野口冨士男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。

来歴・人物[編集]

東京麹町生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが留年し、1930年に中退。1933年文化学院文学部卒。

卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが、1935年、紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1937年、母方の籍に入って平井姓となる。

第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員。1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念。約10年を費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語った。このころ東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営む。

1965年、1500枚の『徳田秋声伝』で毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し、1976年『わが荷風』で、1979年『かくてありけり』で読売文学賞を、1980年、短編「なぎの葉考」で川端康成文学賞を受賞。1982年日本芸術院賞[1]1986年、『感触的昭和文壇史』で菊池寛賞1987年日本芸術院会員。1984年から日本文藝家協会理事長を務めた。

他の代表作に小説「暗い夜の私」(1969年)などがある。呼吸器不全のため自宅で死去。

膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦(1940年生まれ)が『六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書、2008年)で一端を明らかにした。2011年、野口冨士男生誕百年記念出版として、1945年8月15日から1947年1月12日までの日記(1945年8月15日から同年8月24日までは『海軍日記』から転用)が、越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された。

著書[編集]

  • 『風の系譜』青木書店 1940
  • 『女性翩翻』通文閣(青年芸術派叢書) 1941
  • 『眷属』大観堂 1942
  • 『黄昏運河』今日の問題社(新鋭文学選集) 1943
  • 『白鷺』大日本雄弁会講談社 1949
  • 『いのちある日に』河出書房 1956
  • 『ただよい』小壷天書房 1958
  • 『海軍日記 最下級兵の記録』現代社 1958、新版文藝春秋、1982
  • 『二つの虹』現代社 1958
  • 『徳田秋聲伝』筑摩書房 1965
  • 『暗い夜の私』講談社 1969
  • 『徳田秋聲ノート 現実密着の深度』中央大学出版部 1972
  • 『わが荷風』集英社 1975 中公文庫 1984、講談社文芸文庫 2002
  • 『かくてありけり』講談社 1978、「しあわせ」と併せ講談社文芸文庫 1992
  • 『私のなかの東京』文藝春秋 1978、中公文庫 1989、岩波現代文庫 2007
  • 『流星抄』作品社 1979
  • 『徳田秋聲の文学』筑摩書房 1979
  • 『散るを別れと』河出書房新社 1980
  • 『なぎの葉考』文藝春秋 1980、「少女」と併せ講談社文芸文庫 2009
  • 『風のない日々』文藝春秋 1981
  • 『作家の椅子』作品社 1981
  • 『いま道のべに』講談社 1981
  • 『断崖のはての空』河出書房新社 1982
  • 相生橋煙雨』文藝春秋 1982
  • 『文学とその周辺』筑摩書房 1982
  • 『誄歌』河出書房新社 1983
  • 『虚空に舞う花びら』花曜社 1985
  • 『感触的昭和文壇史』文藝春秋 1986
  • 『少女 作品集』文藝春秋 1989  のち講談社文芸文庫
  • 『しあわせ』講談社 1990  のち講談社文芸文庫
  • 『野口富士男自選小説全集』上下 河出書房新社 1991
  • 『時のきれはし』講談社 1991
  • 『野口冨士男随筆集 作家の手』武藤康史編、ウェッジ文庫、2009
  • 『越ヶ谷日記』越谷市教育委員会 2011
  • 『越谷小説集』越谷市教育委員会 2014

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日新聞』1982年3月3日(東京本社発行)朝刊、22頁。