横綱

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第35代横綱・双葉山定次

横綱(よこづな)は、大相撲力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。

現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、依り代であることのとされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。

横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。

目次

[編集] 歴史

古くは戦国時代から、黒白横綱という黒と白を混ぜて撚り合わせた綱が存在していたとされる。この綱を締めた18世紀の力士の浮世絵が現存している。

[編集] 横綱の誕生

江戸時代に興行としての江戸相撲が人気を博した頃、吉田司家行司の総元締めとしての権力を確保するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになった。

当初は大関の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた。(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士は多く大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。

このように第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年(明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったようなかたちになった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。

横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。

現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱・陣幕久五郎富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。

[編集] 横綱免許

1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる(なお、代数は前述の陣幕によって定められたものが、相撲協会によって公認された)。吉田司家以外にも横綱免許を出したところは数多く存在したが、吉田司家は文政年間(1818年(文政元年) - 1830年(天保元年))に主君である熊本藩細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利する。これにより吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。 横綱免許は明石志賀之助を最初とする説あり(江戸勧進相撲-記録があるようなので横綱免許は間違いないが明石以前にも横綱がいる可能性がある。)協会公認3代の丸山権太左衛門と協会公認2代の綾川五郎次は実は逆の順番であるとする説もあり、一時期読売『大相撲』誌ではそれに基づいた横綱一覧を掲出していた。

吉田司家は明治初期に西南戦争連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱・初代梅ヶ谷が吉田司家の免許を希望し、復権する。大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人存在する。

現在では吉田司家以外の免許を持つ力士は後に吉田司家の追認を受けた力士を除くと、歴次横綱として認められていない。ただし、礒風音治郎は正式な番付への掲載がなく(1883年(明治16年)1月は番付外幕内格、5月は客席三役格)、免許は巡業専用であったと解釈されているため追認されていない。[1] 吉田司家の横綱免許を歴次横綱としている現在、吉田司家免許の記録がある以上、本来追認するのが妥当であろう。(実力はかなり弱いと記述有り)

吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱・東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。

しかし、1950年(昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、1951年(昭和26年)5月場所後の第41代横綱・千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は廃止となり行われていない。

慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱が熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題による日本相撲協会との絶縁により、1986年(昭和61年)に昇進した第60代横綱・双羽黒以降の横綱は事実上廃止となり、これを行っていない。

横綱を世襲表現のように第○代と呼ぶのは、明治期よりはやった呼び方のようで正しい日本語表現とはいえないと、彦山光三がとなえ、何人目と呼ぶべきだと主張し、読売系の一部のマスコミやファンが好んでこの表現を使っている。

ただし、協会公認の横綱一覧や、相撲博物館の展示では、何代目の表示がされているので、本項目はそれにしたがう。

[編集] 非公認横綱

相 撲 四股名 免 許
大坂相撲 八陣信蔵 五条家免許
高越山谷五郎 五条家免許
八陣調五郎 神理教免許
京都相撲 小野川才助 五条家免許
兜潟弥吉 五条家免許
大碇紋太郎 五条家免許

[編集] 横綱土俵入り

68代横綱・朝青龍明徳の横綱土俵入り

横綱力士は、自身の横綱を締め、「太刀持ち」・「露払い」を従えて横綱土俵入り(現在の型には雲竜型と不知火型の2種類が有る)を行う。横綱土俵入りに太刀持ち、露払いを従えるようになったのは天保年間(1830年(天保元年) - 1844年(弘化元年))と伝わる。

横綱土俵入りは現役の横綱にしか許されない特権かつ義務であり、横綱経験者であっても自身の引退相撲を最後にこれを行うことはできない。唯一の例外として、還暦を迎えた時に赤い横綱を締めて行う「還暦土俵入り[1](元三重ノ海(現武蔵川)の還暦土俵入り)がある。横綱土俵入りは、セレモニーとして大相撲の最大の華であり、かつ横綱の権威を示すものでもあり、いやが上にも横綱の責任を大変重いものにしていると言える。

なお、露払いや太刀持ちには、引退相撲や還暦土俵入りなど特別な場合は横綱が付き従うことがあるが、それ以外の場合は大関以下(通常、大関は除く)の幕内力士が務める。横綱が還暦や引退の土俵入りに付き従う場合でも、自分の土俵入りと同じく綱を締める。

露払い・太刀持ちとして付き従う力士は、通常、同じ一門の力士の中から選ばれる。地方巡業などでは、開催地の地元出身の力士などが一門外であっても起用される事がある。また、当日にその横綱力士と対戦する幕内力士は露払いや太刀持ちを行わず、代わりの力士が起用される。

引退後、新たな横綱が誕生した際に横綱土俵入りの型と作法を伝授する事も、横綱を務め上げた力士にとっては重要な責務である。

[編集] 横綱力士が締める綱

材料はで3本の小縄を縒り合わせて両端を細く、中央部分を最も太くなるように作る。3本の小縄にはそれぞれ線が芯として入れられている。 力士の横綱昇進時に作り、それ以降は現在では東京場所毎に新しく作り直す。 綱を作る作業は「綱打ち式」と呼ばれ部屋の力士を総動員して行う。部屋が少人数の場合は同じ一門で綱打ち式の経験のある他の部屋の力士も動員することが多い。

土俵入りの型によって締め方が異なり、雲竜型は輪を一つ、不知火型は輪を二つ作る締め方をする。このため、横綱力士の体格にもよるが概して不知火型用の綱は雲龍型用の綱より長く重くなる傾向にある。

歴代横綱の中で現存する写真の限りでは大坂相撲の大木戸森右エ門(第23代)と宮城山福松(第29代、大坂相撲在籍時に限る)は、締めている綱の縒り方が逆になっている。新横綱になったばかりの源氏山大五郎(第30代、のち3代西ノ海嘉治郎)と宮城山の両横綱を写した現存する写真 [2] (右が宮城山)によると、2人の綱の縒り方が違っているのが確認できる。源氏山の綱が現在の綱の縒り方(所謂Z縒り)である。また、安藝ノ海節男(第37代)も1944年(昭和19年)以降逆に縒った綱を締めている。

[編集] 特権と責務

横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績を求められる。大関以下の力士は、体力が衰えて実力が落ちてもそれ相応の番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱にあってはこれは許されず、横綱の地位に見合った高レベルの成績を出せなくなれば後は引退のみである。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。また、横綱は負傷や体調不良を理由に休場しても番付が下がることはないため、横綱が本場所で高レベルの成績を出せる自信のない場合は長期休場することも珍しくない。

所属部屋の規模にもよるが、横綱には通例15人程度の付き人が付く。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。また、大関が不在の時は2名、1名の時は1名、横綱が番付上「横綱大関」として大関の地位を兼ねる。

横綱力士は、特権あるいは責務として、日本国籍を有するときには現役力士たちの代表として日本相撲協会の評議員を務めることができ、役員選出などにおける投票権を行使することができる。

その他、横綱力士は、年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承を受けることにより引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。

移動手段においては、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる(大関も同様)。

[編集] 昇進

[編集] 横審と伝達式

「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を上げた力士」という横綱審議委員会(横審)の内規を満たした場合、日本相撲協会理事長は横審に横綱昇進について諮問する。横審は諮問を受けて審議し、出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推薦を理事長に答申する。理事長は答申を受けて臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に横綱に推挙する。しかしながら、理事会は横審の答申を尊重するのが慣例のため、横審の決定が横綱昇進についての事実上の最終決定機関である。

横審の内規が制定されたのは年6場所になった1958年(昭和33年)1月6日であるが、それ以降「~準ずる成績」の部分が拡大解釈され、多分に興行上の必要性もあってほとんどの力士が連続優勝を果たさなくても横綱に昇進する事が出来た。年6場所制では、連続優勝で昇進したのは大鵬北の富士琴櫻のみという状態であった。そのため、これに対して「粗製濫造」の批判が高まった。とりわけ、1987年(昭和62年)に一度も優勝経験がない第60代横綱双羽黒が師匠とのトラブルが原因で廃業したことにより、横審の答申が問題視されるようになった。このため、それ以降は横綱推薦基準の第2項「大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする」を厳格に適用することになり、第63代横綱旭富士以降は全て2場所連続優勝して横綱に昇進している。

横綱昇進が決定すると、協会を代表して理事と審判委員各1名ずつが当該大関のもと(東京場所なら所属部屋、地方場所なら宿舎である旅館・寺社など)にその旨を伝達に訪れ、「昇進伝達式」が行われる。昇進伝達の使者は、当該力士が属する一門の年寄が務めるのが通例である。当該大関は、所属部屋の親方夫妻を両脇に従えて使者を出迎え、「謹んで御受け致します」「横綱の地位を汚さぬ様」「稽古に(相撲道に)精進致します」「本日は誠に有り難う御座いました」といったほぼ定型の口上で応じる。当該力士は、新番付の発表を待たずにこの時点で新横綱として扱われる。

現在では横綱昇進の可否は、上述のように横綱審議委員会の答申を理事会が全面的に尊重するため、横審の答申後に事実上確定すると考えてよい。過去に理事長から横審への諮問があって昇進が見送られた例はあまりない。多くの場合千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。

具体的には、

  • 当該力士が、横審の内規であり双羽黒廃業事件以降のすべての横綱昇進力士がクリアしている条件である「大関での2場所連続優勝」をクリアしているかどうか。
  • 千秋楽終了後の報道陣の取材に対し審判部長(理事が務める)が理事長に当該力士の横綱昇進を横審に諮問するよう要請するという趣旨の回答をするかどうか。
  • 横審への諮問があった場合、報道陣が行う審議出席予定の横審委員への取材で、多くの委員が当該力士の昇進に関して肯定的な見解を回答するかどうか。

といったことなどを基準にして、千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。

しかし、このような前例に基づく横綱昇進予想は正しい予想が多いとはいえても、確実に正しいとまではいえない。例えば、1994年(平成6年)9月場所で全勝優勝を果した貴乃花の横綱昇進について理事長から横綱審議委員会への諮問が行われ、新聞各紙も1969年11月場所直後に北の富士の横綱昇進に関する理事長からの諮問で横審が否定の答申をした事例以降は理事長からの諮問で横審が長年昇進を見送らず横綱推薦してきた例から横綱昇進確実と報じたが、昇進が見送られた例がある。

2009年(平成21年)7月14日現在横綱昇進確実条件と目される「大関での2場所連続優勝」という条件も見直されつつある。例えば、2009年5月場所において14勝1敗で優勝し、次の7月場所で綱とりに挑む大関・日馬富士の横綱昇進についても、同場所千秋楽翌日の5月25日に行われた横綱審議委員会で、近年の相撲内容や昇進直前約3場所までの成績をあまり重視せず、2場所連続優勝の昇進内規を形式的に適用して横綱昇進を判断してきたことへの批判があったためか、横綱昇進の話題がほとんど上がらず、鶴田卓彦委員長は「いきなり綱取りを論じるのは早い。(5月場所の)稀勢の里戦のような立合いの変化は評価できない。綱取りには今場所以上の成績も求められる」と述べ、無条件での横綱昇進を却下した[2]

また、内館牧子委員も「綱取りはまったく話題にならなかった。稀勢の里戦の変化はがっかりした。2場所連続で優勝すれば横綱昇進というのであれば横審はいらない」と発言し、2場所連続優勝で無条件に横綱昇進を決めることに対して否定的な見解を示した[3]。これ以降は横綱昇進対象となる力士の成績や相撲内容が悪ければ大関で2場所連続優勝を達成しても横綱昇進が見送られる可能性があるのは否定できない。

以上のように、横審の答申前に横綱昇進見送りの前例がないことや少ないことを根拠として横綱昇進の可否を判断するのは、多くの場合正しいとはいえても、確実に正しいとまではいえない。故に、横綱昇進の可否の確定は事実上横審の答申後である。

[編集] 横綱昇進前3場所成績

  • 1960年(昭和35年)以降
  • ◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点、四股名は横綱時
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計
1961年(昭和36年)11月 柏戸剛 10勝5敗 11勝4敗 12勝3敗◯ 33勝12敗
1961年(昭和36年)11月 大鵬幸喜 11勝4敗△ 13勝2敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗
1964年(昭和39年)3月 栃ノ海晃嘉 11勝4敗 14勝1敗◎ 13勝2敗 38勝7敗
1965年(昭和40年)3月 佐田の山晋松 13勝2敗△ 13勝2敗△ 13勝2敗◎ 39勝6敗
1970年(昭和45年)3月 玉の海正洋 13勝2敗◎ 10勝5敗 13勝2敗◯ 36勝9敗
1970年(昭和45年)3月 北の富士勝昭 12勝3敗△ 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 38勝7敗
1973年(昭和48年)3月 琴櫻傑將 9勝6敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 37勝8敗
1973年(昭和48年)7月 輪島大士 11勝4敗△ 13勝2敗△ 15戦全勝◎ 39勝6敗
1974年(昭和49年)9月 北の湖敏満 10勝5敗 13勝2敗◎ 13勝2敗◯ 36勝9敗
1978年(昭和53年)7月 2代若乃花幹士 13勝2敗△ 13勝2敗◯ 14勝1敗◯ 40勝5敗
1979年(昭和54年)9月 三重ノ海剛司 10勝5敗 13勝2敗△ 14勝1敗◯ 37勝8敗
1981年(昭和56年)9月 千代の富士貢 11勝4敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 38勝7敗
1983年(昭和58年)9月 隆の里俊英 12勝3敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 39勝6敗
1986年(昭和61年)9月 双羽黒光司 10勝5敗 12勝3敗△ 14勝1敗◯ 36勝9敗
1987年(昭和62年)7月 北勝海信芳 11勝4敗△ 12勝3敗◎ 13勝2敗△ 36勝9敗
1987年(昭和62年)11月 大乃国康 15戦全勝◎ 12勝3敗△ 13勝2敗△ 40勝5敗
1990年(平成2年)9月 旭富士正也 8勝7敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 36勝9敗
1993年(平成5年)3月 曙太郎 9勝6敗 14勝1敗◎ 13勝2敗◎ 36勝9敗
1995年(平成7年)1月 貴乃花光司 11勝4敗 15戦全勝◎ 15戦全勝◎ 41勝4敗
1998年(平成10年)7月 若乃花勝 10勝5敗 14勝1敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗
1999年(平成11年)7月 武蔵丸光洋 8勝7敗 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 34勝11敗
2003年(平成15年)3月 朝青龍明徳 10勝5敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 38勝7敗
2007年(平成19年)7月 白鵬翔 10勝5敗 13勝2敗◎ 15戦全勝◎ 38勝7敗

[編集] 横綱をめぐる議論

[編集] 横綱制度

横綱制度をめぐる議論は、横綱不在となったり、そのおそれがあるような時、あるいは逆に横綱力士が揃って不調である様な時、しばしば提起される。ただし、多くは好角家の間での議論に留まる。むろん、相撲協会内部で横綱制度の見直しが論じられることもあって、1951年(昭和26年)には一度は横綱降格制度を考えていたが、この時は見送られた。以降は制度の抜本的な見直しではなく、制度の柔軟な運用で対応するというのが、相撲協会の基本的な姿勢である。

横綱の存在それ自体についても、かつてのような名誉称号でなく地位であるとするならば、その昇進に運不運の不公平があろうとも、大関等と同じく常時東西に1名ずつ常設すべきなのではないか、という意見もある一方、寧ろ名誉称号に戻すべきだとする意見もある。

横綱降格制度の是非は、その地位を陥落することがないことを特権と見るかどうかによって、正反対の視点から論じられる。つまり、どれだけ負けても休んでもその地位を保障されるのは、近代スポーツとしては余りに不合理であるという点からの主張と、その地位を降りることが出来ないために若くして引退に追い込まれる横綱もあり、大関への降格やその位置から再起する選択肢も与えるべきではないかという点からの主張である。

[編集] 昇進基準

横綱昇進基準(1及び2)については、特によく論じられる問題である(具体的内容は横綱審議委員会#横綱推薦基準を参照)。「2場所連続優勝」の基準を厳し過ぎるとするか、甘いとするか、あるいはこれを絶対の「鉄則」として厳密に運用すべきか、将来の有望性や長期的な安定感なども鑑みて柔軟に運用すべきか等が論点となる。

横綱審議委員会及び内規ができる以前はある程度幅のある対応がなされていた。連続優勝で昇進を見送られたのは玉錦三右エ門(年4場所で3連覇)と千代の山雅信(年3場所で2連覇)がいるが、いずれも後に(ともに連覇ではなかったが)横綱に昇進している。なお、優勝制度確立後に年2場所で大関の地位で2場所連続優勝を決めたのは太刀山峯右エ門栃木山守也双葉山定次の3人がいるがいずれも場所後に横綱に昇進しているため、年2場所では皆無という事になる。

しかし、少なくとも年6場所になってからは、この「2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を挙げた力士」が昇進の是非を審議する目安とされてきたのは確かである。双羽黒廃業事件以降、厳密な連続優勝を昇進の条件とすることによって基準が明らかとなった一方で、優勝という形式的な基準に囚われ、相撲の内容が顧みられないという問題も起こった。

[編集] 具体的なケース

  • 旭富士正也は、1988年(昭和63年)1月場所を14勝で優勝、続く3月場所と5月場所を各12勝した。さらに1989年(平成元年)には、1月場所から5月場所までの3場所を14勝(優勝同点)、13勝(次点)、13勝(優勝同点)と40勝での極めて高いレベルで安定した成績を残した。だが、以前なら当然横綱に昇進できる成績だったが、昇進することが出来なかった。最終的に横綱に昇進したものの、昇進が遅過ぎたためか横綱在位は僅か9場所(うち皆勤は6場所)、在位中の優勝は1回に留まった。
  • 小錦八十吉は、1991年(平成3年)5月場所と7月場所を14勝(優勝同点)、12勝(次点)、また同年11月場所から1992年(平成4年)3月場所までの3場所を13勝(優勝)、12勝、13勝(優勝)と極めて安定した成績を残したにもかかわらず、理事長からの横綱審議委員会への横綱昇進に関する諮問がなく昇進できなかった。1992年(平成4年)3月下旬の横審定例会で約半数の委員から小錦への横綱昇進の諮問があってよいのではないかという意見があったが、結局諮問はなかった。また、同定例会で外国人であることが横綱昇進に何ら障害とならないという考えが確認されたが、ニューヨーク・タイムズ紙、日本経済新聞に「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」といった趣旨の記事が掲載され、外国人横綱を誕生させることへの抵抗の有無が取り沙汰された。小錦はこの昇進見送りに気落ちしたのかその後失速、終盤まで優勝争いに絡む事がなくなり、そして1993年(平成5年)11月場所で大関において2場所連続負け越したことにより、関脇に陥落が決定してしまった。その後の小錦は平幕の地位まで下がり、1997年(平成9年)11月場所限りで現役引退した。
  • 貴乃花光司は、1993年(平成5年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(同点)としたが、理事長から横綱審議委員会への諮問がなく昇進はならなかった。翌1994年(平成6年)は1月場所から9月場所までの5場所中3場所で優勝、うち9月場所では全勝を果たし(14勝-11勝-14勝-11勝-15勝)、9月場所後には理事長から横綱審議委員会への諮問が行われた。理事長の諮問がありながら横審が否定の答申をした例は1969年11月場所直後の北の富士以降長年の間なく新聞各紙も横綱昇進確実と報じたが、またも昇進を見送られた。横審が昇進を答申しなかった理由は、2場所連続優勝でないこと、特に7月場所の11勝で貴乃花の綱獲りは白紙に戻ったとしながら、次の9月場所の全勝で「2場所連続優勝は横綱審議委員会の内規であって協会の諮問とは無関係」という姿勢で横綱推挙を言わば強行した協会の姿勢への批判などが大きな要因だった。横審の委員の中では貴乃花の昇進に賛成する者が過半数だったが、内規に定められた「出席委員の3分の2以上の賛成」には達しなかった。しかし翌11月場所でも15戦全勝し、2場所連続全勝優勝という双葉山以来非の打ち所のない成績で、ようやく横綱昇進を果たした。
  • 武蔵丸光洋は、1994年(平成6年)5月場所と7月場所を12勝(次点)、15勝(全勝)という成績だったが、横綱問題は議論されなかった。5月場所が大関になって初めての2桁勝利であり、優勝次点も優勝の貴乃花に2点差で、7月場所に武蔵丸の綱獲りのムードはそもそもなかった。翌9月場所に綱獲りに挑むも11勝に終わっている。
  • 若乃花勝は、1996年(平成8年)11月場所と1997年(平成9年)1月場所を11勝(同点)、14勝(優勝)と2場所連続優勝に準ずる成績を残しながらも、昇進を見送られた。優勝なしの11勝は優秀な成績とはいえないとの見方もあり、この頃から「綱獲りは優勝が基点になる」という協会の態度が定まる。翌3月場所は横綱昇進のチャンスだったが、初日から3連勝しながらも3日目に右足を大けが、4日目から途中休場した。
  • 魁皇博之は、2004年(平成16年)9月場所と11月場所を13勝(優勝)、12勝(次点)の成績を残しながらも、昇進が見送られた。11月場所は初日を落とした後朝青龍と並ぶことが遂に無く、14日目での優勝を許してしまったのが大きかった。千秋楽に朝青龍を下して12勝とし、翌2005年(平成17年)1月場所に綱取りの可能性を繋いだが、左肩腱板炎のため途中休場し昇進は白紙に戻った。その後の魁皇は大関の地位で長く務めたものの、終盤まで優勝争いに加わる事は殆ど無く勝ち越すのがやっとの状態となり、2011年(平成23年)7月場所限りで現役引退。なお、魁皇の幕内優勝は5回も数えたが、最高位が大関以下での幕内優勝回数は魁皇が史上最多記録だった。
  • 白鵬翔は、2006年(平成18年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(次点)の成績を残しながらも、朝青龍に独走を許したのがマイナス要因となり昇進を見送られた。新大関から2場所での横綱昇進は年6場所制で初めてとなるため、特に高いレベルでの連覇が求められたためもある。関脇時代の1月場所からの4場所連続13勝以上は、考慮されなかった。翌9月場所は再び昇進のチャンスだったが8勝7敗の成績不振で綱取りは振り出しになった。2007年(平成19年)3月場所は13勝(優勝)したが、優勝決定戦の内容が立ち合いの変化であったため印象が悪く翌5月場所は十分な内容が求められた。その5月場所で自身初の全勝優勝という文句なしの成績を残し、横綱昇進を果たした。
  • 逆のパターンとして、第63代横綱・旭富士正也は1990年(平成2年)3月場所にギリギリ勝ち越しの8勝の後、同年5月場所と7月場所を各14勝の連続優勝により昇進。第64代横綱・曙太郎は、1992年(平成4年)7月場所の新大関場所で全休し翌9月場所に9勝と一桁勝利の後、11月場所と1993年(平成5年)1月場所を14勝と13勝の連続優勝で昇進。第66代横綱・若乃花勝は、直前場所の1998年(平成10年)5月場所は12勝の低レベル優勝でありながらも、3月場所と5月場所を14勝と12勝の連続優勝により昇進。第67代横綱・武蔵丸光洋は、1999年(平成11年)1月場所が千秋楽で辛うじて勝越しの8勝の後に、3月場所と5月場所を各13勝の連続優勝で昇進するなどの例もある。
    • 特に第66代横綱・若乃花勝の場合、相撲協会内には「もう1場所様子をみるべき」という意見が有った程である。それでも「若乃花は2場所連続優勝しており、内規をクリアーしている。」という理由により、貴乃花の2場所連続全勝優勝という完璧な成績での横綱審議でさえ10分掛かったにもかかわらず、横審ではわずか7分で若乃花の横綱昇進を全会一致で決めていた。しかし、横綱昇進後の若乃花は優勝を1度も果たしておらず、さらに横綱皆勤負け越しなどの不名誉な記録を残したまま、横綱在位は11場所(うち皆勤は5場所)で早々引退してしまった。その後、かつて理事長職を務めた北の湖(一代年寄)は「優勝の成績は13勝以上」とよく注文を付けていたことも、若乃花の甘い横綱昇進の例と関係が有るのではないかとの声があった。

このように連続優勝という条件だけに固執する弊害を指摘する声も少なくなく、そもそも番付編成上は優勝と全く公平に扱われている優勝同点の価値が横綱昇進時にのみ低く扱われることも問題視されている。大関昇進は直前3場所の成績で決まるのに、それより高い成績を求められる横綱昇進は直前2場所のみの成績で決まるのは問題があるとして、横綱昇進の内規についても直前3場所の成績で決まるように改めるべきとの声も少なくない。これには、横綱になるためには先ず大関にならなければならない以上、「大関で連続優勝」の条文はその条件を既に内包している、との反論もある。

また、勝ち星が内規にないことも問題とする意見もある。今後は、横綱昇進内規を直前3場所の成績に改めるだけでなく、勝ち星についても具体的に付け加えるべきとの声もある。

  • 1958年(昭和33年)に年6場所制が施行されてから、負け越した(全休含む)場所後の2場所で横綱に昇進した例は皆無である。前述で横綱昇進の際に3場所の成績で見るべきということについて、特に3場所前が負け越し(全休含む)の場合は、2場所合計29勝以上の超ハイレベルな連続優勝が求められるべきとの声が多い。事実、2008年(平成20年)5月場所に角番で14勝の優勝だった琴欧洲の綱取り条件が全勝優勝のみだった。横綱なら長期安定こそ望ましいということで、やはり負け越しの後では成績が不安定だから昇進のハードルを高くすべきだと思われよう。
  • 一方で本来、横綱とは数字に表れる強さに加えて力士としての品格・態度が評価されて(「品格」は内規にも明示されている)免許されていたものであり、勝率などで一律に昇進基準を定めてしまっては、その本質を損なうとの反論もある。柏鵬時代を築いた第47代横綱・柏戸剛などは、横綱昇進前3場所成績が優勝が1回もない33勝12敗という成績で、大関推挙の目安としてもギリギリとされるラインの勝ち星に留まっていたにも係わらずに横綱昇進を果たした。

[編集] 記録

[編集] 横綱在位記録

  • 2012年(平成24年)1月場所終了現在
順位 四股名 在位数 在位期間 在位中成績
1位 北の湖敏満 63場所 1974年9月-1985年1月 670勝156敗107休、優勝22回
2位 千代の富士貢 59場所 1981年9月-1991年5月 625勝112敗137休、優勝29回
3位 大鵬幸喜 58場所 1961年11月-1971年5月 622勝103敗136休、優勝29回
4位 貴乃花光司 49場所 1995年1月-2003年1月 429勝99敗201休、優勝15回
5位 曙太郎 48場所 1993年3月-2001年1月 432勝122敗166休、優勝8回
6位 柏戸剛 47場所 1961年11月-1969年7月 407勝147敗140休、優勝4回
輪島大士 1973年7月-1981年3月 466勝142敗85休、優勝12回
8位 朝青龍明徳 42場所 2003年3月-2010年1月 463勝91敗76休、優勝23回
9位 千代の山雅信 32場所 1951年9月-1959年1月 239勝103敗1分137休、優勝3回
10位 羽黒山政司 30場所 1942年1月-1953年9月 321勝94敗1分117休、優勝3回
  • 朝青龍は不祥事を起こして引退に追い込まれている。
  • 千代の山と羽黒山は、年6場所制定着以前の昇進。羽黒山には、その在位中に戦後の混乱で本場所開催が不定期だった期間がある。
  • 上記力士の横綱土俵入りは羽黒山のみ不知火型、他の9人は雲龍型を選択している。

[編集] 短命横綱

  • 太平洋戦争敗戦から、2012年(平成24年)1月場所終了現在までの記録。
順位 四股名 在位数 在位期間 在位中成績
1位 前田山英五郎 6場所 1947年11月-1949年10月 24勝27敗5休、優勝なし
2位 琴櫻傑將 8場所 1973年3月-1974年5月(番付上は1974年7月) 66勝34敗20休、優勝1回
三重ノ海剛司 1979年9月-1980年11月 55勝23敗30休、優勝2回
双羽黒光司 1986年9月-1987年11月(番付上は1988年1月) 74勝33敗13休、優勝なし
5位 旭富士正也 9場所 1990年9月-1992年1月 71勝29敗24休、優勝1回
6位 玉の海正洋 10場所 1970年3月-1971年9月 130勝20敗0休、優勝4回
7位 若乃花勝 11場所 1998年7月-2000年3月 61勝38敗57休、優勝なし
8位 隆の里俊英 15場所 1983年9月-1986年1月 95勝42敗75休、優勝2回
9位 朝潮太郎 (3代) 16場所 1959年5月-1961年11月(番付上は1962年1月) 102勝58敗95休、優勝1回
10位 吉葉山潤之輔 17場所 1954年3月-1958年1月 109勝67敗79休、優勝なし
栃ノ海晃嘉 1964年3月-1966年11月 102勝69敗84休、優勝1回
  • 前田山・朝潮・吉葉山は、年6場所制定着以前の昇進。前田山には、その在位中に戦後の混乱で本場所開催が不定期だった期間がある。
  • 前田山と双羽黒は不祥事を起こして引退・廃業に追い込まれている。玉の海は現役中に急病死している。
  • 上記力士の横綱土俵入りは前田山・三重ノ海・朝潮・栃ノ海の4人が雲龍型、他の7人は不知火型を選択している。

[編集] 優勝回数記録

  • 2012年(平成24年)1月場所終了現在。太字の白鵬は現役中。
順位 四股名 優勝回数 横綱在位中優勝 全勝優勝
1位 大鵬幸喜 32回 29回 8回
2位 千代の富士貢 31回 29回 7回
3位 朝青龍明徳 25回 23回 5回
4位 北の湖敏満 24回 22回 7回
5位 貴乃花光司 22回 15回 4回
6位 白鵬翔 21回 18回 8回
7位 輪島大士 14回 12回 3回
8位 双葉山定次 12回 9回 8回
武蔵丸光洋 7回 1回
10位 曙太郎 11回 8回 なし
  • 双葉山は、幕内在位を通して年2場所制。全勝優勝8回中、11戦全勝が2回、13戦全勝が3回。
  • 上記力士の横綱土俵入りは白鵬のみ不知火型、他の9人は雲龍型を選択している。

[編集] 大関通過場所数

  • 昭和以降

[編集] スピード通過記録

大関場所数 四股名 新大関場所 新横綱場所 大関での成績
2場所 双葉山定次 1937年(昭和12年)1月 1938年(昭和13年)1月 11戦全勝◎
13戦全勝◎
(24戦全勝)
照國萬藏 1942年(昭和17年)1月 1943年(昭和18年)1月 12勝3敗
13勝2敗
(25勝5敗)
3場所 北の湖敏満 1974年(昭和49年)3月 1974年(昭和49年)9月 10勝5敗
13勝2敗◎
13勝2敗○
(36勝9敗)
千代の富士貢 1981年(昭和56年)3月 1981年(昭和56年)9月 11勝4敗
13勝2敗
14勝1敗◎
(38勝7敗)
朝青龍明徳 2002年(平成14年)9月 2003年(平成15年)3月 10勝5敗
14勝1敗◎
14勝1敗◎
(38勝7敗)
4場所 男女ノ川登三 1934年(昭和9年)5月 1936年(昭和11年)5月 (31勝13敗)
羽黒山政司 1940年(昭和15年)1月 1942年(昭和17年)1月 (46勝11敗3休)
安藝ノ海節男 1941年(昭和16年)1月 1943年(昭和18年)1月 (47勝13敗)
輪島大士 1972年(昭和47年)11月 1973年(昭和48年)7月 (50勝10敗)
双羽黒光司 1986年(昭和61年)1月 1986年(昭和61年)9月 (46勝14敗)
曙太郎 1992年(平成4年)7月 1993年(平成5年)3月 (36勝9敗15休)
  • ☆は年6場所制以前の力士、◎は優勝、○は優勝同点、()内は大関通算成績
  • 曙は新大関場所を全休。
  • 大正以前では、東西合併による「横綱付出し」の例も在って比較が難しいが、栃木山守也の大関2場所(9勝1預-10戦全勝)、大錦卯一郎の3場所(8勝2敗-7勝3敗-10戦全勝)、太刀山峯右エ門の4場所等が特筆される。

[編集] スロー通過記録

大関場所数 四股名 新大関場所 新横綱場所 大関での成績
32場所 琴櫻傑將 1967年11月 1973年3月 287勝159敗34休 優勝4回
武蔵丸光洋 1994年3月 1999年7月 353勝127敗 優勝5回
29場所 若乃花勝 1993年9月 1998年7月 274勝101敗60休 優勝4回
21場所 北の富士勝昭 1966年9月 1970年3月 208勝107敗 優勝3回
三重ノ海剛司 1976年1月 1979年9月 180勝123敗12休
20場所 玉の海正洋 1966年11月 1970年3月 206勝94敗 優勝2回
18場所 前田山英五郎 1938年5月 1947年11月 155勝67敗14休 優勝1回
17場所 佐田の山晋松 1962年5月 1965年3月 176勝66敗13休 優勝1回
旭富士正也 1987年11月 1990年9月 194勝61敗 優勝3回
13場所 大乃国康 1985年9月 1987年11月 140勝55敗 優勝1回
  • ☆は年6場所制定着以前の力士。
  • 三重ノ海は関脇1場所を挟む。

[編集] 新横綱の優勝

四股名 新横綱場所 成績 備考
太刀山峯右エ門 1911年(明治44年)6月 10戦全勝
栃木山守也 1918年(大正7年)6月 9勝1敗 *不戦勝制度があれば常ノ花が優勝同点
(宮城山福松) (1926年(昭和2年)1月) (10勝1敗) *東西合併による横綱付け出し
双葉山定次 1938年(昭和13年)1月 13戦全勝
東富士欽壱 1949年(昭和24年)1月 10勝2敗1分 *1分は相手力士負傷による痛み分け
大鵬幸喜 1961年(昭和36年)11月 13勝2敗
隆の里俊英 1983年(昭和58年)9月 15戦全勝 千秋楽、横綱千代の富士と全勝相星決戦
貴乃花光司 1995年(平成7年)1月 13勝2敗(○武蔵丸 *()内は優勝決定戦

[編集] 四横綱

番付上に最も多くの横綱の出揃ったのは4人までで、2006年(平成18年)12月現在で15通りの例がある。

最初の4横綱は、1917年(大正6年)5月場所、第22代横綱・太刀山峯右エ門、第24代横綱・鳳谷五郎、第25代横綱・2代西ノ海嘉治郎、第26代横綱・ 大錦卯一郎によって実現した。翌1918年(大正7年)5月には太刀山の引退と入れ替わりに第27代横綱・栃木山守也が誕生し、同場所で西ノ海が引退するまで連続3場所4横綱時代が続いた。

4横綱総当りは、春秋園事件の余波で一門別総当り制の実施されていた1938年(昭和13年)5月場所に、玉錦三右エ門武藏山武男女ノ川登三双葉山定次によって初めて実現した(この顔ぶれ自体は前場所の1月場所からだが、この時は武蔵山が途中休場)。結果は、双葉山3戦全勝、武藏山2勝、男女ノ川1勝、玉錦3戦全敗だった。この場所は武藏山と男女ノ川は6勝6敗どうしの千秋楽対決という悲惨な結果となっている(武藏山が勝ち、男女ノ川が負け越し)。

同じ顔触れで最も長く続いた4横綱時代は千代の山雅信鏡里喜代治吉葉山潤之輔栃錦清隆による14場所。1955年(昭和30年) 1月場所で栃錦が昇進してから、1958年(昭和33年)1月場所後に鏡里と吉葉山が同時に引退するまで続いた。4横綱の皆勤は1956年(昭和31年)3月場所の1場所きりとなったものの、8場所で4横綱のいずれかが優勝(吉葉山に優勝がないのを除き、他の3横綱が複数回の優勝)を果たしている。

現行の年6場所制定着後で最も長かった4横綱時代は、柏戸剛大鵬幸喜栃ノ海晃嘉佐田の山晋松による11場所で、1965年(昭和40年)3月場所から1966年(昭和41年)11月場所までである。実質の4横綱皆勤は1965年(昭和40年)9月場所の一度きりであったが(40年5月場所では大鵬が千秋楽のみ休場、佐田の山に不戦敗)、全盛期の大鵬を中心に11場所すべて4横綱のいずれかが優勝している。

4横綱皆勤の最も多かったのは、年6場所制以前では双葉山定次羽黒山政司安藝ノ海節男照國萬藏1943年(昭和18年)1月場所から1945年(昭和20年)11月場所までの7場所中3場所(うち1場所は10日制)、6場所制後では輪島大士北の湖敏満2代若乃花幹士三重ノ海剛司が、1979年(昭和54年)9月場所から1980年(昭和55年)11月場所までの8場所中3場所となっている。

昭和末期の1987年(昭和62年)11月場所では、千代の富士貢双羽黒光司北勝海信芳大乃国康の4横綱が全て皆勤となったが、場所後に双羽黒が廃業となったため、この4横綱は1場所のみ(番付上では翌1988年1月場所と合わせて合計2場所)となってしまった。

平成時代に入ってからは、千代の富士貢北勝海信芳大乃国康旭富士正也の4横綱時代が、1990年(平成2年)9月場所から1991年(平成3年)5月場所までの5場所連続であるが、全員皆勤となったのは1990年(平成2年)11月場所の1場所のみだった。その後1991年(平成3年)5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、大乃国、旭富士、北勝海が僅か1年の間に相次いで引退してしまい、横綱空位となった。

最近の4横綱だった曙太郎貴乃花光司若乃花勝武蔵丸光洋は、1999年(平成11年)7月場所から2000年(平成12年)3月場所まで5場所続いたが、2000年(平成12年)3月場所で若乃花が引退となるまで、4横綱全員が皆勤する場所は一度も無いままに終わってしまった(四横綱が揃っての出場は1999年9月場所初日・2日目、及び2000年3月場所初日~5日目の計7日間のみ)。それだけ4人もの力士が同時期に最高位を極め、かつその地位を保つことの難しさを表している。

[編集] その他の記録

出身地別横綱輩出数
8人 北海道 千代の山雅信吉葉山潤之輔大鵬幸喜北の富士勝昭
北の湖敏満千代の富士貢北勝海信芳大乃国康
6人 青森県 鏡里喜代治若乃花幹士 (初代)栃ノ海晃嘉
若乃花幹士 (2代)隆の里俊英旭富士正也
4人 宮城県 丸山権太左エ門☆、谷風梶之助 (2代)秀の山雷五郎大砲万右エ門
千葉県 境川浪右エ門小錦八十吉 (初代)若島権四郎鳳谷五郎
鹿児島県 西ノ海嘉治郎 (初代)西ノ海嘉治郎 (2代)西ノ海嘉治郎 (3代)朝潮太郎 (3代)
東京都 東富士欽壹栃錦清隆貴乃花光司若乃花勝
3人 栃木県 明石志賀之助☆ 綾川五郎次 (初代)☆ 栃木山守也
茨城県 稲妻雷五郎常陸山谷右エ門男女ノ川登三
2人 石川県福岡県熊本県富山県愛知県
三重県アメリカ合衆国ハワイ州
モンゴル国ウランバートル市
1人 滋賀県大阪府など17府県
  • ☆は伝承上の横綱。明石と綾川には茨城出身説もある。
  • 実際の出身地と番付上の出身地が異なる場合もある。本稿では番付表記を優先している。 
横綱同時昇進(免許)
常陸山と2代梅ヶ谷は入門も同期。
常陸山と2代梅ヶ谷の昇進時は常陸山を先代とすることにしたが、常陸山が先に引退したことを受けてそれ以降、同時に昇進した場合は先に引退した者を先代の横綱にすることになった。同時に昇進した複数の横綱が同時に引退した例はまだ無い。
他に栃木山守也大錦大五郎が、ともに「1918年5月場所」が新横綱であるが、それぞれ東京相撲と大坂相撲の力士で、厳密には免許の時期も異なり、一般に同時横綱の例には数えられていない。横綱一覧表などでも、大錦の引退が早かったが栃木山が先代の扱いとなっている。
同期生横綱
常陸山と2代梅ヶ谷は横綱昇進も同時。
2代若乃花と隆の里、貴乃花と3代若乃花は同日同部屋入門。
貴乃花と3代若乃花の間で一度だけ実現した兄弟優勝決定戦は、若乃花の大関時代であり、「同日同部屋入門の同期生横綱による優勝決定戦」はまだ実現していない。
横綱在位中での最多連勝記録

分・預・休を含める・含め無いにかかわらず、横綱が正式な地位として扱われてからは、平成22年(2010年)中に達成した白鵬翔の63連勝が最多である。その前回の記録としては、昭和63年(1988年)の千代の富士の53連勝だった。双葉山定次の69連勝は、平幕から横綱に掛けてのものだった為、双葉山の横綱としての最多記録は36連勝である。逆に横綱としての連勝の最少記録は武藏山武の4。

横綱在位中での最多連敗記録

不名誉であるためほとんど話題にされないが、分・預・休を含めず不戦敗(引退時のものも含む)を含める場合照国萬蔵と北の富士勝昭と貴乃花光司の8連敗が最多である。貴乃花は不戦敗を含めなければ7連敗であり、平成以降では最多となってしまっている。

横綱在位中に降格を経験している横綱

番付上に横綱が銘記された明治23年(1890年)5月場所以降に横綱から降格した力士はいない。明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代でも横綱免許を取り消された横綱はいない。そのため、横綱の地位から降格した力士は現在まで一人もいない。

しかし、明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代で第8代横綱・不知火諾右衛門が大関から張出(三役格)への降格を経験した(当時は最高位が大関)。明治23年(1890年)年5月場所より前の横綱免許制度時代でもこのような降格経験者は不知火諾右衛門のみ。不知火諾右衛門は天保11年(1840年)11月に横綱免許を受けながら、翌12年正月場所では番付から消え、天保12年(1841年)11月場所で西張出(三役格)として復帰した。その直後の天保13年(1842年)2月場所で西関脇に昇進し、同年10月場所で西大関に復帰。不知火諾右衛門の降格は相撲会所や、彼を抱える熊本藩、さらにはその熊本細川家の家臣である吉田司家の間で、様々な紛糾、妥協のあった末とも言われるが詳細は不明。

上記の例は横綱制度が成熟していなかった時代で、かつ上記のように現代では考えられない極めて特殊な場合である。現在では、日本相撲協会寄附行為施行細則に定める協会所属員への懲罰としての番附降下処分が行われるときを除き、横綱が降格することはない。

大関陥落後復帰・大関角番を経験している横綱

大関陥落を経験している横綱は、現行制度の整った昭和以降では三重ノ海剛司が唯ひとりである。

江戸時代には谷風梶之助は横綱免許前に興行上の理由から看板大関に上位を譲って関脇への降格を経験している。

また、大関角番を経験した横綱には、 琴櫻傑將(横綱としての大関在位最長記録も持つ)、曙、貴乃花、3代若乃花、白鵬らがいる。

横綱在位中に負け越しを経験している横綱
東正位横綱経験なしの横綱

横綱が正式な地位として扱われてから、東正位の地位で横綱経験無しだった横綱は西ノ海嘉治郎 (2代)武藏山武前田山英五郎双羽黒光司大乃国康の5人。

横綱空位・横綱不在

明治42年(1909年)2月の相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められて以降、番付で横綱が存在しない時期、すなわち「横綱空位」と言われた時期が2回ある。

  • 昭和6年(1931年)5月-昭和7年(1932年)10月・合計6場所
宮城山福松の引退から玉錦三右エ門の昇進まで
  • 平成4年(1992年)5月(番付上では1992年7月)-平成5年(1993年)1月・合計5場所
北勝海信芳の引退から曙太郎の昇進まで

また横綱が全員休場していることを「横綱不在」と言うこともある。

[編集] 大横綱

幕内最高優勝回数や連勝記録、勝率が際立って高い横綱は大横綱、特に元号昭和平成の頃に活躍した横綱はそれぞれ、昭和の大横綱平成の大横綱と呼ばれている。

江戸時代の大横綱谷風を指すことが多い。また、明治時代の大横綱初代梅ヶ谷常陸山等、大正時代の大横綱太刀山栃木山を指すことが多い。

谷風の横綱在位場所数は年6場所制定着後の大横綱と比べ少ないが、谷風が実質的な初代横綱であり現役中に横綱制度ができたことや、当時本場所が年2場所制だったことを考えると少ないとはいえない。また、現在の年6場所制で大横綱とよばれる貴乃花(優勝22回)、北の湖(優勝24回)等の優勝回数に比肩する優勝回数(谷風の優勝相当成績 21回)を、現在の3分の1しかない年2場所制で達成したことを考えると、谷風の優勝回数は極めて多いといえる。現に150年以上の年2場所制の時代で20回以上の優勝・優勝相当成績を達成したのは谷風と雷電(優勝相当成績 28回)だけである。さらに、優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは大相撲の長い歴史の中で谷風だけである。以上のように、谷風は天下無敵とよばれるのにふさわしい成績を収めているが、力量だけでなく人間的にも立派で品格抜群である[4][5]。そのため谷風は歴代横綱の第一人者とされ、実質的な初代横綱として横綱の模範とされる大横綱である[4][6]

太刀山の優勝回数・横綱在位場所数は、昭和の大横綱と言われる双葉山の成績と比較しても遜色ない。両者は谷風、雷電と比較すると優勝回数が少ないが彼らが超人的なだけであり、谷風を除けば年2場所制下の横綱中で優勝回数が多い。年2場所制下では双葉山は歴代4位、太刀山は歴代5位の優勝回数である。年6場所制での大横綱である大鵬、千代の富士、北の湖、貴乃花と比べれば優勝回数・横綱在位場所数が少ないといえるが、年2場所制下での成績であることや連勝・勝率を考えると大横綱と呼ばれるのにふさわしいと考えられている。

昭和の大横綱は、一般的には双葉山大鵬北の湖千代の富士の4人を指すのが妥当と考えられる。なお千代の富士は、平成初期(元年~3年)にかけても活躍しているが、昭和末期(56年~63年)の頃の活躍が主であり、「平成の大横綱」と呼ばれる事はほとんどなく、「昭和最後の大横綱」と呼ばれる事が多い。

平成の大横綱は、貴乃花が活躍し始めたころ、昭和の大横綱と比較する形で生まれた。2004年頃に朝青龍が活躍し始めた頃にも貴乃花に次ぐ2人目の平成の大横綱として呼ばれ始めた。もっとも朝青龍は、成績の点で言えば歴代3位の優勝25回に加え、史上最多の7連覇を達成した平成時代でも特筆すべき強豪横綱であり、マスメディアで報道される際も「大横綱」と呼称されることもあった。しかし朝青龍の場合、横綱昇進後に数々の騒動やトラブルを起こし続け、挙げ句の果て最終的には不祥事で現役引退に追い込まれた経緯を考えると、横綱の条件である品格を備えた横綱とは言えず、大横綱もしくは名横綱とはいえないと考える者も少なくない。

現在では第69代横綱・白鵬が、2009年2010年に年間最多の86勝を達成し、さらに2010年には年6場所制以降で史上初の4場所連続15戦全勝優勝や、平成最多の63連勝を成し遂げるなど活躍中である。年6場所制では概して幕内優勝回数が20回を超えると大横綱と呼ばれる傾向があるが、2011年9月場所で白鵬も優勝回数を20回の大台に乗せ、「大横綱」と呼ばれるにふさわしい状況となったと言える。

特に上述の横綱の中で、谷風、常陸山、双葉山は力量だけでなく品格抜群と評され、歴代横綱中別格の存在として他の力士の模範となっている。中でも常陸山と双葉山は現在でも「角聖」の異名で呼ばれることが多く、現役中のみならず引退後も後進の指導と育成に優れた業績を残している。

[編集] 大横綱と呼ばれる各力士の成績

  • 2012年1月場所終了現在。
  • デフォルトでは時代の古い順に配列。在位期間の列のソートボタンで元の順序に戻る。
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横綱名 在位
場所数
在位期間

 
綱成績
 
金星
配給
優勝回数
(優勝同点)

 
内成績
 
横綱
勝率
幕内
勝率
連勝記録
たにかぜ/谷風梶之助 11場所 1789年11月 -
1794年11月
055勝 002敗 05分 1預 2無 036休 2 21回 (2) 258勝 014敗 16分 16預 5無 112休 .965 .949 63連勝*
(98連勝)
らいでん/雷電爲右エ門 (参考) 1811年2月引退 28回* 254勝 010敗 02分 08預 5無 041休 .962 44連勝*
うめがたに/梅ヶ谷藤太郎 (初代) 03場所 1884年05月 -
1885年05月
010勝 002敗 03分 0預 012休 0 09回 116勝 006敗 18分 02預 078休 .833 .951 58連勝
ひたちやま/常陸山谷右エ門 22場所 1904年01月 -
1914年06月
083勝 010敗 17分 2預 097休 0 07回* 150勝 015敗 22分 02預 131休 .892 .909 32連勝
たちやま/太刀山峯右エ門 14場所 1911年06月 -
1918年01月
084勝 003敗 01分 1預 051休 0 11回* 195勝 027敗 10分 05預 073休 .966 .878 56連勝
とちぎやま/栃木山守也 15場所 1918年05月 -
1925年05月
115勝 008敗 06分 3預 011休 0 09回 166勝 023敗 07分 04預 024休 .935 .878 29連勝
ふたばやま/双葉山定次 17場所 1938年01月 -
1945年11月
180勝 024敗 022休 14 12回 276勝 068敗 01分 033休 .882 .802 69連勝*
たいほう/大鵬幸喜 58場所 1961年11月 -
1971年05月
622勝 103敗 136休 28 32回 (2) 746勝 144敗 136休 .858 .838 45連勝
きたのうみ/北の湖敏満 63場所 1974年09月 -
1985年01月
670勝 156敗 107休 53 24回 (5) 804勝 247敗 107休 .811 .765 32連勝
ちよのふじ/千代の富士貢 59場所 1981年09月 -
1991年05月
625勝 112敗 137休 29 31回* 807勝 253敗 144休 .848 .761 53連勝
たかのはな/貴乃花光司 49場所 1995年01月 -
2003年01月
429勝 099敗 201休 39 22回 (4) 701勝 217敗 201休 .813 .764 30連勝*
あさしょうりゅう/朝青龍明徳 42場所 2003年03月 -
2010年01月
463勝 091敗 076休 24 25回 (1) 596勝 153敗 076休 .836 .796 35連勝
はくほう/白鵬翔 27場所 2007年07月 -
現役
365勝 040敗 5 21回 (4) 559勝 110敗 021休 .901 .836 63連勝
  • 雷電は最高位大関。
  • 谷風、雷電、梅ヶ谷の優勝回数は幕内最高成績(優勝相当)の回数。
  • 谷風、雷電、梅ヶ谷の時代には、幕内力士は千秋楽は休場するのが通例。また、谷風、雷電には番付に名前の載らない「不出場」(星取表に残らない休場)もしばしばあった。
  • 谷風の63連勝は江戸本場所のみの記録。大阪本場所、京都本場所を含めると98連勝。
  • 谷風と雷電の連勝記録には、幕下力士五人掛けを1勝にかえた星が含まれる。
  • 谷風、雷電、太刀山には、他にそれぞれ43連勝があって、40連勝以上を二度はこの3人だけ。
  • 常陸山の優勝7回の内訳は優勝1回、優勝相当6回。
  • 太刀山の優勝11回の内訳は優勝9回、優勝相当2回。
  • 谷風から双葉山までの現役時代は年2場所制、優勝決定戦制度なし
  • 千代の富士は優勝決定戦に6回出場して全勝。
  • 雷電と貴乃花の連勝記録は大関時代のもの。なお貴乃花の横綱時代での最多記録は17連勝が2回。
  • 双葉山の69連勝は関脇・大関・横綱時代にかけてのもので、横綱時代での最多記録は36連勝。
  • 太字の白鵬は現役中。

[編集] 横綱の品格

横綱は力量だけでなく、品格抜群とされるからこそ横綱とされる建前である。これは横綱昇進条件ともなっている。 横綱の品格基準は日本相撲協会によると、

  • 一、 相撲に精進する気迫
  • 二、 地位に対する責任感
  • 三、 社会に対する責任感
  • 四、 常識ある生活態度
  • 五、 その他横綱として求められる事項

である。しかし、これらを基準として横綱の品格を判断しても、多数者の見解として「品格抜群」といえるか疑問を持たれる横綱は少なくない。品格は成績と異なり客観的判断が難しく、前田山双羽黒朝青龍のように事件を起こす等、極めて悪い特段の事情が認められない限り、品格を問題視され引退に追い込まれることはない。そのため、横綱昇進の条件ともなっている「品格抜群」という条件は、横綱昇進・存続においてほとんど機能しておらず、事実上成績さえ満たせば横綱昇進・存続する。

近年の例では2007年(平成19年)7月場所後、第68代横綱・朝青龍が夏巡業休場表明後の仮病疑惑(母国モンゴルでのサッカー事件)により、2場所連続出場停止という処分が下される。横綱としての品格が問題視され、一部から引退も囁かれていた程であった。その後も朝青龍は現役を続行したものの、それから2年半後の2010年(平成22年)1月場所中に、又してもトラブルを起こした朝青龍に対し、横綱審議委員会から史上初の「引退勧告書」が提出される。結局朝青龍は同年2月4日に、自ら責任を取る形で現役引退に追い込まれてしまった。

しかし、歴代横綱で品格抜群の横綱がいないわけではなく、力士の模範となる者も存在する。例えば、第4代横綱・谷風梶之助、第19代横綱・常陸山谷右衛門、第35代横綱・双葉山定次は品格・力量抜群とされ、歴代横綱の中で別格の存在として他の力士の模範となっている。


参考グラフ・大鵬

参考グラフ・北の湖

参考グラフ・千代の富士

参考グラフ・三大横綱


参考グラフ・貴乃花

[編集] アマチュア相撲の横綱

アマチュア横綱全日本相撲選手権大会の優勝者)、学生横綱全国学生相撲選手権大会の優勝者)、実業団横綱全日本実業団相撲選手権大会の優勝者)、高校横綱全国高等学校相撲選手権大会の優勝者)、中学生横綱全国中学校相撲選手権大会の優勝者)など、年代ごとの主要大会での優勝者を通称として「横綱」と呼ぶことも多い。特に、わんぱく横綱(小学生を対象にしたわんぱく相撲全国大会の優勝者)は、翌年の大会で大相撲の横綱とほぼ同じ横綱土俵入りを披露することが出来る。貴乃花光司が小学生時代にわんぱく横綱として土俵入りを行っている。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 京都大関で五条家横綱の磯風音次郎は1890年(明治23年)5月 吉田司家より横綱免許の記録有りとする文献有り- 読売新聞社 古今大相撲辞典 1980年(昭和55年)2月1日発行
  2. ^ " どこまで厳しくなる?横綱昇進条件 " - 大相撲 2009年7月号 p64  読売新聞社
  3. ^ " 【大相撲】横審、日馬富士「来場所の綱取りは厳しい」 " - 産経ニュース(web) 2009.5.25
  4. ^ a b " 谷風梶之助" - メインウェーブ 史上最強力士RANKING
  5. ^ " 郷土見守る大横綱 " - 内館牧子 読売新聞 2005年1月26日
  6. ^ " 第4代横綱 谷風梶之助 " - 大相撲クイズ 綱の系譜
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