小澤征爾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
小澤 征爾
基本情報
出生名 小澤 征爾
出生 1935年9月1日(79歳)
満州国の旗 満州国奉天市
出身地 日本の旗 日本
学歴 桐朋学園短期大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
担当楽器 指揮
活動期間 1959年 -
公式サイト サイトウ・キネン・フェスティバル 松本

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )は、日本人指揮者である。2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。 栄典表彰歴として文化勲章受章など。主な称号ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員など[1]

経歴[編集]

満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。父小澤開作は歯科医師、満州国協和会創設者の一人で、同志で満州事変の首謀者となった板垣征四郎石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した[2]1941年3月、父を満州に残したまま母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園[3]1942年4月、立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学[3]1945年、長兄の小澤克己(のち彫刻家になる)からアコーディオンピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄(小澤俊夫)とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年、父が友人とミシン会社を始めた関係で神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)に転居[3]。1948年4月、成城学園中学校に入学[4]。当時、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた[4]。中学ではラグビー部に所属する傍ら、豊増昇にピアノを習う[4]。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我をしたためピアノの道を断念[5]1950年秋、東京都世田谷区代田に転居[6]。以後、東京都世田谷区経堂東京都渋谷区笹塚神奈川県川崎市幸区戸手町で育つ[6]

1951年成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学[6]。同門に秋山和慶山本直純羽仁協子久山恵子がいる[7]。当時、癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから小澤が自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった[8]。1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園大学短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学、1957年夏に同短期大学を卒業[9]。4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり[10]、のちに追試を受けて卒業が認められたが、療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだという[11]。ただし、このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている[11]

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当[12]。1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル『子供と魔法』にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめる[12]

1959年2月1日から、スクーターギターとともに貨物船で単身渡仏。このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた[13]1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパオーケストラに多数客演。カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。1960年アメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨークフィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1961年NHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始[14]するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任(これはN響事件小澤事件N響小澤事件などと呼ばれる=後述)。このため日本では音楽活動をしないと決め、渡米した。その後、NHK交響楽団とは32年の歳月を経て1995年1月に共演を果たしている。

1964年シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収めた。小澤の名声は全米に知れ渡る。シカゴ交響楽団とはRCAレーベルに複数の録音を残し、日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流レコード会社からクラシックの曲の録音を海外市場向けに複数発売したことは画期的な出来事であった。

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める。1966年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。

1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として中心的な役割りを果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。

1973年、38歳のときに、アメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。その後グスタフ・マーラー交響曲全集(「大地の歌」を除く)など、フィリップスへの録音を行った。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことであった。

タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNECソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは、小澤征爾を日系アメリカ人(Japanese-American)とするケースも見受けられる。

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーンベルリンロンドンパリフランクフルトにて成功をおさめる。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェンブラームスの交響曲全集などを完成させている。

1998年長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京ニューヨークシドニーベルリンケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。

2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界中に同時生中継された。2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。

作曲家の武満徹と親交が深く、音楽的・私的に深い友情を築いた。武満の死後も武満作品を演奏する機会が多い。小澤と武満との対談は『音楽(新潮文庫 1984年)』他、写真集でも発表されている。

2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。

2006年1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹慢性上顎洞炎角膜炎と診断され、通院しながら静養していた。2006年1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇イドメネオの指揮はキャンセルされた。

2006年2月1日、ウィーン国立歌劇場は今年いっぱいの音楽監督としての活動の一切のキャンセルを発表した。また所属事務所は、東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディオテロ」の公演もキャンセルすると発表した。

2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミー」にて指揮活動を再開。また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラー交響曲第2番「復活」を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本も指揮をし、2007年4月にはベルリンフィルを指揮をしている。

2007年、ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダーの2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。

2008年、世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した[15]

2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり治療に専念するために、同年6月までの活動を全てキャンセルすることを発表した[16]。食道全摘出手術を受け、同年8月に復帰。同年開催のサイトウ・キネン・フェスティバル松本は一部プログラムで代役を立て総監督として出演。

2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された[17]

2011年1月、悪化した腰の手術を受ける。

2012年3月7日、体力回復のため、1年間の指揮活動の中止を発表。[18]

2012年8月31日、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。

2013年4月1日、故吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任[19]

親族[編集]

1962年井上靖の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結婚。京子とは桐朋女子高校の第一期生同士であり、当時から小澤は江戸家に入り浸りだったが、留学先のパリで再会し、結婚に至ったものである[20]。ただし英雄は「娘は強い性格で個性が強烈」との理由により、この結婚に最初から反対していた[20]。結局、二人は1966年に離婚したが、その原因について江戸京子は「ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰って来て、もう音は聞きたくないという。その気持もわかりますしね。それで議論になると、結局は"オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ"ということで押し切られてしまう。いちばん単純な議論でやって来るんです。それなら、自分が経済力を持てば納得のいく生活が出来るんじゃないかと──」[20]と語っている。このほか、コンクール優勝後にスターとなった小澤が銀座バーのマダムやモデルの入江美樹と浮名を流したのも離婚の一因だったと報じられた[20]。また、小澤は留学前に岳父の江戸英雄から約20万円(一説によると50万円)の経済的援助を受けていた[20]。このため、京子との離婚については、桐朋学園の関係者から「デビューまでは江戸家に経済的な負担をかけておきながら、目的を達したらサヨナラ」との非難も浴びた[21]。小澤がN響と契約したのは江戸京子との婚約中であり、若い小澤がN響の常任指揮者に抜擢された背景には、江戸英雄の影響力があったとも報じられた。江戸英雄が自民党の有力者を通じてNHKに工作をおこない、前田義徳(NHK専務理事、のち会長)を通じ、小澤をN響の指揮者に雇うよう命令したとの説を、毎日新聞記者であった原田三朗は紹介している[22]

1968年白系ロシア人貴族の血を四分の一引くファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優としても活動していた入江美樹小澤・ベラ・イリーン)と再婚。各メディアからは美女と野獣の結婚と揶揄された。美樹の母は料理研究家の入江麻木。美樹との間に生まれた娘の小澤征良はエッセイスト。同じく、息子の小澤征悦は俳優である。またミュージシャンの小沢健二は甥にあたる。健二の父である小澤俊夫(開作の次男で征爾の兄)は口承文芸学者で筑波大学名誉教授。征爾の弟である小澤幹雄俳優でテレビ・リポーターである。

指揮者齋藤秀雄の母方の祖母である前島久(ひさ。旧姓大津)は、小澤の母方の曾祖父である大津義一郎の実妹であり[23]、小澤は「僕は先生の弟子というより近かったわけです。親類だったからね」[24]と発言している。

小澤征爾とNHK交響楽団[編集]

N響事件[編集]

軋轢に至る経緯[編集]

小澤征爾とNHK交響楽団(N響)が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。翌1962年には、半年間「客演指揮者」として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。7月4日にはオリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった[25]。このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

マニラ公演の失敗[編集]

このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている[26]。原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのがN響から反感を買った一因だったと述べている[27]。東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれる[28]。ただし小澤自身は

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒して(ママ)しまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」[29]

と反論している。

紛争の原因[編集]

後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリー(2007年9月にサイトウ・キネン・フェスティバルの企画として、NHKで放送された)で、小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」[30]

と述べている。この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

社会問題に発展[編集]

この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、井上靖石原慎太郎武満徹芥川也寸志中島健蔵浅利慶太三島由紀夫大江健三郎黛敏郎團伊玖磨有坂愛彦一柳慧山本健吉谷川俊太郎といった面々が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し[31]、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した[32]。小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。三島由紀夫は『朝日新聞1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、

「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」

「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

と概括した。

和解の成立[編集]

結局、1月17日黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(先のドキュメンタリーでの発言)ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している[33]

32年ぶりの共演[編集]

1995年1月23日サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、以下の曲目を演奏した。

なお、小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「(「小澤事件」を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」という趣旨の発言をしている。

NHK音楽祭2005[編集]

2005年10月26日には、小澤とN響はNHK音楽祭で再び顔合わせをした。マーカス・ロバーツを共演者に迎え、「子供たちのためのコンサート」と銘打たれたこのコンサートの当初発表されていた曲目は、次のような1時間で収まるプログラムであった。

しかし、打ち合わせが山場を越えた段階になっても、どういう曲目にするかは第5番以外は決まっていなかったようである。最終的には「ラプソディ・イン・ブルー」は、よりジャズ的な要素が強いが内容は難解な「ピアノ協奏曲 ヘ調」に差し替えられ、それに伴って出演者もマーカス・ロバーツ単身ではなく、トリオそろっての来日となった。またNHKが千住明に依頼していたNHK放送80周年記念の委嘱作品「日本交響詩」の初演の場を探していたこともあり、結局以下のような2時間を超えるか超えないかという、「子供向け」にしては盛り沢山なプログラムになった。

  • ベートーヴェン:交響曲第5番(全楽章)
  • ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 ヘ調
  • 千住明:「日本交響詩」

コンサートは小澤が時々演奏を止めて曲の解説をするスタイルであり、コンサートの最後は「さくらさくら」の大合唱で締めくくられた。

著書[編集]

  • 『ボクの音楽武者修行』音楽之友社、1962 のち新潮文庫、ISBN 4-10-1228-01-9
  • 『父を語る』(編)中央公論事業出版 1972
  • 『やわらかな心をもつ - ぼくたちふたりの運・鈍・根』(広中平祐共著、創世記、1977 のち新潮文庫 
  • 『小沢征爾 対談と写真』 小沢幹雄編 木之下晃写真 ぎょうせい 1980.8
  • 『音楽』(武満徹共著、新潮社、1981 のち文庫 ISBN 4-10-1228-03-5
  • 『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』 大江健三郎共著 中央公論新社 2001.9 のち文庫 
  • 『理想の室内オーケストラとは! 水戸室内管弦楽団での実験と成就』 吉田秀和共著 諸石幸生,音楽之友社構成・編 音楽之友社 2002.7
  • 小澤征爾さんと、音楽について話をする村上春樹共著 新潮社 2011.11

主な録音[編集]

  • ラヴェル管弦楽全集(ボストン交響楽団)(ドイツ・グラモフォン)
  • マーラー交響曲全集(ボストン交響楽団)(フィリップス)
  • ブラームス交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
  • ベートーヴェン交響曲全集(サイトウ・キネン・オーケストラ)(フィリップス)
  • 春の祭典(シカゴ交響楽団)(RCA)
  • カルメン全曲(フィリップス)(フランス国立管弦楽団)(フィリップス)
  • プロコフィエフ交響曲全集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)(ドイツ・グラモフォン)
  • ドヴォルザーク交響曲第8番、第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(フィリップス)

注)レーベルは発売当時

エピソード[編集]

  • 1972年6月、日本芸術院会館で日本芸術院賞授賞式に出席した際、経営危機だった日本フィルについて「皇室が交響楽団のパトロンになってほしい」と昭和天皇に直訴したこともある。
  • 楽曲について予習をする際、白地の五線譜に自ら各パートを書き写している。
  • 指揮は常に暗譜して臨んでいる(一部例外を除く)。それは長いオペラでさえも例外でない。その姿勢に対して同じ指揮者のロリン・マゼールは「暗譜している時間があれば、僕なら別の曲を勉強する時間にあてる。」と批判している。[要出典]
  • 小澤は齋藤秀雄のみならず、指揮者のフランスのシャルル・ミュンシュ、アメリカのレナード・バーンスタイン、オーストリアのヘルベルト・フォン・カラヤンから可愛がられ、薫陶を受けた。それが小澤の音楽に大きな影響を与えている。
  • ポストンレッドソックスファンで、ポストン交響楽団の指揮者だったときには本拠地フェンウェイパークに足しげく通っていたところ全球場にフリーパスで入れるメダルを授与された。現在はレッドソックス親善大使を務める[34]

小澤征爾役を演じた俳優[編集]

  • 野村義男(「ボクの音楽武者修行」、1982年)

CM出演[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「小沢征爾さん ウィーン・フィル名誉団員に 「どんな勲章よりうれしい」」『読売新聞』2010年11月3日東京朝刊33頁参照。
  2. ^ 岡崎久彦『百年の遺産:日本近代外交史73話』産経新聞ニュースサービス、2002年、181頁
  3. ^ a b c 山田 2006, p. 20.
  4. ^ a b c 山田 2006, p. 23.
  5. ^ 山田 2006, p. 24.
  6. ^ a b c 山田 2006, p. 25.
  7. ^ 山本 1999, pp. 40-42.
  8. ^ 山田 2006, p. 34.
  9. ^ 小澤征爾『ボクの音楽武者修行』
  10. ^ ただし吉田秀和によると、このとき小澤が卒業できなかったのは「小澤にはまだ第九を教えていない。第九を勉強させないで指揮科を卒業させるわけにはいかない」との斎藤秀雄の意向のせいだったという。レコード芸術編『吉田秀和 音楽を心の友と』p.38(音楽之友社、2012年)による。
  11. ^ a b 広中平祐との対談『やわらかな心をもつ』p.54-55
  12. ^ a b 山田 2006, p. 41.
  13. ^ 山田 2006, p. 44.
  14. ^ NHKの音楽プロデューサー細野達也が小澤の日本フィルの指揮ぶりを聴いて「N響にも欲しい」と思い、N響副理事長の有馬大五郎や事務長の木村竜蔵を説得し、小澤の抜擢に至ったという。原田(1989、pp. 190-191)による。
  15. ^ “平成20年度 文化功労者及び文化勲章受章者について 平成20年度 文化勲章受章者(五十音順)” (プレスリリース), 文部科学省, (2008年11月3日), http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/10/08102402/002.htm 2009年12月6日閲覧。 
  16. ^ “小澤征爾さん、食道がん 半年間活動休止”. 朝日新聞. (2010年1月7日). オリジナル2010年1月8日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/20100108185154/www.asahi.com/culture/update/0107/TKY201001070124.html 2010年1月8日閲覧。 
  17. ^ “小澤征爾さん、ウィーン・フィル名誉団員に 日本人初”. 朝日新聞. (2010年11月2日). オリジナル2010年11月4日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/20101104073804/www.asahi.com/culture/update/1102/TKY201011020352.html 2010年11月2日閲覧。 
  18. ^ “小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト XI 歌劇『蝶々夫人』演奏会形式公演中止および小澤征爾の1年間の指揮活動中止について” (プレスリリース), 小澤征爾音楽塾, (2012年3月7日), http://www.ongaku-juku.com/j/img/2012project/news_120307.pdf 
  19. ^ 緒方優子 「きょうの人 小澤征爾さん(77) 水戸芸術館館長に就任」 『産経新聞』 2013年4月5日付け、東京本社発行15版、2面。
  20. ^ a b c d e 週刊新潮1979年4月26日号。
  21. ^ 週刊新潮1967年1月7日号。
  22. ^ 原田 1989, p. 190.
  23. ^ 『小澤征爾大研究』p.231(春秋社、1990年)
  24. ^ 武満徹・小澤征爾『音楽』p.130(新潮文庫1984年
  25. ^ 原田 1989, p. 201.
  26. ^ 「『小澤征爾』という虚妄」『新潮45』2000年10月
  27. ^ 原田 1989, p. 193.
  28. ^ 原田 1989, pp. 194-195.
  29. ^ 『週刊文春』1962年12月24日号に掲載された小澤の手記「N響の不協和音」より。
  30. ^ 原田 1989, pp. 196-197.
  31. ^ 大江・小澤『同じ年に生まれて』小澤によるあとがき。
  32. ^ 佐野之彦『N響80年全記録』p.236(文藝春秋社、2007年)
  33. ^ 原田 1989, p. 205.
  34. ^ 小沢征爾さんレッドソックス親善大使

参考文献[編集]

文献資料[編集]

  • 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録2・焼け跡の日比谷公会堂から新NHKホールまで」『Philharmony 2000/2001SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2001年。
  • 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録3・繁栄の中の混沌を経て新時代へ-"世界のN響"への飛躍をめざして」『Philharmony 2001/2002SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2002年。
  • カール・A・ヴィーゲランド著 木村博江訳『コンサートは始まる―小澤征爾とボストン交響楽団』(音楽之友社、1989年)ISBN 4276217830
  • 山本直純 『紅いタキシード』 東京書籍1999年ISBN 4487795265 
  • 山田治生 『音楽の旅人』 アルファベータ、2006年ISBN 978-4871985390 
  • 原田三朗 『オーケストラの人びと』 筑摩書房、1989年ISBN 978-4480041340 

報道資料[編集]

  • 『読売新聞』2010年11月3日東京朝刊

関連項目[編集]

外部リンク[編集]