石井桃子

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石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は日本児童文学作家翻訳家である。数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。日本芸術院会員。

来歴・人物[編集]

1907年3月10日埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。

1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学[1]。当時としては珍しい学級文庫巖谷小波の『世界お伽噺』などを楽しむ。1919年3月、同校卒業。同年4月、埼玉県立浦和高等女学校(現在の埼玉県立浦和第一女子高等学校)入学。1923年3月、同校卒業。1924年4月、日本女子大学校(現日本女子大学)入学。在学中から、菊池寛のもとで外国の雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。1928年3月、同英文学科卒業。1929年12月から1933年12月まで文藝春秋社に勤め、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』などを編集。このころ、仕事で知り合った犬養健と親しくなり、信濃町の犬養家に出入りする。

1933年、犬養家でクリスマスイブに『プー横丁にたった家』の原書"The House at Pooh Corner"(西園寺公一から犬養道子犬養康彦へのプレゼントだった)と出会い、感銘を受け、道子や康彦や病床の小里文子[2]のためにプーを少しずつ訳し始める。

1934年6月から1936年6月まで新潮社に勤務し、吉野源三郎山本有三らと「日本少国民文庫」の編集にあたった。1938年から荻窪に住む。同年、犬養家の書庫を借りて児童図書館・白林少年館を開設し、1940年11月には白林少年館出版部を創設。紙不足に苦しみつつ『たのしい川邊』(ケネス・グレアム作、中野好夫訳)を刊行。同年12月、吉野の紹介により、岩波書店から『クマのプーさん』を翻訳出版。しかし、時局の軍国主義化に伴って白林少年館は1941年に閉館を余儀なくされ、出版部も同年1月に刊行した『ドリトル先生「アフリカ行き」』(ヒュー・ロフティング作、井伏鱒二訳)を最後に事業を停止した。

1942年、初めての創作『ノンちゃん雲に乗る』の執筆を開始。食糧難から、1945年8月15日宮城県栗原郡鶯沢村(現在の栗原市)で友人と共に開墾・農業・酪農を始める。

しかしやがて酪農組合の資金難に悩むようになり、岩波で『世界』編集長となった吉野や小林勇から再三編集の仕事を勧められたためもあり、1947年に上京を決意。1950年より岩波嘱託となり、『岩波少年文庫』の企画編集に携わる。

1951年藤田圭雄の紹介で光文社から刊行した『ノンちゃん雲に乗る』が第1回芸術選奨文部大臣賞を受け、ベストセラーとなり、鰐淵晴子主演で映画化される。戦後児童文学界における業績を高く評価され、1953年菊池寛賞受賞。同年、内藤濯に「おもしろいから」と勧めて訳させた『星の王子さま』を岩波書店から刊行。同年、坂西志保の勧めでロックフェラー財団研究員として留学することを決意。このため1954年5月に岩波書店を退社し、同年8月、横浜港から渡米。船上で西川正身と知り合う。1955年6月、ヨーロッパを経て同年9月に帰国。

1957年、家庭文庫を始めていた村岡花子土屋滋子たちと「家庭文庫研究会」を結成(1964年に解散)。1958年、荻窪の自宅の一室に児童図書室「かつら文庫」を開く。この文庫の一番乗りはロックフェラー財団つながりで交友があった阿川弘之の長男尚之だった[3]。続いて長女佐和子も同文庫に通うようになる[3]。この取り組みはのちに『子どもの図書館』(1965年)にまとめられ、公共図書館における児童文庫の普及に大きな影響を与えた。

1961年9月から北米とヨーロッパを旅行。同年11月、英国でエリナー・ファージョンと会う。1972年、カーネギー=グリーナウェイ・メダル授賞式に出席するため英国を訪問。1974年1月、盟友の松岡享子と約3年前から設立の準備を進めていた東京子ども図書館財団法人の認可を受ける。

1984年、第1回子ども文庫功労賞(伊藤忠記念財団)を受賞。1993年日本芸術院賞受賞(子どもの本の世界における長年の貢献と業績に対して)。1995年、約8年がかりの自伝的長篇小説『幻の朱い実』上下(1994年、岩波書店)で読売文学賞受賞。1996年、石井桃子奨学研修助成金(東京子ども図書館)が始まる。1997年7月、NHKテレビETV特集 21世紀の日本人へ』に出演。同年12月、芸術院会員となる。1998年9月、『石井桃子集』全7巻(岩波書店)の刊行が始まる(1999年3月に完結)。2007年朝日賞受賞。

2008年1月に上記の朝日賞授賞式に出席し元気な姿を見せたが、同年4月2日老衰にて101歳で逝去。児童文学界のみならず、文学界の最長老であった。叙従四位・授旭日中綬章。生涯独身。

太宰治との出会い[編集]

石井は1940年、『新潮』5月号の『走れメロス』で、初めて太宰治の名を知った。以前イギリスの本で読んだ『走れメロス』のモチーフであるメロスとセリヌンティウスの逸話に石井は感激したのだが、そのことを知人に話すと「きみ、そんな話、ほんとうにあるかね」と水をさされたことがあった。そのため、太宰の作品でこの逸話がモチーフとなり「ほんとうにうれしく思」ったという[4]。同年、井伏鱒二の家で太宰と偶然同席した石井は太宰から「ちょっとつかみどころもないほどやわらかい感じの、私には少年のように若々しく思えた人」という印象を受けた。井伏によると、「それから後は当分の間、太宰は桃子さんにあこがれるやうになつてゐた」という[5]。あるとき石井が自宅の庭にある白樺の木を薪にするため奮闘していると、その姿を井伏に目撃された。井伏がその時のことを太宰に話すと、「素敵ですね」「いつぺん桃子さんのところに、僕を連れてつてくれませんか。でも、僕は他意ないんだがなあ」と太宰は言った[6]。井伏によると、太宰は石井を念頭に置いて「僕は恋愛してもいいですか」と井伏に相談し、井伏から「そんなことは君の判断次第ぢやないか」と返答され、「やつとそれで安心した」と言ったことがあるという[7][8]。後に井伏は「太宰君がね、あなたのこと、あの人、えらい人ですねって言ってましたよ」と伝え、石井を笑わせた。酒を飲まない石井の家にベルモットがあることを知った井伏が太宰を連れて石井宅を訪問したこともあった。戦後まもなく石井が宮城県で農業を営んでいた頃、井伏への手紙のついでに「太宰さんも東北ですね」と書いたところ、当時青森県の実家に身を寄せていた太宰の住所を井伏から知らされた。しかし農業に忙殺されていた石井は太宰に連絡を取ることができなかった。

1948年に太宰が情死した後、石井は井伏から話を持ち出されないのに太宰の噂話をし、主に太宰の小説について印象を語った[9]。そのとき井伏は「この女性が、太宰のあこがれてゐたのを意識して話してゐるものと解釈した」[9]。そこで井伏が「『すつぱりして、気持のいい男でしたね』と云ふと、『ほんとよ、いい人でしたわ』と桃子さんは、わが意を得たといふやうに答へた」[10]。一方、石井は井伏に向かって「友情って、結局、そこまでは繋ぎとめられないものなんですね」と責めるように言ったとも回想している。そのとき井伏は「太宰君、あなたがすきでしたね」[11]と言ったため、石井は驚いて「『はァ』と笑うような、不キンシンな声をだしてしまった」後、「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた[12][13]。すると井伏は「だから、住所知らしたじゃありませんか」と言った。

著書[編集]

  • ノンちゃん雲に乗る 光文社、1951
  • やまのこどもたち 岩波書店、1956
  • 山のトムさん 光文社、1957 のち岩波少年文庫
  • 迷子の天使 光文社、1959
  • やまのたけちゃん 岩波書店、1959
  • 子どもの読書の導きかた 国土社、1960
  • 三月ひなのつき 福音館書店、1963
  • 子どもの図書館 岩波新書、1965
  • ことらちゃんの冒険 婦人之友社、1971
  • 児童文学の旅 岩波書店、1981
  • 幼ものがたり 福音館書店、1981 のち文庫
  • べんけいとおとみさん 福音館書店、1985
  • 幻の朱い実 岩波書店、1994
  • 石井桃子集 1-7 岩波書店、1998-99

主な訳書[編集]

共著[編集]

共編著[編集]

受賞歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1913年入学という記述は『石井桃子集』全7巻の巻末年譜によるが、『ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一○○年のおはなし」p.210では1914年入学としている。
  2. ^ おり ふみこ。石井の大学時代の先輩で文藝春秋社の元同僚。横光利一と同棲していたこともあり、横光の短篇小説『計算した女』の「お桂」のモデルとなった。結核で早世したが、のち『幻の朱い実』の大津蕗子のモデルとなる。
  3. ^ a b ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一○○年のおはなし」p.214
  4. ^ 『石井桃子集』第7巻所収「太宰さん」p.144(岩波書店、1999年)
  5. ^ 井伏鱒二「をんなごころ」『太宰治』(筑摩書房、1989年)pp.87-88、『井伏鱒二全集』第13巻
  6. ^ 井伏鱒二『太宰治』(筑摩書房、1989年)pp.88-89
  7. ^ 井伏鱒二『太宰治』(筑摩書房、1989年)pp.150-151
  8. ^ ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一○○年のおはなし」p.75にて、今江祥智内田也哉子との対談で「太宰さんが井伏さんに橋渡しを頼んだけれども、石井さんはお断りになったそうです」と発言しているが、石井が断ったとの記述は井伏の「をんなごころ」にも石井の「太宰さん」にも登場しない。
  9. ^ a b 井伏鱒二『太宰治』(筑摩書房、1989年)p.89
  10. ^ 井伏鱒二『太宰治』(筑摩書房、1989年)pp.89-90
  11. ^ 井伏の表現では「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれてゐましたね。実際、さうでした。」となっている(『太宰治』p.90)。
  12. ^ 井伏の表現では「桃子さんは、びつくりした風で、見る見る顔を赤らめて、『あら初耳だわ。』と独りごとのやうに言つた。『おや、御存じなかつたんですか。これは失礼。』『いいえ、ちつとも。──でも、あたしだつたら、太宰さんを死なせなかつたでせうよ。』この才媛は、まだ顔を赤らめてゐた」となっている(『太宰治』p.90)。
  13. ^ ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一○○年のおはなし」p.75にて、今江祥智内田也哉子との対談で「太宰治がああいう亡くなり方をした時に、新聞社の記者が石井さんに、『もしも太宰治と結婚されていたら、石井先生はどうされていたでしょうか?』と訊いた」と発言しているが、新聞記者が訊いたとの記述は井伏の「をんなごころ」にも石井の「太宰さん」にも登場しない。

外部リンク[編集]

沼辺信一による小里文子考