ピョートル・チャイコフスキー

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ピョートル・チャイコフスキー
Пётр Чайковский
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基本情報
出生名 Пётр Ильич Чайковский
出生 1840年5月7日
ユリウス暦4月25日

ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ヴォトキンスク
死没 1893年11月6日(満53歳没)
(ユリウス暦10月25日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
職業 作曲家
活動期間 1866年 - 1893年

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー: Пётр Ильич Чайковский [ˈpʲɵtr ɪlʲˈjitɕ tɕɪjˈkofskʲɪj]Ru-Pyotr Ilyich Tchaikovsky.ogg 発音を聞く[ヘルプ/ファイル]ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky1840年5月7日ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は、ロシア作曲家

概略[編集]

叙情的で流麗・メランコリックな旋律や、絢爛豪華なオーケストレーションなどの要因で人気の作曲家となっている。またリズムの天才と言われ、一つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚な表情が見られる。

作品は多岐にわたるが、とりわけ後期の交響曲バレエ音楽協奏曲などが愛好されている。

チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられた。孤児や可哀想な動植物、同性愛などへも、彼らに理解を寄せて共に時間を過ごす事もあった[1][2]。 しかし、その弱いものへの深い愛情と共感について日記や手紙において熱烈な表現を使ったために、様々な憶測を呼んだ。その手紙により、彼が晩年に男性への愛情を注いだに違いないと推測された人物は、実際のところ聾唖(ろうあ)の障害がある少年であった。

略歴[編集]

死因について[編集]

チャイコフスキーが晩年に住んで作曲をしたモスクワ近郊のクリンの邸宅。現在は博物館となっている

急死の原因は主にコレラによるとする説(発病の原因として、観劇後の会食時にイタリアン・レストランで周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだことが理由とされる)が死の直後からの定説である。なお直接的な死因は、死の前夜10時頃に併発した肺水腫であることが分かっている[4]

1978年にソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは、チャイコフスキーは貴族の甥と男色関係を結んだため、この貴族が皇帝アレクサンドル3世に訴えられ、秘密法廷(チャイコフスキーの法律学校時代の同窓生の、高名な裁判官、弁護士、法律学者等が列席)なるものが開かれ、そこでチャイコフスキーの名誉を慮って砒素服毒による自殺が決定・強要されたという説を唱えた。実際チャイコフスキーの死の直後にもこのような説を唱える者がいたという。

しかしこの説は、研究家であるアレクサンドル・ポズナンスキーの1988年の論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラ及びその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出され(例えばオルロヴァは埋葬式時に安置されたチャイコフスキーの遺体にキスをした者がいた[注 1]という証言を持ち出して「消毒をしなければコレラ患者の遺体にありえないことだ」と主張したが、チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)、現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。

ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎない」ことであり「まったく根拠のない作り話」であると結論付けている[注 2]

作品評価の変遷[編集]

チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどポピュラーだが、作曲された際にはニコライ・ルビンシテインによって「演奏不可能」とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった(しかし、後にルビンシテインはこの曲をレパートリーとするに至った)。

ピアノ協奏曲同様、現在では非常に有名なヴァイオリン協奏曲の場合も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに打診するも、「演奏不可能」と初演を拒絶されてしまった。そのためこの曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮によって初演された。しかし聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評された。しかしこの作品の真価を確信していたブロツキーは各地でヴァイオリン協奏曲を演奏し次第に世評を得るようになったという。その後アウアーもこの曲を評価し自身のレパートリーにも取り上げるようになった。

最後の交響曲である交響曲第6番『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。不評の理由は作品のもつ虚無感と不吉な終結によるものと思われる。しかし、世評を気にしがちなチャイコフスキーも『悲愴』だけは初演の不評にもかかわらず「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と周囲に語るほどの自信作だったようだ。

チャイコフスキーのバレエ作品としてのみならずバレエの演目の代表として知られる『白鳥の湖』も1877年ボリショイ劇場での初演は失敗に終わり、たいへん意気消沈した彼は再演を拒否するほどであった。しかし不評の原因は振り付けや演奏などの悪さによるものであり、死後2年後にマリウス・プティパらが遺稿からこの作品を発掘し、振り付けなどを変えて蘇演した。この公演はたいへんな人気を博し、以降もたくさんの振付師が、独自の作品解釈でこの作品の振り付けと演出に挑戦している。現代では『白鳥の湖』はもっとも有名なバレエの演目のひとつであると同時に、多くの舞踏家振付師の関心をひく端倪すべからざる作品となっている。

なお数は多くないが、正教会聖歌も作曲している(『聖金口イオアン聖体礼儀』など)。これはロシア正教会の事前の許可を得ずに作曲されたものであったため、一時は教会を巻き込んだ訴訟沙汰にもなった。現在ではロシア正教会・ウクライナ正教会日本正教会などで歌われている。

また、後のロシアの著名な作曲家による批評であるが、ストラヴィンスキープロコフィエフは作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価する一方、ショスタコーヴィチは全く評価しなかったとの証言がある[5]

なお、宗教及びロシア帝国を否定した旧ソ連時代には、出版や演奏においてチャイコフスキーの宗教的および愛国的な作品のタイトルが改竄されたり(『戴冠式祝典行進曲』→『祝典行進曲』など)、ロシア帝国国歌の引用が削除される(『序曲「1812年」』。グリンカ作曲の歌劇『イワン・スサーニン(皇帝に捧げし命)』の終曲に差換え)などした。これらはソ連崩壊後に原典版に戻された。

代表的な作品[編集]

作品についてはチャイコフスキーの楽曲一覧をご覧ください。

7曲の交響曲(標題交響曲「マンフレッド」を含む)のほか、多数のオペラや声楽曲等を残す。

一番有名なのはバレエ音楽で、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3曲はチャイコフスキーの三大バレエ(人気のうえでは、すべてのバレエの中の三大バレエでもある)として、その旋律は世界中で知られている。上演の頻度が高いだけではなく、組曲やハイライト、単独曲の形で演奏会で取り上げられるケースも多く、全曲盤を含めた録音も数多い。

その他、室内楽などにも秀逸な作品を残している。芳醇な和声感覚は他の追随を許さず、当時ロシアの大作曲家であったアントン・ルビンシテインの才能ですら凌駕した、早熟な才能であった[要出典]

欧米において「くるみ割り人形」はクラシック音楽の年末(クリスマス期)の定番(日本における「第九」のような位置付け)になっており、年末になると頻繁に上演される。

作品リスト(楽曲の種類による分類)[編集]

歌劇[編集]

  • 「ヒュペルボラ」(1854)(作曲者により放棄)
  • 「ヴォエヴォーダ(地方長官)」 作品3 (1867-68)(作曲者により破棄され断片のみ現存)
  • 「オンディーヌ」(1869)
  • 「マンドラゴラ」(1870)(未完)
  • 「オプリチニク」 (1870-73)
  • 「鍛冶屋のヴァクーラ」 作品14 (1874)(改訂され「チェレヴィチキ」へと改題)
  • エフゲニー・オネーギン」 作品24 (1878)
  • 「オルレアンの少女」 (1879、82)
  • 「マゼッパ」 (1881-83)
  • 「チェレヴィチキ」 (1885)(「鍛冶屋のヴァクーラ」の改作)
  • 「チャロデイカ」 (1885-87)
  • スペードの女王英語版」 作品68 (1890)
  • 「イオランタ」 作品69 (1891)

交響曲[編集]

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)[編集]

バレエ音楽[編集]

劇付随音楽[編集]

  • 「ボリス・ゴドゥノフ」(1863-64頃)
  • 「大混乱」(1867)
  • 「僭称者ドミトリーとヴァシリー・シュイスキー」(1880)
  • 「セビリャの理髪師」(1872)
  • 「雪娘」 作品12 (1873)
  • 「モンテネグロ」(1880)
  • 「ヴォイェヴォーダ」(1886)
  • ハムレット」 作品67b (1891)
  • 「妖精」

その他の管弦楽曲[編集]

室内楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

  • ピアノソナタ 嬰ハ短調 作品80 (1865) - 4楽章構成
  • 「ハープサルの想い出」作品2 - 1.城跡(1867)・2.スケルツォ(1863,1864)・3.無言歌(1867)
  • 50のロシア民謡 (1868-69) - 民謡を4手連弾のために編曲した作品。
  • 6つの小品 作品19 (1873)
  • 同一主題による6つの小品 作品21 (1873)
  • 四季(12の性格的描写)-作品37bis (1875-76) - 雑誌の企画で詩とともに毎月載せられた、それぞれの月に由来する12の小品からなる
1月-炉端にて 2月-謝肉祭 3月-ひばりの歌 4月-待雪草 5月-五月の夜 6月-舟歌 7月-刈り入れの歌 8月-収穫の歌 9月-狩りの歌 10月-秋の歌 11月-トロイカ 12月-クリスマス
  • 中級程度の12の小品 作品39 (1876-78)
  • ピアノソナタ ト長調 作品37 「グランドソナタ」 (1878) - 4楽章構成
  • 子どものアルバム(24の易しい小品)作品39 (1878)
  • 6つの小品 作品51 (1882) - 4曲目「ナタ・ワルツ」、6曲目「感傷的なワルツ」
  • 「ドゥムカ」ハ短調 作品59 (1886) - 「ロシアの農村風景」という副題を持つ
  • 18の小品 作品72 (1893)

合唱曲[編集]

歌曲[編集]

  • 6つの歌 作品6 (1869) - 6曲目「ただあこがれを知る者だけが」
  • 「ロメオとジュリエット」 (1893) - 未完の二重唱曲。同名の幻想序曲より素材を転用。

正教会聖歌[編集]

著書[編集]

  • 和声実習入門 (Руководство к практическому изучению гармонийGuide to the Practical Study of Harmony 1871年) - モスクワ音楽院講師時代に書かれた和声教科書。 

日本語訳書[編集]

  • 楽聖書簡叢書 第2編 チャイコーフスキイの手紙 (森本覚丹訳 音楽世界社 1936年)
  • 一音楽家の想ひ出 (堀内明訳 角川文庫 1950年)
  • 一音楽家の思い出 (渡辺護訳 音楽之友社(音楽文庫) 1952年)
  • 愛の書簡 (ナデイダ・フィラレトウナ(フォン・メック夫人)共著 服部竜太郎訳編 音楽之友社(音楽新書) 1962年)

チャイコフスキー国際コンクール[編集]

チャイコフスキーの偉業を記念し、ロシアでは4年おきにチャイコフスキー国際コンクールが開かれている。同コンクールは世界的な権威を誇り、世界3大コンクールのひとつとして数えられている。

メディア[編集]

  • ジュリアス・ブロック(1854年 - 1934年)という商人による大量の録音のうちの1つ。エジソン蓄音器へ1890年1月録音。15秒より。以下は英訳。
    • アントン・ルビンシテイン: What a wonderful thing. (素晴らしい機械だ)
    • ジュリアス・ブロック: Finally. (やっと入手できた)
    • エリザベータ・ラフローフスカヤ: A disgusting...how he dares slyly to name me. (気分悪い。私の名前をこっそり口にしたりして)
    • ワシーリー・サフォーノフ : (Sings).(歌う)
    • チャイコフスキー: This trill could be better.(トリルはもっと上手に)
    • ラフローフスカヤ: (Sings). (歌う)
    • チャイコフスキー: Block is good, but Edison is even better.(ブロックもえらいが、エジソンはもっとえらい)
    • ラフローフスカヤ: (Sings) A-o, a-o. (歌う)
    • サフォーノフ: (In German) Peter Jurgenson in Moskau.(ドイツ語で「モスクワのピョートル・ユルゲンソンです」)
    • チャイコフスキー: Who just spoke? It seems to have been Safonow. (Whistles) (いまの誰? サフォーノフだろう)(口笛)

関連書籍[編集]

チャイコフスキーを題材とした作品[編集]

備考[編集]

  • 没後に命名された「チャイコフスキー」という名のバラがある[6]

注釈[編集]

  1. ^ なお正教会埋葬式においては、遺体や遺体の額に巻かれているイコンに接吻する事は一般的な習慣で、特別な事例ではない。
  2. ^ Wikipedia 英語版「チャイコフスキーの死」の項目 では、これほど断定的には述べていない。チャイコフスキーの死にはさまざまな説が唱えられているが、いずれも決定的な証拠はないとしている。

脚注[編集]

  1. ^ Henahan, Donal (1981-07-26), “Did Tchaikovsky really commit suicide?”, The New York Times, http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D02EFD9163BF935A15754C0A967948260&sec=&spon=&pagewanted=print 2007年3月27日閲覧。 
  2. ^ Poznansky, Alexander (March 1992), Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man, Schirmer Books, ISBN 0028718852, http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CE7DF153EF936A35752C0A964958260 
  3. ^ Чайковский - Словарь Русских фамилий (ロシア語)
  4. ^ 伊藤恵子著『チャイコフスキー』2005年刊
  5. ^ ムスティスラフ・ロストロポーヴィチガリーナ・ヴィシネフスカヤ著、クロード・サミュエル編、田中淳一訳「ロシア・音楽・自由」みすず書房、1987年、89頁
  6. ^ 水俣市 エコパーク水俣バラ園 今週の薔薇 第10輪 白鳥の湖”. エコパーク水俣. 2014年1月18日閲覧。

外部リンク[編集]