リヒャルト・ワーグナー

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リヒャルト・ワーグナー
ワーグナーの写真(1871年)}
ワーグナーの写真(1871年)
基本情報
出生名 Wilhelm Richard Wagner
出生 1813年5月22日
出身地 ザクセン王国の旗 ザクセン王国 ライプツィヒ
死没 1883年2月13日(満69歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国 ヴェネツィア
ジャンル ロマン派
職業 作曲家指揮者
活動期間 1832年 - 1883年
ワーグナーのサイン

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 発音例 , 1813年5月22日 ライプツィヒ - 1883年2月13日 ヴェネツィア)は、歌劇の作で知られる19世紀ドイツ作曲家指揮者である。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。

呼称[編集]

日本語ではワーグナーワグナーと書かれることが圧倒的に多いが、専門書などではドイツ語発音の[va:gnɐ]英語発音の[vɑːgnə](英)/[vɑːgnɚ](米)に近いヴァーグナーヴァグナーとも表記される。

日本語ではかつて、語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音[va:gnər]をもとにしてワグネルヴァーグネルとも表記された。

フランス語では同言語の発音通則から外れて[vagnɛːr](ヴァグネール)と読む。

生涯[編集]

幼少期[編集]

ライプツィヒのワーグナーの生家

1813年ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・ワーグナーは警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナはカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。ワグナー一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であった[1]。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。1830年10月、ベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲しマインツのショット社に刊行依頼をするも、断られる。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも編曲版には不備も多く、出版には至らなかった。[2]当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

雌伏の時代[編集]

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。またこのころ、聖トーマス教会カントルトーマスカントル)であったテオドール・ヴァインリヒに作曲指導を受けていた。翌年1832年交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。

最初の妻、ミンナ・プラーナー

1834年マグデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナー(Minna Planer)と出会い、恋仲となる。1836年には「恋愛禁制」を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへと向かい、同地で結婚した。彼女とはのちに次第に不和となった。1837年にはドレスデン、さらにリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。1839年パリへ夜逃げ同然に移ったが相変わらず貧しかった。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになる。一方で「リエンツィ」は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに「リエンツィ」の初演に立ち会うためにドレスデンへと戻った。

宮廷指揮者[編集]

ドレスデンでの1842年10月20日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されることとなった。この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された。1月には『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これはリエンツィとは違ってそれほどの評判を得られなかった。1844年にはイギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、さらに追悼演説を行って、多才を発揮した。1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評であった。しかし上演され続けるうちに次第に評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていった。1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。以後、『第九』は名曲としての評価を確立する。1848年には『ローエングリン』を作曲したが、上演はこの時はなされなかった。

亡命時代[編集]

1849年ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。この亡命中にも数々の作品を生み出す。『ローエングリン』はリストの手によってワイマール1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を見ることができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという[3]。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年ウィーンにおいてのこととなる。

この時期、彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった。1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。

この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデ(Mathilde Wesendonck)と恋に落ち、ミンナとは別居した。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲している。しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィアルツェルン、パリと転々とすることとなる。1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されるようになった。1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者ではなくなった。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この時の再会以後二人は会うことはなかった。またこの頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。

ルートヴィヒ2世の招き[編集]

バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像

追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。


コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わる。

1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。

ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものであるが、現在でも歌劇以外の作品として特に有名である。

バイロイト祝祭劇場の建設[編集]

バイロイト祝祭劇場

1872年バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。

1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている(詳しくは『パルジファル』)。このころには祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的となる。彼の言行はいろいろな形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となったが、その一方でユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィ(Hermann Levi)に『パルジファル』の指揮を任せたりしている。

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓

死去[編集]

1883年2月13日ヴェネツィアにて旅行中、客死。遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。

作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。

後継者たち[編集]

ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマが運営し、1907年からコジマは引退して息子のジークフリート(Siegfried, 1869年 - 1930年)が中心となって運営した。ジークフリートは作曲家としても活動している。ワーグナーを好んだヒトラーは晩年のコジマに面会している。1930年にコジマとジークフリートが相次いで死去すると、ジークフリート夫人のヴィニフレート(イギリス出身、1897年 - 1980年)があとを継いだが、彼女はヒトラーと個人的にも親しくし(一時は結婚の噂もあったほどである)、ついに祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになった。なお長女フリーデリント(Friedelind, 1918年 - 1991年)は母のナチスへの協力を嫌って出奔し、アメリカへ亡命した。

第二次世界大戦の敗戦後、ヴィニフレートはナチスとの協力の責任を問われて祝祭劇場への関与を禁止された。劇場は一時アメリカ軍に接収されたが、長男ヴィーラント(1917年 - 1966年)に返還。1951年フルトヴェングラー指揮の第九バイロイト音楽祭も再開された。ヴィーラントは戦後のバイロイトでの上演の多くを演出し、舞台装置を極端に簡略化し、照明の活用と、わずかな動きに密度の濃い意味を持たせるその演出技法は、巨匠カール・ベーム新即物主義的な演奏とともに「新バイロイト様式」として高い評価を受けるとともに、ナチス時代との訣別を明確にした。なお、彼の演出にはテオドール・アドルノエルンスト・ブロッホらナチスとは対極的な多くの知識人の支持・支援があった。ヴィーラントの死後は弟のヴォルフガング(Wolfgang, 1919年 - 2010年 )が兄の子息たちを完全にバイロイトから追い払い、自分の子孫たちとだけ運営を引き継いだ。彼はヴィーラント時代から演出にも携わっており、兄の死後も少なからぬ作品の演出も行ってはいるが、ゲッツ・フリードリヒパトリス・シェローハリー・クプファー等を筆頭に、外部の演出家による上演に比重が移って今日に至っている。ヴォルフガングはむしろ音楽祭の運営面での実績が顕著であるが、一方でバイロイトの兄方の子孫を無視したり、公的補助をほんの少ししか受け取らないでパトロンの金で多くを運営して人事を決める「私物化」と「商業主義化」への批判があり、優れたワーグナー指揮者・歌手・演出家が彼と対立して、音楽祭から身を引く例が少なくない。現在は、娘のエファカタリーナが共同でヴォルフガングの跡を継いでいる。

楽劇の完成者[編集]

ワーグナーは、とくに中期以降の作品に於てライトモティーフ (Leitmotiv ) と呼ばれる機能的メロディの手法や無限旋律と呼ばれる構成上の手法を巧みに使用し、それまでの序曲アリア重唱合唱間奏曲がそれぞれ断片として演奏されていた歌劇の様式を、途切れのない一つの音楽作品へと発展させることに成功した。ワーグナー自身は「ライトモティーフ」という言葉は使用しておらず、「案内人」などと称した。一方、オペラの音楽ばかりでなく、劇作、歌詞大道具歌劇場建築にも携わり、それぞれのセクションが独立して関わってきた歌劇を、ひとつの総合芸術にまとめ上げた。これら作品は、楽劇とも呼ばれ、それはバイロイト劇場という専用舞台の建築運営へとつながってゆく。

指揮理論[編集]

ワーグナーは指揮者としても高名で、「指揮について」などの著作もあり、指揮に対する独自の理論を打ち立て、多くの指揮者を育成した。同じく独自の音楽理論を掲げ、多くの弟子を養成したブラームスとは激しく対立し、近代以降の指揮理論の二大源流となった。

人物[編集]

  • ベートーヴェンとほぼ同じく後期の楽劇の巨大さからは想像できない身長167cmぐらいの中肉男であった。
  • 亡命中、自分を保護してくれたリストを音楽的にも深く尊敬しており、唯我独尊とされる彼が唯一無条件で従う人物とされる。当時、ブラームス派とワーグナー派と二派に別れた際、リストが自分についてきてくれたことに感激し、自信を更に深めた。
  • 若いときは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ったりし、パーティーで出会った貴族や起業家に「貴方に私の楽劇に出資する名誉を与えよう」と手紙を送ったりした(融資ではなく出資である)。これに対し拒否する旨の返事が届くと「信じられない。作曲家に出資する以上のお金の使い方など何があるというのか」と攻撃的な返事を出したという。
  • 夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかったという。
  • 常軌を逸する浪費癖の持ち主で、若い頃から贅沢をしながら支援者から多額の借金をしながら踏み倒したり、自らの専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。リガからパリへの移住も、借金を踏み倒し夜逃げ同然の逃亡であった。
  • 過剰なほどの自信家で、自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ、と公言して憚らなかった。このような態度は多くの信奉者を出すと同時に敵や反対者も出す結果となっている。
  • ドイツ音楽雑誌の新音楽時報に匿名で『音楽におけるユダヤ性』と題した反ユダヤ主義の論文を発表。音楽に対するユダヤ人とユダヤ文化の影響力を激しく弾劾した。後にこれはナチスに利用されることともなった。現在でもイスラエルではワーグナーの作品を演奏することはタブーに近い。欧米でもワーグナーの「音楽」を賞賛することは許され(第二次大戦中でもアメリカなどで普通に演奏されていた)てもワーグナーの「人物」を賞賛することはユダヤ人差別として非難の対象となる[4]
  • 哲学者フリードリヒ・ニーチェとの親交があり、ニーチェによるワーグナー評論は何篇かあるが、中でも第1作『悲劇の誕生』はワーグナーが重要なテーマ課題となっていたことで有名である。しかし後に両者は決裂する。
  • ブラームスとそりが合わず、犬猿の仲であった。1870年にウィーンで催されたベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したが、土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否した。

作品[編集]

主なオペラ、楽劇作品[編集]

  • さまよえるオランダ人』 (Der fliegende Holländer )
    3幕の歌劇で、1842年に完成したが、作曲者は1幕形式を望んでいて今日は1幕で上演される。救済のない荒々しい音楽の初稿と救済のある幾分穏やかな音楽の改訂稿がある。
  • タンホイザー』 (Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg )
    正しくは『タンホイザーとワルトブルクの歌合戦』と題された歌劇で、3幕から成り、主人公のミンネゼンガー(Minnesänger 、恋愛歌人) タンホイザーと、ワルトブルク領主の姪 エリーザベト(Elisabeth )との、壮絶な愛の物語である。
    この作品は、1845年に完成し、ドレスデンにて初演された。初版の他に作曲者自身の手による、幾つかの改訂を経た「ドレスデン版」や、1861年パリオペラ座での上演の際のフランス語による「パリ版」とそのドイツ語版,、更に事実上の最終稿である「ウィーン版」などがあり、それぞれ曲の構成などが微妙に異なっている。今日では、序曲が管弦楽作品として単独で、第2幕の一場面が管弦楽などに編曲され「タンホイザー行進曲」などとして演奏される。また、第3幕で歌われる「ああ、我が優しい夕星よ」は、バリトン独唱の曲として「夕星の歌」の名で親しまれる。
  • ローエングリン』 (Lohengrin )
    3幕の歌劇。1848年に完成し、1850年ヴァイマルで初演された。このオペラの初稿には「グラール語り」が入っているが普通は演奏されない。白鳥の騎士ローエングリンが窮地に追い込まれたブラバント王女エルザを救って結婚するが、後に自らの素性を明かして去ってゆくという筋書き。前記バイエルン国王ルードヴィヒ2世が主人公ローエングリンにあこがれ、みずからをローエングリンと空想し、逃亡中の作者ワーグナーを(エルザとみなして)保護したエピソードは有名。
    音楽的には「第1幕への前奏曲(チャップリンの「独裁者」で有名)」「第3幕への前奏曲」「婚礼の合唱」がとくに知られている。なお、本作におけるライトモティーフ「質問禁止の動機」とチャイコフスキーのバレエ『白鳥の湖』(1877年)の旋律的に延長された主題の類似性が指摘されている[5]
  • トリスタンとイゾルデ』 (Tristan und Isolde )
    1857年から1859年にかけて作曲、1865年6月10日ミュンヘンの宮廷歌劇場で初演された3幕の楽劇である。トリスタンはコーンウォール国王マルケの甥で、王妃となるイゾルデを迎えに行くが、その帰路、彼女の媚薬により2人は愛し合うようになり、最後は悲劇で終わる。ワーグナー自身の友人のヴェーゼンドンク夫人マティルデとの悲恋が投影されていると言われる。音楽的には半音階和法を徹底し、前奏曲、第2幕の愛の二重唱、最終場面の「イゾルデの愛の死」がよく知られる。
    また、本楽曲は音楽史を変え調性崩壊の直接に引き金となったトリスタン和音が使われている曲としてもよく知られている。
  • ニュルンベルクのマイスタージンガー』 (Die Meistersinger von Nürnberg )
    1867年に完成した、3幕から成る楽劇である。実在のニュルンベルクの詩人ハンス・ザックスを主人公とした喜劇調の楽劇ではあるが、内容的にはショーペンハウアーの哲学を色濃く受け継いでいる。前作トリスタンとイゾルデとは異なり、音楽的には全音階和法を展開し、ライトモティーフの使用も円熟している。「第1幕への前奏曲」「愛の洗礼式」「ヨハネ祭の場面」が有名。
  • ニーベルングの指環』 (Der Ring des Nibelungen )
    4つの独立した楽劇からなる連作で、4夜にわたって上演される壮大な作品である。ワーグナー自身の意図は4夜での通し上演だが、演奏家・聴衆の疲労を考慮し、バイロイトでも最近は2日の休みを入れた6日間で、一般の歌劇場では更に間隔をあけて上演される、実質的には音楽史上最大規模の作品である。
    ワーグナー自身、本作品群をみずからのライフワークと定め、26年間にわたって作曲し続けた。その間に作曲を休止して「トリスタン」「マイスタージンガー」を作曲している。
    劇内容的には、それを手にした者は世界を支配できるという「ニーベルングの指環」をめぐり、小人族(ニーベルング)やヴァルハラの神々(ヴォータン)、巨人族(ファーフナー)、英雄ジークフリートが相争うというもの。「ヴァルキューレ」第3幕冒頭における「ワルキューレの騎行」が音楽的に有名。
  • パルジファル』 (Parsifal)
    3幕の神聖舞台祝典劇でワーグナーの楽劇では最も重々しく荘厳であり、初演に際しては全幕の拍手を禁止した。現在でもウィーンやバイロイトでは、第1幕の終わりで拍手をしてはならない。
    本作はキリスト教の救済思想を色濃く反映しており、それが原因で(キリスト教嫌いの)ニーチェは最終的にワーグナーと袂を分かつこととなった。
    なお本作で使用されるライトモティーフ「聖杯の動機」は、古いコラール旋律「ドレスデン・アーメン」をそのままドミナントまで延長して利用しており、この旋律はメンデルスゾーン交響曲第5番『宗教改革』の冒頭でも使用されている。音楽的には「聖杯行進曲」「花の乙女たちの踊り」「聖金曜日の奇跡」が有名。

その他の舞台作品[編集]

オペラ[編集]

  • 婚礼 WWV.31(2つの断片のみ現存)
  • 妖精 WWV.32
  • 恋愛禁制、またはパレルモの修道女 WWV.38
  • 貴き花嫁 WWV.40(未完)この作品は台本のみでワーグナーは作曲をしなかったが、ボヘミアの作曲家ヤン・ベドルジフ・キットル(ヨハン・フリードリヒ・キットル)が歌劇『ビアンカとジュゼッペ、あるいはニースに攻め寄せるフランス軍』として完成させた。[1]
  • リエンツィ、最後の護民官 WWV.49
  • サラセンの女 WWV.66(未完)
  • ファールの鉱山 WWV.67(未完)
  • フリードリヒ1世 WWV.76(未完)
  • ナザレのイエス WWV.80(未完)
  • アキレウス WWV.81(未完)
  • 鍛冶屋のヴィーラント WWV.82(未完)
  • 勝利者たち WWV.89(未完)

劇付随音楽[編集]

  • ロイバルト WWV.1(未完)
  • 新しい年1835年を迎えて WWV.36
  • プロイセンにおける異教徒の最後の陰謀 WWV.41(断片)

その他[編集]

  • 牧歌劇 WWV.6(未完)
  • 喜歌劇 女の浅知恵に勝る男の知恵 WWV.48(断片)
  • 1幕の喜劇 WWV.100(未完)
  • 喜劇 降伏 WWV.102(未完)

その他の作品[編集]

交響曲[編集]

  • 交響曲 ハ長調 WWV.29
  • 交響曲 ホ長調 WWV.35(未完)
  • 複数の交響曲 WWV.78(未完)

管弦楽曲[編集]

  • 序曲『太鼓連打』 WWV.10(消失?)
  • 政治的序曲 WWV.11(消失)
  • 序曲『メッシーナの花嫁』 WWV.12(消失)(シラーの戯曲のため)
  • 管弦楽曲 ホ短調 WWV.13(断片)
  • 序曲 ハ長調 WWV.14(消失)
  • 序曲 変ホ長調 WWV.17(消失)
  • 演奏会用序曲第1番 ニ短調 WWV.20
  • 演奏会用序曲第2番 ハ長調 WWV.27
  • ラウパッハの悲劇『エンツィオ王』のための序曲と終曲 WWV.24
  • 2つの悲劇的間奏曲 WWV.25
  • 序曲『クリストフ・コロンブス』 WWV.37
  • 序曲『ポーランド』 WWV.39
  • 序曲『ルール・ブリタニア』 WWV.42
  • ファウスト序曲 WWV.59
  • ロメオとジュリエット WWV.98(未完)
  • ジークフリート牧歌 WWV.103
  • 序曲と交響曲の主題と旋律 WWV.107
  • アメリカ100年祭大行進曲 WWV.110

室内楽曲[編集]

  • 弦楽四重奏曲 ニ長調 WWV.4(消失)
  • クラリネットと弦楽五重奏のためのアダージョ(偽作=ベールマン作)

ピアノ曲[編集]

  • ピアノ・ソナタ ニ短調 WWV.2(消失)
  • ピアノ・ソナタ ヘ短調 WWV.5(消失)
  • 4手のためのピアノ・ソナタ 変ロ長調 WWV.16(消失)
  • ピアノ・ソナタ 変ロ長調 WWV.21 Op.1
  • ピアノの為の幻想曲 WWV.22 Op.3 - 1831年作曲
  • 大ソナタ イ長調 WWV.26 Op.4
  • ポルカ ト長調 WWV.84
  • ピアノ独奏曲「チューリヒの恋人」 WWV.88 - 1854年作曲

声楽曲[編集]

  • アリア WWV.3(消失)
  • シェーナとアリア WWV.28(消失)
  • わが眼差しの行方は WWV.33(マルシュナーの歌劇「吸血鬼」のアリアの追加)

合唱曲[編集]

  • 民衆讃歌「ニコライ」WWV.44
  • 陽は昇る WWV.68
  • 使徒の愛餐 WWV.69
  • ウェーバーの墓前にて WWV.72
  • 皇帝行進曲 WWV.104
  • 子供たちの問答 WWV.106
  • 急げ、急げ、子供たち WWV.113

歌曲[編集]

  • 歌曲集のスケッチ WWV.7
  • ゲーテの「ファウスト」の7つの小品 WWV.15
  • 鐘の響き WWV.30(消失)
  • 樅の木 WWV.50
  • 眠れ、わが子 WWV.53
  • 法悦 WWV.54(断片のみ)
  • 君を待つ WWV.55
  • 墓がバラにささやいた WWV.56(断片)
  • 全ては束の間の幻 WWV.58
  • ヴェーゼンドンク歌曲集 WWV.91
  • 上の御心は定めたもう WWV.92(草稿)

編曲[編集]

文筆活動[編集]

  • 『ドイツのオペラ』
  • 『オペラとドラマ』
  • 『ベートーヴェン—第九交響曲とドイツ音楽の精神』
  • 『指揮について』1870年
  • 『楽劇名称論』1872年
  • 『作詞作曲論』1879年
  • 『歌劇作詞作曲各論』1879年
  • 『戯曲への音楽応用論』1879年
  • 『1880年序説』1879年
  • 『宗教と芸術』1880年
  • 『人間性における女性的なものについて』(未完)1883年

参考音源[編集]

出典[編集]

  1. ^ 「作曲家 人と作品 ワーグナー」p16 吉田真 音楽之友社 2005年1月5日第1刷発行
  2. ^ サントリー音楽文化展 '92「ワーグナー」カタログ p17 三宅幸夫 サントリー文化事業部
  3. ^ 「作曲家 人と作品 ワーグナー」p85 吉田真 音楽之友社 2005年1月5日第1刷発行
  4. ^ Eleonore BÜNING: 200 Jahre Richard Wagner. Das unwiderstehliche Böse, in: FAZ (2013)
  5. ^ Marion Kant, The Cambridge Companion to Ballet, Cambridge University Press, 2007, ISBN 0521539862, p.166.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]