真珠湾

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座標: 北緯21度21分33秒 西経157度57分07秒 / 北緯21.359255度 西経157.951813度 / 21.359255; -157.951813

真珠湾鳥瞰

真珠湾(しんじゅわん)またはパールハーバー (Pearl Harbor) は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島にある入り江の一つであり、湾内にはアメリカ海軍の軍事拠点(軍港)などが置かれている。日本では伝統的に「真珠湾」と呼ばれているが、地形的には長い海岸線を持つようなではなく、複数の河口から出来た入江であり湾の一種になる。州都ホノルルの西約10kmの位置にあり、隣接地にはアメリカ軍飛行場に併設されたホノルル国際空港がある。

解説[編集]

この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍基地などになっており、これらを統括するアメリカ太平洋軍司令部Marine Camp H. M. Smith)に隷属して、海軍とのジョイントベースである空軍ヒッカム基地があり、ホノルル国際空港が併設されている。また、海軍の乾ドックなどをはじめ軍関連施設が数多く配置され、立入禁止・撮影禁止区域も多い。湾内のフォード島側には国定歴史建造物として、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃で撃沈されたアメリカ海軍の戦艦「アリゾナ」などの記念施設が一般に公開されており、現在の日本では観光地としても知られている。

太平洋戦争緒戦である真珠湾攻撃では、戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻、駆逐艦29隻、魚雷艇及び敷設艦や水上機母艦、果ては潜水艦や標的艦までもが停泊して日本海軍の攻撃目標となった[1] 。この攻撃に先立ち日本海軍は、真珠湾のように湾内に島のある形状が似ている錦江湾鹿児島県)が深度も浅く、主に航空魚雷を用いた雷撃機の訓練場に適するとの判断から攻撃の訓練や演習を行なった成果が攻撃の成功をもたらした。

公開されている衛星写真などから、湾内のフォードアイランドにあった海軍飛行場跡地、周辺にある航空博物館、海軍関係者の住宅、潜水艦や駆逐艦が整備されている様子、沈没戦艦「アリゾナ」の水面下の艦影や記念施設、記念館戦艦として展示されている「ミズーリ」やミドルロックに停泊する多数の艦船なども確認できる。

地勢と呼称について[編集]

米軍拠点の地勢:Pearl Harbor

古くは、ハワイ語でWai Momi(ワイ・モミ、真珠の水域)と呼んだ。英語名“Pearl Harbor”は、“Wai Momi”の訳である。かつては、同様の意味で、“Pearl River”あるいは“Pearl Lochs”と呼ばれたこともあった[2]。これらの名称や上空写真からも、真珠湾の地形が複数の河口から出来た入り江(Loch,Bay)などであることが分かり、英語の“Harbor”に対応した日本語では泊地などもあり、船舶が停泊できる湾や入り江などの船溜を示唆している地形・地名ともいえる。また、それぞれの入り江などには名称があり、湾口から反時計回りに「Pearl Harbor」「Southeast Loch」「Aiea Bay」「East loch」「Middle Loch」「West Loch」などの入江や湾になっている。真珠湾攻撃当時(1941年)のアメリカ陸軍航空軍ヒッカム飛行場(写真の右下)は、現在の米空軍ジョイントベースのパールハーバー・ヒッカム基地になる。また、基地の東側には民間施設のホノルル国際空港があり、基地の滑走路を利用している。

アメリカ軍拠点名の“Pearl Harbor”を「真珠湾」とした初出は1941年12月に日本軍のハワイ・オワフ島攻撃を報じた新聞の紙面とされ、原徳三によるとこの時に「白亜館は日本軍が真珠湾に対し攻撃を開始したと発表」と書いた文章が「真珠湾」の始まりであるという[3]。原によると開戦時点での大本営発表にはPearl Harborを指す語は無く、また山本五十六はこの地を「真珠港」と書いていた。なお、大日本帝国海軍は開戦以前からアメリカ海軍の拠点名を真珠港としている。大本営発表が初めて「真珠湾」の語を用いたのは1942年3月7日付けの、特殊潜航艇による特別攻撃隊公報であるとされる[3]。なお、これらの出典から『英語名からもわかるように、この地は「湾」ではなく「港」である』などの説は、単語の意味や文章の用法として“Pearl Harbor”をとらえており、パールハーバーの地勢や軍事拠点としての意味合いを考慮に入れていない点に注意が必要である。

アリゾナ・メモリアル[編集]

アリゾナ・メモリアル 奥にみえるのは戦艦ミズーリ

1950年3月7日、アーサー・W・ラドフォード提督(当時の太平洋艦隊司令長官)はアリゾナの残骸の上に国旗を掲揚することを命じた。また、アイゼンハワー大統領ケネディ大統領の任期の間に政府はアリゾナの残骸を国定慰霊碑にすることを決定し、1962年5月30日に正式に指定された。

アリゾナ・メモリアルは、戦死した乗組員の名が刻まれた大理石の壁が船体の上を横切る形で設置されている。アリゾナの上部構造及び主砲塔四基のうち三基は撤去されたが、一基の主砲塔リングは現在も水面下に確認できる。追悼式が毎年生存者も参加して行われている。海上自衛隊の艦艇は真珠湾を通過する際、アリゾナに対して敬礼を行っている。

2010年の現在も船体からが漏れだし水面に浮かんでいる。一日あたり1クォートの油が漏れ続けている[1]。乗組員達は最後の生存者が死ぬまで油は漏れ続けるだろうと語っている。生存者の多くは、自らの死後火葬の上、遺灰をアリゾナに撒いてもらうよう準備している。海軍は湾の環境悪化を懸念して油の漏出対策を考慮している。

アリゾナ・メモリアルは1966年10月15日に国家歴史登録財に登録された。艦自体は1989年5月5日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

脚注[編集]

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  1. ^ 参考文献「パールハーバー1941」 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ―世界の戦場イラストレイテッド)
  2. ^ The U.S. Navy in Hawaii, 1826-1945: An Administrative History” (英語). Naval History and Heritage Command. アメリカ海軍. 2010年6月27日閲覧。
  3. ^ a b 原徳三「「真珠湾」はない」日本エッセイスト・クラブ編『ネクタイと江戸前』文藝春秋、2007年

外部リンク[編集]