ヴィルヘルム・シュトゥッカート

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ヴィルヘルム・シュトゥッカート(Wilhelm Stuckart、1902年11月16日1953年11月15日)は、ナチス・ドイツの法律家、ドイツ内務省次官。ヴァンゼー会議の出席者の一人。

概要[編集]

ヴィースバーデン出身。1919年にフランツ・フォン・エップen:Franz Ritter von Epp)率いる義勇軍(フライコール)に参加。1922年からミュンヘンフランクフルト・アム・マインの大学で法学を学ぶ。1922年12月に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号378,144)。弁護士となり、ナチ党の法律アドバイザーの一人となる。1928年に法学博士号を取得。1932年から突撃隊(SA)の隊員となる。ナチス政権誕生後にはプロイセン文化省、ドイツ教育省、そしてドイツ内務省に勤務した。1935年には反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」の作成に携わる。1936年には親衛隊(SS)大佐となり、1944年までに親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)となっている。

ドイツ内務省で内相ヴィルヘルム・フリックの次官となる。1942年1月に内務省の代表でラインハルト・ハイドリヒの主宰したヴァンゼー会議に出席している。1943年にハインリヒ・ヒムラーが内相となった後も次官の地位を保持した。1945年4月下旬にはヒムラーはアドルフ・ヒトラーの命令で全官位を剥奪された。ヒトラーは自殺にあたっての遺言でパウル・ギースラーde:Paul Giesler)(バイエルン州首相・ミュンヘン大管区指導者)をヒムラーの後継内相に指名していた。しかし、大統領となったカール・デーニッツは、シュトゥッカートをデーニッツのフレンスブルク政府の内相に任じた。

第二次世界大戦後、ニュルンベルク継続裁判の一つ大臣裁判にかけられた。懲役3年10カ月の判決を受けたが、すでにそれ以上の期間拘留されていたので判決後に釈放された。1953年10月にハノーファーの近くで「交通事故」にあって死亡した。ナチ狩りだったといわれる。

その他[編集]

先代:
ハインリヒ・ヒムラー
ナチス・ドイツ内務大臣
1945
次代:
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