古代末期

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古代末期(こだいまっき、英語:late antiquity, ドイツ語:Spätantike)とは、主としてヨーロッパから中東における、古典古代から中世への変遷の説明に用いられる時代区分のことである。

古代末期の範囲をどこに設定するかは議論の余地がある。この区分を初めに考案した歴史家ピーター・ブラウンは、2世紀から8世紀の間とすべきと提案しているが、通説的には3世紀から7世紀にかけてと考えられている。具体的には、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」から、ヘラクレイオス(在位:610年 - 641年)治下の東ローマ帝国の再征服やイスラーム勢力の侵入の始まりまでに当たる。

7世紀にはイスラム勢力が出現し、東ローマ帝国領の大半とサーサーン朝を瞬く間に征服していった[1]ため、ピレンヌ・テーゼの支持者は、これが古代末期の終焉と中世の開始を決定づけたと主張している。

概要[編集]

「古代末期」という概念は、19世紀のドイツ人歴史家アロイス・リーグルの通読書が普及した頃から存在はしていた[2]。英国の歴史学会ではピーター・ブラウンの著書『古代末期の世界』(1971年)により、こうした見方が広まった。ギボン以来の歴史観と固定化された古代文化の観念を批判した彼の見方は革新的であった。「古代末期」の創始は既成の西洋文化の変遷の理解を一新し、リチャード・サウザーンの「中世」の創始に対抗するものと言える[3]

古代末期という概念では、主として以下の点が強調される。

  • ディオクレティアヌス(在位:284年 - 305年)によって再編された後期ローマ帝国と、初期中世は連続性を持つ
  • 同様に、後期ローマ帝国とイスラームの到来までの東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は継続的である
  • 中世文化の萌芽は、キリスト教が普及しつつあった時代のローマ帝国に見られる
  • 東ゴート族西ゴート族のような、移住したゲルマン系民族の一部は、自身をローマの伝統の継承者だと見なしていた
  • 古典古代の価値観は、古典文化の破壊が見られる中世や初期ビザンツ時代を通しても継続している

しかし一方で、418年ガリア・アクィタニア属州のゴート族フォエデラティの境界発生以降に始まる、民族移動時代におけるゲルマン系王国の割拠による初期ヨーロッパの崩壊という事実を軽視しがちな傾向にある[4]

宗教[編集]

古代末期の重要な変化のひとつが、キリスト教ラビ・ユダヤ教、さらにはイスラム教などのアブラハムの宗教の拡大である。この内のキリスト教化の始まりのひとつの指標は、カエサレアのエウセビオスの記述にあるように312年コンスタンティヌス1世(在位:306年 - 337年)の回心である。

コンスタンティヌスは313年リキニウスと連名で「ミラノ勅令」を発布したとされる。最初の公会議であるニケーア公会議325年に開催し、エルサレム聖墳墓教会のような教会建造物や聖堂を建立するなど、教会史上重要な出来事を主導した人物である。キリストの復活と過ぎ越しの祭りとの関連性などの疑問に関心を持っていた[5]

3世紀にエジプトの砂漠で発祥した修道院制度は、8世紀まで教会の司教の権威の管轄の外に置かれ、キリスト教の大切な基礎のひとつになった。 さらに4世紀末にはテオドシウス1世がキリスト教を国教に定めており、古代ローマの世界は次第に、ピーター・ブラウンが「どこにでも聖なる魂の存在の物音がする」と評したような姿に変わっていった[6]

古代末期は、ローマの多神教の終焉を決定づけた時期でもある。それはとりわけ、エウセビオスのような皇帝の周囲の助言者達の示唆によって出された勅令によって線引きできる。大規模な宗教的実験と混合的な神秘宗教の時代とも言え、グノーシス主義新プラトン主義、あるいはカルデア神託や、ヘルメス文書のような教典など、そのいくつかはこの時代の初期を彩った。

古代末期の古典的理解[編集]

「古代末期」の登場によって転換されたが、この時期について、従来の史観では以下のように考えられてきた。

ローマ帝国では、複数の皇帝による分割統治(テトラルキア)を始めたディオクレティアヌスの治世あたりを端緒に、社会・文化・政治機構等が徐々に変化していった。そしてコンスタンティヌスの治世と共にキリスト教化を始め、都もコンスタンティノポリスへと移る。4世紀初頭以後のゲルマン系民族の侵入はローマの秩序を崩壊させ、476年西ローマ帝国の滅亡をもってそれは最高潮に達し、異民族の王国に置き換わった。

この時期の人口・技術・知識・生活基盤の衰退は、ルネサンスから近代まで、社会崩壊の典型的事例と見なされていた。また、崩壊の結果として西ヨーロッパ世界では歴史記録の欠損が起きており、西ローマ帝国滅亡から中世の開始までのこの期間は「暗黒時代」となった。

脚注[編集]

  1. ^ For a thesis on the complementary nature of Islam to the absolutist trend of Christian monarchy, see Garth Fowden, Empire to Commonwealth: Consequences of Monotheism in Late Antiquity, Princeton University Press, 1993.
  2. ^ A. Giardana, “Esplosione di tardoantico,” Studi storici, 40 (1999).
  3. ^ Glen W. Bowersock, “The Vanishing Paradigm of the Fall of Rome,” Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences, 49. 8 (May 1996) p.34.
  4. ^ A recent thesis advanced by Peter Heather of Oxford posits the Goths, Hunnic Empire, and the Crossing of the Rhine invaders of 406 (Alans, Suevi, Vandals) as the direct causes of the Western Empire's crippling; The Fall of the Roman Empire: a New History of Rome and the Barbarians, OUP 2005.
  5. ^ Eusebius of Caesarea, Vita Constantini, 3.5-6, 4.47.
  6. ^ Brown, Authority and the Sacred.