アンドレ・ザ・ジャイアント
| アンドレ・ザ・ジャイアント | |
|---|---|
花道からリングを睨むアンドレ。80年代後半。
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| プロフィール | |
| リングネーム | アンドレ・ザ・ジャイアント モンスター・ロシモフ (モンスター・ルシモフ) アンドレ・ロシモフ (アンドレ・ルシモフ) ジャン・フェレ モンスター・エッフェルタワー ジャイアント・マシーン |
| 本名 | アンドレ・レネ・ロシモフ (アンドレ・ルネ・ルシモフ) |
| ニックネーム | 大巨人 世界8番目の不思議 人間山脈 一人民族大移動 |
| 身長 | 223cm |
| 体重 | 236kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1946年5月19日 |
| 死亡日 | 1993年1月27日(満46歳没) |
| 出身地 | |
| トレーナー | フランク・バロア エドワード・カーペンティア バーン・ガニア ビル・ロビンソン 吉原功 |
| デビュー | 1964年 |
| 引退 | 1993年 |
アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant、本名:André René Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。
巨人症のため非常に巨体のプロレスラーとして知られ、公式プロフィールによれば、身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされる(ただし体重については年齢と共に増加していたことが映像でも確認できる)。
圧倒的な体格もさることながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる、数少ない巨人レスラーだった。
目次 |
来歴 [編集]
フランスのモリヤンにて、ブルガリア=ポーランド系の家庭に生まれる。少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込み、1964年18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ルシモフ(Andre "The Butcher" Rousimoff)としてデビュー。“プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに「発見」された”という逸話(『プロレススーパースター列伝』など)が有名だが、事実ではない。プロレスラーになる前はパリの家具運送会社に勤務しており[1]、無名だった時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。もっとも、南アフリカでデビュー説もあるなどフランス時代の経歴についてははっきりしない部分も多く、様々な説がある。フランス時代はモンスター・ルシモフ(Monster Roussimoff)またはモンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)の名義で活動していた。
カーペンティアに連れられ1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレ(Jean Ferré / 日本では英語風に「ジーン・フェレ」と読まれた)の名で活躍した。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。
1973年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、WWWF(現WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWAやAWAはもとより世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場した怪物・怪奇レスラーは短期間で人気が衰えており、マクマホン・シニアはそのあたりを懸念したものである。
この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャルゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、モンゴリアン・ストンパー、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど全米のトップ・ヒールと対戦した[2](欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している[1] )。1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の為替レートは1ドル=約300円。
1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、1987年、WWFでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更した。同年のレッスルマニアIIIではWWF世界ヘビー級王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われたが敗れる。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなった。翌1988年のレッスルマニアIVにて再戦が行われ、WWF王座の奪取にも成功。
1980年代中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を重ねる。また「ヘビ嫌い」との設定が加わりジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとも抗争したが、体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍した。
父親の葬儀へ出席するために帰国していた1993年1月27日、急性心不全のためにパリのホテルの自室で死去。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。ミスター高橋によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。
WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。
2008年には彼の功績をまとめたDVDもWWEより発売された。
日本での活躍 [編集]
初来日は1970年。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフ(Monster Roussimoff)のリングネームで国際プロレスへ参戦。この時出会ったバーン・ガニアによって寝技の訓練を受ける。これによって大きな体を活かした技だけでなく、グラウンドでは弓矢固めなどの高等技も軽々とこなすようになる。日本ではヒールとしての活動だったが、前述のようにその後のアメリカではベビーフェイスとして活動した。もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、ジャイアント馬場をも凌ぐ余りの巨体故にヒール扱いされてしまったものである。
その後、日本でのリングをWWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木とも対戦(猪木とは新日本参戦後期に何試合かタッグを組んだこともある)。その猪木との1974年2月の初対戦では、当時のマネージャー、フランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせジャイアント・プレスでフォール勝ち。その後の対戦は猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバーススープレックスで投げるというムーブが定着した。1982年にはMSGシリーズで優勝(新日本のシングル・リーグ戦で外国人の優勝はこれが初めて)。実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、巨大なる人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している)。新日本プロレス登場末期には、覆面を被り、ジャイアント・マシーン(Giant Machine)と名乗って出場していたこともある。また新日本参戦末期には将軍KYワカマツが悪役マネージャーに就いた。なおマシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカでも同様のキャラのまま戦っている。晩年まで履いていた黒もしくは青のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である(それまでは青や緑や赤のショートタイツを着用)。また、ジャイアント・マシーンの正体はいわずもがなだったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされており、プロモーション用のインタビューでも珍妙な日本語を話していた。また、アンドレは国際プロレスに特別な思い入れがあったようで、新日本に1974年より本格参戦した後も同年6月と1979年7月に国際にも特別参加したことがある(1979年参戦時にはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦)。
1981年9月23日、新日本の田園コロシアム大会で行われたスタン・ハンセンとの一騎打ちは今もって日本プロレス史上最高の外国人名勝負と言われる。両者合わせて400kgがリング上でひしめき合う「超ド迫力」(解説の桜井氏の表現)であり、引き分け後の再試合を含め延べ二試合でハンセンはアンドレを二度投げた(一回目はボディスラム、二回目は一本背負い気味に)。また、ハンセンの命綱である左腕を執拗に殺しにかかるアンドレの巧みなリングワークに対し、ハンセンがそれを跳ね返してウエスタン・ラリアットでアンドレを場外に叩き落すなど、試合の基本的なストーリーも高いレベルにあった。試合結果は両者リングアウト引き分け後の再試合で、アンドレがレフェリーのミスター高橋に暴行を加えハンセンの反則勝ちとなったが、結果に納得のいかない両選手による試合後の乱闘も含めて、高いエンターテイメント性を有した試合となった。
1990年4月13日の日米レスリングサミットで、久々に日本マットに登場し馬場と日米大巨人タッグを結成(大巨人コンビ)。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本へ主戦場を移し、1992年10月21日の全日本・日本武道館大会「全日創立20周年記念試合」馬場&ハンセン&ドリーvs鶴田&アンドレ&ゴーディ戦では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。全盛期の動きとは程遠いアンドレだったが、ハンセンの渾身のウエスタンラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
アンドレはその長身から何処へ行っても好奇の目で見られることが多かったのに加え、1970年代の日本ではまだ外国人が珍しかった時代でもあることが重なり、新日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは非常にナーバスであり、彼の悩みが周囲になかなか理解されず、自然とアンドレは憎まれ役へシフトしつつあった。そして自分の立場には徹底しており、ヒールとしてのイメージが損なわれることを嫌がり、あえてファンのサインも断っていた(ヒールでもリング外でのファンサービスに応じるレスラーは多いが、アンドレは敢えて避けていたという)。リング内ではまさに全盛期の活躍であったが、対照的に日本でリング外におけるアンドレのインタビューやプライベート等を収めた記事は非常に少ない。ただし初来日のきっかけを与えてくれた、旧国際プロレス関係者は日本におけるアンドレの数少ない理解者であったため、新日本プロレスへ参戦していた時も水面下で交流が続いていた。
一転して全日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、国際・新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスであり、全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、アンドレも笑顔でファンに応じたり、また登場時での花束贈呈の時は、受け取ると即座にブーケトスの様に後方の客席に花束を投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールを見せていた。
得意技 [編集]
- ジャイアント・プレス
- 一般的にいうところのボディ・プレスなのだが、アンドレの巨体が全体重をかけて相手を押し潰す様は圧巻の一言。ここぞという時の決め技として使用され、実質アンドレ最大のフィニッシュ・ホールドといえる。相手への負担を和らげるため、膝をマットに付けてから押し潰すのが特徴。
- ヒップドロップ
- ヒップドロップといえば繋ぎ技として扱われることが多いが、プロレス界においても突出した巨躯を誇ったアンドレが放つそれは、充分にフィニッシュ・ホールドとして通用する破壊力を持っていた。この体勢からフォールを狙う場合も多い。
- ヒッププッシュ
- 相手をコーナーに追い詰めたのち、相手やコーナーに背中を向ける形で覆い被さり、勢いを付けて相手に尻を突き当てる。コーナーとアンドレの巨体に挟まれるため、相手は逃げ場がなく、また受けるダメージも大きい。タッグマッチの際は、相手を2〜3人まとめてコーナーに追い詰め、この技を繰り出すこともある。
- フロント・ネックチャンスリー・ドロップ
- 相手の首を正面からロックし、後方へ反り投げる技。決して簡単な技ではなく、アンドレのレスリングセンスの高さが垣間見える。なお、第5回のMSGシリーズ優勝決定戦では、この技をフィニッシュに繰り出してキラー・カーンからフォールを奪っている。
- ハイアングル・ボディスラム
- 相手を高々と担ぎ上げ、勢いをつけてマットへ叩きつける技。ずば抜けた長身から繰り出すため、ボディスラムとしては破格ともいえる威力を誇っていたが、体重が増加した頃から使う頻度は減少していった。
- エルボー・ドロップ
- 寝た状態の相手に向かって倒れこむように肘を落とす。体重が増加してからは使用頻度が減ったが、晩年の全日本プロレス登場時には馬場の十六文キックで倒れた相手に倒れ掛かるようにこの技を繰り出し、そのままフォールするのが大巨人コンビ定番のフィニッシュムーブだった。
- カウンターキック
- ジャイアント馬場の十六文キックに対抗して『十八文キック』と呼ばれていた。通称『人間エグゾセミサイル』(仏製対艦ミサイルのイメージから古舘伊知郎が命名)。
- ネックハンギングツリー
- 相手の首を両手で捕らえ、その体勢から腕力で持ち上げることで首を絞め上げる。その長身を生かしたリフトは驚異的な高さに達し、抜群の説得力を持つ技であった。
- ツームストーン・パイルドライバー
- 来日前からの得意技であり、初期のフィニッシュ・ホールド。1972年にターザン・タイラーとの試合で使用した際、相手の首の骨を折ってしまってからは封印している。しかしドリル・ア・ホール・パイルドライバーは、エキサイトした余り猪木に見舞ったことがある。
- ヘッドバット
- 「ジャイアント・ヘッドバット」とも呼ばれる頭突き。アンドレが放つ頭突きは、長身を生かして相手の脳天付近を狙うものであり、しばしば「二階からのヘッドバット」と称された。繰り出す瞬間に「ハァーイ」と叫ぶ。また、ジャンプすることでさらに落差を付けるバージョン、倒れている相手に対して頭から倒れ掛かるバージョンもあり、その場合は「ジャイアントスクワッシュ」という技名で呼ばれた。
- ベアハッグ
- 長い両腕を利用して、相手の胴を強烈に絞め上げる。お気に入りの技だったらしく、試合でたびたび使用していた。またその巨体ゆえ膝を付いた体勢で繰り出すこともあった。
- ショルダー・ブロック
- ショルダー・タックル。相手をコーナーに追い詰め、勢いよくダッシュして繰り出すか、またはヒッププッシュ同様、両手でセカンドロープを持って相手の逃げ場を封鎖して、肩口を相手のボディに突き当てる技。後者は体重が増加してから使用し始めた(タッグマッチの際には寺院の梵鐘を撞木で突き鳴らす感じで相方に腰を持ってもらい、引いて反動を付けて繰り出すこともあった)。ちなみに古舘伊知郎はこの技を別名で「人間圧殺刑」と呼んだことがある。
- ジャイアント・ボンバー
- ラリアット。ジャイアント・マシーンと名乗っていた頃、フィニッシュとして繰り出していた。坂口征二からフォールを奪い、若手のレスラーを失神させたこともある。
技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。“両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまう”のが一連の流れ。ちなみに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。
現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリ、ビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみたことがあるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。
獲得タイトル [編集]
- IWA世界タッグ王座:1回(w / マイケル・ネイダー a.k.a. ミシェル・ナドール)[3]
- NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座:1回(w / ロン・ミラー)[4]
- NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ダスティ・ローデス)[5]
- NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)[6]
- WWF世界ヘビー級王座:1回[7]
- WWF世界タッグ王座:1回(w / キング・ハク)[8]
- WWF Hall of Fame (1993年度)
- 1993年6月3日に発表。殿堂入り第1号。
入場テーマ曲 [編集]
彼のためにつくられた入場テーマ曲『ジャイアントプレス』は、その後日本マットに登場した巨人プロレスラーや大巨人格闘家が必ず使っている。 しかし、WWF時代は一貫して入場テーマ曲がなかった。
エピソード、その他 [編集]
- その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、ハルク・ホーガンやスタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、エル・カネック、ブラックジャック・マリガンなどのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている[9])。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力、ストロング小林の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスだった時期もあった。ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックスでアンドレを投げた唯一の記録とされている。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。
- ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際によく屁を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。何度も対戦したキラー・カーンによれば、形容しがたいほどの匂いのために前列の観客が席から逃げ出すほどだったという[10]。
- マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。ただし、花道以外の通路から不意を突く形で入場し、観客を驚かせるといった少々悪戯めいたムーブはしばしば見られた。
- マイティ井上とは若手時代から親友の間柄であった。アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。なおアンドレは巨大な指のためにダイヤル式の電話機を回すことができず普段鉛筆で回していたところ、ある時マイティ井上が代わりに回してあげたことが親友となったきっかけという[10]。
- 現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。
- アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できるだけの施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。
- レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。バッドニュース・アレンがアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッドとは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラもアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)[11]。また、アイスマン・キング・パーソンズ、S・D・ジョーンズ、ジャンクヤード・ドッグ、トニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロックも、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。
- 1984年12月19日、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。シバ・アフィ、ラーズ・アンダーソン組vsマーク・ルーイン、ケビン・サリバン組の試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという[12]。
- 当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。なお、この時のマスクは当然、アンドレ自身から採寸したものではなく(バイク用のフルフェイスのヘルメットに合わせて作成したと言われる)、そのためジャイアント・マシーン登場当時はマスクがアンドレの頭にはフィットしていなかった。後期には改めて新しいマスクが制作されている。
- スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。
- WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープからニー・ドロップを見舞った[13]。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。
酒豪伝説 [編集]
前述するようにアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。
- ミスター・ヒトの著書『クマと闘ったヒト』では、車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したと記載されている。
- マイティ井上は、札幌遠征時に「二人で一度に瓶ビールを136本空けたことがある」と証言している[14]。その際は「汗とアルコールとオーデコロンが一緒になったようなにおいになった」という。
- キラー・カーンと坂口征二によれば、1975年に新日本プロレスがブラジル遠征を行った際、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機の機内にあったビールを全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという[15]。
- この他、1980年4月の札幌巡業でサッポロビール園で大ジョッキ89杯を空けた、「タンパの空港で50分でビール108本を空けた」(ハルク・ホーガンによる証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、さすがのアンドレも気絶した」(ファビュラス・ムーラによる証言)など、消費量に関する伝説は枚挙に暇がない[15]。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。
- 馬場とは巨人同士でウマが合ったと言い、選手バスでは隣同士に座り二人で冗談を言い合いながらワインを飲んでいたという。そのため、全日本の選手バスにはアンドレ用のワイン冷蔵庫が用意されていた。
- ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水のように飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という[15]。
- 元々多かった酒量は晩年さらに増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だったようで、移動にバギーバイクを使用していた。
出典 [編集]
書籍 [編集]
- 池上遼一 『男大空』 メディアファクトリー、2003年 - 2004年。
- 中島らも 『クマと闘ったヒト』 メディアファクトリー〈ダ・ヴィンチブックス〉、2000年。 - ミスター・ヒトへのインタビュー本
- 梶原一騎、中城健 『カラテ地獄変・牙』 松文館、2009年。
- 『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』ベースボール・マガジン社、2003年。
脚注 [編集]
- ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P118(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ “The History of Andre the Giant”. The Smart Marks.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “IWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “NWA Austra-Asian Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “NWA United States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “NWA Florida Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “WWE World Heavyweight Title History”. WWE.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “WWE World Tag Team Title History”. WWE.com. 2010年5月15日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1982”. The History of WWE. 2010年5月15日閲覧。
- ^ a b キングコングのあるコトないコト第110回「外国人レスラー」
- ^ “Breaking Kayfabe with Kamala Jim Harris: The man behind the Ugandan Giant”. SLAM! Wrestling: July 7, 2001. 2010年5月15日閲覧。
- ^ 週刊プロレスNO.76
- ^ WWFにおいては、アンドレがベビーフェイスかつメインイベンターであり、カーンはヒールであった。試合中アンドレの足が異常であることに気が付いたカーンは、そのことを観客へ見抜かれる前に、アンドレの過失ではなく憎まれ役の自分(カーン)がアンドレの足を痛めつけたことにする方がベターと考え、とっさにトップロープへ上り、致命傷を与えない範囲でアンドレにニー・ドロップを放った。
- ^ 東京中日スポーツ・2010年6月9日付 8面「コンフィデンシャル」
- ^ a b c 東京スポーツ・2010年6月9日付 6面「小佐野景浩のプロレススーパースター実伝」
外部リンク [編集]
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