日系人の強制収容

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強制収容される日系アメリカ人
アメリカ軍により発せられた強制立ち退き令を報じる羅府新報

日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう, : Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた日系人日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。1942年から1946年に亘って実施された。

起源[編集]

日系人に対する監視[編集]

選抜訓練徴兵法案に署名するフランクリン・D・ルーズベルト大統領(1940年)

フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、日系人人口が多いハワイにおける日本側の情報活動に危機感を抱き、1936年に作戦部長にあてられた覚書で「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本の船舶と乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ」と提案している。[1]

その後、1937年7月に行われた日本陸軍による中華民国への軍事行動に対する通商航海条約の継続停止措置。1940年9月に行われたフランス領インドシナ北部への進駐に対するアメリカ国内の日本人資産の凍結と貿易制限。さらに1941年7月に行われたフランス領インドシナ南部への進駐に対する8月1日の日本への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増した。日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。

真珠湾攻撃

その後アメリカが12月8日(アメリカ時間では12月7日)に日本海軍艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに、日本や日本を追ってアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツイタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。

なお、開戦前にフランクリン・D・ルーズベルト大統領の命により日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査したカーティス・B・マンソンは「90パーセント以上の日系二世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と報告していた[2]。しかしながら、原田義雄ら2人の日系アメリカ人が、捕虜となった日本海軍のパイロットの西開地重徳一飛曹の脱走を手助けをした「ニイハウ島事件」等の例が、日系アメリカ人に対する批判的な論調を後押しすることになる。

なお、この様な反逆的な事例、もしくはそれを疑わせるような事例は、ドイツ海軍潜水艦Uボート」によりアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾沿岸からアメリカ国内に送られたスパイへの、ドイツ系アメリカ人による支援に対する疑い[3] など、大戦中を通じてドイツやイタリア系アメリカ人にも複数見られた。

強制収容計画の推進[編集]

軍統制の模索[編集]

ジョン・L・ドゥウイット
アール・ウォーレン

カリフォルニア州の防衛に責任のあったアメリカ陸軍ジョン・L・ドゥウイット中将やアレン・W・ガリオン憲兵司令長官は、かねてから日本軍の本土進攻に備えた文民統制から軍統制への方法を模索していた。しかし、民間出身であるヘンリー・スティムソン陸軍長官が軍統制に対して興味を示さなかったため、彼らは独自の計画によりカリフォルニア州を含むアメリカ西海岸の軍統制の道を模索していくことになった。

その様な状況下で、日本による真珠湾攻撃とその後の日本軍によるアメリカ本土侵攻が現実味を帯びてきたことを受け、真珠湾攻撃が行われてから数週間が過ぎた12月30日にフランシス・ビドル法務長官は、日本国籍を持つ日本人移民の家のみならず、少なくとも居住者の1人が「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を、令状なしに捜査するという権限を与えたことで、憲法修正4条はもはや適用されない趣旨を提言した。

ガリオン長官率いる陸軍憲兵司令室は、戦時下における文民統制を主張する司法省との競合のなかで、カール・R・ベンディッツェン陸軍少佐太平洋沿岸州に送り込み、ベンディッツェン少佐を通すことで、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長を無視して「敵性外国人」の「強制収容所(Concentration Camps)」への強制収容を秘密裏に計画することになった。

日系アメリカ人への誹謗[編集]

さらにカリフォルニア州のカルバート・オルソン知事は、「日系アメリカ人はアメリカの価値観や伝統になじもうとせず、受け入れようともしない」と誹謗する発言をし、さらにカリフォルニア州のアール・ウォーレン司法長官は「日系アメリカ人がまだ破壊活動を行わないのは、攻撃開始予定時間を待っているからだ」と言う支離滅裂な主張をすることで[4] 日系アメリカ人を危険視した。

ドゥウイット中将はこの頃、「現時点で日系人による破壊行為が行われていないという事実こそが、今後日系人による破壊行為が行われる兆候である」という、ウォーレン司法長官と同様の主張や、「アメリカ国籍を持っていようが持っていまいが、ジャップの(アメリカに対する)忠誠心を信用することはできない」というような人種差別的表現まで使った主張をし、軍統制や日系アメリカ人の強制収容を正当化しようとした[5]。 しかし当時のアメリカでは、この様な主張に対しての批判や反論を行うものは皆無であった。

日本軍本土上陸への恐怖[編集]

なお、日本海軍による開戦当初の怒涛の進撃と、アメリカ軍を含む連合国軍の度重なる敗退を受けて、1941年12月から1942年の秋にかけては日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土砲撃アメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時「可能性が非常に高い」と分析されており、実際に開戦直後にフランクリン・D・ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、それに対して陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた[6](なお、実際に開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。

開戦直後、サンフランシスコロングビーチサンディエゴ等の西海岸の主要な港湾では、日本海軍機動部隊の襲来を恐れて潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行い、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、防毒マスクの市民への配布などを行った。

アメリカ本土を砲撃した巡潜乙型潜水艦(写真は伊号第一五潜水艦)

事実、1941年12月の開戦以降、日本海軍の乙型潜水艦9隻がアメリカ西海岸沿岸で通商破壊作戦に従事し、アメリカやカナダの輸送船に魚雷攻撃や砲撃を加え、エミディオ号をはじめ10数隻に撃沈、擱座、制御不能などの多数の損害を与えた。またクリスマス・イヴには、北太平洋で作戦活動に従事していた日本海軍の艦艇10隻程度によるサンフランシスコへの砲撃が予定されていたが、日本海軍司令部が「クリスマス位は静かに送らせてやれ」という態度を取ったために、最終的に中止するに至った(なおこの理由には諸説ある)[7]

大都市部のロサンゼルスやサンフランシスコへの砲撃こそ行われなかったものの、開戦から3ヶ月を経た1942年2月24日には、カリフォルニア州サンタバーバラ近郊の海岸沿いにあったエルウッド石油製油所を日本海軍の乙型潜水艦「伊号第一七潜水艦」が砲撃し施設を破壊し、帰途にタンカー1隻と輸送船1隻を撃沈したほか、翌日には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃をおこなった「ロサンゼルスの戦い」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。

また、当初は軍統制に興味を示さなかったスティムソンは、日本海軍による太平洋沿岸部への空襲を「戦争開始後一ヶ月の間に行われる可能性は高い、そして日系人がそれに重要な手助けをする危険性は払拭できない」と証言し、西海岸区域の軍統制を後押しした。

「大統領令9066号」への署名[編集]

サンフランシスコ市内に張り出された日本海軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
日系アメリカ人に対する強制退去命令が出されたアメリカ西海岸地域(「Exclusion area」と書かれている太線の左側。星印などは強制収容所などの関連施設)
アメリカ本土空襲を行った零式小型水上偵察機
サンフランシスコ市内の日系アメリカ人が経営する店舗に張り出された「私はアメリカ人である」と書かれた看板(1942年3月)

その後もアメリカ軍を含む連合国軍が、アジア太平洋インド洋などにおける日本軍との戦いにおいて敗退の一途をたどっただけでなく、同月には日本海軍艦艇によってカナダバンクーバー島のカナダ軍施設に対する砲撃が行われた負傷者を出した他、上記のような西海岸沿岸におけるアメリカやカナダ船舶に対する度重なる日本海軍の潜水艦による攻撃などもあり、その後も変わらず「日本軍によるアメリカ本土上陸が近い」、「日本軍による空襲が行われる」と噂され、政府上層部がその対応に追われるなど、アメリカ人の反日感情はピークに達していた。これらの流れに勢いづいた陸軍省は、西海岸地域一帯における軍統制を実現するためにまず司法省を説き伏せようと、様々な手を使って司法省とホワイトハウスに働きかけた。またこの様な働きかけに対して、戦時下という非常時におかれていた司法省も法の理念を守り通すことができなかった。

こうして1942年2月19日に、当時中国大陸において日本軍と対峙していた連合国の一国である中華民国の指導者である蒋介石、そして蒋介石の妻の宋美齢とも親しい「親中派」であり、その反動として反日感情が病的なまでに強いことで知られた[6]フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、「大統領令9066号」に署名を行い、「軍が必要がある場合(国防上)に強制的に『外国人』を隔離する」ことを承認した。

マジック情報[編集]

デイヴィッド・ロウマンアメリカ国家安全保障局特別顧問は自著で日本が使用していた「パープル暗号」を解読して得た情報(マジック情報)がアメリカ日系人を強制収容する必要性の証拠となったとした。このマジック情報の中に、日系アメリカ人などを本土上陸後にスパイとして使うなどの作戦が情報として含まれていたとの説が有力である。多数の日系人を起訴すれば証拠としてマジック情報を公開する事になり、それにより日本が暗号が破られている事に気付く事を恐れたフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、大統領令9066号に署名し証拠を提示せずにアメリカ日系人を強制収容する策を選んだのだと結論づけた[8]

しかし実際には、「パープル暗号」にそのような情報が含まれていたかは定かでない上に、日米開戦から日系人の強制収容の開始までの間、さらに終戦までの間を通じて、日系アメリカ人によるアメリカ軍や政府に対するスパイ活動や組織的な破壊活動などは全く行われなかった。

日系人だけに対する差別的扱い[編集]

なお、この法令は「すべての敵性外国人に向けたもの」であるとされ、実際に、施行当初においてアメリカ国内で一時的に強制収容された半数近くは日米間の開戦直後にアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツイタリア系の移民とその子孫であった[5]。さらにアメリカが経済的・政治的に大きな影響力を持っていたメキシコペルーコロンビアなどの中南米諸国でも、日系人のみならず、ドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫が一時的に強制収容された[9]

アメリカ国内においては、この行政令が、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイ地域に住み、市民権が与えられない(あるいは剥奪された)日本人、アメリカ国籍を持つ移民一世と、その子孫で日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人達の強制立ち退きと「戦時転住センター」への強制収容に発展した。従軍中の日系人は収容こそされなかったが、除隊され敵性外国人とみなされたり、軍隊内で差別を受けるなど憂き目を見た。

その後、アメリカをはじめとする連合国軍の敗走に勢いづいた日本海軍の乙型大型潜水艦による、1942年2月のカリフォルニア州南部のサンタバーバラ市近郊の製油所やカナダ沿岸に対する砲撃や、9月の伊号第二五潜水艦の搭載機零式小型水上偵察機によるアメリカ本土空襲、さらに潜水艦によるアメリカ、カナダ西海岸一帯における通商破壊作戦よりは規模は小さいものの、日本の同盟国のドイツ海軍の潜水艦によるアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾における連合国の民間船に対する通商破壊作戦、ドイツ軍のスパイによるアメリカ国内におけるテロなどの破壊行為が多数行われ、多くの被害や犠牲者が出ていた[9]

しかし、在米ナチス党員(傘下のアメリカ・ナチス党党員を含む)やファシスト党員など本国政府との結びつきが強く、スパイ行為やテロなどの破壊行為などに携わる可能性が高いと思われるもの以外のほとんどのドイツ系やイタリア系移民とその子孫は釈放されたが、日系移民についてはその多くが釈放されないままであった[5] 。さらに日系移民だけに対しては、その後不動産や自動車などの私有財産を含む全ての財産の放棄や、強制収容所への長期にわたる収容が行われることとなる。

日本人外交官、駐在員への扱い[編集]

なお、開戦後に日系アメリカ人や日本人移民と同じくアメリカ当局によって抑留された、アメリカとアメリカの影響圏の中南米諸国に在留、駐在していた外交官や大企業の駐在員、宗教関係者や留学生などの日本人は、その後日系アメリカ人や日本人移民に対して行われた強制収容の対象とはならず、アメリカ内陸部の保養地などに「軟禁」され、(あえてアメリカへの残留を望んだ者を除いては)その後1942年から1943年にかけて2回にわたり日米間で運行された交換船により帰国させられた[10]

なおこの際、同じく日本国内とアメリカの植民地であったフィリピンやイギリスの植民地であったマレー半島オランダの植民地であった東インドなどの日本が占領下においていた地域、及びタイ満州国などの日本の同盟国や、朝鮮半島台湾などの日本の植民地に在留、駐在していたアメリカ人外交官や企業駐在員、留学生も、同じく交換船によりアメリカに帰国した。

強制収容の実施[編集]

日系アメリカ人と日本人移民[編集]

アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系アメリカ人

大統領令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。

最終的に同年3月29日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、それ以前に自ら立ち退いた一部の人間を除く多くの日系人は、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により住み慣れた家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館競馬場の馬舎(サンタアニタパーク競馬場もその一つ)であった。

議会ではアメリカ本土の議員(準州であるハワイからの議員はいなかった)から全てのハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の強制収容を支持する声も挙がったが、ハワイでは約1000人以上の日系人と日本人移民と約100人のドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人がアメリカ本土もしくはハワイの8箇所に設置された強制収容所に送られるに留まった[11]

ハワイでは既に戒厳が宣告されており、スパイ行為や破壊行為の抑止は十分できると考えられた為、ハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の大部分は強制収容を免れた。また、ハワイ諸島には、1940年米国国勢調査の時点で全住民の約37.3%に相当する15万7905人の日系人(うち「ネイティブ」即ちハワイもしくは米国内で生まれた者、もしくは米国以外で生まれたが親が米国国籍を持っていた者が12万552人と約76.3%を占めた[12])が住むなど、日系人があまりにも多く、社会が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、強制収容するには現実的に無理があった。

南米諸国の日系人と日本人移民[編集]

戦時交換船(第1次日英交換船の鎌倉丸

日米間における開戦当時、ペルーブラジルメキシココロンビアなどのラテンアメリカ諸国の殆どはアメリカの強い政治、経済、さらに軍事的影響下にあり(モンロー主義)、その殆どが1942年に入ると連合国として参戦するか、もしくは参戦はしないものの連合国よりの政策を取っていた。

そのような中で1942年4月18日に、ペルーの首都リマのアメリカ大使館からジョン・エマーソン書記官(後の駐日在日本特命全権大使)が国務省あてに「ペルーの日系人が危険である」と報告した。

この様な報告を受けて1942年12月から1945年にかけてこれらの中南米諸国家に対して出された、日系人及び日本人移民のアメリカへまたは現地の強制収容要請により、ペルーやボリビアなどの中南米13カ国で、アメリカ合衆国大使館が「日系人社会に影響力がある」という戦争とは関係のない理由で指定する日系人及び日本人移民を現地の国家の警察の協力によって逮捕し、アメリカ海軍の艦艇でアメリカに連行された。「正規の入国手続きを経ていない不法入国」を理由に逮捕し、テキサス州クリスタルシティの移民労働者用のキャンプに強制収容された。一部についてはアメリカ軍兵士の捕虜と戦時交換船により交換された。

また、ブラジルではタカ派のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の独裁体制下で、「ブラジル文化に同化しない」と評された日系ブラジル人に対する弾圧が1930年代を通して進み、アメリカ合衆国の上述のような姿勢と相まって、戦中の日系ブラジル人は非常に厳しい立場に立たされた。

最終的にアメリカ政府は、メキシコとカナダ、南アメリカ諸国に住むのべ13カ国に住む2264人の日系人及び日本人移民をアメリカ国内の強制収容所に強制連行し、そのうち1771人(80%)はペルー移民及びその日系子孫のペルー人であった。

強制収容所[編集]

アマチ強制収容所
ミニドカ強制収容所
アマチ強制収容所の住居内
マンザナー強制収容所内の畑
マンザナー強制収容所内で行われた、収容者のボーイスカウトによるメモリアルデーのパレード
マンザナー強制収容所内で発行された収容者向けの情報誌
合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月)

大統領令9066号の発令以降、上記のように12万313人の日系アメリカ人、つまり日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどのアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アメリカ全土の11か所に設けられた強制収容所に強制収容された。

また、そのほかにも、ニューヨーク州ニューヨークのマンハッタン島の横にあるエリス島に設けられていた移民者収容施設にも、日系人と日本人移民約8,000人が収容された。

なお、最初に開設されたポストン強制収容所は1942年5月に開設された。その後相次いで強制収容所が開かれ、最後に開設されたクリスタル・シティ強制収容所は同年11月に開設された。

所在地[編集]

アメリカ国内における全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、警備員の銃口は常に収容所内部に向けられていた。

  • マンザナーカリフォルニア州(Manzanar、1942年6月開設)
  • ツール・レイク、カリフォルニア州(Tule Lake、1942年5月開設)
  • ポストン、アリゾナ州(Poston、1942年5月開設)
  • ヒラ・リバー、アリゾナ州(Gila River、1942年7月開設)
  • ハート・マウンテン、ワイオミング州(Heart Mountain、1942年8月開設)
  • ミニドカ、アイダホ州(Minidoka、1942年8月開設)
  • トパーズ、ユタ州(Topaz、1942年9月開設)
  • ローワー、アーカンソー州(Rohwer、1942年9月開設)
  • ジェローム、アーカンソー州(Jerome、1942年10月開設)
  • アマチコロラド州(Amache、1942年8月開設)
  • クリスタル・シティー、テキサス州(Crystal City、1942年11月開設/司法省が管轄する拘置所)

施設[編集]

強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場農場病院商店学校教会劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り自由に外部に出ることはできなかった[5]

住居[編集]

強制収容者の住居にあてがわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。

また、家具も粗末なものしかあたえられず、トイレの多くはしきりすらなかった。また、このように衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。

食事[編集]

なお、電気水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中で一部の食料の配給制限が行われているということもあって、日系人の好みに合う食料の調達が難しかった。このことから、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてられていた。特に、アメリカで生産されたの4割が、戦時転住局に買い上げられた年もあった程だった。

一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚養鶏豆腐醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒ワインビールの密造なども盛んだったという[13]

リクリエーション[編集]

また、強制収容者へのリクリエーションとして相撲剣道野球バスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。

ボーイスカウトの団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。

情報伝達手段[編集]

強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。

このように強制収容所内の情報を外部に発信することがほとんどできなかったため、強制収容以前に自ら移転先を確保して立ち退いた日系人の間では「収容所では遊んで暮らせる」との誤解も広まった。当時のアメリカ国内における日系人への迫害の影響から、自ら移転したものの移転先で生計を立てることがままならない者は少なくなかったため、一部には自ら希望して収容所入りするものも現れた[14]

忠誠心調査と分離[編集]

1943年初頭に戦時転居当局はアメリカに対し忠誠心を持った収容者を西海岸から離れた地での住居と仕事を供給する事を目的に、17歳以上の日系アメリカ人収容者に対し「出所許可申請書」と題された忠誠心の調査が行われ[15]、特に

質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?

の2つの質問が、忠誠登録の核となった[16]

しかし、質問27と28は収容所内に混乱を招いた。女性と老人は質問27に困惑し、日本生まれで日本国籍を持つ一世は質問28へ「Yes」と答える事によって無国籍になる事を恐れ[15]、両方の質問に「No-No」と答えざるを得なかった[16]

結果、両方の質問に「Yes」と答えたのは調査対象者の84%となった。両方の質問に「No」と答えた「No-No」は不忠誠と見なされツール・レイク収容所に送られた。「No-No」の中にも天皇崇拝者、強制収容に対する怒りから質問に回答した者、日本が戦争に勝つと信じていた者、慣れてしまうと案外快適な収容所を追い出される事を恐れた者、様々だった。家族で違った回答をしてばらばらになるのを恐れた一世の親に説得された二世もいたという[17]。ちなみに、少数ながら「No-Yes」と答えた者もいたが、その場合も「No-No」と同じ扱いを受けることとなった[18]

1943年2月19日には、ツール・レイク収容所で忠誠登録を強制されたことに反感を持つ17〜8歳の35名の二世が、「徴兵局に登録する意思は全く無い。しかし、日本への送還には何時でも署名する」との抗議文を手渡す為に、管理局までデモ行進を行う、という事件が起きた。これに対し、管理局側は見せしめとして35名を検挙すべく、収容所の近くに駐屯していた約200名にも及ぶ陸軍の一個中隊を派遣することを決め、デモから2日後の2月21日夜に一斉検挙に踏み切った。このこともあってか、ツール・レイク収容所では3000名の二世が、忠誠登録の質問27と28を「No-No」若しくは無回答とした。徴兵に応じたのは僅か59名で、息子が徴兵に応じた家族は、他の収容者から邪険に扱われ、食堂内に「イヌの席」と書いた札を立て、その席で食事をすることを強要された[16]

アメリカ政府が忠誠登録を行ったのには、兵役選考だけではなく、1942年〜46年の5年間で1億9000万ドルにも及んだ戦時転住居の予算を軽減することや、戦時下において、工場や農場では労働力が極度に不足しており、それらを補わせるべく、抑留者の社会復帰を促すことにもあった。いわゆる「危険人物」を野放しにすることは出来ない為、忠誠審査において「Yes」と答えた者だけを仮出所させ、出所した二世たちは中西部ならびに東部の大学に編入学したほか、労働力不足に悩む工場や農場での職を得た[13][16]

1944年7月1日に希望した収容者にアメリカ国籍の放棄の権利を与える「Public Law 405」がフランクリン・D・ルーズベルト大統領の署名により成立すると、5589人の日系アメリカ人がアメリカ国籍を放棄し、その内1327人は終戦後に日本に送還された。多くの者は強制収容に対する怒りや抗議の意味で国籍を放棄したが、終戦後司法省が国外追放の用意を始めると事の重大さに気付いた[19]

アメリカ国籍を放棄した5589人の内、多くのすでに送還された者もふくむ5409人が戦後にアメリカ国籍の回復を願い出た。ウェイン・コリンズ弁護士の尽力により極限的状況においてなされた多くの国籍放棄は無効だと証明され国籍の回復を果たした。1971年にはリチャード・ニクソン大統領によりすべての国籍放棄は無効化された[19]

しかしアメリカ政府により赦されたあとも「No-No」と答えたものや国籍を放棄した者は日系アメリカ人の多くから冷たい目で見られ、一部の「No-No」は自分の過去を恥じ、家族に隠している事もあるという[19]

暴動[編集]

僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキ暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。

著名な収容者[編集]

被害[編集]

財産放棄[編集]

着の身着のままで収容される日系アメリカ人

上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地やなどの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。しかもその後長年に亘り強制収容時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。

なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこの様な措置に対してフランシス・ビドル司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[6] と強く批判している。

財産保全[編集]

なお、強制収容の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収容という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。

また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理、保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、その様なことに成功したのはほんのわずかであった。

アメリカ国内における批判[編集]

日系人の強制収容が開始された当時は、黄色人種に対する人種差別が激しかっただけでなく、上記のように日本軍によるアメリカ本土上陸が危惧されたうえに、その後もアメリカ本土への攻撃や空襲が行われ、さらにアメリカ軍の敗退が続いたためにアメリカ国内で表立って批判する政界や法曹界の者は少なかった。更にこの様な状況下においてもドイツ系やイタリア系は強制収容せず、なぜ日系人だけかという疑問を唱えるものすら殆どいなかった。

カー・コロラド州知事[編集]

そのような状況下で、アマチ収容所が置かれたコロラド州知事ラルフ・ローレンス・カーは、日系アメリカ人および日本人移民に対する内陸部への強制移住こそ賛成したものの、強制収容に対しては「非人道的でありアメリカ憲法違反である」として州知事クラスの政治家として唯一反対の意思を表明し、さらに日系アメリカ人や日本人移民がアマチ収容所に到着した際に地元の反対派が抗議に現れたが、飛行機で現地に飛んで暴力的な行動を止め、日系アメリカ人を受け入れるよう呼びかけた。

しかし、この様な戦時中における日系アメリカ人の基本的権利を保護するという言動が、アメリカ合衆国上院という将来展望も含めたカーの政治生命を絶ったと見られている。実際、カーはこれらの発言を行った同年に行われた1942年の上院議員選挙で、現職の民主党のエドウィン・ジョンソンにわずか4000票という僅差で敗北している。

ライシャワー博士[編集]

日本生まれのハーバード大学東アジア研究学の講師で、開戦直前まで国務省で嘱託職員として勤務していた後の駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワー博士は、1942年3月30日の「ボストン・グローブ」紙で、日系アメリカ人の祖国 (米国) に対する忠誠心を指摘し、日系アメリカ人に対する強制収容政策を批判した[21]

ビドル司法長官[編集]

また、「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、上記のようにその後の行き過ぎた状況を憂慮していたフランシス・ビドル司法長官は、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している[5]

ロバート最高裁判事[編集]

1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J・ロバートも、当時アメリカ政府が日系人および日本人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、その欺瞞表現を批判した。

強制収容の終焉[編集]

帰還命令[編集]

閉鎖されるアマチ強制収容所

1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。これに伴い日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。

「二級市民」扱い[編集]

しかし上記のように仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に亘って強制収容された日系アメリカ人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。

その後も日系アメリカ人は、アメリカ国民であるにもかかわらず、旧敵国である日本にルーツを持つということだけを根拠に1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された(なおドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人はこの様な仕打ちを受けることはなかった)。

その上に、日本との戦争によって、今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果多くの日本人移民が生まれ故郷の日本に戻ることとなった。

アメリカ政府による謝罪と賠償[編集]

日系アメリカ人[編集]

第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領
マンザナー強制収容所内に設けられた慰霊碑

1960年代の公民権法施行以降に広まった、過去のアメリカ政府による差別政策に対する自己批判の動きと、第442連隊戦闘団の一員として第2次世界大戦に従軍、叙勲された、日系アメリカ人初の国会議員であるダニエル・イノウエを始めとする日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動を受け、1976年にジェラルド・R・フォード大統領が強制収容は「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」と公式に発言した。

また、当初は強制収容政策の実施を積極的に支持したものの、その後前言を翻し批判する側に回ったフランシス・ビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。他にも、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のアール・ウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[22][23]

1978年日系アメリカ人市民同盟は謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、償いとして強制収容された日系アメリカ人1人当たり2万5千ドルの賠償、公式に過ちを認め連邦議会による謝罪、強制収容についての正しい歴史教育を行うための基金の設立、の三つを要求した[24]

1980年ジミー・カーター大統領によって「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会英語版」(CWRIC) が強制収容所の実態を調査するために設立された。1983年2月24日に「拒否された個人の正義:日系米人強制収容の記録[25]」と題された467ページの報告書を提出し、強制収容を「軍事的必要性でなく人種差別に基づいた不当な物」と非難し、収容され生存している者約6万人に対し1人当たり2万ドルの補償金を支払う事を合衆国議会に勧告した[26]

1988年ロナルド・レーガン大統領は、「市民の自由法英語版」(日系アメリカ人補償法)に署名することとなり、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行った。また、日系アメリカ人や日本人に対する強制収容についての教育をアメリカ国内の学校で行うために、総額12億5千万ドルの教育基金が設立された[5]

なおレーガン大統領は、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げ、ダッハウの強制収容所付属のフルラッハ衛星収容所解放も行った[27]第442連隊戦闘団に対しては、「諸君はファシズム人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。

1992年には再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた[28]

また2012年6月6日にロサンゼルス郡参事会は、1942年に行われた日系人収容を行うように求める決議を改めて取り下げ[29]、マーク・リドリー・トーマス郡参事は、「この事実を無視し、無解決事件のように扱うことはできない」、「正しいことをするのに遅すぎることはない」と述べた。

日系ペルー人[編集]

またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。それ以外の者はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てを行ってアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。

その後、1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。

史跡保存[編集]

2006年に、アメリカ上下両院はマイク・ホンダ議員等の日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した[30]

記録[編集]

写真家アンセル・アダムスが1943年にマンザナー収容所で日系人の収容所生活の様子などを撮影した写真と随筆集「Born Free and Equal」が、アメリカ議会図書館に収容されている[31]

他の連合国における強制収容[編集]

なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が少ないか多いかによってその対応はまちまちであった。

ブラジル[編集]

強制収容の執行[編集]

ヴァルガス大統領とルーズベルト大統領(1936年/前列)

アメリカの圧力により、日本を含む枢軸諸国の間に1942年に開戦、国交断絶させられたブラジルにおいては、親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖などの日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の命令により、「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人は全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くは内陸部に設けられた強制収容所に収容された。

なお、一部の日本人移民は1942年に運行された戦時交換船で帰国させられたが、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかった。

また、これらの措置に併せて全ての資産は没収、または凍結され、全ての日本語新聞は発行停止処分とされることとなった。強制収容は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。

「勝ち組」と「負け組」[編集]

なお、戦後のブラジルにおいては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇が影響して、日本人移民の間において、日本の敗戦を受け止めた「負け組」と、日本の戦勝を信じる「勝ち組」の間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなった上に、両国の国交が回復し特命全権大使リオ・デ・ジャネイロに赴任した後の1950年代初頭に、大使自らが地方に多かった「勝ち組」に対しての説明を行うに至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。

ペルー[編集]

同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。

アルゼンチン[編集]

1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働大臣であったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。

メキシコ[編集]

メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。

カナダ[編集]

ブリティッシュコロンビア州内陸部に設けられた強制収容所

イギリス連邦の主要構成国かつ連合国の1国であり、アメリカの隣国でもあるカナダにおいても、日系カナダ人に対する財産没収や強制収容が行われた。

日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、さらに1942年初頭にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。

なおこれらの強制収容所に抑留された日系カナダ人は、終戦後4年が経過した1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。

オーストラリアおよび周辺諸国[編集]

同じくイギリス連邦の主要構成国で、太平洋地域における主要連合国であるだけでなく、黄色人種に対する人種差別感情が強いオーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、オーストラリア及びその周辺諸国においては、約4,000人が強制収容された[32]。なお戦後そのほとんどが日本に強制的に送還させられた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ “開戦5年前に日系人収容を検討=F・ルーズベルト大統領覚書”. Yahoo!ニュース. 時事通信 (Yahoo Japan). (2008年12月3日). オリジナル2008年12月7日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20081207092833/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000222-jij-int 
  2. ^ The Munson Report
  3. ^ 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル村田綾子訳(扶桑社 2006年)p.35
  4. ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デイビッド・ハルバースタム金子宣子訳(扶桑社 2006年)p.202
  5. ^ a b c d e f 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
  6. ^ a b c 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
  7. ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.99 学研 2009年 ISBN 4-0560-5611-0
  8. ^ Maki, Mitchell Takeshi and Kitano, Harry H. L. and Berthold, Sarah Megan. Achieving the Impossible Dream. 1999, page 143
  9. ^ a b 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル著 村田綾子訳(扶桑社 2006年)p.28 ISBN 4-594-05121-9
  10. ^ 鶴見俊輔加藤典洋黒川創『日米交換船』ISBN 4-103-01851-8
  11. ^ Inouye seeks study of Isle internment camps as possible historic sites Honolulu Advertiser(英語) 2009年4月23日付
  12. ^ Population. First Series. Number of Inhabitants. Hawaii. CENSUS OF POPULATION AND HOUSING 1940 Census
  13. ^ a b 『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』渡辺正清著(光人社 2003年)p.48
  14. ^ 『祖国へ、熱き心を -東京にオリンピックを呼んだ男-』(高杉良著、新潮文庫2001年)pp.241 - 243 ISBN 4-0618-5149-7
  15. ^ a b A Brief History of Japanese American Relocation During World War II
  16. ^ a b c d 『ヤマト魂 アメリカ・日系二世、自由への戦い』渡辺正清著(集英社 2001年)p.146 - 153
  17. ^ Thomas and Nishimoto, The Spoilage ISBN 0520014189
  18. ^ 小説『ノー・ノー・ボーイ』ジョン・オカダ著/中山容訳(1979年、晶文社、ISBN 4794922884
  19. ^ a b c Tule Lake Inmates Renounce US Citizenship
  20. ^ アンジェラとユリ:パワーって伝染する! Democracy Now!, 2014-06-07
  21. ^ 「ライシャワー自伝」P.143 エドウィン・O・ライシャワー著 文藝春秋刊 1987年
  22. ^ 参考:Brown v. Board of Education (1954): Landmark Case Biography Earl Warren (1891–1974)、2007年1月8日アクセス
  23. ^ 参考:Earl Warren, Michal R. Belknap, 「The Supreme Court Under Earl Warren, 1953-1969 (Chief Justiceships of the Supreme Court)」、出版社 University of South Carolina Press、p.19、ISBN 978-1570035630
  24. ^ History of the Japanese American Citizens League JACL
  25. ^ Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians (1982年12月). “Personal Justice Denied” (英語). U.S. National Park Service. 2011年1月6日閲覧。
  26. ^ 『拒否された個人の正義 : 日系米人強制収容の記録』 ISBN 4-3853-4853-7
  27. ^ Go For Broke National Education Center
  28. ^ Wwii Reparations: Japanese-American Internees
  29. ^ 「LA郡参事会:日系人の収容決議取り消す」羅府新報
  30. ^ Bush To Preserve WWII Internment Camps
  31. ^ Ansel Adams’s Photographs of Japanese-American Internment at Manzanar [1]
  32. ^ 井上ひさしが『黄色い鼠』文藝春秋 1977年で抱腹絶倒の小説にしている。

外部リンク[編集]