極東国際軍事裁判

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裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂
公判中の法廷内

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、The International Military Tribunal for the Far East)は、第二次世界大戦日本降伏した後の1946年昭和21年)5月3日から1948年昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。

概要[編集]

この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した[1]「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて[1]行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪[2](C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。これらの被告人を日本では「A級戦犯」と呼ぶことが多い。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgments[3]を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している[4]。しかし民間や公的な場でもしばしば論争が行われ、いわゆる日本の歴史認識問題においては重要な争点の一つとなっている。

経過[編集]

前史[編集]

イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった[5]。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任する[6]。この間アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年9月17日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始されている。

1946年昭和21年)1月19日、ニュルンベルク裁判の根拠となった国際軍事裁判所憲章を参照して極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められた[7]。1946年(昭和21年)4月26日に一部改正が行われた。

裁判[編集]

起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われた。当初55項目の訴因があげられたが、最終的に10項目の訴因にまとめられた。5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。

ウィリアム・F・ウエップ裁判長
判事席

連合国のうち、イギリスアメリカ中華民国フランスオランダソ連の7か国と、イギリス連邦内の自治領であったオーストラリア[8]ニュージーランドカナダ[9]、そして当時独立のためのプロセスが進行中だったインド[10]フィリピン[11]が判事を派遣した。

しかし裁判の進行は遅く、ニュージーランドの判事や検事は検察のおよび裁判長の運営方法が問題であるとして辞意を示している[12]

判決[編集]

1948年(昭和23年)11月4日判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・ウェブは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという[13]。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。

イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とフィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。

一方、オランダとフランス、インド連邦の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。インド連邦の判事は「この裁判が国際法からみて問題がある」という少数意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが、法廷で読み上げられることはなかった。

7人の絞首刑死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書[14]で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。

裁判の終了[編集]

一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年1月、ニュージーランドは1948年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の戦犯裁判継続はほとんど意味がないという見解を示していた[15]。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の1949年6月30日をもって裁判を修了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の戦犯裁判は行うべきではないという見解を示した[16]。7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は1949年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった[17]。この協議中の11月12日に判決が出、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。1949年2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した[18]。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された[19]

法的根拠[編集]

裁判所設立の法的根拠はポツダム宣言の第10項、1946年1月19日に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が発した極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言、同日に公表された極東国際軍事裁判所条例に基づく[7]。極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言は、ポツダム宣言および降伏文書、1945年12月26日のモスクワ会議英語版によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく[20]

極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治にさいしてハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し[21]、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる[22]。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。

なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、実定法上の根拠がない「事後法」により訴訟が提起され、また連合国側の戦争犯罪は裁かれず「法の下の平等」がなされていない問題があり、よってこの「裁判」は政治的権限によって行われた報復であるとの批判がある[誰?]

裁判関係者[編集]

裁判官・判事[編集]

  • ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長。連邦最高裁判所判事[23]
  • マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣)- 陸軍省法務総監。ジョン・P・ヒギンズから交代。
  • ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)- スコットランド刑事上級裁判所判事
  • イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 最高裁判所判事。陸大法学部長
  • アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)- 軍事法廷主席検事
  • 梅汝璈(中華民国派遣) - 立法院委員長代理。イェール大学ロー・スクール学位取得者だが、法曹経験はなかった。
  • ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - ユトレヒト司法裁判所判事
  • E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)- ケベック州裁判所判事。
  • エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)- 最高裁判所判事。
  • ラダ・ビノード・パール(インド派遣) - カルカッタ高等裁判所判事。判事の中では唯一の国際法の専門家であった。東京裁判では平和に対する罪人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張。
  • デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン派遣) - 司法長官。最高裁判所判事。日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張[24]

検察官[編集]

  • ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官
  • 向哲濬(中華民国派遣)
  • アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官
  • S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
  • アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)
  • ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)
  • ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)
  • W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)
  • ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)- 裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、1947年末に帰国している[25]
  • ゴビンダ・メノン(インド派遣)
  • ペドロ・ロペス(アメリカ領フィリピン派遣)

被告人[編集]


弁護人[編集]

ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが[26]、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった[27]

1946年昭和21年)4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか六名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)らが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした[28]

アメリカ人弁護団[編集]

日本人弁護団[編集]

日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎高柳賢三三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加した「極東国際軍事裁判日本弁護団」が結成された[7]。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった[29]

証人[編集]

著名な証人の一人に前満州国皇帝愛新覚羅溥儀がいる。溥儀は終戦後に身柄を確保したソ連により連合国側の証人として出廷したが、自らの身を守るために偽証を行ったことを自伝で明らかにしている。溥儀はこの中で、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を、日本側によるものだと主張し、関東軍将校の吉岡安直などに罪をなすりつけたことなどをあげている。また自らの偽証が日本の行為の徹底的な解明を妨げたとして、「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と回想している[30]

起訴方針と訴因[編集]

極東国際軍事裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[31]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[31]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[31]

このような起訴方針についてオランダ、中華民国、フィリピンは「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での日本軍による行為を追加させた。

極東国際軍事裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた[32]

当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリアドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた。

  • 訴因1 - 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議
  • 訴因27 - 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争
  • 訴因29 - 米国に対する侵略戦争
  • 訴因31 - 英国に対する侵略戦争
  • 訴因32 - オランダに対する侵略戦争
  • 訴因33 - 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争
  • 訴因35 - ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
  • 訴因36 - ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
  • 訴因54 - 1941年12月7日~1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反
  • 訴因55 - 1941年12月7日~1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反

ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[33]。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[32]

昭和天皇の訴追問題[編集]

オーストラリア[34]など連合国の中には昭和天皇の訴追に対して積極的な国もあった。

白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった[35]。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた[36]。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。1945年8月14日に連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した[37]。1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは対日理事会国際検察局に参考として送られるにとどまった[38]。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き[39]、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された[40]

アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに1946年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった[41]。なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した[41]。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定している[42][43]

1946年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された[44]。4月8日、オーストラリア代表の検事マンスフィールドは天皇訴追を正式に提議したが却下され、以降天皇の訴追は行われなかった[38]

海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。1946年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている[45]

昭和天皇自身は「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる(木戸幸一日記、8月29日付[46])。

評価[編集]

被告席

日本政府は「日本国との平和条約」11条により、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の「裁判」を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっており[4]、公式にこの裁判を否定したことはない。ただし民間や個人の政治家はこの裁判において様々な評価をしており、論争が行われることもある。

首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは冒頭陳述において、この裁判を「文明の断乎たる闘争」の一部であると評した[47]。これに基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。一方否定論では、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる[48]

共同謀議論への批判[編集]

またニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年昭和3年)から1945年昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。

しかしナチス・ドイツ体制は総統であるアドルフ・ヒトラー指導者原理に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたが、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった大政翼賛会は対立していた旧政党が合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。また陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。この状況を被告であった賀屋興宣は、「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している[49]。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。

裁判の公平性[編集]

裁判の公平性に関して次のような証言や事例がある。

被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している[13]。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している[13]。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ英語版准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている[50]

判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝璈判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の公用語である日本語英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している[51]

A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる[52]。こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。

またこの裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義法の不遡及が保証されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い[要出典]。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。

事後法の観点[編集]

第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の二つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や[53]、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある[54]。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている[55]

判事の見解[編集]

イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。

ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」[56]東京裁判の問題点を指摘した。

オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている[57]

欧米における議論[編集]

ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。

また、当時の日本統治を担当し裁判の事実上の主催者ともいえたマッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日、ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」、「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。なお、ダグラス・マッカーサーの、1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会においての発言、「They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(資源の乏しかった日本が輸入規制等により包囲され、何千万、何百万という国民が失業に陥ることを恐れて行った安全保障であった)[58]を持ってマッカーサーが日本の自衛的側面を認めたする向きがあるが[59]、実際の発言の趣旨は「戦争に向かっていく理由は、主として治安(失業者対策)のためであった。」であり自国経済の利益(失業者大発生回避)を目的とした戦争であったとの見解を示した物である。

個人の評者[編集]

アメリカの外交政策で重要な役割(日本に対しても、を含む)を果たし、ソ連「封じ込め政策」を唱えた事で有名なジョージ・ケナンは、やはり否定的な意見を述べている。ただしケナンによると、「この裁判の底に流れている正義や公平を理解する能力が日本人にはない」、というのが、その主な理由であった[60]

また左派勢力からは、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」[13]として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)[61]。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という[62]宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した[63]

反「自虐史観」論者による「東京裁判史観」批判[編集]

秦郁彦によると、1970年代に入った頃から「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めたという[64]。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという[65]。秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している[66]

これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。

  • 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された[67]
  • 判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。[68]

またこれらの論者はGHQは占領下の日本に於(お)いてプレスコードなどを発して徹底した検閲言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、とも主張している。

秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている[69]

  1. 侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。
  2. 「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。
  3. 講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。
  4. 二次的所産の歴史観を批判の対象とする。

サンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」[編集]

日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条においては「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により占領政策の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。

しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の立場を取っている[70](「裁判の受諾」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることが多いが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある)。

戦犯の「赦免」問題[編集]

日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ[71]、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。また収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名[72]は、1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放されている[73]

2005年にアメリカ下院は、下院決議をおこない、現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)。しばしば誤解されているが極東軍事裁判では「人道に対する罪」で起訴された被告はいないため、決議における「極東国際軍事裁判の決定」と「“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決」は別の対象をさしている。

この裁判を扱った主な作品[編集]

小説[編集]

昭和59年NHK大河ドラマ山河燃ゆ』の原作

映画[編集]

テレビ[編集]

  • 『私は貝になりたい』(1958年 TBSの前身『ラジオ東京テレビ』で放映されたテレビドラマ
  • 『日本の戦後 審判の日 極東国際軍事裁判』(1977年)
  • 山河燃ゆ』(1984年 山崎豊子『二つの祖国』を原作にしたNHK大河ドラマ

漫画[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 『極東国際軍事裁判公判記録. 第1 検事側総合篇』。NDLJP:1079047、極東高裁裁判起訴状。24項
  2. ^ 極東国際軍事裁判では「平和に対する罪」で有罪になった被告は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告は7名いるが人道に対する罪(は訴因において「通常の戦争犯罪および人道に対する罪」として言及されてはいたものの、実際には「人道に対する罪」で起訴された被告はいない。
  3. ^ 日本外務省の訳[1]では「裁判」
  4. ^ a b 問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。
  5. ^ 日暮吉延 2008, pp. 64.
  6. ^ 日暮吉延 2008, pp. 68.
  7. ^ a b c 13.極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について
  8. ^ 1901年の連邦成立で実質的には独立している
  9. ^ 1926年に独自外交権を取得
  10. ^ 裁判開始時点ではイギリス領インド帝国であったが裁判中の1947年にインド連邦として事実上の独立
  11. ^ 裁判開始時点ではアメリカ領フィリピンの独立準備政府であるフィリピン・コモンウェルス英語版。裁判中の1946年7月4日に独立し、第三共和国政府となっている。
  12. ^ 林博文 2013, pp. 57.
  13. ^ a b c d 『東京裁判の教訓』 18-20・212-214・249頁。
  14. ^ 『ジミーの誕生日-アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』文藝春秋(2009年11月)
  15. ^ 林博文 2013, pp. 58.
  16. ^ 林博文 2013, pp. 59.
  17. ^ 林博文 2013, pp. 60.
  18. ^ 林博文 2013, pp. 63.
  19. ^ 林博文 2013, pp. 65.
  20. ^ 『極東国際軍事裁判公判記録. 第1 検事側総合篇』。NDLJP:1079047、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言
  21. ^ 「近代日本に於る参審の伝統」石田清史(苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11)P.61[2]
  22. ^ 石田清史「近代日本に於る参審の伝統」 P.61
  23. ^ 以下、経歴は日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,228頁
  24. ^ 永井均「日本・フィリピン関係史における戦争犯罪問題――フィリピンの東京裁判参加をめぐって」池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年。和解と忘却 戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影(1)中野聡(『思想』2005年12月号所収論文増補)
  25. ^ 林博文 2013, pp. 57-58.
  26. ^ 日暮吉延 2008, pp. 26、161.
  27. ^ 日暮吉延 2008, pp. 161-163.
  28. ^ 日暮吉延 2008, pp. 26、165.
  29. ^ 日暮吉延 2008, pp. 26、157-161.
  30. ^ 「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ 朝日新聞 2006年12月17日
  31. ^ a b c 日暮吉延 2008, pp. 113.
  32. ^ a b 日暮吉延 2008, pp. 116.
  33. ^ 日暮吉延 2008, pp. 26,118.
  34. ^ 林博文 2013, pp. 56.
  35. ^ 日暮吉延 2008, pp. 65.
  36. ^ 日暮吉延 2008, pp. 66.
  37. ^ 林博史 2004, pp. 65.
  38. ^ a b 林博史 2004, pp. 67.
  39. ^ 日暮吉延 2008, pp. 67.
  40. ^ 日暮吉延 2008, pp. 72.
  41. ^ a b 日暮吉延 2008, pp. 73.
  42. ^ 日暮吉延 2008, pp. 99.
  43. ^ アレクセイ・キリチェンコ「東京裁判へのクレムリン秘密指令」『正論』2005年7月号
  44. ^ 日暮吉延 2008, pp. 74.
  45. ^ 終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判アサヒコム
  46. ^ “戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織等の論を呼起すの虞れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。”
  47. ^ 牛村圭「東京裁判と戦後日本. ———さまざまな言説を検討する———」、1p
  48. ^ 日暮吉延『東京裁判の国際関係ー国際政治における権力と規範ー』序章、第1章 木鐸社 2002年
  49. ^ (児島襄『東京裁判』〈上〉119貢)より。
  50. ^ 海軍反省会の証言に残されている。
  51. ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)、翌年に文藝春秋新社刊。
  52. ^ John Dower, Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (New York: W.W. Norton, 1999, p.562; Franziska Seraphim, War Memory and Social Politics in Japan, 1945-2005 (Cambridge, MA: Harvard University Asia Center, p. 21.
  53. ^ 日暮吉延 2008, pp. 22.
  54. ^ 「戦争犯罪と法」多谷千賀子著 岩波書店
  55. ^ 日暮吉延 2008, pp. 23.
  56. ^ 児島襄『東京裁判』〈上〉119貢)
  57. ^ NHKスペシャルパール判事は何を問いかけたのか』 2007年8月14日放送。
  58. ^ マッカーサー米議会証言録(web版正論
  59. ^ 『東京裁判 日本の弁明』小堀桂一郎編・解説
  60. ^ ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 下巻』、265-66・467ページ(岩波書店、2001年)、のち新版刊
  61. ^ 半藤一利 『昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989』 平凡社(原著2006年4月11日)。ISBN 9784582454345
  62. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮社、2012年、134頁。ISBN 4-10-610465-7
  63. ^ 橋爪大三郎; 大澤真幸; 宮台真司 『おどろきの中国』 講談社〈講談社現代新書〉、2013年2月、283-284頁。ISBN 978-4-06-288182-1 
  64. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮社、2012年、132頁。ISBN 4-10-610465-7
  65. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮社、2012年、133頁。ISBN 4-10-610465-7
  66. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮社、2012年、135-136頁。ISBN 4-10-610465-7
  67. ^ 満州は日本の侵略ではない / 渡部昇一 web-will
  68. ^ 小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫、新版・ちくま学芸文庫
  69. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』 新潮社、2012年、133-137頁。ISBN 4-10-610465-7
  70. ^ 「重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。」 『平成17年06月02日参院外交防衛委員会政府参考人林景一答弁』
  71. ^ 『靖国論集 新版』(近代出版社、2004年)ISBN 4907816146
  72. ^ 獄中で病死した東郷茂徳を除く。
  73. ^ 昭和32年度外交青書

参考文献[編集]

  • 林博史「連合国戦争犯罪政策の形成 : 連合国戦争犯罪委員会と英米(下)」、『自然・人間・社会』第37巻、関東学院大学経済学部教養学会、2004年7月、 1-42頁、 NAID 40006431975

文献情報[編集]

  • 「現代国際法社会における東京裁判の意義」斉藤洋(東洋法学 2007-10-15)[3][4]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]