黒柳徹子

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くろやなぎ てつこ
黒柳 徹子
黒柳 徹子
昭和31年(1956年)
本名 黒柳徹子
別名 トットちゃん
生年月日 1933年8月9日(78歳)
出生地 東京府東京市赤坂区乃木坂(現・東京都港区乃木坂)
民族 日本の旗日本人
血液型 A型
ジャンル 女優タレント司会者エッセイスト
活動期間 1954年 -
配偶者 未婚

黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年8月9日 - )は、日本女優タレント司会者エッセイストユニセフ親善大使、平和運動家である。血液型はA型。愛称は「トットちゃん」「チャック」

日本のテレビ放送開始以来50年以上にわたり第一線で活躍している、テレビ放送史を代表するタレントの1人である。35年以上続く長寿トーク番組「徹子の部屋」の司会や、累計760万部を誇る戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者として知られる。

目次

[編集] 略歴

[編集] 生い立ち

東京府東京市赤坂区(現・東京都港区乃木坂生まれ。大田区北千束町で育つ。名前は、両親たちが男の子が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際は女の子が生まれたため「子」をつけて「徹子」とした。また、「黒柳」とサインを書くときには柳の異体字である「栁」(木偏に夘)を使う。

父は音楽家で、NHK交響楽団コンサートマスターも務めたヴァイオリニスト黒柳守綱(旧姓田口)、母はエッセイスト黒柳朝(旧姓門山)。弟はヴァイオリニストの黒柳紀明、妹はバレリーナでエッセイストの黒柳眞理、伯父には日本ニュースニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュース極東代表を務めた田口修治がいる。

第二次世界大戦中は青森県三戸郡南部町疎開していた。トモエ学園香蘭女学校、東洋音楽学校(現・東京音楽大学声楽科卒業。慶應義塾大学文学部中退。1953年にテレビ女優第一号の一人としてNHKに入局。1971年にニューヨークのメアリーターサイ演劇学校に留学。

[編集] マルチタレントとして

NHK放送劇団文学座研究所を経て女優デビュー。テレビ誕生とともに生まれた日本初のテレビタレントにして、50年以上にわたりテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けている唯一のタレントでもある。放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」、「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたという。

女優の志望動機は、お母さんになった時に子どもに絵本を読み聞かせられるようになりたかったからだったが、1952年に翌年のNHKのテレビ放送に備え招かれていたアメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース・教養番組はテレビ放送全体の15%だが、公共放送のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる。」を聞いて、プロとしての女優意識が目覚めた。(NHK BSプレミアム「百年インタビュー」から)

以降声優、女優、司会者として現在もなおテレビで活躍するほか、1989年以降ほぼ毎年舞台に立ち続けている。また「窓ぎわのトットちゃん」などの著作もある。

[編集] 社会貢献活動・福祉活動

芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。親善大使には1984年就任し、現在最古参のメンバーである。ボスニア・ヘルツェゴビナアフガニスタンを取材、訪問等。親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞、また日本政府からは、2003年に勲三等瑞宝章(現在の瑞宝中綬章)を授与された。

その他、社会福祉法人「トット基金」理事長、社会福祉法人「あゆみの箱」理事、日本ペンクラブ会員、世界自然保護基金ジャパン顧問、ちひろ美術館・東京館長、東京フィルハーモニー交響楽団副理事長、日本チャップリン協会名誉会長、日本パンダ保護協会名誉会長、としても活躍している。1985年に、ポーランド政府からコルチャック賞を贈られた。

また、これらの関係から大阪のジェネリック医薬品メーカー・東和薬品のテレビCMが制作される際にCMイメージキャラクターに抜擢され、現在もなお継続して出演している(広告には本人を模した人形が登場している)。

旱魃・内戦・殺戮・地雷が有る状況で、なぜ、そこまでして行くのか?怖いとか、ためらうとかの気持ちはないのか?との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。(だから)あまり大変と思わない。何か有ったら、その時は、その時で(何とか成る。)戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから。」と言い、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「みんな、いっしょに行う。」の思想がユニセフ活動のもとに成っていると応えていた。(BSプレミアム百年インタビューから)

[編集] エピソード

[編集] 若手時代

[編集] 交友関係

  • 劇作家・飯沢匡を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。
  • 女優の池内淳子は、ドラマ『甘柿しぶ柿つるし柿』(1969-70年 TBS)で競演したことがきっかけで友人となり、同じくドラマで競演していた山岡久乃らと共に「老後は同じ老人ホームへ入ろう」と(冗談混じりで)約束する仲となる。二人は同年生まれで、池内もトモエ学園の幼稚園へ通っていた(ただし、黒柳がトモエ学園へ入園するのは小学校入学後なので池内と同時期にトモエへ通っていた訳ではない)共通点もあった。池内は亡くなる前年の2009年まで、『徹子の部屋』へ12回出演する常連ゲストの1人だった。このため没後も、池内のことが『徹子の部屋』で時々話題に上ることがある。
  • 元NHKアナウンサーで女優の野際陽子とは、NHK専属女優時代からの50年来の友人。20代のころから、一緒に飯沢匡主催のフランス語のレッスンに参加したり、同じデザイナーに服を作ってもらったり、プライベートでの時間をたくさん共有していた。現在も時々一緒に食事に出かけており、年に1度のタモリ宅での食事会に同行したりしている。
  • 直木賞作家向田邦子とも加藤治子の紹介から親交を結ぶようになり、料理のうまかった向田の作ったお惣菜をよくご馳走になっていた。その縁でTBS系で長らく放送された、久世光彦プロデュース・演出の「向田邦子ドラマシリーズ」のナレーションを務めていた。
  • 歌手の三浦洸一は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の同級生。
  • タモリとの交友が深い(後述)。
  • 1980年代までは、黒柳が司会を担当していた『ザ・ベストテン』(TBS系)と並ぶ音楽番組であった『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)の芳村真理とは犬猿の仲ではと伝えられていたが、実際はこの2人も1960年代頃からの40年来の親友に当たる。黒柳・芳村のほかに、うつみ宮土理楠田枝里子を加えた4人については相互に親交があり、ライバル視など全くしていない。
  • 女優・柴本幸とは、文通しあう間柄で柴本が幼い頃から手紙のやり取りをしている。
  • 女優の沢村貞子を母さんと呼んで慕っており、よく自宅を訪れる間柄であった。彼女の甥である津川雅彦長門裕之、長門の妻である南田洋子らとも交流が深い。2011年5月24日の長門裕之の葬儀告別式では弔辞を読んでいる。
  • ビーズ刺繍作家の田川啓二とも時折食事に行く仲で、田川の作品を仕事でもプライベートでも愛用している。
  • 母(黒柳朝)の音楽学校時代の友人、淡谷のり子とも子供の頃から交流があった。

[編集] 渥美清との関係

  • NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清と関係が深い。
    • 共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがある(本人談)。
    • 渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演している。(この出演が最初で最後であるが、黒柳によるとその後何度も渥美に出演を依頼したもののいずれも拒否されたとのことである。)
    • 渥美の死去が公表されたのは、黒柳自身の誕生日である8月9日
    • 映画『男はつらいよ』最終作のマドンナ役に選ばれる予定だった。
    • 第47作では、山田洋次に撮影現場を見に来てくれと言われて訪問している(NHK-BS2『BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年』より)。
    • 1996年8月13日に開かれた「寅さんとのお別れの会」に出席。渥美の特集番組『渥美清の伝言』、『渥美清の肖像〜知られざる役者人生』にも出演。
    • プライベートでも仲が良く、普段は「お兄ちゃん」と呼んでいたが、そんな黒柳でさえ渥美の自宅や連絡先を知らず、渥美の家族にも「お別れの会」で初めて会ったと言う(生前の渥美はプライバシー秘匿を徹底していたため)。その後渥美の妻とは、現在でも親交があるとのこと。(2006年12月の『徹子の部屋』より)。

[編集] タモリとの関係

  • タモリとの関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。
    • タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日の生放送番組『赤塚不二夫の世界』に出演し、インチキ牧師を演じていたところを(ちなみにその「タモリ牧師」は、現在でも笑っていいとも!の年末特番「笑っていいとも!特大号」のオープニングで見ることが出きる)番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、ぜひ『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが恒例となっている。
    • 1984年3月14日放送のフジテレビ系列『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に出演した際に、“43分間しゃべり続ける”という伝説を残した。そのため放送時間が無くなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたレギュラーコーナー二つのうち一つを潰さなければならなくなり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。時は経ち2005年12月16日に21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間しゃべり続けた。2011年7月25日にも出演したが、普通のゲストよりやや長い時間程度で終了した。
    • 1998年までフジテレビの番組にはほとんど出演せず、それ以降も5回程度しかフジテレビ系列の番組に出ていない。タモリが出演する『トリビアの泉』には、事務所の人に「出たい」と願い出て出演した。
    • 2006年2月22日放送の『トリビアの泉』において「『徹子の部屋』で美少女戦士セーラームーンコスプレをしたことがある」、「30年以上いつもノーブラで過ごしている」と2本連続で紹介され、検証VTRに本人が登場して事実と認めた。
    • 黒柳は、タモリが振舞う料理を食べるため、タモリの家に行くことがあり、食べた料理は写真に残すようにしている。

[編集] 「ザ・ベストテン」

  • 久米宏と『ザ・ベストテン』(TBS系)で共演した過去があることから、2004年3月まで放送されていたテレビ朝日系の久米宏司会『ニュースステーション』に、UNICEF親善大使として毎年ゲスト出演していた。
  • ヨーガが得意で、「ザ・ベストテン」では着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。
  • 近藤真彦のファンであり、芸能界の母親代わりを自認している。
  • 黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振る事も多かったが、若林正人のようにこの事で久米批判はしていない。

[編集] 「世界・ふしぎ発見!」

  • 世界・ふしぎ発見!』(TBS系)などのクイズ番組の書き問題時には、必ずと言っていいほど答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、衣装は着物姿で出演する。
  • 正解率の低い野々村真と解答が同じになると露骨に嫌な顔をする(もちろんネタであり、本心ではない)。また、一度自身だけが不正解になった事があり、司会の草野仁から感想をもとめられ「不愉快です!」と嫌悪感を表したエピソードがある(これもネタであり、本心ではない)。ちなみに彼女は三択問題を苦手とする傾向が見られる。
  • クイズの答えに必要な知識を得るため、図書館にも熱心に通っていることで知られる。番組の問題製作者が図書館で参考にした資料(本)を本棚に戻したところ、直後に黒柳がその本に手を伸ばした、というエピソードもある。
  • 番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一黒船を見た女」とあだ名されたことがある。後年、『徹子の部屋』で、ゴリエから「黒柳さんはペリー黒船来航の際に通訳を買って出たというのは本当ですか?」と質問された時にも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた(2006年放送)。

[編集] 「徹子の部屋」

  • 2006年、第54回菊池寛賞を受賞。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対して。
  • 2006年7月10日放送の回では、ゲストの春風亭昇太が前回出演した際、ソフトボール部に所属していた話をするが、黒柳がソフトボールというスポーツそのものを理解できず、話が先に進まなかったVTRが放送された。
  • ジャイアント馬場がゲスト出演した際にヒンズースクワットをすすめられ、現在も毎日行っている。馬場はこれからわずか2ヵ月後に亡くなり、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と言っている。
  • 7月と12月に亡くなった著名人を追悼する特集を行っている。
  • 様々な俳優、文化人の才能を引き出すトークがある一方、お笑い芸人がゲストの時には、芸人がネタを見せた際「おもしろい!」と一人喜んでいつまでも出演した芸人のネタの披露をやめさせないこと、またゲストがトークに入る前に開口一番「今日は何か面白いネタを披露して下さるんですって?」とわざとトークのハードルを引き上げること等がある。

[編集] その他テレビ出演時の話

  • 1980年、「ザ・ベストテン」「徹子の部屋」「音楽の広場」の司会ぶりを買われ、1958年以来、22年ぶりにNHK紅白歌合戦の紅組司会に起用されたが、その際、黒柳は、司会を受ける条件として、「紅白の番組構成に私の意見を取り入れて欲しい」と要望。これが「80年代最初の紅白なのでフレッシュな内容にしたい」と考えていたNHK側の思惑と合致しての司会起用であった。この年は、宝くじの抽選会で使用されているものと同仕様のルーレットを使用して、本番の中で攻守を決めるという異例の構成が採られたが、これも彼女の「自身の意見を取り入れて欲しい」という要求を与して考え出されたものであるといわれている(合田道人・著「紅白歌合戦の真実」(幻冬舎・刊)より)。

[編集] その他

  • 1982年園遊会に招待され、昭和天皇に『窓ぎわのトットちゃん』の説明をしたところ、「よくに売れて(よかったね)」と言われた。この一言により、まるで昭和天皇に自著の自慢をしているように映ってしまい、周囲から爆笑され、本人は照れ笑いを浮かべるほかなかった。
  • その形状から「タマネギ頭」と称される髪型もよく知られているが、大好きなマリー・アントワネットの髪型をモデルにしていると話している。なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だった須賀勇介である。[1][2]
  • 放送のハイビジョン化が進むとハレーションが使えなくなるので、その時には引退するつもりである、と発言している。
  • 過去のテレビ番組で1番好きだったのは、『世界・ふしぎ発見!』の共演者である草野仁が司会を務めた『ザ・ワイド』(読売テレビ日本テレビ系、1993年4月 - 2007年9月)である。開始当初から毎日欠かさず見ていたという。スケジュールの都合上、昼間に自宅に帰れないときは必ずビデオに撮ってあとで見ており、最終回のVTRコメント出演では「一番の熱心なファンと思っていただいていいと思います」と語っていた。
  • 司会者でも有数の鼻濁音の使い手として有名である。
  • 愛車は、トヨタ・プリウス
  • 近年,自身がLDの計算障害・読書障害である可能性に言及した。台本を読んでも台詞が覚えられないなど、具体的なエピソードを交えて説明している(『小さいときから考えてきたこと』新潮社、2004年)。
  • 著書である『窓ぎわのトットちゃん』の印税で、アメリカの聾学校の生徒たちによる劇団「デフシアター」の日本公演を経済的に支えたことが知られている。黒柳自身も手話を使うことができ、本人役で特別出演した映画アイ・ラヴ・ユー』でも手話を披露している。
  • 日本チャップリン協会大野裕之会長)の名誉会長を務める。
  • 野球音痴で有名(ルールや選手その他を全く知らない)。古くは金田正一との対談の際、「国鉄(スワローズ、当時)の金田です」の自己紹介に対して「どちらの駅にお勤めですか?」と尋ね金田を唖然とさせたという。『徹子の部屋』に野球関係者が出演した時は、「どうしてここで監督はホームランのサインを出さないのかしらと思った」とか、「サヨナラホームランを打ったのに引退しないのはどうして」、「野球の審判って大変ですよね。投手の投げた球をバッターが打ったら一塁まで走って行かなきゃならないんですよね」などといった大ボケ発言を連発する。
  • ザ・ベストテン時代、毎回同じ靴を履いていた。様々な所から靴が送られてきたがサイズが小さく、履けなかった。本人のサイズは24cm
  • 尊敬する司会者に度々エド・サリヴァンの名を挙げる。

[編集] 主な出演

[編集] テレビ番組

[編集] レギュラー出演(継続中)

[編集] レギュラー出演(過去)

[編集] 単発・特番・ゲスト出演

[編集] 実写映画

[編集] 声の出演

[編集] 舞台

[編集] 黒柳徹子海外コメディシリーズ

PARCOがプロデュースする黒柳主演の舞台シリーズ。ニール・サイモンピーター・シェーファーなどが書いた、ブロードウェイやロンドンで話題となった戯曲を積極的に取り上げている。1989年の第1作から始まり、1994年を除いて毎年連続上演されている。

第1作は、ピーター・シェーファー作の『レティスとラベッジ』。演出は飯沢匡、公私ともに親交の深かった山岡久乃との共演であった。

[編集]  その他作品

[編集] CM


[編集] 著作

[編集] 単著

  • パンダと私 朝日ソノラマ 1972
  • 『チャックより愛をこめて』(1973年、文藝春秋)のち文庫 
  • おしゃべり倶楽部 チャックより愛をこめて(対談集)文芸春秋 1976 のち文庫 
  • 徹子の部屋 1-4 全国朝日放送 1977-86 のち朝日文庫   
  • 黒柳徹子の一生懸命対談 新日本出版社 1978.4
  • 窓ぎわのトットちゃん』(1981年、講談社)のち文庫 
  • 『黒柳徹子の動物劇場』1-2(1983-84年、話の特集)「トットの動物劇場」新潮文庫 
  • トットのピクチャー・ブック 武井武雄絵 1984.3 新潮文庫
  • トットちゃんのカルチャーショック 黒柳徹子の新・海外生活読本 小学館 1984.4
  • トットチャンネル』(1984年、新潮社)のち文庫 - 1987年に東宝配給で劇場映画化(主演:斉藤由貴
  • アフリカのトットちゃん 救え、アフリカの子どもたち 田沼武能写真 講談社 1985.3
  • 木にとまりたかった木のはなし 武井武雄絵 岩崎書店 1985.9
  • ちびくまちゃんちのくっきーづくり 紙谷元子人形・構成 偕成社 1985.1
  • マイ・フレンズ 新潮社 1986.5 『トットのマイ・フレンズ』文庫 
  • ちびくまちゃんちのさんたさんはだあれ 紙谷元子人形・構成 ケイエス企画 1987.12
  • トットの欠落帖 新潮社 1989.5 のち文庫
  • 『トットちゃんとトットちゃんたち』(1997年、講談社)のち青い鳥文庫 
  • 『小さいときから考えてきたこと』(2001年、新潮社)のち文庫 
  • 『不思議の国のトットちゃん』(2005年、新潮社)のち文庫 
  • 徹子さんの美になる言葉 その後のトットちゃん 講談社 2008.10
  • 小さいころに置いてきたもの 新潮社 2009.9

[編集] 共著

  • 飢えるアフリカ 朝日新聞外報部 朝日新聞社 1984.12
  • つば広の帽子をかぶって いわさきちひろ飯沢匡共著 講談社 1989.7 のち文庫 
  • 『徹子と淀川おじさん人生おもしろ談義』NTT出版、2002(『徹子の部屋』内での淀川長治との対談を纏めた本)のち光文社知恵の森文庫 
  • トットちゃんとカマタ先生のずっとやくそく 鎌田實共著 ソフトバンククリエイティブ 2007.7 のち新潮文庫 
  • パンダ通 岩合光昭共著 朝日新書 2007.10

[編集] 翻訳

  • おねがい、地球を殺さないで ビル・アドラー編 早川書房 1985.7

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ ほぼ日刊イトイ新聞: 黒柳徹子さんのお話”. 2011年8月13日閲覧。
  2. ^ 発言小町”. 2011年8月13日閲覧。
  3. ^ 34年ぶりのドラマ出演 - 徹子の部屋2時間スペシャル(テレビ朝日、2011年4月27日)放映分にて

[編集] 外部リンク


先代:
(なし)
ザ・ベストテン司会者
初代 - 第4代
1978年 - 1989年
黒柳徹子久米宏
黒柳徹子小西博之
黒柳徹子松下賢次
黒柳徹子渡辺正行柄沢晃弘
次代:
(なし)
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