小野田寛郎

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小野田 寛郎
Hiroo and shigeo onoda 1944.jpg
見習士官陸軍曹長)当時の小野田(右)
弟の滋郎(陸軍少尉)と1944年12月頃撮影(22歳)
生誕 1922年3月19日
日本の旗 日本 和歌山県海草郡亀川村(現・海南市
死没 2014年1月16日(満91歳没)
日本の旗 日本 東京都中央区
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1942 - 1945
(ただし 1974年まで戦闘を継続)
最終階級 予備陸軍少尉
除隊後 小野田牧場経営
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小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年3月19日 - 平成26年(2014年1月16日)は、日本陸軍軍人実業家。最終階級予備陸軍少尉旧制海南中学校久留米第一陸軍予備士官学校陸軍中野学校二俣分校卒。

情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。

旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国漢口支店勤務となり中国語を習得。

なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し兵科将校(陸軍少尉)となる等、これら兄弟は何れも現役の陸軍将校であった。

軍歴[編集]

当時の小野田寛郎

上海の商事会社で働いていた昭和17年(1942年)12月、満20歳のため徴兵検査徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時61i本隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵として入営。同時に61i留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、218iにて従軍中に甲種幹部候補生予備役将校を養成)を志願しこれに合格、昭和19年(1944年)1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。11月に事実上の卒業後、見習士官陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。

同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その8D長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている[1]。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)[2]

同月31日、ルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、昭和20年(1945年)2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に撃破され山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

日本敗戦後[編集]

昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(昭和24年9月逃亡昭和25年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(昭和29年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(昭和47年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では昭和20年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

使用した武器は九九式短小銃三八式歩兵銃軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質ビタミンミネラルを効率良く摂取していた。

また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカ傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。

また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

1974年帰国[編集]

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。昭和49年(1974年)に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。3月9日にかつての上官である谷口義美陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。

帰国以前[編集]

  • 1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
  • 1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定なため救出活動は行えず。
  • 1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
  • 1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
  • 1959年(昭和34年)12月11日 - 戸籍法89条に基づいて厚生省引上援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。
  • 1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。
  • 1972年1月 - アメリカグアム島横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
  • 1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に小塚金七元一等兵が射殺される。
  • 1972年10月22日 - 25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知し、また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
  • 1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録[3]

帰国後[編集]

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった心無い批判もあった。

小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。陛下との会見も断り(万が一、陛下が謝罪するようなことを避けるため)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。

ブラジル移住、晩年[編集]

2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった(マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあった)。帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復していた。バブル景気の頃には日本での活動の拠点として購入した東京のマンションが暴騰し、ブラジルで築いた財産以上の資産価値になったことで、日本経済の行く末についても危機感を持ったと伝えられる。

2010年7月当時東京都中央区佃在住だった[4]

愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した[5]

保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している[6]。また、政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、田母神俊雄航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った[7]。その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した[8]

その他エピソード[編集]

戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」 。命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという[9]

また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている(合気道の開祖である植芝盛平も、満州馬賊の襲撃を受けた際に同様の体験をしたと語っている)。

評価[編集]

中華人民共和国ウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」、「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」、「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった。反日的な意見が多い当該サイトの書き込み欄では異例の反応であった[10]

小野田の手記『わがルバング島の30年戦争』(1974年)のゴーストライターであった作家の津田信は、『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』(1977年)において小野田を強く批判している。小野田が島民を30人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化出来ない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」をおそれたことが原因であると主張している[11]

小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズ紙は、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」とし、小野田が1974年3月に当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容し論評した[12][13]。また、ワシントン・ポスト紙も、「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」とし、多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と論評した[13]

栄典・称号[編集]

テレビ出演[編集]

小野田寛郎を題材にした楽曲[編集]

イギリスプログレッシブ・ロックバンド、キャメル1981年に"Nude"(邦題:『ヌードの物語 〜Mr. Oの帰還〜』)というコンセプトアルバムを発表している[16]

著書[編集]

  • 『わがルバン島の30年戦争』(講談社, 1974年) - 津田信が代筆(ゴーストライター)したところもあるとされている(津田信が主張)。
  • 『戦った、生きた、ルバン島30年 少年少女におくるわたしの手記』(講談社,1974年
  • 『わがブラジル人生』(講談社,1982年
  • 『子どもは野性だ ルバング島30年』(学習研究社, 1984年)(『鈴木健二のお父さん子どもに野性を贈ろう』と同じISBN)
  • 『子どもは風の子、自然の子-『ジャングルおじさん』の自然流子育て』(講談社,1987年
  • 『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』(朝日新聞社, 1988年) のち文庫 
  • 『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局, 1995年
  • 『極限で私を支えたもの』(山田村教育委員会,1997年
  • 『君たち、どうする?』(新潮社2004年

共著[編集]

潜伏中の仲間[編集]

赤津勇一[編集]

赤津勇一(あかつ ゆういち 生没年不詳)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に途中で小野田グループと合流した日本兵。東京都出身。諸説では1949年9月にグループを離脱し1950年6月にアメリカ軍に投降した、1950年の戦闘での負傷でグループと離れ意識不明のところを6月にアメリカ軍に発見されたとされる。最終階級は一等兵。翌1951年帰国し、小野田、島田、小塚の生存を政府に伝えたと言われる。

生没年等詳しい事は不明であるが、若一光司の著書『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社1986年7月[17]によれば、結婚して日本で生活しているとの記述があり、1980年代中盤時点では存命だった。

島田庄一[編集]

島田庄一(しまだ しょういち 1913年 - 1954年5月7日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。埼玉県小川町出身。1954年5月7日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で眉間を撃ち抜かれ死亡。享年41。最終階級は伍長

2005年8月13日フジテレビ系列で放送されたドラマ実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、柳葉敏郎友情出演)が彼の役を演じた。

小塚金七[編集]

小塚金七(二等兵時代)

小塚金七(こづか きんしち、1921年 - 1972年10月19日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。1921年、東京都八王子市に生まれる。1936年に八王子尋常高等小学校(現・八王子市立第七小学校)卒業後、農業に従事。1939年に八王子工機青年学校に入学し、その後応召1944年6月11日近衛歩兵第1連隊に入隊し、同年7月にフィリピンに派兵され、独立歩兵第359大隊に編入。終戦した事を知らずに戦闘を続け、日本政府による捜査も発見できずに、1947年1959年死亡通知が出された。

1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。小塚の三八式歩兵銃は、小野田が日本帰還後に小塚の両親に渡したと言われている。また、手元には1959年に厚生省が現地で撒いた投降勧告ビラが遺されてあったと言われる。同年11月4日に、八王子市民葬が執り行われた。

母親には手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく[昭和]47年10月19日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです。」と手記を残した。

2005年8月13日フジテレビ系列で放送されたドラマ実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、西島秀俊が彼の役を演じた。また彼の事は、若一光司の著書『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社1986年7月)に詳しく書かれている。

小野田自然塾[編集]

財団法人小野田自然塾
創立者 小野田寛郎
団体種類 財団法人
設立 1989年平成1年)6月
所在地 〒104-0051
東京都中央区佃1-10-5
主要人物 小野田寛郎
活動地域 日本全国
活動内容 自然教育
活動手段
  • 日本各地で開催する青少年参加のキャンプの開催
  • 小野田寛郎、およびその関係者による講演会
標語 不撓不屈
ウェブサイト 小野田自然塾
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小野田寛郎は、自らの抑留経験を基に、健全な人間形成と自然・社会との共存を図るために、これからを担う子供たちに自然教育の必要性を重んじ、1984年からキャンプ生活を通しての教育活動「小野田自然塾」を開講し、全国各地で子供たちに対する自然教育の推進を行った。1989年、自らの私財を基として、自然塾を主宰する「財団法人小野田自然塾」を設立した。

脚注[編集]

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  1. ^ p57 小野田寛郎の終わらない戦い
  2. ^ p56 小野田寛郎の終わらない戦い
  3. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、126頁、231頁。ISBN 4062122227
  4. ^ 出没!アド街ック天国 2010年7月24日(土)放送
  5. ^ “「日本女性の会」会長に小野田夫人=日本会議の女性団体=開拓30年の経験に期待=尾西兵庫会長=「しっかりした人」”. ニッケイ新聞. (2006年12月5日). http://www.nikkeyshimbun.com.br/061205-71colonia.html 2013年2月8日閲覧。 
  6. ^ 抗議書への賛同者一覧 (PDF)
  7. ^ 日本に欠けているもの=覚悟2009年5月15日 荒川区議会議員小坂英二の考察・雑感
  8. ^ “訃報:小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年”. 毎日新聞. (2014年1月17日). http://mainichi.jp/select/news/20140117k0000e040208000c.html 2014年1月17日閲覧。 
  9. ^ ブルーシー・アンド・グリーンランド財団ホームページ 『注目の人』No.030 連載期間:2008.01.09 - 2008.01.30
  10. ^ 【中国対日観】軍人精神に賞賛の声―ルバング島・小野田さん Searchina 2009/06/29
  11. ^ 津田信. “幻想の英雄・全文公開”. 山田順. 2014年1月18日閲覧。
  12. ^ 『ニューヨーク・タイムズ電子版』1月17日
  13. ^ a b 「日本人の誇り喚起」米紙が小野田寛郎さん称賛『産経新聞』1月19日
  14. ^ “小野田寛郎さんに勲章 日本人初、ブラジル空軍”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年12月17日). http://www.47news.jp/CN/200412/CN2004121701003972.html 2013年2月8日閲覧。 
  15. ^ 小野田自然塾 小野田寛郎プロフィール
  16. ^ Nude (1981) The Giant Progweed
  17. ^ 最後の戦死者 陸軍1等兵・小塚金七 〈単行本〉(Amazon.com

参考文献[編集]

  • 小野田種次郎 『ルバングの譜(ウタ)―寛郎を捜しつづけて30年』 潮出版社、1974。(父親の手記)
  • ―― (「小野田凡二」名義) 『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 浪曼、1974。(同上。「凡二」は俳号)
  • 小野田町枝 『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』 (夫人の手記) ISBN 4-86029-013-5
  • 鈴木紀夫 『大放浪―小野田少尉発見の旅』 (発見者の手記) ISBN 4-02-261116-2
    • 1974年、文藝春秋刊の文庫化。
  • ―― 「小野田少尉発見の旅」(『「文藝春秋」にみる昭和史 第3巻』ISBN 4-16-362650-6 に収録)
  • 津田信 『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社、1977。
  • 戸井十月著 『小野田寛郎の終わらない戦い』(新潮社,2005年)ISBN 978-4-10-403104-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]