阿川弘之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 阿川 弘之 | |
|---|---|
| 1920年12月24日 - | |
| 生誕地 | 広島市白島九軒町土手通り |
| 所属組織 | 大日本帝国海軍 |
| 軍歴 | 1942年 - 1945年 |
| 最終階級 | 海軍大尉 |
| 戦闘 | 太平洋戦線 |
| 除隊後 | 作家 |
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
| お知らせ |
| このテンプレートの解説ページができました。使用されるべき記事が決まりましたので一度ご確認ください。 |
阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 - )は、日本の小説家、評論家。学歴は東京帝国大学文学部国文科卒業。学位は文学士(東京帝国大学)。称号は広島県名誉県民。日本芸術院会員。栄典は文化勲章受章。賞歴は野間文芸賞、毎日出版文化賞、読売文学賞など。役職は日本李登輝友の会名誉会長。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、3部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に実業家の父阿川甲一・キミの長男として生まれる(本籍地は山口県美祢市伊佐町河原)。母は大阪出身で生家は刀剣商であった[1]。
偕行社附属済美小学校、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「志賀直哉」。
海軍予備学生として海軍に入隊する。1943年に少尉任官、軍令部勤務を命ぜられ、わずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。中尉に進級した直後の1944年「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。1945年の終戦を中華民国湖北省漢口で迎える。
1946年2月いまだ現役かどうかはっきりしないポツダム大尉という身分で揚子江を上海へ下り3月末博多へ上陸復員する。大陸から引き揚げ、広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされてしまった故郷の街を見る。戦友も多くを亡くした。「自分は生き残ってしまった、と言う無常感が根付いてしまった」。
志賀直哉に師事して小説を書く。1953年、一作でいいから、自分達同期生の戦時中の海軍生活をありのまま描いたものを残したい、と亡き友らの鎮魂の思いで描いた『春の城』で読売文学賞を受賞した。
海軍予備士官当時、呉港の沖合いに停泊中の戦艦大和を見た経験から、それを小説に書こうとしたが、新潮社の担当編集者に「そんな陰気くさい話を書いても売れません」と拒否される。しかし、吉田満『戦艦大和ノ最期』がベストセラーになると新潮社の担当は態度を変えて阿川に軍艦ものの執筆を依頼する。この時生まれたのが『軍艦長門の生涯』である。この作品を阿川は武蔵の乗員として戦死した同期二人に奉げる思いで執筆した。以後、原爆や海軍などの自らの戦争体験を通して、戦争の悲惨さや、生きる意味を人間の内面の実感を通して暖かい視線で描いている。
文部省臨時大学問題審議会委員、文化功労者選考審査会委員を歴任。1999年、文化勲章受章。また、日本芸術院会員。2001年12月から2004年4月まで、「日本李登輝友の会」の初代会長を務める(現在は名誉会長)。
[編集] エピソード
- 二・二六事件の際にはひどく興奮し帰宅するなり母親に向かい「こういうことは大嫌いじゃ。無茶苦茶じゃ。これじゃけぇ陸軍はいやなんじゃ。」と大声の広島弁でまくし立てた。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で丸橋さんという近所の退役陸軍大佐と碁を打っており、母から「大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな」と小声でたしなめられたが、阿川は「何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ」と胸のうちで思っていたという。二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになったという[2]。
- 狐狸庵こと遠藤周作や北杜夫、吉行淳之介、三浦朱門、開高健らとは親友である。特に北杜夫の随筆、紀行文には星新一、遠藤周作、なだいなだ等と共に度々登場する。また、大の乗り物ファンとしても知られ、鉄道・航空・船舶に関してなど、乗り物についての著書も多い。このため鉄道紀行作家の宮脇俊三とは、宮脇が中央公論社の編集者であったころから親交が深く、阿川の鉄道関連の本の幾つかは宮脇の勧めによるものである。内田百閒の『阿房列車』シリーズへのオマージュとなる作品も書いている。
- 乗り物好きという事もあってか、比較的最近も自ら自動車の運転もしている事を文藝春秋のコラムに記している。
- 文壇麻雀の全盛期には、最強の実力を誇っていた。
- 大江健三郎とは犬猿の仲で、互いの著作で批判しあっている。
- 井伏鱒二は尊敬しており、読書アンケート「戦後の名作」10選で、井伏作品は「多すぎて選べません」と回答している。
- 「文壇の瞬間湯沸かし器」とあだ名されるほど短気で有名である。
- 保守派の論客として評論活動も活発に行っている。ただし、保守が単純なナショナリズムに転化する事に関しては警鐘を鳴らしている。
- なお当人は東海道新幹線の計画が発表された際、当時欧米では自動車と航空機に押されて鉄道は衰退する物という見解が強まっていたため、日本でもそうなると考えて新幹線に高額な投資を行うのは「世界三大馬鹿」の一つになるといって批判した。後に新幹線が成功を収め、逆に国際的な鉄道斜陽論を覆すに至ると、その見る目のなさを悔いたといわれる。
- 1970年公開の映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本を当初監督する予定だった黒澤明は阿川の『山本五十六』を下敷きにして書いた。20世紀フォックスは原作料を阿川に支払ったと記録しているが、本人は記憶にないという。
- 二代目中村吉右衛門主演の大映作品『あゝ海軍』に、帝国海軍参謀役で一場面・一台詞のみの、今でいうカメオ出演をしている。なお本作は、市川雷蔵が主演予定だったが製作開始前に逝去したので、当時東宝所属の吉右衛門が代役になった。
- 評論家の半藤一利は「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである」と『阿川弘之全集』(新潮社、全20巻)の刊行に際し言葉を寄せている。
- 月刊文藝春秋で巻頭随筆『葭の髄から』を連載中。単行本・文庫本が数冊出されている。この巻頭随筆は司馬遼太郎の「この国のかたち」を引き継いだもの。執筆を依頼されたとき、「いつまで書けばいいのか」という阿川の問いに対し、編集者はすかさず「『蓋棺録』までです」と答えた。阿川は大笑いし、依頼を承諾したという。
- 歴史的仮名遣派である、単行本はおおむねこの形で刊行される。
[編集] 受賞歴
- 1953年 『春の城』で読売文学賞
- 1966年 『山本五十六』で新潮社文学賞
- 1987年 『井上成美』で日本文学大賞
- 1994年 『志賀直哉』で野間文芸賞、毎日出版文化賞
- 1999年 文化勲章
- 2002年 『食味風々録』で読売文学賞
- 2007年 菊池寛賞
[編集] 家族 親族
- 実家
- 自家
[編集] 系譜
- 阿川家
- 阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。しかし阿川家は代々の農家であり 、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、阿川弘之自身やや疑問をもっている[3] 。阿川家の初代三之助は寛保3年(1743年)5月17日に没した(戒名は“釈浄円信士”)。[4]、[5]。 父甲一は阿川家の8代目を継ぐ立場だったが、数えの20歳になって早々、弁護士を志して郷里をはなれ、家督を甥の太七に譲った。甲一は満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた。兄幸寿は父甲一の庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた。兄幸寿は京大経済学部を卒業後、満鉄に入社し、後に満州国官吏に移籍して安東の市長をつとめた[6]
┏りき━太七 ┃ 三之助…<略>…利七━╋甲一━┳幸寿 ┃ ┃ ┗娘 ┣静栄 ┃ ┗弘之━┳尚之 ┃ ┗佐和子
[編集] 著書
- 年年歳歳 京橋書院 1950
- 春の城 新潮社 1952 のち文庫
- 魔の遺産 新潮社 1954 のちPHP文庫
- 志賀直哉の生活と作品 創芸社 1955
- 雲の墓標 新潮社 1956 のち文庫
- 夜の波音 東京創元社 1957
- お早く御乗車ねがいます 中央公論社 1958
- なかよし特急 中央公論社 1959
- きかんしゃ やえもん(岡部冬彦画)岩波書店 1959
- カリフォルニヤ 新潮社 1959
- 空旅・船旅・汽車の旅 中央公論社 1960
- ぽんこつ 中央公論社 1960 のち潮文庫
- 坂の多い町 新潮社 1960
- 青葉の翳り 講談社 1961 のち同文芸文庫
- ぽんこつぱとろうる 雪華社 1961
- へりこぷた-のぶんきち フレーベル館 1962 (トッパンのキンダー絵本)
- カレーライス 新潮社 1962 「カレーライスの唄」講談社文庫
- あひる飛びなさい 筑摩書房 1963 のち集英社文庫
- ヨーロッパ特急 中央公論社 1963
- 山本五十六 新潮社 1965 新潮文庫上下
- 銀のこんぺいとう 集英社 1965 「こんぺいとう」文庫
- 舷燈 講談社 1966 のち同文庫、同文芸文庫
- 私のソロモン紀行 中央公論社 1967
- 軍艦ポルカ 東方社 1967 集英社文庫
- 黒い坊ちゃん 集英社 1967
- 水の上の会話 新潮社 1968 文庫
- 犬と麻ちゃん 文芸春秋 1969 文庫
- いるかの学校 文芸春秋 1971 文庫
- 私記キスカ撤退 文芸春秋 1971 文庫
- 私のなかの海軍予備学生 昭和出版 1971
- 乗りもの紳士録 ベストセラーズ 1973 角川文庫、旺文社文庫
- 暗い波濤 新潮社 1974 文庫
- 蒸気機関車 平凡社カラー新書 1975
- 軍艦長門の生涯 新潮社 1975 文庫
- 鮎の宿 六興出版 1975 講談社文芸文庫
- 山本元帥!阿川大尉が参りました 中公文庫 1975
- 末の末っ子 文芸春秋 1977 文庫
- 論語知らずの論語読み 講談社 1977 文庫、PHP文庫
- 南蛮阿房列車 乗物狂世界を駆ける 新潮社 1977 文庫
- 阿川弘之自選作品 全10巻 新潮社 1977-78
- ある海軍予備学生の自画像 現代史出版会 1978
- 米内光政 新潮社 1978 文庫
- あくび指南書 毎日新聞社 1981 講談社文庫
- 南蛮阿房第二列車 新潮社 1981 文庫
- テムズの水 新潮社 1982
- 贋車掌の記 六興出版 1982
- 桃の宿 講談社 1982
- 海軍こぼれ話 光文社 1985 文庫
- 井上成美 新潮社 1986 文庫
- 大ぼけ小ぼけ 講談社 1986 文庫
- 国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録 (口述筆記)
- 光文社カッパ・ホームス 1987 のち同文庫
- 断然欠席 講談社 1989 文庫
- 女王陛下の阿房船 講談社 1990 文庫
- 国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論 (口述筆記)
- 光文社カッパ・ホームス 1992
- 志賀直哉 岩波書店 1994 新潮文庫上下
- 七十の手習ひ 講談社 1995 文庫
- 高松宮と海軍 中央公論社 1996 文庫
- 雪の進軍 講談社 1996 文庫
- 故園黄葉 講談社 1999 文庫
- 葭の髄から 文藝春秋 2000 文庫
- 食味風々録 新潮社 2001 文庫
- 春風落月 講談社 2002 文庫
- 人やさき犬やさき 続葭の髄から 文藝春秋 2004 文庫
- 亡き母や 講談社 2004 文庫
- 阿川弘之全集 全20巻 新潮社 2005-2007
- エレガントな象 続々葭の髄から 文藝春秋 2007
- 大人の見識 新潮新書 2007 (口述筆記)
- 言葉と礼節 座談集 文藝春秋 2008
[編集] 共編著
- 乗物万歳 北杜夫対談 中央公論社 1977 文庫
- ブルートレイン長崎行 ポール・セルー共著 講談社 1979
- 蛙の子は蛙の子 父と娘の往復書簡 阿川佐和子 筑摩書房 1997 文庫
- 酔生夢死か、起死回生か。(北杜夫)新潮社 2002 文庫
- 日本海軍、錨揚ゲ! 半藤一利 PHP研究所 2003 文庫
[編集] 翻訳
- 小さなきかんしゃ グレアム・グリーン 文化出版局 1975
- 小さな乗合い馬車 グレアム・グリーン 文化出版局 1976
- 小さなローラー グレアム・グリーン 文化出版局 1976
- 鉄道大バザール ポール・セルー 講談社 1977 文庫
- ふしぎなクリスマス・カード ポール・セルー 講談社 1979
- 古きパタゴニアの急行列車 中米編 ポール・セルー 講談社 1984
[編集] CM
- ネスカフェゴールドブレンド (1982年)
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 参考文献
[編集] 脚注
- ^ 父甲一は山口県出身、母キミは大阪出身であり、阿川一家の本籍は今も山口県美祢市に在るため広島県人会から会の案内など送られて来ると多少の違和感を覚えるという。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていたという(『私の履歴書 第三の新人』 117頁)
- ^ 『私の履歴書 第三の新人』 149-151頁
- ^ 『亡き母や』 140頁に「近江源氏直系の鎌倉武将一族と、伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさん、ひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを、必ずしも疑ふわけではなかつたけれど、時代のへだだりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とでは、およそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定は、どうも実感を伴ひにくかつた。」 138-139頁に「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」とある
- ^ 『私の履歴書 第三の新人』 118-121頁
- ^ 『亡き母や』 136-142頁
- ^ (『私の履歴書 第三の新人』 122、128頁)、(『亡き母や』 57-72頁)


