黒柳徹子

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くろやなぎ てつこ
黒柳 徹子
黒柳 徹子
1956年
別名 トットちゃん
生年月日 1933年8月9日(81歳)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区乃木坂
(現・東京都港区乃木坂)
民族 日本人
血液型 A型
職業 女優タレント声優司会者エッセイスト
活動期間 1954年 -
配偶者 未婚

黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年8月9日 - )は、日本女優タレント声優司会者エッセイストユニセフ親善大使平和運動家である。血液型はA型。愛称は「トットちゃん」「チャック」。所属事務所は吉田事務所。

日本のテレビ放送開始以来長年に亘り第一線で活躍している、テレビ放送史を代表する芸能人の1人である。テレビ朝日徹子の部屋』の司会や、累計770万部を記録し戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者として知られる。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

東京府東京市赤坂区(現:東京都港区乃木坂に生まれ、大田区北千束町で育つ。名前は、両親たちが男の子が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際は女の子が生まれたため「子」をつけて「徹子」とした。また、「黒柳」とサインを書くときには柳の異体字である「栁」(木偏に夘)を使う。

父は音楽家で、NHK交響楽団コンサートマスターも務めたヴァイオリニスト黒柳守綱(旧姓田口)、母は声楽家エッセイスト黒柳朝(旧姓門山)。弟はヴァイオリニストの黒柳紀明、妹はバレリーナでエッセイストの黒柳眞理、伯父には日本ニュースニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュース極東代表を務めた田口修治がいる。

第二次世界大戦中は青森県三戸郡南部町疎開していた。トモエ学園香蘭女学校、東洋音楽学校(現:東京音楽大学声楽科卒業。慶應義塾大学文学部中退。1953年にテレビ女優第一号の一人としてNHKに入局した。

マルチタレントとして[編集]

NHK放送劇団文学座研究所を経て女優デビュー。テレビ女優の第一号である。また、テレビ誕生と同時に生まれた日本初のテレビタレントにして、テレビ創生期からテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けている唯一のタレントでもある。放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたという。

女優の志望動機は、母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったからだったが、1952年に翌年のNHKのテレビ放送に備え招かれていたアメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース教養番組はテレビ放送全体の15%だが、公共放送のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる。」を聞いて、プロとしての女優意識が目覚めたという[1]

1954年NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマヤン坊ニン坊トン坊」が開始した。同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。

1958年の「第9回NHK紅白歌合戦」では、自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。また、それから22年の月日が経った1980年の「第31回NHK紅白歌合戦」で紅組司会に復帰し、1983年の「第34回NHK紅白歌合戦」まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。

1961年、第1回日本放送作家協会・女優賞を受賞した。

1971年は1年間ニューヨークのメアリーターサイ演劇学校に留学した。

1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組徹子の部屋」が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された[2]。他にも、2006年には黒柳と「徹子の部屋」が第54回菊池寛賞を受賞した。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。

「徹子の部屋」開始と同じ1976年には、「主婦の選んだテレビパ-ソナリティ-NO.1」に初めて選出され、1989年まで14年連続で選出された。

1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBS音楽番組ザ・ベストテン」が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。

1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計770万部を発行し[3]、世界35カ国で翻訳された。累計770万部という発行部数は、日本国内において「戦後最大のベストセラー」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランド文学賞ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞した。

1983年には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回NHK放送文化賞を受賞した[4]

1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。

1986年にはTBS「日立 世界・ふしぎ発見!」が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回から毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には司会の草野仁のみである(野々村真板東英二は初期は準レギュラーであった。なお、板東は2012年に降板している)。

1991年には「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」を、1995年には「橋田賞」をそれぞれ受賞している。

1997年、「第38回毎日芸術賞」と「第4回読売演劇大賞」の大賞・最優秀女優賞、「第23回放送文化基金賞」を受賞。

2009年、「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞[5]

2013年、「第38回菊田一夫演劇賞」の特別賞を受賞した。受賞理由は「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」である[6]

以後も声優、女優、司会者としてテレビで活躍するほか、ほぼ毎年舞台に立ち続けている。

社会貢献活動・福祉活動[編集]

ユニセフ親善大使[編集]

芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。親善大使には1984年アジアの人物として初めて就任し、その後最古参のメンバーになった。当時のユニセフ事務局長ジェームス・グラントは、任命理由として黒柳の子どもへの愛と、障害を持つ人々や環境への黒柳の広範囲な活動と実績を挙げている[7]。以後、アフリカアジアなどの途上国を毎年欠かさず訪問し、現在までの訪問国数は30ヶ国に上る[8]。親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞。また日本政府からは、2003年に勲三等瑞宝章(現:瑞宝中綬章)を授与された。

黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである[9]

これらの視察の模様は日本国内や視察した国々の中で広く報道され、2002年に黒柳がアフガニスタンソマリアを訪問した際には、同行した日本のTVチームによって、視察の様子を撮影した90分間のドキュメンタリー番組が2本放送された。また、テレビ朝日ニュースステーション』でも視察報告を行い、広範囲に亘る黒柳の現地視察は、他の報道番組や『徹子の部屋』、多数の新聞雑誌の記事の中で伝えられている。黒柳の活動が広く報道されたことでアフガニスタンやソマリアにおける子どもと母親を支援するための資金提供を呼びかけることにもつながった[7]

黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る[10]。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。

1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった[11]

2001年、黒柳が「朝日社会福祉賞」を受賞した。受賞理由は「ユニセフ親善大使として活躍し、『トット基金』を通じてろう者の社会参加も支援した功績」である[12]

旱魃・内戦・殺戮・地雷が有る状況で、何故、そこまでして行くのか?怖いとか、ためらうとかの気持ちはないのか?との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。(だから)あまり大変と思わない。何かあったら、その時はその時でね。戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから。」と言い、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「皆、一緒に行う。」の思想がユニセフ活動のもとに成っていると応えていた[1]

パンダ保護[編集]

子供の頃、叔父アメリカからのおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている[13]

黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。そして、黒柳の尽力もあって1972年には、日中国交正常化の記念に2匹のパンダ「カンカン・ランラン」が日本に初上陸。上野動物園に展示され、一大パンダ・ブームが起こった。

黒柳は「日中の国交が回復したので、パンダをお願いして欲しい」と首相官邸に電話をしようと思っていたという[14]。また、パンダ初来日の日には、仕事のリハーサルを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全然見えなかったというエピソードがある[15]

長年に亘るジャイアントパンダ保護活動への功績から、四川省の成都パンダ繁育研究基地より、今年生まれたパンダの命名権が初めて無償で与えられたことが2012年9月放送の『世界・ふしぎ発見』内で伝えられた(通常は一定金額の寄付などで期間限定の命名権が与えられる場合がある)。2012年に命名式が行われた。

その他活動[編集]

1981年には、自身の大ベストセラー「窓ぎわのトットちゃん」の印税を寄附して、社会福祉法人トット基金」を設立し、黒柳自身が理事長に就任している。また、同年には「国際障害者年障害関係功労者内閣総理大臣賞」を、翌1982年には「全日本ろうあ連盟厚生文化賞」を受賞している。

その他にも、社会福祉法人「あゆみの箱」理事、日本ペンクラブ会員、世界自然保護基金ジャパン顧問、ちひろ美術館・東京館長、東京フィルハーモニー交響楽団副理事長、日本チャップリン協会名誉会長、日本パンダ保護協会名誉会長、としても活躍している。1985年に、ポーランド政府からコルチャック賞を贈られた。

「窓ぎわのトットちゃん」の印税で、アメリカの聾学校の生徒たちによる劇団「デフシアター」の日本公演を経済的に支えたことが知られている。黒柳自身も手話を使うことができ、本人役で特別出演した映画アイ・ラヴ・ユー』でも手話を披露している。

また、これらの関係から大阪ジェネリック医薬品メーカー・東和薬品のテレビCMが制作される際にCMイメージキャラクターに抜擢され、継続して出演している(広告には黒柳を模した人形が登場している)。

交友関係[編集]

  • 劇作家・飯沢匡を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。
  • 女優の池内淳子は、ドラマ『甘柿しぶ柿つるし柿』(1969-70年 TBS)で競演したことがきっかけで友人となり、同じくドラマで競演していた山岡久乃らと共に「老後は同じ老人ホームへ入ろう」と(冗談混じりで)約束する仲となる。二人は同年生まれで、池内もトモエ学園の幼稚園へ通っていた(ただし、黒柳がトモエ学園へ入園するのは小学校入学後なので池内と同時期にトモエへ通っていた訳ではない)共通点もあった。池内は亡くなる前年の2009年まで、『徹子の部屋』へ12回出演する常連ゲストの1人だった。このため没後も、池内のことが『徹子の部屋』で時々話題に上ることがある。
  • 元NHKアナウンサーで女優の野際陽子とは、NHK専属女優時代からの友人。20代の頃から、一緒に飯沢匡主催のフランス語のレッスンに参加したり、同じデザイナーに服を作ってもらったり、プライベートでの時間を沢山共有していた。2000年代以降でも時々一緒に食事に出かけており、年に1度のタモリ宅での食事会に同行したりしている。また、黒柳と親しいことから、『徹子の部屋』にも草創期からゲスト出演しており、2000年代以降、節目・特別版などに招かれている。
  • 直木賞作家向田邦子とも加藤治子の紹介から親交を結ぶようになり、料理の上手な向田の作ったお惣菜をよくご馳走になっていた。その縁でTBSで長らく放送された、久世光彦プロデュース・演出の「向田邦子ドラマシリーズ」のナレーションを務めていた。
  • 歌手の三浦洸一は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の同級生。
  • タモリとの交友が深い(後述)。
  • 1980年代までは、黒柳が司会を担当していた『ザ・ベストテン』と並ぶ音楽番組であったフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の芳村真理とは犬猿の仲では、と伝えられていたが、実際はこの2人も1960年代頃からの親友である。芳村は「ヒットスタジオ」司会時に身につける毎回派手な服装が話題になっていた頃、「あなた、いいわねー。必ずカメラにターン(下から上に向かってカメラの角度を変えながら出演者の全影を撮影する手法)してもらえるんだもの。」と黒柳に番組収録で顔を合わせる度に羨ましがれたという(「ミッツ・マングローブの歌声デート」(CS・歌謡ポップスチャンネル)出演時の芳村の発言より)。
  • 女優・柴本幸とは、文通しあう間柄で柴本が幼い頃から手紙のやり取りをしている。
  • 女優の沢村貞子を母さんと呼んで慕っており、よく自宅を訪れる間柄であった。彼女の甥である津川雅彦長門裕之、長門の妻である南田洋子らとも交流が深い。2011年5月24日の長門裕之の葬儀告別式では弔辞を読んでいる。
  • 越路吹雪とも交友関係があり、2005年にフジテレビで放送されたドラマ「越路吹雪・愛の生涯~この命燃えつきるまで私は歌う~」では、黒柳が越路の遺品分けとしてもらったコートを提供し、題字も担当した。
  • ビーズ刺繍作家の田川啓二とも時折食事に行く仲で、田川の作品を仕事でもプライベートでも愛用している。

渥美清との関係[編集]

NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清とは関係が深い。

  • 共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがある(本人談)。
  • 渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演している。(この出演が最初で最後であるが、黒柳によるとその後何度も渥美に出演を依頼したもののいずれも拒否されたとのことである。)
  • 渥美の死去が公表されたのは、黒柳自身の誕生日である8月9日
  • 映画『男はつらいよ』最終作のマドンナ役に選ばれる予定だった。
  • 第47作では、山田洋次に撮影現場を見に来てくれと言われて訪問している(NHK-BS2『BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年』より)。
  • 1996年8月13日に開かれた「寅さんとのお別れの会」に出席。渥美の特集番組『渥美清の伝言』、『渥美清の肖像〜知られざる役者人生』にも出演。
  • プライベートでも仲が良く、普段は「お兄ちゃん」と呼んでいたが、そんな黒柳でさえ渥美の自宅や連絡先を知らず、渥美の家族にも「お別れの会」で初めて会ったと言う(生前の渥美はプライバシー秘匿を徹底していたため)。その後渥美の妻とは、親交が続いている(2006年12月の『徹子の部屋』より)。

タモリとの関係[編集]

タモリとの関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。

  • タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日の生放送番組『赤塚不二夫の世界』に出演し、インチキ牧師を演じていたところを(ちなみにその「タモリ牧師」は、『笑っていいとも!特大号』のオープニングで見ることが出きる)番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが恒例となっており、ゲスト出演の最多回数を誇っている。
  • タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ」、「チョコレートしゃぶしゃぶ」、「あんこ」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた[16]
  • 1984年3月14日放送のフジテレビ笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に出演した際に、“43分間喋り続ける”という伝説を残した(これは、後述する2014年1月14日放送まで最長記録だった)。そのため放送時間がなくなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたレギュラーコーナー2つのうち1つを潰さなければならなくなり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。2005年12月16日には21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間喋り続けた。2011年7月25日にも出演したが、普通のゲストよりやや長い時間程度で終了した。2014年1月14日に出演したとんねるずは48分となり、黒柳が30年間守ってきた記録を更新した。
  • 1998年までフジテレビの番組にはほとんど出演せず、その後も5回程度しかフジテレビ系列の番組に出ていない。タモリが出演する『トリビアの泉』には、事務所の人に「出たい」と願い出て出演した。
  • 2006年2月22日放送の『トリビアの泉』において、「『徹子の部屋』で美少女戦士セーラームーンコスプレをしたことがある」、「30年以上いつもノーブラで過ごしている」と2本連続で紹介され、検証VTRに本人が登場して事実と認めた。
  • 黒柳は、タモリが振舞う料理を食べるため、タモリの家に行くことがあり、食べた料理は写真に残すようにしている。

テレビ[編集]

「徹子の部屋」[編集]

日本初のト-ク番組「徹子の部屋」を始めるにあたり、黒柳がテレビ朝日に出した条件が「スタッフの入れ替えをしないこと」「編集をしないこと(撮って出しの手法)」であった(ただしこれは番組がいつまで続くか分からなかった開始当初のことであり、実際にはプロデューサーやディレクターは入れ替わっている)。後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」「番組の質の低下を防ぐため(帯番組を編集するのは多大な労力がかかる)」「ゲスト・黒柳・スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』『ここを残してほしい』と編集に関する意見が衝突するのを防ぐため」の3点である[17]。黒柳は「一切編集をしない。ほぼ生放送の状態。だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。」と語っている[18]

話す内容は、黒柳がゲストについてその日担当のディレクターからレクチャーを受けた際に、その内容を特注のメモ用紙(紙の寸法はA6)に2Bの鉛筆で縦書きに書いたものを繋ぎ合わせたリスト(台本や質問稿ではない)をテーブルに置いて進行する。老眼鏡を使わないで読むので、ゲストに驚かれることがある。そのメモの上にゲストがコップを置くと除けたり、置かないようにあらかじめ釘を刺す。メモが汚損などして使い物にならなくなった際にはアドリブトークになるが、切り替わったことは一度もない[19]

放送第1回目のゲストは森繁久彌であったが、その際森繁は黒柳の胸を触った。また、2009年11月11日に森繁が死去した際には、翌12日に追悼特集が放送されている。

黒柳の衣装はゲストと事前打ち合わせはせず、黒柳およびスタイリストによって選ばれている。放送開始から8000回を超えるまでは全て黒柳本人が衣装を用意・選定していたが、その後はスタイリストが用意した衣装も着用するようになった。本番組で使用された衣装の一部は、年に1度日本橋高島屋で開催されているチャリティーセールへ出品されている(売り上げは「青少年とともに歩む会」に寄贈)。

黒柳とゲストのトークは基本的にゲストの活躍している内容について行われるが、常連のゲストのさらに一部の相手とは、"お約束"と言えるような展開で行われる。例えば、小沢昭一が単独ゲストの場合、黒柳と小沢が何らかのテーマに沿った扮装をしてトークを行う「扮装シリーズ」が定番となり、2010年の小沢の最後の出演までに15回行われた[20][21]。1996年の、黒柳がセーラームーン、小沢がクレヨンしんちゃんのコスプレをして視聴者の度肝を抜いた時は(いずれもテレビ朝日系列のアニメ)、東スポの一面トップに黒柳の姿がカラー写真で出た。2010年2月10日には、小沢が初めて出演した1976年当時の映像が残っていないことから、再び学生服(小沢の母校である早稲田大学の学帽付き)とセーラー服に扮し、過去の名場面を振り返った。

番組では、黒柳への信頼などからゲストがそれまで公にしていなかった自身に関する重大事を告白することもある。和田アキ子は「黒柳さんだから申し上げるんですけれど」と、自身の病気が子宮癌だったことを告白し、2003年には大空眞弓に罹患していることを公表している。また、2009年には赤木春恵乳癌であったことを告白したほか、大山のぶ代が脳梗塞を患っていたことも告白している。さらに、武田鉄矢が初めて鬱病体験を語ったほか、小川宏が自らの自殺未遂・鬱病体験を初めて告白したのも「徹子の部屋」である。2001年には伊原剛志在日朝鮮人であること、2009年には長門裕之が妻・南田洋子認知症を告白した。こうした告白は、翌日以降の新聞雑誌などにニュースとして取り上げられることもある。

2006年7月10日放送の回では、ゲストの春風亭昇太が前回出演した際、ソフトボール部に所属していた話をするが、黒柳がソフトボールというスポーツそのものを理解できず、話が先に進まなかったVTRが放送された。

黒柳が司会を務めた『ザ・ベストテン』放送期間中は、よくその番組にランクインした歌手も登場していた。

ジャイアント馬場がゲスト出演した際にヒンズースクワットをすすめられ、毎日行っている。馬場はこれからわずか2ヶ月後に亡くなり、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と述べている。

7月と12月に亡くなった著名人を追悼する特集を行っている。

様々な俳優、文化人の才能を引き出すトークがある一方、お笑いタレントがゲストの時には、芸人がネタを見せた際「面白い!」と一人喜んでいつまでも出演した芸人のネタの披露をやめさせないこと、またゲストがトークに入る前に開口一番「今日は何か面白いネタを披露して下さるんですって?」とわざとトークのハードルを引き上げること等がある。ただし、黒柳が長年ユニセフなどの慈善事業に参加していることから、一般には知られていない各種市民運動団体やボランティア団体の関係者が出演することもあり、これらの出演者の場合、黒柳は冗談めいた発言をすることは少ない。

TBS『チューボーですよ!』に黒柳が出演した際、堺正章が「『徹子の部屋』で気に入らなかったゲストとかいますか?」と尋ねたのに対し、黒柳は「気に入らないゲストはそもそも呼びません。ゲストは私が選んでます」と発言した。しかし、実際の所ゲストは基本的にスタッフが選び、黒柳が関与するのは最終段階のみだという[22]。しかし、福本清三のように本来出演予定になかったものが、黒柳の意向で出演を依頼したケースもある[23]

「ザ・ベストテン」[編集]

黒柳・久米コンビによる司会決定の経緯については、資料によって内容が異なっている。山田修爾の著書によれば、最初にTBSの局アナウンサーだった久米が前番組『トップスターショー・歌ある限り』から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなって黒柳がキャスティングされた。制作サイドでは西田敏行を加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった[24]。久米は当初『トップスターショー』を最後に音楽番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで音楽番組を担当し続ける気になったという[25]。しかし2013年9月27日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で紹介されたものでは、先に黒柳の起用が決まり、久米がリポーターを務めるTBSラジオの番組のファンだった黒柳(この時は顔を知らず久米を太ったコメディアンだと思っていた)がもう1人の司会が決まっていない状況を知り、スタッフに気に入っていた久米の起用を打診したとのものだった。

出演する歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦生島ヒロシJNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であったが、追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2 - 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因である。しかし、番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた[26]。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のニューヨークに始まり[27]オスロパリなど毎年夏の恒例となり、1984年には遂に久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行った。

久米と共演した過去があることから、2004年3月まで放送されていたテレビ朝日『ニュースステーション』に、UNICEF親善大使として毎年ゲスト出演していた。また、2009年4月18日には、TBSラジオ久米宏 ラジオなんですけど』に、黒柳がゲストで生出演し、番組冒頭から最後まで「全編黒柳徹子スペシャル」として放送された。また、14時台後半には『ザ・ベストテン』の最多ランキング記録を持つ田原俊彦も飛び入り出演し、当時の『ザ・ベストテン』を振り返った。

ヨーガが得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。

近藤真彦のファンであり、芸能界の母親代わりを自認している。

黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振ることも多かったが、若林正人のようにこのことで久米批判はしていない。

「世界・ふしぎ発見!」[編集]

TBS「世界・ふしぎ発見!」などのクイズ番組の書き問題時には、必ずと言っていい程答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、漢字を最大限に使う。衣装は着物姿で出演する。

正解率の低い野々村真と解答が同じになると露骨に嫌な顔をする(もちろんネタであり、本心ではない)。また、一度自身だけが不正解になった事があり、司会の草野仁から感想をもとめられ「不愉快です!」と嫌悪感を表したエピソードがある(これもネタであり、本心ではない)。ちなみに、黒柳は三択問題を苦手とする傾向が見られる。

板東英二とは「ふしぎ発見!」で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識が全くないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。

クイズの答えに必要な知識を得るため、図書館にも熱心に通っていることで知られる。番組の問題製作者が図書館で参考にした資料(本)を本棚に戻したところ、直後に黒柳がその本に手を伸ばした、というエピソードもある。

番組開始当初は、金貨の入った袋(ガリンペイロ)10個をあらかじめ持ち、解答時にこの中から解答への自信に応じて金貨の袋を賭け、正解すればガリンペイロを2倍獲得出来、誤答の場合は賭け分が没収(ボッシュート)されるルールだった。黒柳は絶対に1個ずつしか賭けなかった。

番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されたことがある。後年、『徹子の部屋』で、ゴリエから「黒柳さんはペリー黒船来航の際に通訳を買って出たというのは本当ですか?」と質問された時にも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた(2006年放送)。

長く番組を放送しているが、黒柳はこれまでに出題された問題とその解答をほとんど覚えており、関係者に舌を巻かれたこともあるという。

NHK紅白歌合戦[編集]

1958年の「第9回NHK紅白歌合戦」で、史上最多の通算5回務めている紅組司会を初めて務めた。現存している映像の中から、江利チエミ淡谷のり子の歌の音声の紹介の時には、黒柳の曲紹介の音声も一緒に紹介された(後の声と比べると高い声をしている)。当初、番組側は当時常連出場歌手の楠トシエを紅組司会に起用する予定だったが、当時は歌手兼司会が認められておらず、歌手としての出場を希望した楠が紅組司会の打診を断った。楠に続いて打診を受けた黒柳は「歌手の方と付き合いが乏しい」と拒否したが、番組側の説得に応じる形で最終的に引き受けた[28]

1958年当時は、テレビ各局で、紅白と同様に外部の大型劇場を借り切っての歌謡番組が大晦日の「目玉プログラム」として編成されていたため、出場歌手の大半が紅白の放送が始まる時点でまだ会場に到着していないという異常事態が起きている。その混乱ぶりから、黒柳は松島詩子の出番の際に、誤って「渡辺はま子さん」と紹介してしまうミスを犯している(しかし後年、「徹子の部屋」に松島がゲスト出演した際に、黒柳はこの件につき謝罪したところ、当の松島本人はすっかりこの時の黒柳のミスのことを忘れていた)。

1980年には、『ザ・ベストテン』、『徹子の部屋』、『音楽の広場』の司会ぶりを買われ、22年ぶりに「第31回NHK紅白歌合戦」の紅組司会に起用されたが、その際、黒柳は紅組司会を受ける条件として、「紅白の番組構成に私の意見を取り入れて欲しい」と要望。これが「1980年代最初の紅白なのでフレッシュな内容にしたい」と考えていたNHK側の思惑と合致しての司会起用であった。なお、紅白における司会返り咲きの最長ブランクでもある。この年は、宝くじの抽選会で使用されているものと同仕様のルーレットを使用して、本番の中で攻守を決めるという異例の構成が採られたが、これも黒柳の「自身の意見を取り入れて欲しい」という要求を与して考え出されたものであるとされる[29]

1981年の「第32回NHK紅白歌合戦」についても同年、著書『窓ぎわのトットちゃん』が350万部を超す大ベストセラーを記録し、「トットちゃんブーム」が起こったことあり、紅組司会を続投した。以後、1983年の「第34回NHK紅白歌合戦」まで連続して紅組司会を務めた。

そのうち、黒柳が最後に紅組司会を務めた第34回では、当初紅組司会に当時放送中で高視聴率(最高60%)を記録していた連続テレビ小説おしん』の出演者である田中裕子(ヒロイン)か泉ピン子(ヒロインの母親役)を据える計画があったという。しかし最終的には1度は完全にリストから消えていた黒柳が続投することとなった(4年連続起用)。黒柳は司会発表会見で「週刊誌では『気くばり先生』(鈴木健二。当時NHKアナウンサー)と『おしん』と書かれていたようで・・・。新鮮味に欠ける私で申し訳ありません」と述べた[30][31]。一方、『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラー(この時点で563万部)になっていた黒柳と、『気くばりのすすめ』が300万部突破のベストセラーを記録していた鈴木のベストセラー作家同士の両軍司会として話題にもなった[28]

1984年の「第35回NHK紅白歌合戦」も当初は引き続き黒柳の紅組司会起用で決定しかけていたが、この年9月に黒柳が「もう今年が引き時では」と辞退を申し入れる。結局、白組司会の鈴木は続投したが、紅組司会はこの年紫綬褒章を受賞し、黒柳とも親交がある森光子に交代となった[29]

1955年の「第6回NHK紅白歌合戦」、1963年の「第14回NHK紅白歌合戦」、1969年の「第20回NHK紅白歌合戦」、1989年の「第40回NHK紅白歌合戦」には応援ゲストとして出演している。その他、1970年の「第21回NHK紅白歌合戦」、1979年の「第30回NHK紅白歌合戦」、1994年の「第45回NHK紅白歌合戦」でも紅組司会の有力候補に挙がっていたとされる。

その他テレビ出演時の話[編集]

1971年から1972年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説繭子ひとり」に、黒柳は下宿のおばさん・おケイさん役で出演し、東北なまりと特徴的な老けメイクでの演技が話題を呼んだ。黒柳は少女時代を疎開で同ドラマの舞台である青森県三戸の隣町・諏訪ノ平で過ごしていたが、黒柳は、当時の芸能人としては異例となるアメリカ留学(芸能界から遠ざかること)をするため、途中で降板。12月2日の放送で、「おケイさんは家政婦の仕事でニューヨークに渡る」という設定を取り入れ、羽田空港から旅立った。後には、「おケイさんから久しぶりにフィルムの便りが届いた」との設定で、黒柳が大きな眼鏡をつけたおケイさんスタイルでニューヨーク5番街を散策するフィルムが放送された。この役が黒柳にとっても一つの転機となった。

エピソード[編集]

テレビ放送開始時のエピソード[編集]

  • 本人の談によると、東京都世田谷区にあるNHK放送技術研究所でのNHKの試験放送で顔の左右を青白に塗り分けて撮影されたという。当時実験段階であったカラー放送の試験撮影のためであり、その様子は斉藤由貴主演の映画トットチャンネル』(1987年)でも再現された。
  • テレビ放送開始当初は映像が悪く、黒柳が初めてテレビ番組に出演した日に、それを喫茶店で観ていた母親が黒柳に「あなた、どうしてキツネのお面なんて被ってテレビに出たの?」と言ったという。もちろん黒柳はキツネのお面など被っていないが、顔が真っ白、髪は真っ黒、口も目も横に裂けたような線が入ってしまってキツネのように見えたのだろうと本人が語っている。そのようなこともあって、テレビ放送開始後もしばらくはラジオが主流だったという[32]

その他エピソード[編集]

  • NHK放送劇団(東京放送劇団)の5期生であり、同期に里見京子横山道代新道乃里子幸田弘子木下秀雄桜井英一関根信昭三田松五郎八木光生らがいる。
  • 文学座研究生の出身だが、正座員には、宮口精二の反対で採用されなかった。
  • 1982年園遊会に招待され、昭和天皇に『窓ぎわのトットちゃん』について部数と翻訳国数を交えた説明をしたところ、「たいそうお売れになって」と言われた。この一言により、まるで昭和天皇に自著の自慢をしているように映ってしまい、周囲から爆笑され、本人は照れ笑いを浮かべる他なかった。
  • その形状から「タマネギ」と称される髪型[33]もよく知られているが、大好きなマリー・アントワネットの髪型をモデルにしていると話している。なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だった須賀勇介である[34][35]。芸能界七不思議の1つと言われるこの髪型については理由があり、毎日髪形を変えると、視聴者の関心が黒柳の髪に集中してしまってゲストの方へ行かない、また襟足が出るので、黒柳の斜め後ろからの画像になっても「ふんふん」と頷く時に髪ばっかり揺れているという絵にならず、首が見えるので少しは人間味がでる、あるいは和装でも洋装でもちょっとアレンジすれば済むなどの理由で固定していると言う。また、髪の毛を小物入れとして活用している。『徹子の部屋』で青山テルマが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。また、黒柳に近い関係者によると、黒柳はかなり前から髪の毛をポケットとして使っており、海外に行く時はパスポートや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという[36]。髪の毛に小物を入れる理由は、子供たちに会った時にプレゼントするためと話す。
  • アメリカタイム誌ニューズウィークニューヨークタイムズヘラルドトリビューンピープルなどに日本を代表する女性として紹介されている。
  • 放送のハイビジョン化が進むとハレーションが使えなくなるので、その時には引退するつもりである、と発言している。
  • 1971年のニューヨークへの留学以来「圧迫感がないからいい」とノーブラで過ごしており、「ザ・ベストテン」の司会で白いドレスを着ていたところ、乳首が透けて見えていたのを久米宏に注意されたこともある。その時は、ティッシュペーパーを入れて、その場をしのいだ。ノーブラで過ごしていることについて黒柳は「胸が下がってくることを恐れるなんてことは、ある年になってくるとどうでもいいことになる」とも発言している。このことはフジテレビ『トリビアの泉』でも取り上げられた[37]
  • 過去のテレビ番組で1番好きだったのは、『世界・ふしぎ発見!』の共演者である草野仁が司会を務めた『ザ・ワイド』(読売テレビ日本テレビ、1993年4月 - 2007年9月)である。開始当初から毎日欠かさず観ていたという。スケジュールの都合上、昼間に自宅に帰れない時は必ずビデオに撮って後で見ており、最終回のVTRコメント出演では「一番の熱心なファンと思って頂いていいと思います」と語っていた。
  • 2013年上期のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のファンであり、初回から最終回まで全話視聴したと話す[38]。なお、同作内に『ザ・ベストテン』のパロディ番組並びに黒柳を模した司会者役(演:清水ミチコ)が登場している。
  • 2016年夏ごろには、長野県松川村安曇野ちひろ美術館周辺に「トットちゃんの広場」が建設される。同広場では、「窓ぎわのトットちゃん」の劇中に登場し、黒柳が幼少期に通学したトモエ学園で実際にあった「電車の教室」を再現。戦前に製造された列車2両を譲り受けて、1両は当時の教室の様子を再現し、もう1両は絵本や児童書などを置き、図書館として活用する予定である[39]
  • 司会者でも有数の鼻濁音の使い手として有名である。また、早口で話すことも特徴である(早口喋りは生放送をこなしてきたことも原因と話す)。
  • 愛車は、トヨタ・プリウス
  • 2000年代には自身がLDの計算障害・読書障害である可能性に言及した。台本を読んでも台詞が覚えられないなど、具体的なエピソードを交えて説明している(『小さい時から考えてきたこと』新潮社、2004年)。
  • 日本チャップリン協会大野裕之会長)の名誉会長を務める。
  • 野球音痴で有名(ルールや選手その他を全く知らない)。金田正一との対談の際、「国鉄(当時スワローズ)の金田です」の自己紹介に対して「どちらの駅にお勤めですか?」と尋ね金田を唖然とさせたという。『徹子の部屋』に野球関係者が出演した時は、「どうしてここで監督はホームランのサインを出さないのかしらと思った」とか、「サヨナラホームランを打ったのに引退しないのはどうして」、「野球の審判って大変ですよね。投手の投げた球をバッターが打ったら一塁まで走って行かなきゃならないんですよね」などといった大ボケ発言を連発する。
  • 『ザ・ベストテン』担当時、毎回同じ靴を履いていた。様々な所から靴が送られてきたがサイズが小さく、履けなかった。本人のサイズは24cm。
  • 尊敬する司会者に度々エド・サリヴァンの名を挙げる。

主な出演[編集]

テレビ番組[編集]

基本的にはNHK・テレビ朝日・TBSの番組が多く、他の放送局の番組にはあまり出演していない。

レギュラー出演(継続中)[編集]

レギュラー出演(過去)[編集]

単発番組司会・特番出演[編集]

テレビドラマ[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 日本テレビ開局55年記念番組 女たちの中国第一弾〜13憶のチカラ…美と権力と涙の物語(日本テレビ2008年2月11日)- 司会
  • 黒柳徹子の歴史偉人スペシャル! 秀吉<サル>から始まる!ニッポンの未来(日本テレビ、2013年1月27日
  • 音で怪獣を描いた男〜ゴジラVS伊福部昭〜(2014年7月6日、NHK BSプレミアム)

実写映画[編集]

声の出演[編集]

舞台[編集]

黒柳徹子海外コメディシリーズ[編集]

PARCOがプロデュースする黒柳主演の舞台シリーズ。ニール・サイモンピーター・シェーファーなどが書いた、ブロードウェイやロンドンで話題となった戯曲を積極的に取り上げている。1989年の第1作から始まり、1994年を除いて毎年連続上演されている。第1作は、ピーター・シェーファー作の『レティスとラベッジ』。演出は飯沢匡、公私ともに親交の深かった山岡久乃と共演した。

その他作品[編集]

CM[編集]

著作[編集]

単著[編集]

  • パンダと私 朝日ソノラマ 1972
  • 『チャックより愛をこめて』(1973年、文藝春秋)のち文庫 
  • おしゃべり倶楽部 チャックより愛をこめて(対談集)文芸春秋 1976 のち文庫 
  • 徹子の部屋 1-4 全国朝日放送 1977-86 のち朝日文庫   
  • 黒柳徹子の一生懸命対談 新日本出版社 1978.4
  • 窓ぎわのトットちゃん』(1981年、講談社)のち文庫 
  • 『黒柳徹子の動物劇場』1-2(1983-84年、話の特集)「トットの動物劇場」新潮文庫 
  • トットのピクチャー・ブック 武井武雄絵 1984.3 新潮文庫
  • トットちゃんのカルチャーショック 黒柳徹子の新・海外生活読本 小学館 1984.4
  • トットチャンネル』(1984年、新潮社)のち文庫 - 1987年に東宝配給で劇場映画化(主演:斉藤由貴
  • アフリカのトットちゃん 救え、アフリカの子どもたち 田沼武能写真 講談社 1985.3
  • 木にとまりたかった木のはなし 武井武雄絵 岩崎書店 1985.9
  • ちびくまちゃんちのくっきーづくり 紙谷元子人形・構成 偕成社 1985.1
  • マイ・フレンズ 新潮社 1986.5 『トットのマイ・フレンズ』文庫 
  • ちびくまちゃんちのさんたさんはだあれ 紙谷元子人形・構成 ケイエス企画 1987.12
  • トットの欠落帖 新潮社 1989.5 のち文庫
  • 『トットちゃんとトットちゃんたち』(1997年、講談社)のち青い鳥文庫 
  • 『小さいときから考えてきたこと』(2001年、新潮社)のち文庫 
  • 『不思議の国のトットちゃん』(2005年、新潮社)のち文庫 
  • 徹子さんの美になる言葉 その後のトットちゃん 講談社 2008.10
  • 小さいころに置いてきたもの 新潮社 2009.9

共著[編集]

  • 飢えるアフリカ 朝日新聞外報部 朝日新聞社 1984.12
  • つば広の帽子をかぶって いわさきちひろ飯沢匡共著 講談社 1989.7 のち文庫 
  • 『徹子と淀川おじさん人生おもしろ談義』NTT出版、2002(『徹子の部屋』内での淀川長治との対談を纏めた本)のち光文社知恵の森文庫 
  • トットちゃんとカマタ先生のずっとやくそく 鎌田實共著 ソフトバンククリエイティブ 2007.7 のち新潮文庫 
  • パンダ通 岩合光昭共著 朝日新書 2007.10

翻訳[編集]

  • おねがい、地球を殺さないで ビル・アドラー編 早川書房 1985.7

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「100年インタビュー」(NHK BSプレミアム2011年8月6日放送)
  2. ^ 『徹子の部屋』ギネス認定! 同一の司会者による番組の最多放送回数8961回 - ORICON STYLE
  3. ^ 「街プレーバック 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』@自由が丘」『朝日新聞』2013年8月30日付夕刊、8頁(朝日新聞東京本社
  4. ^ 放送文化賞
  5. ^ 歴代受賞者日本女性放送者懇談会 SJWRT
  6. ^ 第38回菊田一夫演劇賞発表一般財団法人 映画演劇文化協会、2013年5月28日
  7. ^ a b 黒柳徹子ユニセフ親善大使 - 日本ユニセフ協会
  8. ^ トットチャンネル/アルバムチャンネル
  9. ^ 日本ユニセフ協会・お知らせ - 黒柳徹子ユニセフ親善大使 就任25周年記念感謝式典
  10. ^ トットチャンネル - お願いチャンネル
  11. ^ 黒柳徹子さん - 国連広報センター
  12. ^ 朝日社会福祉賞:朝日新聞社インフォメーション
  13. ^ 黒柳徹子名誉会長からのメッセージ|日本パンダ保護協会
  14. ^ 活動報告|日本パンダ保護協会
  15. ^ パンダ博士・黒柳徹子さんと「日本パンダ保護協会」
  16. ^ これは当時のタモリの持ちネタの一つで、他番組でも、魚をさばいた後で、身の部分を捨てて、頭や内臓などを使用した鍋料理などを作って食べさせることがあった。
  17. ^ 永江朗『聞き上手は一日にしてならず』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年、11-33頁
  18. ^ 「テレビ放送60年、ともに歩む 黒柳徹子さん」『朝日新聞』2013年1月1日
  19. ^ 2008年5月2日放送分の小島よしおの回より
  20. ^ 徹子の部屋 追悼 小沢昭一さん テレビ朝日
  21. ^ 第1回「学生服とセーラー服」の扮装(1976年10月)に始まり、以後、第2回「国民服」(1977年8月)、第3回「老後の茶飲み友達」(1986年3月)、第4回「パイロットと客室乗務員」(1987年2月)、第5回「医者と看護婦(現:看護師)」(1987年6月)、第6回「神主と巫女」(1988年2月)、第7回「コックとウェイトレス」(1991年2月)、第8回「新郎新婦」(1994年8月)、第9回「クレヨンしんちゃんとセーラームーン」(1996年1月)、第10回「おひなさま」(1998年3月)、第11回「茶髪少年とガングロ」(2000年10月)、第12回「大国様と白うさぎ」(2001年10月)、第13回「唐来参和とメイウエスト」(2003年2月)、第14回「恵比寿様と弁天様」(2007年1月)、第15回「学生服とセーラー服」(2010年2月)に至る。
  22. ^ 永江朗『聞き上手は一日にしてならず』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年、11-33頁
  23. ^ 探偵ナイトスクープDVD VOL8収録分より
  24. ^ 『ザ・ベストテン』(山田修爾著、ソニー・マガジンズ、2008年) p.46 - 47
  25. ^ 山田 p.239
  26. ^ 山田 pp.52 - 56
  27. ^ 山田 pp.85 - 94
  28. ^ a b 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』全音楽譜出版社、2012年。
  29. ^ a b 合田道人『紅白歌合戦の真実』(幻冬舎・刊)
  30. ^ 前年の1982年の「第33回NHK紅白歌合戦」が視聴率70%割れを記録したため、第34回では「視聴率を復活させよう」とNHK・各レコード会社が躍起し番組作りが行われ、白組司会については、前年まで9年連続での担当者だった山川静夫(当時NHKアナウンサー)から彼の先輩であり当時視聴率40%を記録していた『クイズ面白ゼミナール』の司会者で著書『気くばりのすすめ』が300万部突破のベストセラーを記録した鈴木に交代となっている(60%の『おしん』、40%の『クイズ面白ゼミナール』で合計100%構想なる計画である)。山川自身は黒柳が紅組司会続投となったため、「僕だけが責任を取らされた」と思ったという。
  31. ^ 田中は同紅白に審査員として出演した。泉は1977年に「哀恋蝶」が10.9万枚(オリコン最高位37位)のヒットを記録したが紅白には落選となった経緯がある。紅白に対しては「歌手として出場できない限り、審査員や司会のオファーも全部断る」とインタビューで答えたことがある。
  32. ^ 黒柳徹子 スペシャルインタビュー|ビルボードジャパン
  33. ^ 「たまねぎ」という呼び名を付けたのは久米宏だという(2013年12月26日NHK総合テレビあさイチ』における本人談)。
  34. ^ ほぼ日刊イトイ新聞: 黒柳徹子さんのお話”. 2011年8月13日閲覧。
  35. ^ 発言小町”. 2011年8月13日閲覧。
  36. ^ 「アメ玉3個」黒山徹子のたまねぎ頭は小物入れだった!? - エキサイトニュース
  37. ^ トリビアの泉」(フジテレビ、2006年2月22日放送)
  38. ^ http://japan.techinsight.jp/2013/11/miyamotonobuko_131112.html
  39. ^ 黒柳徹子、『トットちゃんの広場』建設に感慨 母校の思い出を回顧ORICON STYLE 2014年5月23日
  40. ^ 34年ぶりのドラマ出演 - 徹子の部屋2時間スペシャル(テレビ朝日、2011年4月27日)放映分にて

外部リンク[編集]