を中心に強硬意見が主流になり、昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたとされる。この結果、12月1日御前会議にて対英米開戦が決議され、ハル・ノートが提示される以前に択捉島単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分、真珠湾攻撃の攻撃命令が発せられた。

同様に、英文のオリジナルはThe Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochinaになっているが、日本政府が翻訳時に「即時」という文言が付け加えられた。 [3] 但し、米国側も、日本との外交交渉を行う上で、事前にまとめていた日本に関する詳細なレポート(日本の内情に関するレポートや日清・日露戦争の経緯と経過、そして交渉が決裂した場合の日本側の行動予測などに関するレポート)と暗号解読機「マジック」による日本政府(外務省)の暗号電文の解読によって、日本政府がハルノートを最後通牒と見なすだろうと事前に予測しており、日本側にハルノートを提示した、11月26日中にアジア各地の潜水艦部隊に対し「日米が開戦した場合には、たとえ、武装していない商船でも警告なしに攻撃してもよい」と無制限潜水艦作戦を発令。[要出典]

[編集] アメリカ政府の意図

現在、ハル・ノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。ハル長官はハル・ノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、説明を加えず、ほとんど問答無用という雰囲気であり、投げやりな態度であった。更にまた両大使と会見したルーズベルトは、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ハル・ノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハルに電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と言われたと答えている。

またハル・ノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていない。ルーズベルトは暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに言っており、ハル・ノートが受諾される見込みはないと考えていただろう。しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議するための12/8議会演説ではハル・ノートにより交渉を進めていたように演説をしている。

スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている[4]。また、11月27日にはハルがスチムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた。私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」と伝えたとされる。

これらの発言から、ハル、ルーズベルトはハル・ノートを基礎にして日本と交渉ができるとは考えていなかったのが(少なくとも日本では)一般的であろう。そして彼らが日本の外交暗号解読により交渉期限が11月末までであることを知っており、そしてアメリカ政府の全体の局面認識が交渉決裂は戦争につながる可能性が非常に高いというものであったことから、交渉がまとまらない場合、12月初めには日本が交渉を打ち切って先制攻撃を開始することを予想していたと考えるのが自然であろう。ハルノートが日本側に提示された当日中に、開戦に備え無制限潜水艦作戦の指令が各地の潜水艦部隊に対して出されている。[要出典]


一方、アメリカ側の見方では、アメリカが先制攻撃するには、議会と国内世論を前もってまとめる必要があり、これには困難が伴う[5]。逆に、暗号解読の情報通りに日本が先制攻撃をしたら、議会と国内世論を参戦に向けてまとめることが容易になる。「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」という発言より、日本が先制攻撃をすることを知っていたアメリカは、被害を最小にするべく開戦のコントロールを考えていたが、真珠湾奇襲攻撃までは攻撃10日前の時点で確信していないと考えるのが自然であろう。

[編集] 今日の評価

[編集] 様々な評価

歴史家の一部[誰?]には、「ハル・ノートにより日本は対米開戦を余儀なくされた。ハル・ノートは最後通牒である。」と批評している人たちが多くいる。これは日本人の書いた多数の歴史書がハル・ノートの存在を強調し、NHKの番組でもここが歴史の転換点であったかのように描く事から確認できる。漁夫の利(中国の政権奪取)を得ようとする中国共産党は国民党・日本の両者の共倒れを狙っていた。日本は多大な挑発に対抗する強い意志があり、戦争の維持のため南方に進出したが、国民党を通しての中国大陸の権益拡大を目論むアメリカ、そしてそこでの権益を失うことを恐れるイギリス等による経済制裁によって石油などを禁輸されてしまい、戦略資源の窮乏による国家的危機を迎えた。日本にはまだ外交交渉による平和維持の意志があったが、アメリカの全ての中国権益を放棄せよという強硬な対日要求によりやむなく開戦に至ったと考えている。この解釈は帝国主義が大国の常識であった当時において、仏印進駐は中国侵攻を維持するための行為であり、むしろアメリカの対日禁輸政策が日本のアジアでの権利を犯す行為であるとするもので、大東亜戦争は自衛の為の戦争であるという考え方の背景にもなっている。

一方、ハル・ノートにかかわりなく、基本的に日本が11月15日の御前会議で決定された国家方針により戦争を開始したのであり、ハル・ノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとする見解[誰?]も存在している。アメリカの教科書や歴史書ではハル・ノートは言及されず単に日本が警告なく攻撃をしかけたと記述されている[要検証]。日本の教科書でもハル・ノートに触れていないものもある。アメリカ側から見ればハル・ノートの中国からの撤兵など厳しい対日要求も、アメリカのアジアでの基本政策の確認にすぎず、ここから交渉すべきものであり問題にはならない。ここにはそれまでの交渉経緯や、日本が11月末で外交交渉を打ち切ろうとしている時期に交渉困難な案が軍事行動を促す可能性への考慮はない。そこではあくまで日本が先に軍事行動を行ったことが問題にされる。秦郁彦は11月26日に既に機動部隊が出航していることを重視し、ハル・ノートにかかわりなく既に日本は対米開戦の意志を持っていると見なしている。また、同年9月の帝国国策遂行要領を天皇は拒否したが、陸海軍首脳部はこの時点で開戦を決心したと見ることもでき、9月以降、参謀本部命令で南方各地の兵要地誌の収集と各在留邦人との接触や、まだ研究訓練段階であった落下傘部隊を早急に戦力化するよう督促している。(「大陸指924号」(昭和16年8月12日発)では南部仏印進駐後、ジャングルにおける戦闘や機械化部隊の長距離行軍の訓練、橋梁の修理などの研究、上陸作戦の研究が指示された。「大陸命557号」(昭和16年11月6日発)では香港攻略の準備を、「大陸命558号」「(空白)」の攻略を(自衛戦闘は許可されている)、「大陸命559号」では船舶の準備に関して、大陸命569号では支那派遣軍の一部部隊を南海支隊への編入など)

ちなみに近年では、ハルノートで言うところの「中国」には“満州は含まれていない”とする研究結果が出ている。 『11月になり東条内閣が成立し、東郷茂徳が外相となった。天皇の意向もあり東条内閣も日米交渉には最後まで外交的努力をすることとなり、最後の提案というべき甲案・乙案を用意し、また栗栖三郎大使を野村の補佐として派遣した。日本の暗号電報をすべて解読していたアメリカ側は、このままでは戦争になると危惧し、国務省は日本への対案として3ヵ月休戦の暫定協定案を作った。これはかなり妥協的な案であり、戦後東京裁判でこれを見せられた東条英樹は、これがくればと絶句したと伝えられている。しかしアメリカはこれを手渡すことなく、結局強硬な原則を示した。いわゆるハル・ノートを寄こした。

11月26日にこれを見た、さしもの和平派であった東郷も、これは日本の国家的な自殺を要求するものとして絶望感にとらわれ、御前会議でも日米開戦やむなしとの結論になったのである。日本がハル・ノートを絶対に受け入れられないと感じたのは、満州をも含む全中国大陸からの撤兵を要求し、実質的に満州国の放棄を要求していると解釈したからである。現在でもこのことを信じている人達が大部分である。だがここにまた重大な錯覚があった。アメリカ側の研究者から近年、ハル・ノートの中国には満州は含まれていなかったとの説が出された。これは悲劇的な誤解であったというのである。日本側がほぼ全員といってよいほど「満州を含む全中国からの撤兵」と解釈しているのとくらべると大きな違いである。たしかに現在ハル・ノートを読んでみれば、満州を含むなどとはどこにも書いてない。思い込みとは恐ろしい。』 「機密,試案であって義務を伴わない日米交渉11月26日米側提案(Strictly confidential, tentative and without commitment November 26, 1941)」 (京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」より)

こうしたアメリカ側の立場から見れば、多くの日本人の歴史認識は「アメリカにより開戦を強いられた」という「広義の陰謀論者」[6]となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカ側も日本の多数派と同じ批評をしている。このようにハル・ノートの批評はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。

条項を読めばわかるとおり、アメリカ側は提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての両国の争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。

日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している[7])。

ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、ルーズベルトの意向もあり、急遽より強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハル・ノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化(あるいは国際認識)が衝突した典型例と言う者もある。ただ、日本の防衛上(石油の残量[8])、日本側が一から交渉を続けようとしたとしても、日米首脳会談(近衛文麿企画)の例に見られる様に、米国が誠意を持った態度で交渉に臨むとは限らず、ただ米国の戦争準備を助けるだけの交渉で終わってしまった可能性もあり、実際にどうなったかは不明である。実際、ハルが提示しようとした穏健案も時間稼ぎを前提としたものであったことから、日本側の内情とアメリカ側の態度、そしてドイツとイギリス、中国との関係からどのように推移したかはわからない。

また、ヨーロッパでは、ネヴィル・チェンバレン英国首相の宥和政策によってアドルフ・ヒトラーの台頭を許したと考えられたこともあり、アメリカ内での宥和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。

[編集] 批評

中村粲大東亜戦争への道』展転社 1991年 
「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」
「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」
「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」
ハーバート・ファイス『真珠湾への道』みすず書房 原著刊行1950年 
「ハルノートは米国の東洋全般にわたる政策の最大限の要求」
「この米国の対案(ハルノート)を最後通牒と見なすのは政治的にも軍事的にも妥当ではない」
「東郷等の態度は妥当ではない。日本は武力で占拠した地域からの退去を要求されただけだ、日本の独立はなんら犯されていない、日本軍は安泰である」
一方日本の乙案の評価についてはハル長官の言葉を批判せず引用している。「日本の乙案を受け入れることは、全く降伏に等しいものだ」そしてこの乙案に同意しても戦争は避けられなかっただろうとしている。
アメリカの高校歴史教科書『アメリカンページェント共和国の歴史 The American Pageant』2002年版(アメリカの教科書に書かれた日本の戦争、越田稜編、梨の木舎、2006年) 
「日本との最後の緊迫した交渉が1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、限られた規模での貿易再開を申し出た。日本の帝国主義者は面子を失うことを恐れ同意せず、アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるかの選択に迫られ、剣を選んだ。」
「攻撃は東京が意図的にワシントンで交渉を長引かせている間に真珠湾で行われた」
J・プリチャード 他『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と経過』河出書房新社、原著刊行1972年 
「(日米開戦は)米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ・柔軟性・想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果」
「日本人と同じく、力づくでなければ通じないと思いこんだ米国は交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」
「米国が中国の陳情とチャーチルの言葉通りにすると、真の暫定協定の可能性も消えた、日本はこれ以上の話し合いは全く無益であると悟った」

[編集] 作成に関与した国々

アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を1年にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。

この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。

[編集] 中国の思惑・影響力

軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、支那事変の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。

[編集] 英国チャーチルの思惑

また当時は既にドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国は暫定協定案に対してはやむなく賛成する電報を送ったが、反対であったのは明らかで他に公開されていない電報が存在する。またその他の働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの喜びぶりが描かれている[9] 。ただし、日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦となるわけではない。独ソ戦に日本が参戦しなかったように、日独伊三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の援助義務は発生しない。アメリカがヨーロッパ・アフリカ戦に参加することとなったのは、真珠湾攻撃を知ったナチス・ドイツヒトラーがアメリカに対して宣戦布告を行ったからである。

[編集] ソ連の思惑

独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせるためのあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハル・ノート作成に関わったハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。また、比較的穏便な内容を過激な内容に改め、ハル長官名義でハル・ノ-トを作成したのはホワイトである。

日本側にはリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかと関東軍特種演習などの情報を収集し、報告し続けた。なお、近衛文麿もコミンテルンや共産主義には理解者であったとされる。[要出典]

[編集] その他

日本外交暗号の解読、日本兵を載せた船がインドシナに向かったとの誤報、日本側の攻勢準備行動の露呈があり、これらが決定打となってルーズベルトがハルに対し、日本により厳しい案を通知するよう指示したと言われている。これに関連して、インドシナに関する誤報は米海軍が意図的に事実と異なる報告を大統領にしていたという説がある。

[編集] 脚注

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  1. ^ 田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』
  2. ^ 『その時歴史が動いた27』NHK取材班編集、KTC中央出版、2004
  3. ^ 第2項2 当国政府は米、英、支、日、蘭、及び泰政府間に各国政府が仏領印度支那の領土主権を尊重し、且つ印度支那の領土保全に対する脅威に対処するに必要且つ適当なりと看做(みな)さるべき措置を講ずるの目的を以って即時協議する旨誓約すべく協定の締結に努むべし  斯かる協定は又協定締約国たる各国政府が印度支那との貿易若しくは経済関係に於いて特恵的待遇を求め、又は受けざるべく且つ各締約国の為仏領印度支那との貿易及び通商に於ける平等待遇を確保するが為尽力すべき旨規定すべきものとす
  4. ^ 英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson」のページを参照
  5. ^ アメリカ側は、1941年7月21日の時点で、日本本土に対する先制攻撃作戦案【J.B.No.355】を、ルーズベルトと陸海軍長官の署名のもと裁可されており、日本本土に対する先制攻撃に備えてアジア方面で爆撃機の配備を進めていた。
  6. ^ 『検証・真珠湾の謎と真実』、秦郁彦、PHP研究所、2001
  7. ^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105
  8. ^ 当然ながら、アメリカは日本側の石油残量について重々承知していた
  9. ^ ウィンストン・チャーチル, 『第二次世界大戦』, ISBN 4309462138

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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