朝比奈隆

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朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年明治41年〉7月9日 - 2001年平成13年〉12月29日)は大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた日本指揮者。指揮者の朝比奈千足は長男。左利き指揮棒は右だが料理包丁は左〈木之下晃の写真集より〉)。

目次

[編集] 生涯

[編集] 誕生から満州時代

東京市牛込区市谷砂土原町の小島家に生まれ、幼少の頃に鉄道院技師朝比奈林三郎の養子となり朝比奈姓となる。虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津小学校を経て小田原町立第三小学校に学ぶ。小学校3年の3学期から東京に呼び戻され、麻布尋常小学校に転入学。まもなく青山師範附属小学校に転じたが、東京高等師範学校附属中学校や府立・市立の有名校に不合格となり、私立高千穂中学校に進む。1922年3月、旧制東京高等学校尋常科2年の編入試験を受けて同校に転入学。1923年に養父と養母が相次いで病死したため朝比奈姓のまま生家の小島家に戻る。この間、関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司(当時、早稲田高等学院在学中。のち内務省技官となる)の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカー登山スキー乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。

旧制東京高等学校高等科文科乙類では同学年に日向方斎清水幾太郎がいた。旧制高校時代には友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927年2月20日の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。

1928年、京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとして京都帝国大学(現京都大学)法学部に入学。法学部在学中には同大学のオーケストラ京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。やがて指揮をメッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。

1930年高等文官試験に落第。1931年京都帝国大学(現京都大学)法学部を卒業。鉄道省勤務の実兄の推薦により、月給60円で2年間阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務。電車の運転や車掌百貨店業務、盗電の摘発などを行う傍ら、チェリストの伊達三郎の誘いで大阪弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者として大阪中央放送局(JOBK)に出演。1933年、会社員生活に飽き足らず「もう一度学問をやり直したい」という理由で退社し、改めて京都帝国大学文学部哲学科に学士入学で入り直し、1年留年して1937年に卒業。卒論は中世音楽史を扱った内容だった。この間、1936年2月12日に初めてオーケストラ(後の大阪フィルハーモニー管弦楽団)を指揮。また、1934年より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に勤めて一般教養課程でドイツ語英語・音楽史・心理学を教えていたが、卒業後、1937年から教授となった。

1940年1月31日新交響楽団の演奏会でチャイコフスキー交響曲第5番他を指揮し、プロデビューを果たす。1941年田辺製薬創始者田辺五兵衛会長の実弟武四郎の長女で東京音楽学校ピアノ科卒の町子と結婚し、神戸市灘区篠原町に居を定める。同年、日米開戦。その後1942年からは月給200円で大阪放送管弦楽団の首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲に捧げる歌』『海の英雄』などを演奏。1943年11月末、中川牧三[1]の推薦で大陸に渡り、同年12月8日の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団1943年)で指揮。上海滞在中、1944年1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。1944年3月ごろ日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていたが、同年5月、要請を受けて大木正夫満州国に行き、満州映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。同年秋に再び要請され、妻町子と伊達三郎を伴って渡満し、大木の交響曲『蒙古』を指揮。同年12月にも渡満。1945年には関東軍の嘱託を命ぜられ、満州全土を演奏旅行。大阪と神戸が空襲で被災した上、満州での活動が波に乗ったこともあり、関東軍報道部長の誘いで1945年5月には妻町子と長男千足を呼び寄せて本格的に満州に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住したが、8月に終戦を迎えた。ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植(後述)や朝比奈ファンの歯科医小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導をおこなっている(1945年10月-1946年4月)。1946年8月から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。

[編集] 大阪フィル設立

引き揚げ後の1946年、大阪音楽高等学校(大阪音楽学校が改称したもの)勤務を経て1947年4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成する。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。1950年代からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団北ドイツ放送交響楽団などヨーロッパの主要なオーケストラに招かれるようになった。1960年に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称(定期演奏会の回数は、改称時に数えなおしている)。同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、ヨーロッパ公演を3回、北米公演を1回行い、亡くなるまでその地位にあった。1つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになる。

現在の感覚では意外と思われるが、朝比奈は1960年代から1970年代初頭にかけてまでは、東京で活動したことがあるにもかかわらず、単に「大阪のローカルオーケストラの指揮者」としか見られなかった。しかし、その頃から宇野功芳らが朝比奈を「巨匠クラスの指揮者」として評価するようになり、やがて晩年に至るまでの「巨匠」としての栄光の道を駆け上がっていくことになる。

[編集] ブルックナーの巨匠・朝比奈

1973年、大阪フィルが東京公演を行った。当時の大阪フィルの評価は前述のように「所詮は大阪の一ローカルオーケストラ」として見られ、朝比奈も「玉砕覚悟で恥をかきに行こう」と、ある種悲壮な決意を持っての公演だったと言われている。この公演で取り上げた曲目の中には、ブルックナー交響曲第5番も含まれていた。1954年以来しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、それまでは納得の出来る演奏が出来なかった。しかし、この東京公演で取り上げた第5番は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、観客も大喝采を浴びせた。

その観客の中に、渋谷で前衛的なライヴハウス「渋谷ジァン・ジァン」を経営している高嶋進がいた。彼は寺山修司などの前衛演劇に傾倒する一方で、大のブルックナーファンであった。この公演に感動した高嶋は、朝比奈&大阪フィルを起用してブルックナーの交響曲全集を作ろうと思い立ち、そして1976年にディスク・ジァン・ジァンから全集を発売した。この全集は大評判となり、朝比奈は一躍「巨匠」「日本のブルックナー解釈の第一人者」として注目を集めるようになった。

ブルックナーの交響曲で問題になる楽譜の「版」であるが、朝比奈は基本的にハース版を使用している。なお1975年の大阪フィルの欧州公演中、10月12日リンツの聖フローリアン教会で交響曲第7番を指揮した際、会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという。

[編集] 1980年代から晩年

ブルックナー全集の件以降、朝比奈は在京の主要オーケストラからの客演依頼が殺到するようになり、また、レコーディング活動も増加するようになった。1980年代以降朝比奈が出演する演奏会の人気は凄まじく、チケットは即売り切れになることもあった。ブルックナーの交響曲の演奏のほかに、もう一つの主要レパートリーであったベートーヴェンの交響曲の連続演奏会や全集の制作も盛んに行った(ベートーヴェンの交響曲連続演奏会は、1951年から2000年の間に9回行っている)。この頃より、朝比奈はしきりに「時間がない」を口癖にするようになり、録音も多くなった。

1995年阪神・淡路大震災に遭遇した(なお、朝比奈は1923年関東大震災にも遭遇しており、日本で発生した二大地震の両方に遭遇するという稀有な経験を持っている)。また、同年6月には終戦以来50年ぶりにハルビンを訪問し、満州時代に朝比奈の下で演奏していた元楽員と再会した。1996年にはシカゴ交響楽団に客演。これはピエール・モントゥーの記録を抜く同オーケストラの最高齢の客演指揮者であった。

朝比奈は90代以降、「ストコフスキーの最高齢記録を抜く」と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったので、記録達成は容易だと見られていた(朝比奈は当然、ストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までである(録音はその後も行っていた)。ちなみにイリヤ・ムーシン(1999没)は95歳になるまで交響曲級の曲を指揮していた)。しかし、2001年10月24日の名古屋公演におけるチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番(ピアノ:小山実稚恵)、交響曲第5番が結果的には最後の舞台となり、演奏会後体の不調を訴えて入院。そのまま復帰することなく12月29日に死去した。「立つことが私の仕事」「立って指揮が出来なくなったら引退」として練習中でも椅子の類を使わず、最後まで立ったまま指揮をした。生涯現役であった。

長く日本指揮者協会会長も務めた。

[編集] 没後

没後、朝比奈は大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者となった。訃報は2001年12月31日付各紙の1面を大きく飾った。朝比奈の棺に納められたものは、指揮棒と2001年11月の大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会で指揮する予定であったブルックナー交響曲第3番の楽譜であった。燕尾服荼毘に付されたのでこの世にはない。当のブルックナーの交響曲第3番は2002年7月に東京と大阪で若杉弘が指揮、朝比奈の追悼とした。

2002年2月7日ザ・シンフォニーホールで行われた「お別れの会」では朝比奈千足の指揮で、遺志に従ってベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が演奏され、無宗教で行われた。また参列者は朝比奈千足の発声により拍手で故人を見送った。

2007年12月11日から16日まで、リーガロイヤルホテルにて「永遠のマエストロ 朝比奈隆展」が開催された。大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念行事として行われたもの。

2008年7月9日、生誕100年の日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団は記念演奏会を行った。指揮は朝比奈の後任の音楽監督大植英次で、モーツァルトピアノ協奏曲第23番(ピアノ:伊藤恵)、ブルックナー交響曲第9番が演奏された。演奏終了後、聴衆は最晩年の朝比奈の多くの演奏会同様にスタンディング・オベーションを行った。

[編集] 受賞歴

他にはNHK放送文化賞、日本芸術院賞、ドイツ連邦共和国功勲章大功労十字賞、朝日賞、毎日芸術賞、ザ・シンフォニーホールクリスタル賞、オーストリア連邦共和国一等十字勲章、銀杯一組(菊紋・第四号)など。

なお、朝比奈はベートーヴェンを演奏する時はドイツ連邦共和国功勲章大功労十字賞の略綬を、ブルックナーを演奏する時はオーストリア連邦共和国一等十字勲章の略綬をつけて指揮台に上がっていた。

また、文化功労者顕彰に関しては次のような逸話がある。後述のオール日本人キャストによる「ニーベルングの指環」全曲のCDを聴いた中島源太郎文部大臣(当時)が、「日本人もようやくこのレベル(「指環」を全曲演奏できる)まで到達することが出来た」と涙し、顕彰が内定したと言われている。もっとも、当の中島は顕彰前に亡くなった。

[編集] 「弟子」

朝比奈自身、1970年に発表した文章の中で「私は、いわゆる世間で言う弟子とか門下生とかいうものを、少なくとも今の職業である指揮者としては持ったことがない」[2]と述べているが、朝比奈の影響下にある指揮者として林元植(韓国人指揮者、1919年 - 2002年8月26日)がおり、朝比奈自身も1973年の「私の履歴書」の中では林を「私の弟子で、私が退いたあとしばらく指揮棒を振っていた韓国人の林元植君」と呼んでいる[3]。彼は朝比奈のハルピン時代、朝比奈の人柄に感服し影響を受け、朝比奈が満州を脱出する際いろいろ便宜を図った。朝比奈の「お別れの会」にも参加、献奏したが、ほどなく後を追う様に亡くなった。朝比奈ともどもサッカーの大ファンであり(朝比奈は学生時代にサッカー選手だったことがある)、2002年ワールドカップ日韓大会にちなんだ、2人が出演する演奏会も企画されていたが、朝比奈の死で幻となった[4]

他に外山雄三が「私は朝比奈先生の弟子だと思っている」と発言したことがあり、これに対し朝比奈は「先輩の顔を立ててくれたものと考えている」と新聞紙上に書いている[5]。また朝比奈の晩年にあたる1997年から1999年まで下野竜也が大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮研究員になり、朝比奈の指揮ぶりに接している。また、吹奏楽にも貢献した朝比奈であったため、大阪市音楽団名誉指揮者の木村吉宏も、朝比奈の指導を受けている。

また50年以上にわたって朝比奈の薫陶を受けた大阪フィルハーモニー交響楽団は、現在でも独特の「大フィルサウンド」を身上としている。

[編集] 演奏活動(レパートリー)

[編集] 演奏活動(演奏団体)

自らが創設・育成した関西交響楽団~大阪フィルが断然多いが、それ以外にも国内のほとんどのプロ・オーケストラ、ヨーロッパの多くのオーケストラを指揮している。

関東では、新日本フィルNHK交響楽団東京交響楽団東京都交響楽団を、晩年に至るまで、指揮し続けた。日本フィルハーモニー交響楽団東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団東京フィルハーモニー交響楽団新星日本交響楽団についても客演歴がある。

関西では、大阪フィル以外には京都市交響楽団を多く指揮した。関西フィルハーモニー管弦楽団は、経営的には大阪フィルと非友好的な関係にあるにもかかわらず、一度だけ客演した。

海外では、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団北ドイツ放送交響楽団などは何度も指揮している。1987年には、北ドイツ放送交響楽団の来日公演の一部の公演も指揮した。

アマチュア・オーケストラの客演歴はあまり多くない。1976年には名古屋大学交響楽団を指揮して、ブルックナーの交響曲第8番を演奏した(このときにはワーグナーチューバが入手できず、ユーフォニアムを用いたという話が有名である)。1981年にはジュネス・ミュージカル・シンフォニー・オーケストラも指揮し、ベートーヴェンの第9を演奏した。朝比奈自身が学生時代に在籍していた京都大学交響楽団については、戦前には常任指揮者の地位にもあったが、1982年には客演の立場で、ブラームスの交響曲第2番などを指揮した。これらが、朝比奈が演奏会でアマチュア・オーケストラを指揮した最後の機会であり、それ以降は(一部の非公式な場・TV放送企画等を除き)アマチュア・オーケストラとの接点を持っていない。

オーケストラ以外では、吹奏楽団である大阪府音楽団大阪市音楽団を指揮し、演奏会やレコーディングを行ったこともある。

1995年には、大阪フィルメンバーを中心とした室内楽を指揮し「ブランデンブルク協奏曲第5番」「音楽の捧げもの」を演奏した(ただし後者の演目で、実際に朝比奈が指揮をしたのは「6声のリチェルカーレ」の部分のみである)。

[編集] レコーディング

朝比奈自身の意向もあり、生前より、スタジオ編集ではなくライヴ録音として残された録音が多い。大阪フィルやNHK交響楽団などとのライヴ録音がポニーキャニオンオクタヴィア・レコードフォンテックなどからリリースされている。ベートーヴェンブラームスブルックナーの交響曲については、全集録音が複数種類残されており、特にベートーヴェンの交響曲については、同曲異演のCDが多く残されている。没後はマーラーリヒャルト・シュトラウスヒンデミットなどの作品を指揮した音源が発掘され、CD発売されている。他に北ドイツ放送交響楽団とベートーヴェンの他フランクレスピーギラヴェルなどを演奏したCDも発売された。

吹奏楽曲の録音もいくつか残されている。親交の深かった大栗裕の作品の他、ウィリアム・フランシス・マクベスハロルド・ワルターズなどの録音も残っている。没後、大阪市音楽団を指揮したライブ音源が発掘され、CD発売された。

なお、ファースト・レコーディングは、1940年に京都大学交響楽団を指揮して録音した、母校の京都大学学歌(テイチク)であり、この事実は朝比奈が没する直前に判明した(それまでファースト・レコーディングとされてきたのは、1943年に日本交響楽団を指揮して録音した、深井史郎作曲『ジャワの唄声』であった。恐らく各地の放送局で放送するために製作されたものであろうという説もある)。京都大学学歌については、現在京都大学のサイトの中で鑑賞できる[6]。深井史郎『ジャワの唄声』については、「ローム ミュージック ファンデーション 日本SP名盤復刻選集」の中でCD収録された。

数年前に駆け出し時代の大陸での録音盤が発見されたという報道があったが、詳細は不明である。

[編集] 逸話等

  • 朝比奈の指揮者デビューは遅かったが、師であるメッテルからは「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て」と言われた。
  • サッカー好きで、高等学校時代から大学初期は日本でも少しは名の知れたサッカー選手であった、としている。東京高等学校時代の1926年と1928年の全国高等学校ア式蹴球大会フルバックとして出場している。篠島秀雄はチームメイト。しかし骨折とその後遺症でクラブ活動は断念した。また大学時代はサッカー中に負傷して楽器が弾けなくなり、メッテルに手ひどく怒られたことがある。
  • 河上肇に学んだ者は不要、という理由で徴兵検査は問答無用で丙種合格だった。実際は学んでいない。なお朝比奈が京都帝国大学法学部に入学した1928年4月に、河上は京都帝国大学経済学部を辞職している。
  • 若い頃はがさつさから「がさ」というニックネームだった。大阪フィルハーモニー交響楽団の団員には「オッサン」(大阪弁独特のニュアンスがあることに注意)と呼ばれ、ファンからは「御大」と呼ばれた。
  • 利き手の他、酒好きという点でも左利きであり、阪神・淡路大震災の際、自宅に駆けつけた音楽評論家の知人を前に泰然として酒を勧めたという
  • 食通で料理好きであり、しばしば自ら厨房に立った。
  • 大の猫好き。タクシーに乗っている時に停車させて車外に出ることがあった。野良猫を手なずけるためであった。
  • 自宅近辺の阪急タクシーの運転手たちとは懇意の仲で、晩年に至ってもお年玉を渡していた(当然ながら運転手たちは世間的には年配者である)。
  • 演奏の最中に指揮棒を落としてしまうことが多かった。そのため楽譜台には指揮棒が多めに置かれていた。さらに大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会ではヴィオラ最前列がしばしば落ちた指揮棒を拾っていた。ちなみにその朝比奈、指揮棒を落としたアルトゥーロ・トスカニーニの演奏会(洋行記録他を検証すると、恐らく1954年4月4日の所謂『トスカニーニ最後の演奏会』)を鑑賞している。
  • 朝比奈千足によると、最後の言葉は「引退するには早すぎる」であったという。
  • 朝比奈の使っていた楽譜には、テンポなど演奏上の覚え以外に演奏日や場所などの記録が書き込まれているが、ベートーヴェン交響曲第9番の楽譜には演奏日の空欄が2行ある。2001年12月29日30日に毎年恒例となっていた大阪フィルハーモニー交響楽団の「第9シンフォニーの夕べ」を自らが指揮する予定であらかじめ欄を作っていたためである。なお、これらの書き込みは全て朝比奈の手書きである。

[編集] 関連項目

[編集] 著書

  • 「私の履歴書」
  • 「朝比奈隆 わが回想」
  • 「楽は堂に満ちて」

[編集] 脚注

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  1. ^ 1902年生まれ。京都府出身の声楽家、陸軍中尉。当時、陸軍報道部専任の将校として新聞検閲官を兼ね、文化担当の権限を一手に掌握していた。近衛秀麿オットー・クレンペラーヒンデミットに指揮を学び、2004年に101歳で指揮台に立ち、「現役の世界最高齢指揮者」として話題を集めた。2006年にテレビ出演したとき、「彼女はいますか?」との質問に対し中川は103歳とは思えない大笑いをしていた。2008年3月18日、105歳で大往生を遂げた。
  2. ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.161-162
  3. ^ 『楽は堂に満ちて』p.97
  4. ^ 林は報道で「朝比奈隆に師事」と表現されることもあるが、岩野裕一著『王道楽土の交響楽』での林自身の談話として、朝比奈の「通訳や身の回りの世話」を担当していたというのが本当のところである。もっとも、続いて「押し掛けるような形で弟子になったのです」とも言っているので、少なくとも林自身が「朝比奈の弟子」と思っていた可能性はある。
  5. ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.162
  6. ^ なお、音声が物凄く悪いがこれは原盤の状態が悪いのではなく、1940年代前半のいくつかのテイチク盤にみられる、SPレコードコレクターが言うところの「初めから音が悪いレコード」のようである。東海林太郎の歌う『マライの虎』(1943年)が代表例。

[編集] 参考文献

  • NHK交響楽団 『NHK交響楽団40年史』 日本放送出版協会、1967年。
  • NHK交響楽団 『NHK交響楽団50年史』 日本放送出版協会、1977年。
  • 岩野裕一 『王道楽土の交響楽 ― 満洲 ― 知られざる音楽史』 音楽之友社、1999年。
  • 岩野裕一 「NHK交響楽団全演奏会記録・「日露交歓交響管弦楽演奏会」から焦土の《第9》まで」『Philharmony 99/2000SPECIAL ISSULE』 NHK交響楽団、2000年。
  • 岩野裕一 「NHK交響楽団全演奏会記録2・焼け跡の日比谷公会堂から新NHKホールまで」『Philharmony 2000/2001SPECIAL ISSULE』 NHK交響楽団、2001年。
  • 岩野裕一 「NHK交響楽団全演奏会記録3・繁栄の中の混沌を経て新時代へ-"世界のN響"への飛躍をめざして」『Philharmony 2001/2002SPECIAL ISSULE』 NHK交響楽団、2002年。
  • 『大阪人』第56巻4号(2002年4月号)、大阪都市協会、2002年。
先代:
-
大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督
1947–2001
次代:
大植英次