前田日明

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前田 日明
プロフィール
リングネーム 前田 日明
前田 明
クイックキック・リー
本名 前田 日明
ニックネーム 壊し屋
クラッシャー
スパークリング・フラッシュ
七色のスープレックス
黒髪のロベスピエール
肉体のローマ式戦車
格闘王
大殿
キックの千手観音
前田なにがし
身長 192cm
体重 115kg
誕生日 1959年1月24日(55歳)
出身地 大阪府大阪市
スポーツ歴 空手
トレーナー アントニオ猪木
山本小鉄
佐山聡
カール・ゴッチ
藤原喜明
シーザー武志
田中正悟
デビュー 1977年8月25日
引退 1999年2月21日
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前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、総合格闘技黎明期に活躍した元プロレスラー、元総合格闘家リングスCEO。元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み。詳しくは人物にて後述)。血液型はA型。

プロレス界にキックボクシングサンボの要素を持ち込み、格闘技を日本人にとって身近なものにした。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させ、そのノウハウはK-1に受け継がれている。一部では総合格闘技という言葉の創始者(佐山聡が使い始めたという説もあり、さらにそれ以前に総合格闘部という言葉が漫画1・2の三四郎に登場している)とされ、佐山聡らと共に、日本の「プロレス」が現代の「総合格闘技」へと発展拡大していく流れを作った中心人物であるとするファンの声がある一方、前田が現役を引退するまでやっていたことはあくまでUWFプロレスであり、選手としても団体としてもプロレスの範疇を一歩も超えるものではなく、今日のMMAの流れとは無関係の存在であるという意見もある。また、前田はリングス初期に試合会場を予約する際に「総合格闘技団体」として「プロレス」との差別化をはかろうとしていた[1]

来歴[編集]

プロレスへのきっかけ[編集]

少年時代は1966年に放送された特撮テレビ番組『ウルトラマン』に熱中。その中で1967年4月9日に放送された最終回「さらばウルトラマン」において初代ウルトラマンが宇宙恐竜ゼットンに倒されたのを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つため打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始めた。北陽高校時代空手バイクに熱中した。空手は無想館拳心道館長岩崎孝二から学んだ(二段を取得)。極真空手大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開きたいという夢を持っていた[2]

新日本プロレス[編集]

1977年佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。翌年8月25日、長岡市厚生会館山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「肉が沢山食べられる」「モハメド・アリに会える(同じジムに入れる)」と新間寿に言われた事[2]が入団の理由であった。

その後、将来のエース候補として渡英しクイックキック・リー(「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミック)として活躍。ヨーロッパヘビー級王座を獲得し、IWGPトーナメント欧州代表として帰国。日本再デビュー戦の相手はポール・オーンドーフ(リバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収める)。当時の藤波辰巳とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。ヨーロッパで修行したというブランド力や、長身を生かしたスープレックスと相手をロープに飛ばしてのフライングニールキックなどで人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。

第1次(旧)UWF[編集]

1984年に第1次(旧)UWF(浦田昇社長)の旗揚げに参加。理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと証言している[2]。佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)が展開されるが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうと言う“興行志向”の前田が対立し、同団体は解散。佐山志向と対立したが、後の第二次UWFリングスではこの時代の佐山志向を忠実に実践し、守り続けたのは、佐山を否定して団体を崩壊させ、その後も佐山批判を繰り広げたのにもかかわらず皮肉なことであった。一方、佐山の新しい格闘技団体「修斗」ではUWFのルールやスタイルにとどまることなく、様々な実験と進化を繰り返し、今日のMMA標準となるルールやスタイルを作り上げ、同時にジムによるアマチュアの育成と拡大を図り、競技としての格闘技確立を追及した。

1985年12月6日、藤原喜明木戸修高田伸彦(現:高田延彦)山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。

同年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を、逆片エビ固めでギブアップさせ勝利、この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。

1987年11月19日[3]、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が木戸修スコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、顔面をキック(敵の固め技から味方を救うこの様な攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」[要ページ番号]におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)[要出典]。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり[3]、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした[3]。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが[3]、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合と言うアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している[3][注釈 1]

第2次(新生)UWF[編集]

第2次(新生)UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。

その後、前田とUWFの社長・神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。

リングス[編集]

リングス設立

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

前十字靭帯の断裂、側副靭帯損傷

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライヴォルク・ハン高阪剛田村潔司山本宜久長井満也成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。

KOKルールの採用

1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近いKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。

ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言

1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦ヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかった。

リングス活動停止

1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放ニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている[4]

WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。

ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)[編集]

2005年、元新日本プロレス上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。

2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。

HERO'S[編集]

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。

2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった[5]

同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした[6]

2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた[7]

THE OUTSIDER[編集]

2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象とした格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し[8][9]、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した[10]

獲得タイトル[編集]

プロレス

得意技[編集]

キャプチュード(Captured:捕獲投げ)
変形のフロント・スープレックス。そのままピンフォールが出来る。腕と片足をフックして投げるのが特徴。技の名は入場テーマ曲のタイトル(『CAPTURED』)に由来(それ以前は「アキラスペシャル」と称されていた)。
各種スープレックス
当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックス・ホールドドラゴン・スープレックス・ホールドリバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ、サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、クォーターネルソン・サルト、デアポート・スロイダーの12種類を使用していた。
各種関節技
各種キック、膝蹴り
藤波辰爾は「橋本のキックや蹴りは、ある程度リーチが分かり距離が取れるけど、前田のキックや蹴りは、膝下が勢いよく伸びるため、距離が取れず避け難い」と語っている。
フライング・ニールキック
前田独特の軌道を描くニールキック(スタン・ハンセンのラリアットを足でと言う発想から生まれたと言われている)。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。
大車輪キック
縦回転で放たれるニールキック。足の長い前田が使用するのが「大車輪」の由来。藤波辰爾を大流血に追い込んだこともある(藤波を流血に追い込んだ時はコーナーに追い詰めてから「直角蹴り」(膝への前蹴り)からのコンビネーション)。また、余談だが、藤波の額には前田の大車輪キックで負った傷が未だに残っている。
ジャンピング・ニーバット
新日での凱旋帰国後、坂口征二とタッグの際に多用。これは、対戦相手として多く組まれた外人選手がニールキックを受けるのを嫌ったことに起因する。
ニー・リフト(膝蹴り
首相撲から相手の顔面に膝蹴りを叩きこむ。繋ぎで使うことが多い。新生UWF時代に田村潔司を長期欠場(眼底骨折)に追い込んだのもこの技。

人物[編集]

  • 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)[11]。2007年5月には長男が誕生。2009年1月17日に結婚披露宴を行った。
  • 在日韓国人三世。韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された。
  • 自身をストリートファイトで1万戦無敗と称している[12]
  • 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。また、リングネームを本名に改名した当時の週刊プロレスの巻末クイズには、「Q.前田日明の日はどういう意味? A.日本という意味」と記載されている。
  • 同じく新日の若手時代、寮でジョージ高野に鍛え抜かれた肉体を、同期の平田淳嗣やヒロ斉藤らとともに毎晩見せ付けられていた。
  • 少年時代に『ウルトラマン』のゴモラ大阪城を破壊した翌日[13]、友達と自転車でその様子を確認に行ったが特に変化が見られなかった。そのため、近くで掃除をしていた男性に尋ねたところ「皆が徹夜で修理した」と聞かされた[14]
  • その『ウルトラマン』がゼットンに倒された事が格闘技を始めるきっかけとなったが、2014年1月29日のニコニコ生放送で行われた「ウルトラマン Blu-ray BOX III」発売記念番組にてゼットンとの対決が実現している[15]
  • 前述の少年時代にケンカに明け暮れていた頃、下位の力士に喧嘩を売ろうとしてたら当時横綱だった輪島大士に遭遇した、遠目で見ていてもあまりにも凄い威圧感を受けたためたじろいでしまった、後に輪島がプロレス転向した際は複雑な心境だったとのこと(その当時すでに前田はトップレスラーだったため)[16]
  • 1976年のデビュー以来幅広い団体・世代のレスラーと対戦してきた天龍源一郎と前田には直接の対戦経験は無いが、前田は第一次UWFから新日本にUターンしていた1980年代後半に、元横綱・輪島大士に硬いリングシューズで容赦ない蹴りを見舞う天龍を見て「あんな激しい戦いをされたら自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという。2011年にVersusにおいて天龍との対談が実現すると、前田は「ご意見番となる人がもういない。天龍さんにはプロレス界全体ににらみをきかせてもらいたい。こうじゃなきゃダメだって」、「リング上でものわかりの良すぎる今の若いレスラーをガツンと痛い思いをさせて欲しい」と、還暦を過ぎてもなおリングに立つ天龍にエールを送った。
  • 1987年7月には極真会館空手道選手松井章圭と巻頭対談が『ゴング格闘技』八月号誌上で行われ、彼らは極真会館の空手家キックボクサー山崎照朝から直接指導受けたときの体験を語り合い、前田は山崎の人柄や指導内容を尊敬していると語っていた[17]
  • 1995年5月20日、リングス興行で鶴巻伸洋戦を終えた弟子・坂田亘に対し、試合内容の不甲斐無さなどを理由にバックステージでその場にあったイスで殴る、蹴るなどの鉄拳制裁を加えた。「やりすぎ」との一部の批判に対し、「俺が新日の若手時代で、しょっぱい試合でふんぞり返ったら、あんなもんじゃ済まない。もっと酷く先輩にボコボコに殴られた。」と答えている。
  • 1997年初頭に発した「現役生活も残り少なくなった」との引退示唆発言は業界に戦慄を与え、特に長州力には衝撃的であったため、前田との一般雑誌での対談の際に何度も真意を問うた(過去の顔面蹴撃事件の遺恨はここで清算)。そして、自らの引退(一度目)と猪木のカウントダウンファイナルを前田の引退試合より先に組んだことを、後にオフレコ扱いで、ある雑誌のインタビューで語っていた。
  • 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTAだけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
  • 六本木で前田より大柄の在日米軍5人組が、前田の愛車のベンツボンネットに腰掛けて日本人を侮辱する態度を取ったのでハイキックなどで4人を倒した。最後の一人は「I like you」と言って対戦を拒んだ。前田は最後に「Don't be fun of Japanese」(日本人をなめんなよ)とセリフを残した(週刊プロレスのインタビューにて)。同じエピソードは新日の先輩の木村健吾にもある。
  • 大の巨乳好きでも有名であり、かつて『リングの魂』が「最強の巨乳は前田日明が決める!」と題してリングスのイメージガールオーディションを企画したことがあるほど。その企画に審査員として呼ばれた前田は、オーディションに参加した女性(当然巨乳の女性ばかり集まった)の胸を手にしていたペンの先でつつくなど、その巨乳好きを披露した。また、「リングの魂」出演時には、当時グラビアアイドルとして売り出し中だった井上晴美自身から、写真集を直接プレゼントされ、思わず顔をほころばせる場面もあった。C.C.ガールズのファンでもあり、初代メンバーでは藤原理恵推しで、2代目メンバーでは山田誉子でリングの魂にてデート企画も組まれ放送されている。
  • 2005年11月23日放送のテレビ朝日ワイド!スクランブル』において、優秀な人物を見ると「あれは在日コリアン」と主張する在日認定行為が在日社会で行われていると証言し、「ウチらの(在日の)年寄りは何でも韓国人にしたがるんですよね」「優秀な人を見たら在日だって」「知り合いのおばあちゃんはカール・ルイスは在日だと言っていた」「山本晋也監督は在日だってウワサが結構ありますよ」と証言した[18]。また、朴慶南金守珍との鼎談で、金守珍が「在日に違いない。半分は疑いながらも、そう信じていた。僕ら小学校時代から高校まで、強い人はみんなコリアンにしてきたんですよ。今でも朝鮮学校に行ってる子供はそうですよ」「そうあってほしいという願望があるんです。在日はよくスポーツ選手や芸能人のことを、『あの人もコリアンらしい』などと言いますよね」と発言し、それに対して、前田は「親父たちの世代の言うこと聞いていると、ゴジラウルトラマンも、全部コリアンということになる」と応じた[19]。(在日認定参照)
  • 日本で最初のアイコラ職人だと称している(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
  • 現役時代、一番迫力があったのはスタン・ハンセンウエスタン・ラリアットだと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
  • 同い年に赤井英和(正確には前田の方が早生まれで同学年ではない)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである[20]。この二人の逸話については、『喧嘩の花道』として二宮清純が書籍化し、三池崇史が映画化している。
  • 山本小鉄から特にかわいがられており、遺族からは弔辞を頼まれるほどの関係にあったが、山本の一人娘と結婚したい、と申し出ると一蹴された。[21]

政治[編集]

2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表民主党公認で出馬予定だったが[22]2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ[23]、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている[24]。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側は党の姿勢と石井一選対委員長に対し激怒した場面もあったとされる[25]

その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す[26]。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった[27]

趣味[編集]

  • 釣り - 釣りのために小型船舶も所有している。
  • 読書 - ポルノから哲学、戦記物まで読むと言うほど読書好き。特に太宰治や、孔子論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美氏とも交流がある。
  • 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(オーラの泉に出演したときに発言)。
  • 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている[11]。夢は零式艦上戦闘機太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っている。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。最近まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。
  • 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。
  • サバイバルゲーム - M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加していることがあり、一緒にゲームを楽しめたりすることもある。

トラブル[編集]

  • 2000年5月、パンクラス社長だった尾崎允実(尾崎正実)が、リングスに出場していた外国人選手とホテルロビーの喫茶スペースで談話していたのを発見し、これを引き抜き工作と判断。尾崎の胸倉を掴み、その際に尾崎がかすり傷を負ったとして傷害罪で起訴された。前田は暴行の事実を否定し無罪を主張していたが、東京地方裁判所の山室恵裁判長は「粗暴で悪質な犯行だが衝動的なものだった」として、2003年4月22日に25万円の罰金刑を言い渡した[28]。その後、この事件とそれに絡む発言で民事提訴され、2002年6月7日に東京地方裁判所は前田に約155万円の支払いを命じた[29]。2003年1月22日に東京高等裁判所は前田の控訴を棄却[30]。ただし、この事件の際に尾崎と談話していたジェレミー・ホーンは「リングスに招聘されている時に、尾崎が連絡をよこしパンクラスへの参戦に興味はないかと聞いてきた。でもそれは日本の文化ではずるいやり方なんだ。前田は怒っていたよ。でも、彼は尾崎の肩を掴んで揺すっていたけど、弟の襟首を掴んでるような感じで暴力はふるっていなかった。だから前田が提訴されたという話を聞いて、僕は日本に飛んで彼の為に法廷で証言したんだ」と語っている[31]
  • 1994年に開催された極真空手トーナメント大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内の個室に連れ込んだ[32]。当時、山田はリングスを真剣勝負と八百長混在のプロレス、また前田と友好関係にあった正道会館を八百長と批判していた[33]。事件後、山田は「掌底をスウェーでよけた」「ヒザ蹴りをヒジで受けた」と格闘技経験が功を奏した旨を語ったが[34][35]、それに対し前田は「スウェーでかわした? なんなら、裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
  • 1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦の交渉が不調に終り、元弟子でもある安生洋二との舌戦に発展する。その際、前田は安生を家族の前で制裁してやると発言するが、これが安生の自宅襲撃を示唆したものとして、UWFインターは名誉毀損と脅迫で前田を告訴。前田は謝罪会見を開いて事態を収拾した[36]。また、1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生と言葉を交わし裏拳で小突いた[37][38](レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事で、アントニオ猪木が仲裁)。その3年後の1999年11月14日、UFC-J会場において、安生はマスコミと談話中の前田の背後に忍び寄り、後ろからの不意打ちでアゴを殴打。前田は失神し、この姿は衝撃的な事件としてプロレス誌の表紙を飾った。安生は襲撃直後にパンクラスの高橋和生(高橋義生)とガッチリ握手をかわす姿をプロレス誌に掲載されたが、安生、高橋ともに事件との関連性を否定している。その後、前田は安生を訴え、安生は略式起訴で20万円の罰金刑を受ける[39]。安生としては、殴った後に「文句があったらリング上でやろう」という話にするつもりだったという[40]
  • 2001年5月30日付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『暴行,結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断し、東スポに200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じた(2002年9月13日判決)。

入場テーマ曲[編集]

  • 「KATANA」
  • 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
  • ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繫いで編集したものを使用)
  • 「キャプチュード」 - 代表的な入場テーマ。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」とは程遠く、「キャプチャード」に近い。オリジナル音源はイギリスプログレッシブロックバンド・Camelの、1981年にリリースしたアルバム・ヌードの物語 ~Mr.Oの帰還~(現地名:Nude)の11曲目として収録されている(アルバムについてはen:Nude (Camel album)を参照)。
  • 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、しばらくしてキャプチュードに戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。

その他[編集]

映画[編集]

  • YAWARA!(1989年、東宝)本人役
  • WARU(2006年、真樹プロダクション)主人公の友人役

CM[編集]

著書[編集]

連載[編集]

参考文献[編集]

  • 流血の魔術・第2幕 プロレスは誇るべきエンターテインメント, 講談社, (2010), ISBN 978-4-06-216516-7 

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ 高橋によればほとんどの選手が「あれを言ってはおしまいだ」などと同様の指摘を行っていたと言う。なお高橋によれば、長州は網膜剥離を起こし長期欠場。引退も危惧される状態であったという。また、猪木は前田を危険分子として見ていたのではないかとも指摘している。
出典
  1. ^ 週刊プロレス別冊2008年冬季号 新生UWF証言集
  2. ^ a b c 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
  3. ^ a b c d e ミスター高橋 2010, p. pp.48-52.
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  32. ^ 『kamipro』No.146。山田英司インタビュー
  33. ^ 山田英司「前田日明を全否定せよ」『別冊宝島EX 格闘技死闘読本 「最強」を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説!』宝島社、1994年、p.179
  34. ^ 『U.W.F.変態新書』エンターブレイン、2008年、p.171
  35. ^ 吉田豪『吉田豪のセメント!!スーパースター列伝』エンターブレイン、2006年、p.318
  36. ^ 鈴木健『最強のプロレス団体 UWFインターの真実』エンターブレイン、2002年、pp.20-22
  37. ^ 谷川貞治「疑惑の男FILE1 前田日明」『別冊宝島274 プロレス謎読本 リングのタブーを解き明かせ!』宝島社、1996年、p.97
  38. ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
  39. ^ 「<略式命令>元プロレスラーー殴り負傷させたプロレスラーに罰金」『毎日新聞』2000年1月5日
  40. ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
  41. ^ 前田本人が『スーパーマリオ64』などを好んでプレイしていたことから起用されたという。『64DREAM』1998年12月号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]