阿川弘之

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阿川 弘之
(あがわ ひろゆき)
誕生 1920年12月24日(93歳)
日本の旗 日本広島県広島市
職業 小説家
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学国文科
活動期間 1952年 - 2013年
ジャンル 小説
随筆
文学活動 第三の新人
代表作 『春の城』(1952年)
『山本五十六』(1965年)
『井上成美』(1986年)
主な受賞歴 読売文学賞(1953年・2002年)
新潮社文学賞(1966年)
日本芸術院賞恩賜賞(1979年)
日本文学大賞(1987年)
野間文芸賞(1994年)
毎日出版文化賞(1994年)
文化勲章(1999年)
菊池寛賞(2007年)
処女作 『春の城』(1952年)
子供 阿川尚之(長男)
阿川佐和子(長女)
親族 阿川甲一(父)
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阿川 弘之あがわ ひろゆき1920年大正9年)12月24日 - )は、日本小説家評論家

広島県名誉県民日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。

阿川は『私の履歴書』では、[私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している[1]法学者阿川尚之は長男、タレントエッセイスト阿川佐和子は長女。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

阿川甲一の長男として広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に生まれた(本籍地山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)。

学生時代[編集]

偕行社附属済美小学校、広島高等師範学校附属中学校旧制広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「志賀直哉」。

海軍入り[編集]

一種軍装の阿川弘之

1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。

1943年(昭和18年)8月に予備少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた[2]。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される[3]

中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る[4]

戦後[編集]

1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する[5]広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る[6]。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。実家の川向こうの牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親とにあたる若者と三人でひっそり暮らしていた[7]

作家として[編集]

志賀直哉に師事して小説を書く。

主な著作は『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』(新潮社文学賞)、『米内光政』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞毎日出版文化賞)、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』(読売文学賞)など。

1979年(昭和54年)、日本芸術院会員。1999年(平成11年)、文化勲章受章。

人物像[編集]

学生時代[編集]

  • 二・二六事件

1936年昭和11年)2月26日、中学3年の時二・二六事件が起った。阿川はひどく興奮し、帰宅するなり母親に向かい“こういうことは大嫌いじゃ[8]。無茶苦茶じゃ[8]。これじゃけぇ陸軍はいやなんじゃ[8]。”と大声の広島弁でまくし立てた[8]。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で丸橋さんという近所の退役陸軍大佐を打っていた[9]。母から“大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな”と小声でたしなめられたが、阿川は“何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ”と胸のうちで思っていたという[9]

二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになった[10]

  • 採用試験

海軍経理学校で第二期兵科予備学生の採用試験の際の口述試問で志望動機を聞かれ“はい。陸軍が嫌いだからであります[11]”と述べた。あとで考えて、反軍思想の持ち主と取られかねない返答だったなと思ったが実際は、試験官が“にやっ”としただけですんだ[11]

作家として[編集]

主要作品は、戦記文学記録文学である。

志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者である。 当代一の作家と紹介されることがある。(ちくま文庫 「蛙の子は蛙の子」) 時代に媚びることのない正確で淡い情感を呈する文体や表現に定評があり(新潮社 「春の城」「雲の墓標」)、しばしば国語教育の教材などに取り上げられた。近年では、自身や阿川佐和子(長女)、北杜夫遠藤周作の随筆に登場してくる、短気で頑固で究極の自分本位とも思える一面の他、ユーモアが横溢し、軽妙洒脱で洒落のわかる粋人(講談社 「春風落月」)としても読者層に知られる。

歴史的仮名遣派である。

評論家の半藤一利は「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである」と『阿川弘之全集』(新潮社、全20巻)の刊行に際し言葉を寄せている。

月刊文藝春秋で巻頭随筆『葭の髄から』を1997年6月号から2010年9月号まで連載。連載をまとめた単行本・文庫本が数冊出されている。老衰を理由に連載を終了し、連載を単行本化した『天皇さんの涙』を以て文筆活動を終えることにすると表明した。

交友関係[編集]

  • 第三の新人と言われた作家グループの遠藤周作や、吉行淳之介、また紀行文等で知られる開高健らとは親友で、北杜夫、三浦朱門、安岡章太郎、元編集者の大久保房男らとの交友も知られており、随筆などでその交友ぶりが存分に記されている。

受賞歴[編集]

家族・親族[編集]

阿川家[編集]

山口県美祢市伊佐町、広島県広島市中区白島九軒町神奈川県横浜市東京都
家系
阿川甲一(左)と阿川弘之(右)
安東の兄宅の食事風景)
阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという[12]
しかし父甲一の生家の阿川家は代々の農家であり、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「近江源氏直系の鎌倉武将一族と伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさんひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代のへだだりが大き過ぎる[13]。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とではおよそ五百年のひらきがある[13]宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感を伴ひにくかつた[14]
…祖父利七以前の御先祖に正直なところ私はあんまり興味が湧かない[14]三之助七五郎から利七夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分を生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい[14]。親しみの情なぞ皆無に近い[14]。興を催すのはやはり肌身の感触を知ってゐる父甲一の前半生、伊佐の農家の小倅(こせがれ)が志を立てて家郷を出て学を修めシベリアへ渡り満洲へ移つて事業を起すまでの立身の道程である[15] 。…初代三之助の歿年を西暦で記すと一七四三年[16][17]、ざつと数へて幕末維新まであと百二十年、その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という[18]
初代三之助の子七五郎家督を継いで天明7年7月13日没[16]戒名“釈了秀信士”[16]。七五郎に幸右衛門が生まれ、幸右衛門に幸治郎が生まれ、7代目阿川利七の時、時代は明治に入る[16]旧暦の明治3年11月28日利七と妻のしの間に男の子が生まれた[16]。弘之の父甲一である[16]。伊佐の阿川家は甲一の父利七が早く亡くなって、あとに2人の娘(養子谷五郎を迎えて太七を生む長女りき。のち嫁いで村上姓に変る次女くま)と一人の息子(甲一)が残り寡婦のしが一家の主だった[19]
また阿川は父の郷里山口について「本籍地は山口県と何かに書いたら山口県人会から是非出てくれといわれて出席したが、話題になることといえば、戦後何十年間に何人総理大臣が出たという話ばかりするので嫌になって二度と行かなくなった」と話している[20]
生家
阿川甲一
壮年の頃)
1870年明治3年)11月生 ~ 1948年昭和23年)6月没
1879年(明治12年)5月生 ~ 1955年(昭和30年)6月没
母キミは大阪出身で生家は刀剣骨董商であった。阿川によれば「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋の大坂女、父甲一は山口県の出、私の本籍は今も山口県美祢市に在り、広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少の違和感を覚える。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていた。」という[21]
母キミ
大阪の没落商家の娘キミは十八、九の時一度結婚するが、相手の男がひどい酒乱だったためすぐ別れて下宿屋兼業の旅館へ女中奉公に出た[22]。その旅館が父甲一の内地へ帰って来た時の定宿であった[22]。やがて甲一とキミとの間に関係が生じた。
阿川弘之によると、「我が家の本籍地、山口県美祢市役所の住民係に頼んで取り寄せた戸籍謄本を見ると―こんなもの丹念に見るのは実に久しぶりだが、戸主欄冒頭“明治四拾参年弐月拾四日石井キミト婚姻届出仝日云々”と、受附けた大阪市西区役所戸籍吏の名前が記されている[23]。これは、数への八つに成長したひとり娘の静栄が小学校へ上る二ヶ月前の日附である[23]。実質上の夫婦となつてから約八年間、母は何故阿川の籍へ入れてもらへなかつたのだらう[23]。その八年間に日露戦争があつて、ロシア語の通訳官として従軍した父は、戦勝後長春で満鉄下請けの土木事業を始める[24]。戦勲により南満洲鉄道株式会社専属実業家の地位を得た父甲一にとつて、おキミさんは“内縁の妻”或は単なる“大阪の女”に過ぎなかつたのか[24]
ともあれ、幼い娘がもうすぐ学校へ通ひ出す[24]。娘の世間躰と、一方、満洲に置いてゐた隠し子(幸寿)を連れ帰つて“育ててやつてくれ”と押しつけた負ひ目とそれやこれやでやうやく内縁の“大阪の女”を正妻と認め入籍したのではないかと想像するのだけれど本当のところは何も分らない[24]。」という。
1901年(明治34年)1月生 ~ 1968年(昭和43年)没
兄幸寿は父甲一庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちのを結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた[25]京大経済学部を卒業後、満鉄に入社し、後に満州国官吏に移籍して安東市長をつとめた[26]
長崎県島原半島の海べの村で、学齢に達するまで野性のままで育った兄幸寿は、腕っ節の強いかなりの乱暴者だった[27]。入学を許された長春日本人小学校の先生から始終「保護者出頭サレタシ」の呼び出し状が届いた[27]。女生徒をしつこく追い回した挙句、顔をぶん殴ったというので問題になったことがあった[27]。これは上級生の女の子が「お母さんいないくせに沢山たべるのよ、あいつだ、豚だ」とみなの笑いものにし、幸寿がひどく怒ったためであった[27]
天王寺中学(現・天王寺高校)の同級生に、大阪高検の検事長、最高裁判事を経て弁護士になり三島事件被告の弁護を担当した草鹿浅之介がいる[28]。草鹿浅之介の長兄は、真珠湾を奇襲した第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介提督である[28]。弘之は草鹿家を訪問したとき草鹿中将は「僕は君の兄さんの阿川幸寿君に大阪でビールを御馳走になったことがあるよ」と述べた[29]。「人にはようしてやれ」が幸寿の口癖で、それを終生言いつづけたし、自分がお山の大将株になってそれを実行した[28]
加川百助は父の友達だった[30]。この縁談が成立したについては「仏の百助さん」と言われた百助の寛容さに負うところが多い[31]。話を進めるにあたって幸寿が自分の実の子でないことをあらかじめ説明しておこうとするキミに「ようがんすようがんす、それはもう触れんでようがんす」と百助は全く問題にしなかったという[31]
静栄岐阜県満鉄社員・川上喜三の妻[31]
1903年(明治36年)12月生 ~ 没
同長男・哲夫整形外科医)[32]
公子(きみこ)
1912年(明治45年)2月生 ~ 1917年大正6年)没
満五歳の時結核脳膜炎を患って夭逝[33]
家庭
1951年(昭和26年)4月生 ~
1953年(昭和28年)11月生 ~
  • 二男
  • 三男
三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生までの様子は小説「末の末っ子」で詳しくユーモラスに記している。

略系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
阿川利七
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿川甲一
 
くま
 
りき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿川幸寿
 
 
 
阿川弘之
 
 
阿川太七
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿川佐和子
 
 
 
 
阿川尚之
 

著書[編集]

  • 年年歳歳 京橋書院 1950 新編「水の上の会話」新潮文庫
  • 春の城 新潮社 1952 文庫・改版
  • 魔の遺産 新潮社 1954 新編PHP文庫
  • 志賀直哉の生活と作品 創芸社 1955
  • 雲の墓標 新潮社 1956 文庫・改版
  • 夜の波音 東京創元社 1957
  • お早く御乗車ねがいます 中央公論社 1958、中公文庫 2011
  • なかよし特急 中央公論社 1959
  • きかんしゃ やえもん岡部冬彦画)岩波書店 1959
  • カリフォルニヤ 新潮社 1959
  • 空旅・船旅・汽車の旅 中央公論社 1960
  • ぽんこつ 中央公論社 1960 のち潮文庫
  • 坂の多い町 新潮社 1960
  • 青葉の翳り 講談社 1961 のち講談社文芸文庫
  • ぽんこつぱとろうる 雪華社 1961
  • へりこぷたのぶんきち フレーベル館(トッパンのキンダー絵本) 1962
  • カレーライス 新潮社 1962 のち「カレーライスの唄」講談社文庫上・下
  • あひる飛びなさい 筑摩書房 1963 のち集英社文庫
  • ヨーロッパ特急 中央公論社 1963
  • 山本五十六 新潮社 1965 のち新版、文庫上・下 同改版
  • 銀のこんぺいとう 集英社 1965 のち「こんぺいとう」集英社文庫
  • 舷燈 講談社 1966 文庫、新編・講談社文芸文庫
  • 私のソロモン紀行 中央公論社 1967
  • 軍艦ポルカ 東方社 1967 のち集英社文庫
  • 黒い坊ちゃん 集英社 1967
  • 水の上の会話 新潮社 1968 文庫
  • 犬と麻ちゃん 文藝春秋 1969 文庫上・下
  • いるかの学校 文藝春秋 1971 文庫上・下
  • 私記キスカ撤退 文藝春秋 1971 文庫
  • 私のなかの海軍予備学生 昭和出版 1971
  • 乗りもの紳士録 ベストセラーズ 1973 角川文庫、旺文社文庫
  • 暗い波濤 新潮社上・下 1974 文庫上・下
  • 蒸気機関車 平凡社カラー新書 1975
  • 軍艦長門の生涯 新潮社上・下 1975 文庫上・中・下
  • 鮎の宿 六興出版 1975 のち講談社文芸文庫
  • 山本元帥!阿川大尉が参りました 中公文庫 1975 
  • 末の末っ子 文藝春秋 1977 文庫
  • 論語知らずの論語読み 講談社 1977 のち同文庫、PHP文庫、新編・講談社文芸文庫 
  • 南蛮阿房列車-乗物狂世界を駆ける 新潮社 1977 文庫、新編・光文社文庫
  • ある海軍予備学生の自画像 現代史出版会 1978
  • 米内光政 新潮社上・下 1978 のち新版、文庫・改版
  • あくび指南書 毎日新聞社 1981 講談社文庫
  • 南蛮阿房第二列車 新潮社 1981 文庫
  • テムズの水 新潮社 1982
  • 贋車掌の記 六興出版 1982
  • 桃の宿 講談社 1982 のち講談社文芸文庫 
  • 海軍こぼれ話 光文社 1985 文庫
  • 井上成美 新潮社 1986 のち新版、文庫・改版
  • 大ぼけ小ぼけ 講談社 1986 文庫
  • 国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録 光文社カッパ・ホームス 1987 のち文庫(口述筆記)
  • 断然欠席 講談社 1989 文庫
  • 女王陛下の阿房船 講談社 1990 文庫
  • 国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論 光文社カッパ・ホームス 1992(口述筆記)
  • 志賀直哉 岩波書店上・下 1994、新潮文庫上・下 1997
  • 七十の手習ひ 講談社 1995 文庫
  • 高松宮と海軍 中央公論社 1996 文庫
  • 雪の進軍 講談社 1996 文庫
  • 故園黄葉 講談社 1999 文庫
  • 葭の髄から 文藝春秋 2000 文庫
  • 食味風々録 新潮社 2001 文庫
  • 日本海軍に捧ぐ PHP文庫 2001
  • 阿川弘之自選紀行集 JTBパブリッシング 2001
  • 春風落月 講談社 2002 文庫
  • 人やさき犬やさき 続 葭の髄から 文藝春秋 2004 文庫
  • 亡き母や 講談社 2004 文庫・講談社文芸文庫
  • エレガントな象 続々 葭の髄から 文藝春秋 2007 文庫 
  • 大人の見識 新潮新書 2007 (口述筆記)
  • 言葉と礼節 阿川弘之座談集 文藝春秋 2008 文庫 2012
  • 我が青春の記憶 文藝春秋 2008
  • 天皇さんの涙 葭の髄から・完 文藝春秋 2011 文庫 2013 ※本作をもって擱筆を宣言
  • 汽車に乗って船に乗って 阿川弘之自選紀行集 ベストセラーズ 2011 ※引退宣言後の刊行。あとがきを新たに書き下ろしている。
  • 森の宿 新編・講談社文芸文庫 2011 ※引退宣言後の刊行。あとがきを新たに書き下ろしている。
  • 鮨 そのほか 新潮社 2013 ※引退宣言後の刊行。未単行本化作品集。自身の近況や旧友安岡章太郎について言及した「あとがき」を書き下ろし。

主な作品集・全集[編集]

  • 阿川弘之集 新鋭文学叢書 第1 筑摩書房 1960 小説9篇
  • 阿川弘之の本 ベストセラーズ 1970 小説4篇と随筆18篇
  • 阿川弘之集 新潮日本文学51 新潮社 1970 山本五十六・雲の墓標・年年歳歳
  • 阿川弘之 新潮現代文学39 新潮社 1979 雲の墓標・米内光政
  • 阿川弘之自選作品 全10巻 新潮社 1977-78
  • 阿川弘之全集 全20巻 新潮社 2005-07

主な編著・共編著[編集]

  • 現代の冒険7 大空を翔ける 文藝春秋 1970(責任編集)
  • 乗物万歳 北杜夫対談 中央公論社 1977 文庫
  • ブルートレイン長崎行 ポール・セルー共著 講談社 1979
  • 現代の随想6 志賀直哉 彌生書房 1981
  • 連合艦隊の名リーダーたち プレジデント社 1982
  • 日本の名随筆15 旅 作品社 1983
  • 斎藤茂吉随筆集 岩波文庫 1986(北杜夫共編)
  • 機関車・食堂車・寝台車 [エッセイおとなの時間] 新潮社 1987
  • 蛙の子は蛙の子-父と娘の往復書簡 阿川佐和子 筑摩書房 1997 文庫
  • 志賀直哉交友録 講談社文芸文庫 1998
  • 酔生夢死か、起死回生か。北杜夫対談 新潮社 2002 文庫
  • 日本海軍、錨揚ゲ! 半藤一利対談 PHP研究所 2003 文庫

翻訳[編集]

  • 小さなきかんしゃ グレアム・グリーン 文化出版局 1975
  • 小さな乗合い馬車 グレアム・グリーン 文化出版局 1976
  • 小さなローラー グレアム・グリーン 文化出版局 1976
  • 鉄道大バザール ポール・セルー 講談社 1977 文庫、文芸文庫 各上下
  • ふしぎなクリスマス・カード ポール・セルー 講談社 1979
  • 古きパタゴニアの急行列車 中米編 ポール・セルー 講談社 1984

CM[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 私の履歴書 第三の新人』 115頁
  2. ^ 私の履歴書 第三の新人』 203頁
  3. ^ 私の履歴書 第三の新人』 208頁
  4. ^ 私の履歴書 第三の新人』 209頁
  5. ^ 私の履歴書 第三の新人』 211頁
  6. ^ 阿川佐和子さん「震災を経験した子供は私たちより強くなる」
  7. ^ 私の履歴書 第三の新人』 211-212頁
  8. ^ a b c d 私の履歴書 第三の新人』 149頁
  9. ^ a b 私の履歴書 第三の新人』 150頁
  10. ^ 私の履歴書 第三の新人』 151頁
  11. ^ a b 私の履歴書 第三の新人』 192頁
  12. ^ 『亡き母や』 139-140頁
  13. ^ a b 『亡き母や』 140頁
  14. ^ a b c d 『亡き母や』 141頁
  15. ^ 『亡き母や』 142頁
  16. ^ a b c d e f 『亡き母や』 138頁
  17. ^ 阿川家の初代三之助は寛保3年(1743年)5月17日に没した。戒名は“釈浄円信士”(『亡き母や』 137-138頁)
  18. ^ 『亡き母や』 138 - 139頁
  19. ^ 『亡き母や』 143頁
  20. ^ 『日本海軍錨揚ゲ!』 84頁
  21. ^ 私の履歴書 第三の新人』 117頁
  22. ^ a b 『亡き母や』 47頁
  23. ^ a b c 『亡き母や』 41頁
  24. ^ a b c d 『亡き母や』 42頁
  25. ^ 私の履歴書 第三の新人』 122頁
  26. ^ 私の履歴書 第三の新人』 122、128頁、『亡き母や』 57-72頁
  27. ^ a b c d 『亡き母や』59頁
  28. ^ a b c 『亡き母や』51頁
  29. ^ 『亡き母や』52頁
  30. ^ a b 『亡き母や』33頁
  31. ^ a b c 『亡き母や』37頁
  32. ^ 『亡き母や』121頁
  33. ^ 『亡き母や』33-39頁
  34. ^ 尚という字が当時常用漢字外であることから、命名申請を役所で却下され、やむを得ずナホユキ(旧かな遣い。ナオユキと読む)と届け、後年「尚」が常用漢字に入ったのちに家庭裁判所へ届けて、戸籍上も尚之となったというエピソードがある。

外部リンク[編集]