反ユダヤ主義

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反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想をさす。19世紀以降に現れたユダヤ人を人種として差別する立場は特に反セム主義(はんセムしゅぎ、英語: Antisemitism)とも呼ばれる。

反ユダヤ主義の背景[編集]

反ユダヤ主義者の主張には、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある

選民思想とは、「選ばれた民」というだけでなく逆に唯一神を「選んだ民」でもあるが、後者の点だけであれば、キリスト教も同じであるのでキリスト教徒から難じられることも無い。 ユダヤ教とユダヤ人は民族主義であると同時に、確かに普遍主義を重視する場合もあるが必ずしも常に排他的とも言えない、とする意見もある。つまり、旧約聖書には、ユダヤ民族の他民族に対する最終的勝利を語る部分が少なくない、それらは古代イスラエルの比較的後代のものであるのだとし、「イスラエルの民によって、地上のすべての民が祝福に入る」と考えられる箇所もまた多いとするのである。しかし、その祝福がイスラエルの民による支配のもとにあってのものではないのかという疑念は残る。キリスト教と比べユダヤ教には、民族性を超えた普遍宗教としての性格は劣るという主張があるが、ユダヤ人というものは「ユダヤ教」の「宗教的共同体の一員」であるという性格を強く有することを考慮に入れる必要がある。

歴史的にいえば、キリスト教初期において、ヘレニズムに基づくキリスト神学者の中には、ギリシャ文献のみを認める態度がある者もいた。やがてグノーシス主義とその異端視を通じて、反ユダヤ主義との争いに発展した。反ユダヤ主義的な信仰を異端とすることで決着がついた時は遅く、イスラム教とユダヤ教の協調と、聖像破壊運動が起こっていた。それ自体はキリスト教の勝利で終わったが、ユダヤ教の中に、異端として断罪した観念との類似性、基盤を見つけることは難しいことではなかった。もちろん、ユダヤ教とキリスト教は、およそ宗教を構成しうる要素について、完全に異なる宗教であり、仮に異端と同じ観念が相手方にあったとしても、それは関連づけるべきではない。しかしそうするには互いの主張は互いとの対比に依存し過ぎていた。ここにおいて、神学から離れ、政治的理由からユダヤ教の差別化が始まっていく。

イスラム教圏でもキリスト教国と同様の理由で差別が行われた[1]が、キリスト教圏に比してややユダヤ人の扱いは良好だった傾向にある。 厳しい制限付きではあるものの一定の人権を保障された彼等は、時には宮廷などで活躍することさえあった。ただし、キリスト教圏でもユダヤ人に対し寛大な取り扱いがなされることもしばしばあり、国家財政を左右するほどの力を持ったユダヤ人もいたため、一概に論じることはできない。

なお中国等、反ユダヤ主義のない地域ではユダヤ教徒は現地の宗教と同化するか、開封など排他的で自立的な比較的小規模なコミュニティに留まり、消失していった。

反ユダヤ主義の歴史[編集]

ここでは主に制度的な反ユダヤ教主義を扱う。論争史については一文字下げるで示す。

中世[編集]

近世初期[編集]

18世紀 - 19世紀(ユダヤ教徒「解放」の時代)[編集]

啓蒙主義時代[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世のユダヤ保護政策[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国が成立(1867年)したが、プロイセン王国のドイツとサルデーニャ王国のイタリアに破れ、ドイツからしめ出されたかたちとなったうえにロシアとの深刻な対立をかかえていた。内には、妥協策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった。二重帝国のなかでドイツ人が占める割合は24%にすぎなかった。10以上の民族をかかえる帝国各地からはウィーンへの移住者があいつぎ、郊外には集合住宅が建設された。

皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策を採り、1860年代の自由主義的な風潮のなかで、職業結婚居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。時あたかも第二次産業革命にあたっていた 。こうして、ウィーンでは、1870年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、1890年には11%にまで増大したといわれる。世紀末ウィーンの文化の担い手には、こうしたユダヤ系の人々が多かった。

ドレフュス事件[編集]

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵
1905年のポグロムで犠牲になったユダヤ人の子どもたち

1894年、フランスでドレフュス事件が起きている。これは、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉だったアルフレッド・ドレフュスに対する冤罪(スパイでっちあげ)事件である。これにより、フランス民衆のあいだに反ユダヤ主義の声がことさらに昂まり、それに衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』(1896年)を著してシオニズム運動を起こした。1897年、ヘルツルの主催でバーゼルで開かれた第1回シオニスト会議にはヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。また、1898年自然主義文学者エミール・ゾラは「私は弾劾する」と題するドレフュス擁護の論陣を張った。

ルエーガーとシェーネラー[編集]

ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。ヒトラーはこの2人を「我が人生の師」と呼んでいる。

20世紀前半(ユダヤ教徒受難の時代)[編集]

  • 1902年 - ロシアでユダヤ人が世界征服を企んでいるとする、シオン賢者の議定書(プロトコル)が作成される。
    制作者はロシア秘密警察とほぼ推定されており、これは、当時ロシア民衆が持っていた不満をロシア皇帝からユダヤ人にそらす意図で作成された本と考えられている。1921年には英『タイムズ』紙の記者により捏造本であることが解明・報道されたが、すでにこの本を読んだ民衆は、内容を信じ込み、よりあからさまにユダヤ人の排斥運動(ポグロム)が起きるようになった。
  • 1903年 - 4月、キシネフの虐殺が起きる。
    これにより49人のロシア系ユダヤ人が殺害され、92人が重傷、500人が軽傷を負い、多くのユダヤ系商店・住宅が破壊された。この事件は全世界に報じられ、世界中のユダヤ人を激怒させた。
  • 1913年 - ロシアでベイリス事件が起こる。ユダヤ人メンデル・ベイリスが「儀式殺人」の疑いで逮捕。
  • 1917年 - ロシア革命が起きる。
    ロシア革命によりシオン賢者の議定書は類似本を含め世界中に広まる。それにより、「ユダヤ人による世界征服の陰謀」の話は世界的に流行した。
    その後、シオン賢者の議定書は多くの人を引きつけ、アメリカではヘンリー・フォードが、ドイツではヒトラーが熱狂的な信奉者となった。ヒトラーはこの本が偽書であることを指摘されても「偽書かも知れないが、内容は本当だ」と擁護し、自らの反ユダヤ的態度を改めることはなかった。結果的にシオン賢者の議定書はナチス・ドイツに影響を与えた。
  • 1920年 - ヘンリー・フォードの著書『国際ユダヤ人英語版』が発売される。
  • 1928年 - ソ連極東のアムール川沿岸の現在の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置される。しかし、結果的にこの計画は失敗する。現在のユダヤ自治州である。

ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害[編集]

戦間期のヨーロッパにおいては、ルーマニア王国鉄衛団ハンガリー王国ハンガリー国家独立党英語版矢十字党、フランスのアクション・フランセーズなど反ユダヤを唱える政治勢力が台頭した。しかし最も著名でその反ユダヤ主義的政策を実行に移したのがドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。

アドルフ・ヒトラーを指導者とするナチ党はその創設当初から強い反ユダヤ主義を掲げていた。ナチズムにおいてユダヤ人は「人種」と定義され、民族共同体の血の汚濁をもたらす害虫として扱われた。ナチ党の権力掌握後はドイツの国策となった。1933年には「職業官吏再建法ドイツ語版)」によって公務員からのユダヤ人排除が行われ、1935年にはいわゆる「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪い去られ、ユダヤ人との通婚が禁止された。また経済面では「アーリア化、経済の脱ユダヤ化」と呼ばれる措置によってユダヤ系の企業・個人は財産を奪われた。また公式な命令に基づかないユダヤ人の個人や商店に対するボイコットや迫害も行われ、1938年には水晶の夜と呼ばれる大規模なユダヤ人への攻撃が行われた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユダヤ人の迫害はより加速された。当初ヒトラーらはヨーロッパのユダヤ人をまとめてマダガスカル島に移送するマダガスカル計画を建てていたが、戦局の動向が思わしくないため中止された。かわって「ユダヤ人問題の最終的解決」の手段とされたのが虐殺であった。ドイツとその占領地域におけるユダヤ人は隔離された後に絶滅収容所に移送され、150万人ともいわれる多くの人々が虐殺された。これらの虐殺は「ホロコースト」と呼ばれている。

ホロコースト後[編集]

初期キリスト教徒・新約聖書に見る反ユダヤ主義[編集]

新約聖書に描かれたユダヤ教とユダヤ教徒像には既に偏りがあり、新約聖書に書かれているファリサイ派像は相当に偏っているとする見方がある。「キリスト教は一つの宗教としての独自性を強く打ち出そうとして、イエスの中からユダヤ的色彩を打ち消そうとした」(池田裕)とも言われる。

新約聖書やキリスト教会の伝統的理解では、「当時のファリサイ派は形式主義に陥っており、イエスはその改革運動を起こした(もっと極端な主張では「イエスは形にとらわれる愚かさを窘めた」)」、などということが当然のことのように言われてきた。しかし本当にそうなのか、それはキリスト教徒による「単純化」「一部の誇張」「合理化」ではないのか、今一度、様々な方向から検証し、疑いなおしてみる必要があるという意見もある。

ユダヤ人自体一面的ではなく、ユダヤ人キリスト教徒ヨハネス・プフェッファーコルンen)(ユダヤ人の反ユダヤ主義者)、西方ユダヤ人の多くの改宗者をはじめキリスト教に縁のあるものもいる。リゲティ・ジェルジはキリスト教的な歌曲を多く作っている。しかしユダヤ教徒の中には新約聖書を読むことはおろか、イエス・キリストの名を口にすることすら憚るものもいる。

初期イスラム教徒・コーランに見る反ユダヤ主義[編集]

イスラム教徒の伝統的理解でも、ユダヤ教徒は『普遍的な』イスラム教に対し民族主義の枠にはまった『古い』啓示であるとされた。またコーランにはユダヤ人との戦闘の様子なども描写されており、このような衝突を通じてイスラム教徒の間にも反ユダヤ主義が広まった。但しイスラム教ではズィンミー制度を通じて征服したユダヤ人を隷属民として取り扱うことが最初期から固まっており、キリスト教圏に比して安定した身分を得られた。

反ユダヤ主義の広がり[編集]

ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた。

フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、また数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランスラングドックカタリ派ワルドー派などイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われる。プロヴァンスの作曲家ダリウス・ミヨーは、自身を「古い歴史を持つ、ユダヤ教徒のフランス人」と改革派のような定義をしている。

インドでは、恐らく植民地時代のポルトガルによる異端審問以外はまったく迫害されたことはなかったであろう。ただエチオピアイエメンではキリスト教徒・イスラム教徒による弾圧の歴史があった。

このように、歴史的にユダヤ人がそれほど迫害されてこなかったという報告があるにもかかわらず、一時期ユダヤ人迫害が非常に流行するのは、ロシア革命に伴って世界各国に流布された偽書「シオン賢者の議定書」によるところが大きい。世界を陰で操ろうと目論む人々(=ユダヤ人)がいるとする陰謀論は、これを認めるだけで「不愉快な社会的現象を説明」できてしまい、多くの人々を惹きつける。また、世間から隠された事実があるとするオカルト的考えも、人々にそれを知っているという優越感をくすぐる。シオン賢者の議定書は多数の類書があるが、単にお互いに参照を繰り返し話がふくらんでいるだけで、陰謀の直接的証拠は全くない。また、実際にユダヤ人が多く入会していた秘密結社フリーメーソンが陰謀に加担していたのではないかと指摘されることが多い。ナチス・ドイツがユダヤ陰謀論を受け入れ、政権維持や宣伝に積極的に利用したのも、彼らがオカルト的なものを好んでいたからでもある。また、シオン賢者の議定書が作られた当時のロシア宮廷にはラスプーチンをはじめとするオカルト主義者が多数存在していた。

このように反ユダヤ主義的思想は学術的にはあまり褒められたものではないオカルトに類する話から影響を受けていたことが多い。したがって、反ユダヤ主義を論じる時に、オカルトの部分を切り離して論じるのでは真実が見えてこないことが多々ある。とはいえ、現代的な反ユダヤ主義をすべてシオンの議定書で説明することが、本来は最も重要なパレスチナ問題から目を逸らすことに繋がることも否定できない。事実、アメリカの外交政策に影響を及ぼしているロビイストとして「ユダヤ・ロビー」と言えば陰謀論になってしまうが、「イスラエル・ロビー」は圧力団体として明白に存在する。

遅れたユダヤ学[編集]

古代以来ユダヤ教・ユダヤ教徒を研究するのは主にキリスト教徒の学者であった。当然親ユダヤ的な学者も現れたが多くの研究者は常にキリスト教中心主義的な考え方に支配されており、ある一定の偏見が前提にあったといわれ、酷い偏見に満ち溢れていた場合もあった 。キリスト教学者による書籍を読むとき偏見がないか注意する必要がある。

ユダヤ学(Jewish studies, yaades)は19世紀ドイツの大学のユダヤ教徒学生から始まったといわれる。ユダヤ学的視点とはキリスト教のみの視点からでもなくかといってユダヤ教側に閉じこもった視点でもないと思われ、第三の(scientific)視点が必要になってくるという人もいる。

キリスト教中心主義的な発想がエスノセントリズムと結びつき、反ユダヤ主義だけではなくオリエンタリズムなどの偏見をもたらしたこと、例えばアルベルト・シュバイツァー博士の活動にも二面性があること(アフリカの先住民の集団改宗)、それらの反動からクロード・レヴィ=ストロースなどの優れたユダヤ系人類学者が生まれたことなどは一考の余地がある。

日本人における反ユダヤ主義[編集]

1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本軍と接触した白軍兵士には全員『シオン賢者の議定書』を配布されていたことにより、日本軍は反ユダヤ主義の存在を知ることになる。シベリアから帰った久保田栄吉1919年初めて日本にこの本を紹介した。最初に一冊の本で『シオン賢者の議定書』を紹介したのが北上梅石(樋口艶之助)の『猶太禍』(1923年)であった。樋口艶之助はロシア語通訳としてシベリア出兵に参加しており、直接白軍将校と接触している。樋口の翻訳を読み酒井勝軍1924年に『猶太人の世界征略運動』など3冊を相次いで出版した。陸軍の将軍であった四王天延孝も『シオン賢者の議定書』を翻訳し、また反ユダヤ協会の会長を務めた。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果をあげられなかった。[3]

安江仙弘や犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたりと成果も残すこととなった。[4]

また、ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガンも安江らの影響で日本で活躍の場を求めるようになった。

『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、シベリアから『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これが日本では、フリーメーソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。『マッソン結社の陰謀』は1923年に「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに、全国の中学校校長会の会員に配布された。[5]

国際情勢に占めるユダヤ人の影響やフリーメーソンによる世界戦略を真面目に研究するために、1924年には「日本民族会」、1936年には「国際政経学会」という組織が結成された。これら組織からは『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。赤池濃は国際連盟で日本の立場が悪くなった1933年2月21日に、貴族院で国際連盟の動きを「ユダヤ人の策動即ちフリーメーソン及びライヒマン、ハース、ドラモンド」による中国擁護の結果だとして、政府はどう対処したかを質問したが、当時の内田外務大臣の答えは「答えられない」というものであった。[6]

1928年9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天延孝により『ユダヤ人の世界赤化運動』が正科目として講座が開かれた。[7]

日本で最初にユダヤ陰謀論に反対の声を上げたのは吉野作造であった。吉野は1921年6月発行の『中央公論』誌に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、40ページにわたってフリーメーソンの弁護を行った。彼はユダヤ陰謀論者が用いている「マッソン結社」という呼称をまず批判したが、これは逆に酒井勝軍らに再批判されている。また彼は『シオン賢者の議定書』に種本があることを指摘した。さらに、八太徳三は『想と国と人』誌に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。さらに、厨川白村は『改造』誌1923年5月号の『猶太人研究』に『何故の侮蔑ぞや』という文書を著し、ここで「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した。また、新見吉次は1927年5月に『猶太人問題』を刊行した。その中でユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史的事実を通してその批判を行っている。最も積極的にユダヤ陰謀論を批判したのが、満川亀太郎であった。1919年の『雄叫び』誌に載せた文章を始め、継続的にユダヤ陰謀論を批判している。1929年に満川は『ユダヤ禍の迷妄』を、1932年に『猶太禍問題の検討』を著しユダヤ陰謀論を批判している。その他、ユダヤ人陰謀説を批判している人もいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰謀説の方が優勢を示すこととなった。[8]

作家山中峯太郎は少年向け雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的に自著が扱われた事実を戦後書いており(『文化展望』誌に1946年6月に書いた文章「十五年間」)、戦前、反共産主義的思想と結びついてユダヤ陰謀論は一般に広がっていた。[9]

戦後しばらくはユダヤ問題はほとんど動きは無かったが、1986年宇野正美によって『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店)が出版され、一大ベストセラーとなり、これが戦後日本の反ユダヤ主義の動きを決定づけることになった。この本の影響を受けてオカルト雑誌ムー』や多数出版された類似の書籍において「ユダヤ人が世界を操っている」などの陰謀を説く言説が流布されていった。これらの日本の書籍は、ユダヤ陰謀論と関連づけられて語られることが多いフリーメーソンイルミナティ薔薇十字などの、いわゆる秘密結社をユダヤ陰謀論と共に扱うことが多かった。この動きはその後、マルコポーロ事件を始めとするホロコースト否認論に繋がっていく。

当時、宇野正美の「理論」は、日米関係を鋭く読み解くものとみなされた。たとえば1987年1月17日付の読売新聞は、宇野の説を好意的に取り上げ、自民党保守派は憲法記念日の大会に宇野を招待した。ユダヤ陰謀論は一部のマニアックな言説としてだけではなく、日本のメインストリームにも受け入れられていた。[10]

また、1981年五島勉によって出版された『ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開されており、この本が後年ユダヤ陰謀説の流行する下地を作っていたのではないかとする意見もある。近年では田中宇によるホロコーストへの疑義が知られている[11]

日本の反ユダヤ主義にはオカルト的な知的遊戯の要素が高い。また、日本の反ユダヤ主義の書籍は、ミハエル・コーガンなど日本国内で活躍するユダヤ人がいたのにも関わらず、そのような人のことは一切触れず、外国の話題に終始している。

反ユダヤ主義の誤解[編集]

日本に限っては、そもそも日本語における「ユダヤ人」という言葉が誤解を大きくしている部分がある。

英語であれば"Jew"や"Jewish"の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「~民族(人)」や「~教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「民族」では(実際にはそうでないにもかかわらず)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという印象を与えてしまう。 「ユダヤ」という宗教共同体が、共同体意識を持ちながらも2000年近く国家を持たず、定住した各地で独自の文化を育んできた事実がある。またイスラエル国内、「ユダヤ人」同士でも、「ユダヤ人」に関する定義については論争がある。アメリカに暮らすユダヤ人とイスラエルに住むユダヤ人の間でも「ガラス越しのキス」と言われるほどシオニズムなどに対する温度差がある。

出典・脚注[編集]

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  1. ^ イスラム世界におけるユダヤ人の恐怖
  2. ^ 立川昭二 『病気の社会史 文明に探る病因 NHKブックス 152』 日本放送出版協会 p85 ISBN 978-4-14-001152-2
  3. ^ ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』
  4. ^ ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』
  5. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』
  6. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』
  7. ^ 満川亀太郎『ユダヤ禍の迷妄
  8. ^ 満川亀太郎『ユダヤ禍の迷妄』
  9. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』
  10. ^ 『世界の陰謀論を読み解く―ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』 (講談社現代新書)
  11. ^ 田中宇 (2005年12月20日). “ホロコーストをめぐる戦い”. 田中宇の国際ニュース解説. 2012年8月20日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]

外部リンク[編集]