極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。
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[編集] 概要
罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて「平和に対する罪[1]」(A級犯罪)でも起訴された。
東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。一方否定論では、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる[2]。
ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の管轄下にあったのとは違い、本裁判はダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われた[3]。
そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判があり、「事後法」や連合国側の戦争犯罪が裁かれない「法の下の平等」がなされていない不備など批判の多い裁判ではあったが、平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価も一部にはある。また、戦前の日本は軍事の意志決定・責任の所在が不明瞭になっていたが、それに対し一応の区切りを与えたことになる[要出典]。
「国際刑事裁判所の歴史」も参照
[編集] 経過
1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて裁判が行われた。昭和3年(1928年)から昭和20年(1945年)即ち満洲事変より太平洋戦争(大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は日本政府が支出した。
連合国(戦勝国)からの判事としてはイギリス、イギリス領インド帝国、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フィリピン、ソ連の11か国が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。
1946年5月3日より審理が開始し、当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる(木戸幸一日記、8月29日付[4])。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。 さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。1946年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。
また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている[5]。 なお、裁判で証言を行った満州帝国皇帝の溥儀は、ソ連により連合国側の証人として出廷したが、自らの身を守るために偽証を行い、関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたことを後に自らの著作で明らかにしている[6]。
1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・F・ウエップは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという[7]。
イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とフィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。
一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事はこの裁判が国際法からみて問題があるという少数意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。
7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮の誕生日(現天皇誕生日)であったので、見せしめのためとの意見もある。
[編集] 裁判官・判事
- ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長。連邦最高裁判所判事[8]。
- マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣)- 陸軍省法務総監。ジョン・P・ヒギンズから交代。
- ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)- スコットランド刑事上級裁判所判事
- イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 最高裁判所判事。陸大法学部長
- アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)- 軍事法廷主席検事
- 梅汝敖(中華民国派遣) - 立法院委員長代理。イェール大学ロー・スクール学位取得者だが、法曹経験はなかった。
- ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - ユトレヒト司法裁判所判事
- E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)- ケベック州裁判所判事。
- エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)- 最高裁判所判事。
- デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン共和国派遣) - 司法長官。最高裁判所判事。日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張[9]。
- ラダ・ビノード・パール(イギリス領インド帝国派遣) - カルカッタ高等裁判所判事。東京裁判では平和に対する罪と人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張。
[編集] 検察官
- ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官
- 向哲濬(中華民国派遣)
- アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官
- S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
- アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)
- ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)
- ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)
- W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)
- ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)
- ゴビンダ・メノン(イギリス領インド帝国派遣)
- ペドロ・ロペス(フィリピン共和国派遣)
[編集] 被告人
詳細は「A級戦犯#極東国際軍事裁判に起訴された被告人」を参照
[編集] 弁護人
ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが[10]、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった[11]。
1946年(昭和21年)4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン•ガイダーほか六名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)らが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした[12]。
[編集] アメリカ人弁護団
- 陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)
- 陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)
- ジョージ・ヤマオカ(東郷担当)
- ウィリアム・ローガン(木戸担当)
- オーウェン・カニンガム(大島浩担当)
- アリスティディス・ラザラス(畑担当)
- デイヴィッド・スミス(広田担当)、
- ローレンス・マクマナス(荒木担当)
- E・ハリス(橋本担当)
- ジョージ・ウィリアムズ(星野担当)
- フロイド・マタイス(板垣、松井担当)
- マイケル・レヴィン(賀谷興宣、鈴木担当)
- ジョゼフ・ハワード(木村担当)
- アルフレッド・ブルックス(小磯、南、大川担当)
- ロジャー・コール(武藤担当)
- ジェイムズ・フリーマン(佐藤担当)
- ジョージ・A・ファーネス(重光担当)
- エドワード・マクダーモット(嶋田担当)
- チャールズ・コードル(白鳥担当)
- ジョージ・ブルウェット(東條担当)
[編集] 日本人弁護団
日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎、高柳賢三、三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加していた。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった[13]。
[編集] 起訴方針と訴因
東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[14]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[15]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[16]。
このような起訴方針についてオランダ、フィリピン、中国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。
東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた[17]。
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[18]。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[19]。
詳細は「人道に対する罪」を参照
[編集] イギリスの即決処刑論
イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともと英国は、1944年9月以来、ナチ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。英国は、裁判方式は長期化するし、またナチに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった[20]。結局英国は、1945年5月に、ナチ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、英政府自治省および英連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、英国は1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任する[21]。
のち、ニュルンベルク裁判所がロンドン協定という国際協定で設置されたのに対して、極東裁判所はマッカーサーがJCS1512指令およびSWNCC57/3指令に基づいて設置されたもので、アメリカによる主導性が強かった。
[編集] 天皇起訴論と不起訴論の対立
オーストラリアは戦前、対日恐怖および対日嫌悪の感情も強いこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった[22]。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた[23]。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べた。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き[24]、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された[25]。
アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに1946年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった[26]。なお、ニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した[27]。
なお、ソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定している[28]。
1946年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」として合意された[29]。
[編集] 判決
詳細は「A級戦犯#判決」を参照
判決では、絞首刑 7人、終身刑 16人、有期禁固刑 2人、訴追免除 1人となった。判決前に病死2人。
[編集] 評価
第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年(昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の二つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や[30]、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある[31]。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている[32]。
極東国際軍事裁判は戦勝国が敗戦国を裁くという構図だったため、その評価については議論の対象になることが多い。訴因の一つは平和に対する罪であり、日本が開戦したことに対する非難だったが、指揮を執っていたダグラス・マッカーサー司令官自身が日本の戦争の理由を、資源の乏しかった日本が輸入規制等により包囲され、何千万、何百万という国民が失業に陥ることを恐れて行った安全保障であったと証言している[33]。
他方、この裁判では原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかった。こうした欠陥の多さから、東京裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。
アメリカの外交政策で重要な役割(日本に対しても、を含む。)を果たし、ソ連「封じ込め政策」を唱えた事で有名なジョージ・ケナンは、やはり否定的な意見を述べている。ただし、彼によると、この裁判の底に流れている正義や公平を理解する能力が、日本人にはない、というのが、その主な理由であった[34]。
また、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った"平和主義"を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」[7]として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)[35]。
[編集] ニュルンベルク裁判との違い
同時期にドイツが舞台となったニュルンベルク裁判では同国の法曹関係者の大半が裁判に(裁く側にも)協力している[要出典]が、極東国際軍事裁判では日本の法曹関係者の裁判への協力は行われていない[36]。なぜ協力が行われなかったかについては日本の法曹関係者の関与が広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下をめぐる処理を複雑化し、連合国、特にアメリカ合衆国にとっては望ましくない影響をもたらす可能性があったからだとも考えられている。
さらに、ドイツでは軍人ではなくナチス党員の政治家や官僚を中心として戦争が進められたとした「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされた。しかし彼らの中には互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれており、また日本では一連の戦争中でも陸海軍間の対立など、常に政治的な確執が内在していた[37]。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。
このため日本ではドイツにおけるニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、日本における極東国際軍事裁判については戦勝国の報復という意見や日本側の非協力の結果という意見など批判的意見が多く見られる。なお、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては研究が続けられており、今のところ結論が確定するには至っていない。
[編集] 裁判の公平性
具体的な研究としては裁判の公平性に関して次のような論説がある。
- 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された[38]。
- 判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。[39]
- 条例で定めているはずの日本語通訳が弁護人陳述中、途中で打切られることがあり速記録にさえ残らなかった。
- また、日本語通訳の能力不足から、通訳が適切に行われないことも多かった。
被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している[7]。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している[7]。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている[40]。
判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝敖判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している[41]。
A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介・笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、今日に至るまで「A級戦犯」と呼ばれる例が少なからず見受けられる。[42]こうした用語法は、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
[編集] 判事の見解
イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。
ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」[43]と東京裁判の問題点を指摘した。
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている[44]。
[編集] 欧米における議論
ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。
また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえたマッカーサーは、後にトルーマン大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と訴えたといわれる。
GHQは日本に於(お)いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。
[編集] サンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」
なお、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条においては「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により占領政策の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。
しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の立場を取っている[45](「裁判の受諾」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることが多いが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある)。
日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ[46]、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
2005年にアメリカ下院は、下院決議をおこない、現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)。しばしば誤解されているが極東軍事裁判では「人道に対する罪」で起訴された被告はいないため、決議における「極東国際軍事裁判の決定」と「“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決」は別の対象をさしている。
[編集] この裁判を扱った主な作品
[編集] 小説
- 豊田穣 『小説・東京裁判』 講談社 ISBN 4062005484
- 松本清張 『砂の審廷 小説東京裁判』 ちくま文庫 ISBN 4480424636
- 山崎豊子 『二つの祖国』 新潮文庫上中下巻 のち新潮社版『全集16~18巻』
[編集] 映画
- 『大東亜戦争と国際裁判』(1959年)
- 『東京裁判』(1983年 ドキュメンタリー)
- 『プライド・運命の瞬間』(1998年)
- 『私は貝になりたい』(1959年、2008年)
[編集] テレビ
- 『私は貝になりたい』(1958年 TBSの前身『ラジオ東京テレビ』で放映されたテレビドラマ)
- 『日本の戦後 審判の日 極東国際軍事裁判』(1977年)
- 『山河燃ゆ』(1984年 山崎豊子『二つの祖国』を原作にしたNHK大河ドラマ)
[編集] 漫画
- 小林よしのり 『いわゆるA級戦犯』幻冬舎
[編集] 脚注
- ^ 極東国際軍事裁判では「平和に対する罪」で有罪になった被告は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告は7名いるが人道に対する罪(C級犯罪)は訴因において「通常の戦争犯罪および人道に対する罪」として言及されてはいたものの、実際には「人道に対する罪」で起訴された被告はいない。
- ^ 日暮吉延『東京裁判の国際関係ー国際政治における権力と規範ー』序章、第1章 木鐸社 2002年
- ^ 太平洋戦争研究会 『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争 - 太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて -』 太平洋戦争研究会、日本文芸社(原著2005年7月29日)、初版、106頁。ISBN 9784537253009。
- ^ “戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織等の論を呼起すの虞れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。”
- ^ 終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判アサヒコム
- ^ 「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ 朝日新聞 2006年12月17日
- ^ a b c d 『東京裁判の教訓』 18-20・212-214・249頁。
- ^ 以下、経歴は日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,228頁
- ^ 永井均「日本・フィリピン関係史における戦争犯罪問題――フィリピンの東京裁判参加をめぐって」池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年。和解と忘却 戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影(1)中野聡(『思想』2005年12月号所収論文増補)
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,161頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,161-3頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,165頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,157-161頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,113頁
- ^ 日暮吉延,113頁
- ^ 日暮吉延,113頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,116頁、同『東京裁判の国際関係』(木鐸社、2002年)
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,118頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,116頁、同『東京裁判の国際関係』(木鐸社、2002年)
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,64頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,68頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,65頁
- ^ 同書66頁
- ^ 同書67頁
- ^ 同書72頁
- ^ 同書73頁
- ^ 同書73頁
- ^ 同書99頁。アレクセイ・キリチェンコ「東京裁判へのクレムリン秘密指令」『正論』2005年7月号
- ^ 同書74頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,22頁
- ^ 「戦争犯罪と法」多谷千賀子著 岩波書店
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,23頁
- ^ http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2004/maca/01/MacArthur57.html
- ^ ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 下巻』、265-66・467ページ(岩波書店、2001年)、のち新版刊
- ^ 半藤一利 『昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989』 平凡社(原著2006年4月11日)。ISBN 9784582454345。
- ^ 被告側弁護人としては弁護団の団長の鵜澤總明弁護士、清瀬一郎や瀧川政次郎らが参加していた。
- ^ 被告の賀屋興宣は、「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」(児島襄『東京裁判』〈上〉119貢)より。
- ^ 満州は日本の侵略ではない / 渡部昇一 web-will
- ^ 小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫、新版・ちくま学芸文庫)
- ^ 海軍反省会の証言に残されている。
- ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)、翌年に文藝春秋新社刊。
- ^ John Dower, Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (New York: W.W. Norton, 1999, p.562; Franziska Seraphim, War Memory and Social Politics in Japan, 1945-2005 (Cambridge, MA: Harvard University Asia Center, p. 21.
- ^ 児島襄『東京裁判』〈上〉119貢)
- ^ NHKスペシャル『パール判事は何を問いかけたのか』 2007年8月14日放送。
- ^ 「重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。」 『平成17年06月02日参院外交防衛委員会政府参考人林景一答弁』
- ^ 『靖国論集 新版』(近代出版社、2004年)ISBN 4907816146
[編集] 参考文献
- 清瀬一郎『秘録東京裁判』(新版 中公文庫BIBLIO)
- 瀧川政次郎『東京裁判をさばく』 (新版 慧文社)
- 児島襄『東京裁判 上・下』(中公新書、新版 中公文庫)
- 冨士信夫『私の見た東京裁判 上・下』(講談社学術文庫)
- 小堀桂一郎編・解説『東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋』(講談社学術文庫、1995年)
- 新版『東京裁判 幻の弁護側資料―却下された日本の弁明』(ちくま学芸文庫 2011年8月)
- 佐藤和男 監修『世界がさばく東京裁判』(明成社)
- 菅原裕『東京裁判の正体』(国書刊行会)
- 渡部昇一『「東京裁判」を裁判する』 (致知出版社)
- 渡部昇一 『パル判決書の真実―いまこそ東京裁判史観を断つ』(PHP研究所)
- 『東京裁判パル判決書の真実―なぜ日本無罪を主張したのか』 (太平洋戦争研究会編、PHP研究所)
- 平塚柾緒・太平洋戦争研究会編 『東京裁判の全貌』(河出文庫)
- 元版 『図説 東京裁判』 (<ふくろうの本> 河出書房新社)
- 『東京裁判はなにを裁いたのか <別冊歴史読本95>』(新人物往来社、2008年)
- 保阪正康『東京裁判の教訓』(朝日新書:朝日新聞出版)ISBN 9784022732200
- 半藤一利、保阪正康、井上亮 『「東京裁判」を読む』 (日本経済新聞出版社、2009年)
- 竹内修司 『創られた「東京裁判」』(新潮選書:新潮社、2009年)ISBN 4106036452
- 牛村圭 『「文明の裁き」をこえて 対日戦犯裁判読解の試み』(中公叢書:中央公論新社)
- 『再考「世紀の遺書」と東京裁判―対日戦犯裁判の精神史』(PHP研究所、2004年)
- 『勝者の裁きに向きあって 東京裁判をよみなおす』(ちくま新書、2004年)
- 日暮吉延 『東京裁判』(講談社現代新書)
- 牛村圭、日暮吉延 『東京裁判を正しく読む』 (文春新書)
- アーノルド・C・ブラックマン、日暮吉延訳『東京裁判―もう一つのニュルンベルク』(時事通信社) ISBN 4788791277
- R・H・マイニア、安藤仁介訳『東京裁判―勝者の裁き』福村出版 ISBN 457131003X
- B・V・A・レーリンク & A・カッセーゼ、小菅信子訳 『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望』
(新曜社 ISBN 478850569X / 中公文庫、2009年) - 東京裁判研究会編 『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫 上・下) ISBN 4061586238、ISBN 4061586246
- ラダ・ビノード・パール 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』中村粲監修、(国書刊行会、1999年)、ISBN 4336041105
- 東京裁判資料刊行会 『東京裁判却下未提出弁護側資料』 国書刊行会、1995年
(第1巻~4巻組) ISBN 4336036810、(第5巻~8巻組) ISBN 4336036829 - 戸谷由麻『東京裁判 第二次大戦後の法と正義の追求』 みすず書房、2008年
- 武田珂代子『東京裁判における通訳』 みすず書房、2008年
- 粟屋憲太郎『東京裁判への道』上・下、講談社選書メチエ、2006-07年
- 中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』 白水社、2007年
[編集] 文献情報
[編集] 関連項目
- 戦争犯罪
- A級戦犯
- BC級戦犯
- ニュルンベルク裁判
- ハバロフスク裁判
- 日本の戦争犯罪
- アメリカの戦争犯罪
- 法の不遡及
- 広田判例
- プレスコード
- 日本における検閲
- ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
- 太平洋戦争史観
- 連合国軍占領下の日本
- 白菊遺族会 - 戦犯者の遺族の会
- 世紀の遺書
[編集] 外部リンク
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