太宰治

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太宰 治
(だざい おさむ)
Dazai Osamu.jpg
1948年2月頃[1]田村茂撮影[1]
誕生 津島 修治(つしま しゅうじ)
1909年6月19日
日本の旗 日本 青森県北津軽郡金木村
(現:五所川原市
死没 1948年6月13日(満38歳没)
日本の旗 日本 東京都北多摩郡三鷹町
(現:三鷹市
墓地 東京都三鷹市禅林寺
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学仏文科中退
活動期間 1933年 - 1948年
主題 女性や落伍者の心理
古典や説話のオマージュ
人間の宿痾
文学活動 無頼派新戯作派
代表作 富嶽百景』(1939年)
走れメロス』(1940年)
津軽』(1944年)
お伽草紙』(1945年)
ヴィヨンの妻』(1947年)
斜陽』(1947年)
人間失格』(1948年)
処女作 「列車」
配偶者 津島美知子(1938年 - 1948年)
子供 津島園子津島雄二妻)
津島佑子
太田治子
親族 津島文治(兄)
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太宰 治(だざい おさむ、1909年明治42年)6月19日 - 1948年昭和23年)6月13日)は、日本小説家である。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。1936年(昭和11年)に最初の作品集『晩年』を刊行し、1948年(昭和23年)に山崎富栄と共に玉川上水入水自殺を完遂させた。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』。その作風から坂口安吾織田作之助石川淳らとともに新戯作派無頼派と称された。

経歴[編集]

幼年時代[編集]

青森県北津軽郡金木村(後の金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門(1871年 - 1923年)と母タ子(たね、1873年 - 1942年)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目(ただし太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士。津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、太宰自身は乳母らによって育てられた。

学生時代[編集]

高校の卒業アルバムより

1916年大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。1923年(大正12年)、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学直前の3月、父源右衛門が死去した。 17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。『戦旗』を愛読した。

田部シメ子
1928年頃撮影

1929年昭和4年)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二・名義で作品を発表。 この頃は他に小菅銀吉または本名・津島修治の名義でも文章を書いていた。自らの階級に悩み12月カルモチン自殺を図る。

1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、実家からの仕送りで有る意味豪奢な生活・デカダンスを送る一方、それに対する自己嫌悪・六男坊という太宰自身の立ち位置もあいまって、マルキシズムに傾倒してゆき、当時治安維持法にて取り締まられた共産主義活動に没頭、講義には殆ど出席しなかった。また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。この頃から本名・津島修治に変わって太宰治を名乗るようになる。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍される[注釈 1]。在学中に、カフェ女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。

小説家時代[編集]

黒マント姿の太宰治
1946年、銀座のBAR「ルパン」にて(林忠彦撮影)[2]
太田静子

芥川龍之介を敬愛しつつ1933年(昭和8年)、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年(昭和10年)、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三蒼氓』)。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。

その後、都新聞社(現・東京新聞)に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時には太宰を高く評価していた。第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。第3回では仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っているが、過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定が設けられ候補にすらならなかった。

1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌1937年(昭和12年)、内縁の妻・小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂、一年間筆を絶つ。

1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ3か月逗留。また、井伏の仲人で甲府市出身の地質学者石原初太郎の娘である石原美知子(1912-1997)と結婚した。この時、太宰は井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出。その中で、「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書き、過去何度も失敗した自殺未遂から立ち直り、美知子を一生かけて守っていくとする決意を語っていた[3]

甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表した。戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を継続。1945年(昭和20年)7月6日-7日の甲府空襲も体験している。

1946年(昭和21年)、銀座のバー「ルパン」にて織田作之助と飲んでいるところに写真家林忠彦と出会う。この時撮ったのが有名なネクタイを締め椅子の上で胡座をかいた写真である[4]

1947年(昭和22年)、没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、斜陽族流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。

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人間失格』『桜桃』などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日玉川上水で、愛人山崎富栄[1]入水自殺した。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられた。

この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教ジンクスを暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺のひとつの理由だったとする説もあった。

しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った[5]

既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里東京博善堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。

桜桃忌の行事[編集]

太宰の墓がある東京都三鷹市禅林寺では、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

嗜好[編集]

小説「禁酒の心」にあるように、酒を飲んだが、「酒を飲まなければ、クスリをのむことになる」と妻を脅した(『回想の太宰治)。新婚当時、何丁もの湯豆腐ばかりを食べ、「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」と講釈したが、歯が悪いのが原因だった。京都「大市」のスッポン料理や、「若松屋」のウナギ料理が好きだった。味の素は中毒のようであった。味噌汁も好きだった。故郷の味を大事にし、『津軽』では故郷の食べ物が出てきて「アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ」という会話がある。生家は養鶏業も営んでいたので、鶏を自分でさばいて、水炊きをよく食べた[6]

略歴[編集]

  • 1909年6月19日 - 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
  • 1916年4月 - 金木第一尋常小学校に入学。
  • 1922年4月 - 金木第一尋常小学校を卒業し学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校に一年間通学。
  • 1923年
  • 1925年 - この頃より作家を志望、級友との同人雑誌等に小説・戯曲・エッセイを発表。
  • 1927年
  • 1928年
    • 5月 - 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、辻島衆二・名義で『無間奈落』を発表。
    • 9月 - 四号で廃刊するまでに井伏鱒二舟橋聖一等の寄稿を得る。
  • 1929年12月 - カルモチン自殺を図る。
  • 1930年
    • 3月 - 弘前高等学校を卒業。
    • 4月 - 東京帝国大学仏学科入学。
    • 5月 - 井伏鱒二のもとに出入りするようになる。
    • 11月 - カフェの女給田部シメ子鎌倉小動岬で心中未遂を起こす。相手・シメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類であることや、担当の刑事がたまたま金木出身であることが太宰にとって有利に作用したとする説もある(中畑慶吉の談話)。
  • 1931年2月 - 小山初代と同棲。
  • 1933年2月 - 『サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した」と井伏鱒二の回想「太宰君」にて記されている。
  • 1934年12月 - 檀一雄山岸外史木山捷平中原中也津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
  • 1935年
    • 3月 - 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。東大を中退。
    • 8月 - 『逆行』が第1回芥川賞候補となったが、次席。佐藤春夫を知り、以後師事する。
  • 1936年
    • 6月25日 - 最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。
    • 10月13日 - パビナール中毒治療のため武蔵野病院に入院。
  • 1937年
    • 3月 - 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを荻窪の碧雲荘の二階炊事場廊下にて小館自身より告白され、初代と心中未遂、離別。
    • 6月 - 井伏鱒二の斡旋で杉並区天沼1丁目へ転居。
  • 1938年
    • 9月18日 - 石原美知子とお見合いをする。
    • 11月6日 - 美知子と婚約。
  • 1939年
  • 1941年6月7日 - 長女・園子誕生。
  • 1944年8月10日 - 長男・正樹誕生。
  • 1945年
    • 3月 - 妻子を甲府の石原家に疎開させる。
    • 4月2日 - 三鷹も空襲を受ける。甲府の石原家に疎開
    • 7月 - 爆撃のため甲府の石原家も全焼。妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつく。
津島家新座敷(五所川原市)

作品一覧[編集]

甲府市朝日(旧御崎町)の太宰治旧居跡

作品[編集]

作品名 初出 単行本
ロマネスク 『青い花』1934年12月号 『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)
燈籠 『若草』1937年10月号 女性』(博文館、1942年6月)
富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号 女生徒』(砂子屋書房、1939年7月)
黄金風景 國民新聞』1939年3月2日、3月3日 『女生徒』(砂子屋書房)
女生徒 『文學界』1939年4月号 『女生徒』(砂子屋書房)
新樹の言葉 書き下ろし 『愛と美について』(竹村書房、1939年5月)
葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号 『皮膚と心』(竹村書房、1940年4月)
八十八夜 『新潮』1939年8月号 『皮膚と心』(竹村書房)
畜犬談 『文学者』1939年10月号 『皮膚と心』(竹村書房)
皮膚と心 『文學界』1939年11月号 『皮膚と心』(竹村書房)
俗天使 『新潮』1940年1月号 『皮膚と心』(竹村書房)
春の盗賊 『文芸日本』1940年1月号 女の決闘』(河出書房、1940年6月)
女の決闘 『月刊文章』1940年1月号~6月号 『女の決闘』(河出書房)
駈込み訴え 『中央公論』1940年2月号 『女の決闘』(河出書房)
走れメロス 『新潮』1940年5月号 『女の決闘』(河出書房)
古典風 『知性』1940年6月号 『女の決闘』(河出書房)
乞食学生 『若草』1940年7月号~12月号 『東京八景』(実業之日本社、1941年5月)
きりぎりす 『新潮』1940年11月号 『東京八景』(実業之日本社)
東京八景 『文學界』1941年1月号 『東京八景』(実業之日本社)
清貧譚 『新潮』1941年1月号 千代女』(筑摩書房、1941年8月)
みみずく通信 『知性』1941年1月号 『千代女』(筑摩書房)
佐渡 『公論』1941年1月号 『千代女』(筑摩書房)
千代女 改造』1941年6月号 『千代女』(筑摩書房)
新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
風の便り 『文學界』1941年11月号
『文藝』1941年11月号
『新潮』1941年12月号
風の便り』(利根書房、1942年4月)
『知性』1941年12月号 『風の便り』(利根書房)
婦人画報』1942年1月号 『女性』(博文館)
十二月八日 婦人公論』1942年2月号 『女性』(博文館)
律子と貞子 『若草』1942年2月号 『風の便り』(利根書房)
水仙 『改造』1942年5月号 『日本小説代表作全集 9』(小山書店、1943年1月)
正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号 『佳日』(肇書房、1944年8月)
右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
不審庵 『文藝世紀』1943年10月号 『佳日』(肇書房)
花吹雪 書き下ろし 『佳日』(肇書房)
津軽 書き下ろし 『津軽』(小山書店、1944年11月)
新釈諸国噺 『新潮』1944年1月号、10月号
『文藝』1944年5月号
『文藝世紀』1944年9月号
『月刊東北』1944年11月号
ほかは書き下ろし
『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
竹青 『文藝』1945年4月号 『薄明』(新紀元社、1946年11月)
惜別 書き下ろし 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
パンドラの匣 『河北新報』
1945年10月22日~1946年1月7日
『パンドラの匣』(河北新報社、1946年6月)
冬の花火 『展望』1946年6月号 『冬の花火』(中央公論社、1947年7月)
春の枯葉 『人間』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
『思潮』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
親友交歓 『新潮』1946年12月号 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房、1947年8月)
男女同権 『改造』1946年12月号 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
トカトントン 『群像』1947年1月号 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
ヴィヨンの妻 展望』1947年3月号 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
女神 『日本小説』1947年5月号 『女神』(白文社、1947年10月)
フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号 『太宰治随想集』(若草書房、1948年3月)
眉山 小説新潮』1948年3月号 『桜桃』(実業之日本社、1948年7月)
斜陽 『新潮』1947年7月号~10月号 『斜陽』(新潮社、1947年12月)
如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号~7月号 『如是我聞』(新潮社、1948年)
人間失格 『展望』1948年6月号~8月号 『人間失格』(筑摩書房、1948年7月)
グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日
『朝日評論』1948年7月1日
『人間失格』(筑摩書房)

単行本[編集]

書名 出版社 出版年月日 備考
晩年 砂子屋書房 1936年6月25日 作品集
虚構の彷徨 新潮社 1937年6月1日 作品集
二十世紀旗手 版画荘 1937年7月20日 作品集
愛と美について 竹村書房 1939年5月20日 書き下ろし作品集
女生徒 砂子屋書房 1939年7月20日 作品集
皮膚と心 竹村書房 1940年4月20日 作品集
思ひ出 人文書院 1940年6月1日 作品集
女の決闘 河出書房 1940年6月15日 作品集
東京八景 実業之日本社 1941年5月3日 作品集
新ハムレット 文藝春秋 1941年7月2日 書き下ろし長編小説
千代女 筑摩書房 1941年8月25日 作品集
駆込み訴へ 月曜荘 1942年1月1日 作品集
風の便り 利根書房 1942年4月16日 作品集
老ハイデルベルヒ 竹村書房 1942年5月20日 作品集
正義と微笑 錦城出版社 1942年6月10日 書き下ろし長編小説
女性 博文館 1942年6月30日 作品集
信天翁 昭南書房 1942年11月15日 作品集
富嶽百景 新潮社 1943年1月10日 作品集
右大臣実朝 錦城出版社 1943年9月25日 書き下ろし長編小説
佳日 肇書房 1944年8月20日 作品集
津軽 小山書店 1944年11月15日 書き下ろし長編小説
新釈諸国噺 生活社 1945年1月27日 作品集
惜別 朝日新聞社 1945年9月5日 書き下ろし長編小説
お伽草紙 筑摩書房 1945年10月25日 書き下ろし作品集
パンドラの匣 河北新報社 1946年6月5日 長編小説
薄明 新紀元社 1946年11月20日 作品集
姥捨 ポリゴン書房 1947年6月10日 作品集
冬の花火 中央公論社 1947年7月5日 作品集
ろまん燈籠 用力社 1947年7月10日 作品集
ヴィヨンの妻 筑摩書房 1947年8月5日 作品集
狂言の神 三島書房 1947年8月30日 作品集
女神 白文社 1947年10月5日 作品集
斜陽 新潮社 1947年12月15日 長編小説
太宰治随想集 若草書房 1948年3月21日 作品集
桜桃 実業之日本社 1948年7月25日 作品集
人間失格 筑摩書房 1948年7月25日 長編小説
(「グッド・バイ」も収録)

作品研究[編集]

  • 無頼派」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、4回の自殺未遂や自身の生活態度ととも相まって、退廃的な作風にのみ焦点があてられがちだが、『お伽草紙』『新釈諸国噺』「畜犬談」「親友交歓」「黄村先生言行録」などユーモアの溢れる作品を多数残している。永らく太宰文学を好きになれなかったという杉森久英は、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという[10]
  • 長編・短編ともに優れていたが、特に「満願」等のようにわずか原稿用紙数枚で見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。
  • 1948年4月、太宰の死の直前から『太宰治全集』が八雲書店から刊行開始されるが、同社の倒産によって中断した。その後、創藝社から新しく『太宰治全集』が刊行される。しかし書簡や習作なども完備した本格的な全集は1955年筑摩書房から刊行されたものが初めてである。

家族・親族[編集]

津島家[編集]

(青森県北津軽郡金木村(のちの北津軽郡金木町、現青森県五所川原市))
津島家の家系については様々な説があり、明確ではない。初代惣助は豆腐を売り歩く行商人だったという。昭和21年(1946年)に発表した「苦悩の年鑑」のなかで「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた 」と書いている。惣助は売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする伝承もあり、菩提寺南台寺の墓碑でも祖先は“対馬姓”となっている。この“対馬姓”と刻まれたについて、太宰の甥津島康一俳優)は、「どっからかもってきたんじゃないかな」となにやら意味ありげな“対馬姓”の刻名を信用していない口ぶりで「うちの系図はやばいんですよ」と恥ずかしそうに述べている[13]
津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、もとの名を勇之助といった。天保6年(1835年)大百姓山中久五郎の次男として生まれ、安政6年(1859年)津島家の婿養子となった。山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。慶応3年(1867年)二代目惣助が他界し、「家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りの行商と金貸しで財を蓄え新興の大地主となった。明治27年(1894年)北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、明治28年(1895年)北津軽郡所得税調査委員選挙に当選、明治30年(1897年)再び郡会の大地主議員となり県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。家紋は「鶴の丸」である。金木の生家は太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。
  • 津島文治 - 源右衛門の三男(長兄)。金木町長、青森県知事、衆議院議員、参議院議員を歴任。長男の康一は俳優。
  • 津島英治 - 源右衛門の四男(次兄)。金木町長。孫の恭一は元衆議院議員。
  • 津島圭治 - 源右衛門の五男(三兄)。結核により28歳で早世。
  • 津島慶三 - 従姉りえの三男。生化学者。横浜市立大学医学部名誉教授。
  • 石原明 - 義弟(妻・美知子の弟)。ニューヨーク州立大学名誉教授。
  • 田沢吉郎 - 姪婿(文治の娘・陽の夫)。元衆議院議員、元防衛庁長官。

松木家[編集]

木造の松木家は、金木の津島家や、三代目惣助が出た嘉瀬の山中家よりもはるかに格式の高い旧家である。藩政時代には苗字帯刀を許された郷士だった。
『松木家由緒書』などによると、先祖は若狭国小浜(現・福井県)の商人で、万治年間(1658-60年)に弘前にやってきて、羽二重の商いをしていた。寛文年間(1661-72年)津軽藩の新田開発が始まると木造に移り住み、開墾の功を認められ大庄屋郷士になった。明治に入って、八代目七右衛門の時代に、薬種問屋屋号松樹堂)に転業するまで、代々造り酒屋を営んでいた。

関連人物[編集]

  • 浅見淵 - 太宰の先輩作家。砂子屋書房から処女創作集『晩年』を刊行するにあたっては、浅見と檀一雄の尽力が大きかった。
  • 石川淳 - 戦後、太宰、坂口安吾織田作之助と共にいわゆる無頼派の騎手とされた文学者。太宰とは昭和14年頃以来4度ほど酒席を共にした。太宰の死に際し「太宰治昇天」と題した文章を発表(『新潮』第45巻第7号、1948年7月)。
  • 石上玄一郎 - 本名上田重彦。旧制弘前高校時代の太宰の友人で、左翼運動の同志。石上は運動にのめりこんで放校になり、塗炭の苦しみを嘗めたが、太宰は実家の威勢などを背景に放校を免れた。のち東京に出て貧乏に苦しんでいたとき太宰に借金を踏み倒され、そのことを自伝の中で怨念をこめて語っている。
  • 井伏鱒二 - 太宰の師。太宰自身の言によれば、太宰がまだ青森の中学生だったころ、井伏の「幽閉」(「山椒魚」の原形)を読んでその天才に興奮した。大学上京後から師事し、結婚の仲人も井伏に務めてもらった。戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執にはさまざまな説があるが、詳しくはわかっていない。
  • 伊馬春部 - 別名伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として「畜犬談」を捧げられた。折口信夫に太宰作品を勧めたのも伊馬である。入水前に伊藤左千夫の「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という短歌を録した色紙を伊馬宛てに残した。太宰嫌いで有名な三島由紀夫は目黒時代伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。『桜桃の記』執筆。
  • 大西巨人 - 作家。『文化展望』編集者として原稿依頼し、「十五年間」を創刊号に掲載。1948年に「太宰治の死」と題する追悼文を発表している。
  • 小野才八郎 - 太宰の弟子。
  • 桂英澄 - 太宰の弟子。洋画家・桂ゆきの弟。
  • 亀井勝一郎 - 太宰の友人。
  • 賀陽治憲 - 賀陽宮恒憲王の第二王子。皇籍離脱後に外交官。1947年10月14日付の『時事新報』で「太宰治の”斜陽”はちょっと身につまされておもしろいですね」と発言。太宰は「如是我聞」で「或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた」と言及している。
  • 川端康成 - 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と批評したため、太宰は「川端康成へ」と題する短文を書いて抗議。川端は「太宰治氏へ芥川賞について」という短文を発表し、「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい(…)「生活に厭な雲云々」も不遜の暴言であるならば、私は潔く取消」すと、冷静に釈明した。後に『社会』1948年4月号の志賀直哉廣津和郎との「文藝鼎談」での川端の発言に対して『新潮』1948年6月号掲載の「如是我聞(三)」で太宰は、「なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく痩やせた俗物作家、これは論外。」と罵倒した。
  • 小館善四郎 - 太宰の親類。画学生時代に小山初代と過ちを犯す。のち洋画家となる。
  • 小山清 - 太宰の弟子。
  • 小山祐士 - 太宰の友人。劇作家。
  • 今官一 - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇「善蔵を思う」には「甲野嘉一君」として登場する。
  • 坂口安吾 - 太宰の友人。太宰の死をめぐって「不良少年とキリスト」「太宰治情死考」「ヤミ論語」等を書く。
  • 佐藤春夫 - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。結局、太宰が落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説「芥川賞」を書き、太宰の非常識な行動を暴露し報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという。太宰の「東京八景」にその後の経緯が記されている。外ヶ浜町の観瀾山にある太宰治文学碑の碑銘を揮毫。
  • 志賀直哉 - 長篇小説『津軽』で太宰から批判(名指しではないが)を受けたのを根に持ち、雑誌の座談会で中村眞一郎佐々木基一を相手にして太宰を酷評。旧制学習院出身で貴族社会をよく知る志賀から、『斜陽』に登場する貴族の娘の言葉遣いが山出しの女中のようで閉口した、もう少し真面目にやったらよかろう云々とこき下ろされたことに逆上した太宰は、最晩年の連載評論「如是我聞」で志賀に反撃した。当時、文士が志賀直哉に逆らうということは事実上の文壇追放を意味していたと言われる。太宰の死後、1948年8月15日、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」と『津軽』の件で太宰に腹を立てていたことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。
  • 杉森久英 - 編集者時代に太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、遥か年下と勘違いした太宰が画集を出してミケランジェロの偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っているよと反感を持ったという。戦後には、たまたま「如是我聞」事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。『苦悩の旗手 太宰治』執筆。
  • 田中英光 - 小説家。太宰の弟子。オリンピック選手。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で自殺。
  • 田村茂 - 写真家。(太宰の)三鷹市の自宅周辺を舞台にした、一連のポートレートで知られる
  • 檀一雄 - 小説家。太宰の親友。走れメロスは檀との熱海でのエピソードがモデルになっているという説もある。
  • 土屋嘉男 - 俳優。井伏鱒二の紹介により知り合う。太宰から芝居の道へ進むよう進言され、俳優となった。
  • 堤重久 - 太宰が最も信頼していた弟子。のち京都産業大学名誉教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
  • 堤康久 - 堤重久の弟。『正義と微笑』の題材となった日記を提供した。戦後は東宝の専属俳優となり、『ウルトラQ』『ウルトラマン』などに出演した。
  • 津村信夫 - 太宰の友人。同時代の詩人の中では、津村の詩を太宰は誰よりも高く評価していた。
  • 寺内寿太郎 - 彼の遺書の1節が短篇「二十世紀旗手」の冒頭のエピグラフに引用される。
  • 豊島与志雄 - 太宰の先輩作家。太宰の死後、葬儀委員長を務めた。
  • 中井英夫 - 東大在学中、第十四次『新思潮』の編集者として、当時中井が最も心酔し反発もしていた太宰と交際(「続・黒鳥館戦後日記」に詳しい)。「禿鷹―あとがきに代えて―」等によれば、1948年5月16日に太宰宅を訪問したとき、太宰が八雲書店から届いた自らの全集を撫で廻して嬉しそうにしているのを見て、作家の全集を生前に刊行するのを滑稽と考えていた中井は「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その約一ヵ月後に自殺した。後に問い詰めたことを後悔したという。中井が『新思潮』に書いてもらったのは「」で、原稿料を一枚五十円支払ったという。後に生活が苦しかった折、この直筆原稿を古書店に一万円で売り、翌日には店頭に五万円で売り出されていたと回想している。
  • 長尾良 - 作家、『コギト』同人。太宰が1938年9月に御坂峠の天下茶屋に転居するまでの二ヶ月ほどのあいだ、杉並区天沼鎌滝方の太宰の部屋に入り浸り無為徒食の生活を共にしていた。その頃の様子は『太宰治 その人と』に記されている。1944年に、檀一雄の異父妹・高岩忍と結婚。
  • 中野嘉一 - 太宰がパビナール中毒で東京武蔵野病院に入院していたときの主治医で詩人。太宰をサイコパスと診断した。「善蔵を思う」の甲野嘉一は名前をもじったもの。
  • 中谷孝雄 - 太宰の友人で日本浪曼派の中心人物。
  • 中野好夫 - 東大英文科教授。短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論「如是我聞」のなかで「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の死後、『文藝1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」のなかで、「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と太宰の人生を指弾した。
  • 中原中也 - 『青い花』の同人仲間。酒席での凄絶な搦みで有名な中原は「お前は何の花が好きなんだい」と訊ね、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。太宰の側では中原を尊敬しつつも、人間性を嫌っており、親友山岸外史に対して「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。後に中原没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったという。
  • 中村地平 - 井伏門下で、太宰の兄弟弟子。大学時代からの親友だったが、口論から絶交。
  • 野口冨士男 - 『文芸時代』の同人。日本文藝家協会書記局嘱託として葬儀で弔辞を読む。
  • 野原一夫 - 新潮社の担当編集者。『回想太宰治』等を書く。
  • 野平健一 - 新潮社の担当編集者。『週刊新潮』二代目編集長。『矢来町半世紀 太宰さん三島さんのこと、その他』等を書く。
  • 林忠彦 - 写真家。太宰が行きつけだった銀座のバーで織田作之助を撮影していたところ、泥酔の太宰が「おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ!」と言って撮影させた。この写真は林の代表作の一つとなっている。
  • 平岡敏男 - 弘前高校時代の友人。のち毎日新聞社社長となる。
  • 深田久弥 - 太宰の先輩作家。妻の北畠八穂が太宰と同郷だった縁がある。太宰は都新聞の入社試験に落ちて鎌倉で縊死を企てた時、深田の作風を慕って彼の家を訪ねている。ただし当時の深田の代表作はほとんどが北畠の作品の焼き直しだったことが戦後に露見した。 
  • 別所直樹 - 太宰の弟子。
  • ヘルベルト・オイレンベルク - 「女の決闘」の原作者。
  • 星新一 - 作家。学生時代、太宰のパビナール中毒期の作品に傾倒。「こういった百年に一人の才能に、まともに挑戦するのはむりというものだ。私は自己の文体を乾いた空気のごとく透明にするようつとめ、物語の構成にもっぱら力をそそいでいる。太宰と逆の方向へ走らねばと、気が気でない」と後に記している。
  • 三島由紀夫 - 12歳の頃、『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』を、同じ痛みを感得して読む[14][注釈 2]。その後、『斜陽』は雑誌連載時から読み、川端康成宛書簡には、「『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります」[15]と記している。しかし後のエッセイでは、この作品に登場する貴族の言葉遣いが現実の貴族とかけ離れていることを指摘している[16][注釈 3]。1946年12月14日、矢代静一に誘われて太宰と亀井勝一郎を囲む会合に出席した。矢代によれば「太宰が会ってくれることになった」と告げたとき、三島は目を輝かして「僕も連れてってよ」と邪気なくせがんだという[17]。三島はこの会合で、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言し、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたと三島は述懐している[16]。しかし、その場に居合わせた野原一夫によれば、三島は「能面のように無表情」で発言し、太宰は三島の発言に対して「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという[18]。三島はその後、しばしば太宰への嫌悪を表明し続けた[注釈 4]。『小説家の休暇』では、「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた」「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」と記し[19]、その他の座談会や書簡等にもその種の記述が見られる[注釈 5]。晩年には、1968年に行われた一橋大学でのティーチ・インにて、「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反撥するし、だからこそ逆の方に行くのでしょうね」[20]と述べた。また、自決の2か月ほど前には村松剛や編集者に対して、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白し、村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言ったとされる[21][22]
  • 棟方志功 - 太宰の同郷人。美術に対して鋭い感覚を持っていた太宰は、早くも旧制中学のころ、無名時代の棟方の作品を高く評価してこれを購入し、下宿先の主人に寄贈したことがある(「青森」)。太宰が作家になってからは、同郷人の寄り合いで同席した太宰の挨拶が小さいので「もう、いっぺん!」と要求し、太宰から怒鳴られたことがある(「善蔵を思う」)。
  • 森鴎外 - 太宰は、「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり、三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓石と向き合う所(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆による。
  • 保田與重郎 - 太宰の友人。『日本浪曼派』同人。
  • 山岸外史 - 評論家。太宰の親友。1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、『青い花』や日本浪曼派の同人として交友を深めた。自身も『人間キリスト記』などの著作により太宰の文学に影響を与えたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となった。しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を回想録『人間太宰治』(1962年(昭和37年))、『太宰治おぼえがき』(1963年(昭和38年))のなかで明らかにしている。
  • 山口健二 - アナーキスト。戦時中に太宰と面会し親炙。
  • 吉本隆明 - 評論家。学生時代に「春の枯葉」の上演許可を得るため太宰の元を訪れ言葉を交す。後に太宰治論執筆。

太宰治(に相当する人物)を演じた俳優[編集]

参考文献[編集]

太宰の伝記[編集]

その他[編集]

長篠康一郎編、女性文庫・学陽書房 1995年

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 東京大学卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われたが、講義に出席していなかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。
  2. ^ しかし『私の遍歴時代』では、それらを読んだことを「太宰氏のものを読みはじめるには、私にとつて最悪の選択であつたかもしれない」と三島は述べている。
  3. ^ 貴族の娘が台所のことを「お勝手」と言ったり、「お母さまの食事のいただき方」(正しくは「召上り方」)、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」(自分に敬語を付けている)というような敬語の使い方の間違いを指摘している。
  4. ^ 戸板康二『泣きどころ人物誌』、瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』、出口裕弘『三島由紀夫・昭和の迷宮』等にその種の発言が記されている。
  5. ^ 不道徳教育講座』や「奥野健男著『太宰治論』評」など。

出典[編集]

  1. ^ a b 朝日新聞東京西部版 2009年11月24日「カメラがとらえた作家太宰治 肖像写真86点展示 三鷹で来月23日まで/東京都 」
  2. ^ きらら山口
  3. ^ 「破婚なら棄てて」太宰治の結婚誓約書、46年ぶり公開 - 朝日新聞デジタル 2014年4月20日閲覧。
  4. ^ 林忠彦賞 2014年11月7日閲覧
  5. ^ 新潮1998年7月号に原文資料掲載、朝日新聞1998年5月24日記事。
  6. ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年pp.150-158)。
  7. ^ 『太宰治全集 第9巻』筑摩書房、1990年10月25日、474頁。解題(山内祥史)より。
  8. ^ 太宰治の作品に対しての著作権の保護期間は、第1次-第4次暫定延長措置及び1971年の改正著作権法が適用される
  9. ^ 著作権が消滅して以降、各出版社から作品が次々と刊行されている。
  10. ^ 杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』文藝春秋、1967年。
  11. ^ 太宰治著『女生徒』(角川文庫)、小山清の作品解説より。
  12. ^ “太宰作品にGHQ検閲=「神国」など削除指示-4短編集7作品、米で新資料”. 時事通信. (2009年7月31日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009073101151 
  13. ^ 鎌田慧著『津軽・斜陽の家 〜太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』81頁)
  14. ^ 安藤武「年譜」(三島由紀夫中世』)(講談社文芸文庫、1998年)
  15. ^ 三島由紀夫「川端康成への書簡 昭和22年10月8日付」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)
  16. ^ a b 三島由紀夫「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年)
  17. ^ 矢代静一「太宰治と三島由紀夫」(新潮 1998年7月号に掲載)
  18. ^ 野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
  19. ^ 三島由紀夫『小説家の休暇』(講談社 ミリオン・ブックス、1955年)
  20. ^ 三島由紀夫「学生とのティーチ・イン――国家革新の原理」(『文化防衛論』)(新潮社、1969年)
  21. ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  22. ^ 井上ひさし小森 陽一編著『座談会昭和文学史 第三巻』(集英社、2003年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]